第4話 法律事務所2

 ハヴェルと二人っきりになったリーフェは、そわそわと落ち着きがない気分になった。

(こんな美形と二人っきりっていうのは、喜んだ方がいいのかな。でもアル中だしな……)

 壁紙のひし形の格子文の柄を眺めながら、ちらちらとハヴェルの様子を伺う。


 ハヴェルはまったくリーフェの視線を気にせずに、机の上のボトルの残りのワインを全てグラスの中に注いだ。この期に及んで、まだ飲むらしい。

「心配しなくても大丈夫だよ。イグナーツは優秀だから。この事務所の仕事も、ほぼ百パーセント任せてるし」

 グラスを傾け香りを楽しみ、ハヴェルはワインに口をつけた。アル中のくせに顔面のクオリティが高く、育ちがいいのか優雅なしぐさだったので、駄目人間の行為のはずなのにどこか様になっていた。


「あの、では、あなたは普段何をしてるんですか? あなただって弁護士なんですよね」

 リーフェは半分疑いながらきいた。ハヴェルは状況的に間違いなく弁護士であるはずだったが、その姿からはまったく信じられないことであった。

 グラスをテーブルに置き、ハヴェルはシャツの袖で口元をぬぐった。

「うん? 普段? 普段もまぁ、こうやって家で飲んだり、寝たり、あと飲んだり……。あ、そうだな。買い物は好きだから百貨店には週一で行くよ。ついでにオペラもたまーに観るかな。結局途中で寝るんだけど。でもお金は何でか知らないけど先祖のおかげで腐るほどあるし、芸術支援も大事だからね」

(要するに週の七分の一以外はひきこもりの、金持ち道楽男ってことか)

 想像よりもさらに堕落した人生の回答に、リーフェは軽い目まいを覚えた。

 リーフェがすべてをかけて得ようとしている、弁護士の資格。それを持っている上に、若くして法律事務所の所長という責任のある地位についている人間が、こうしてその才能も時間も資産も浪費している。そんな現実を目にして、ふつふつとリーフェの心に怒りがわきあがりはじめていた。


「資格もお金も持っているのに、何もしないんですか? あなたみたいな人には、社会のために働く義務があるはずです」

 知らず知らずのうちに、リーフェはハヴェルをにらんでいた。

 ハヴェルは髪をくるくるともてあそび、退屈そうにそっぽを向いた。

「僕は別に、弁護士になりたくてなったわけじゃないし。何となく流れで、資格をとっただけだよ」

「あなたの年齢は知りませんが、そういう物言いが許されるのは、十代までだと思いますけど」

 リーフェはもう、ハヴェルに対して体裁を取り繕うことを忘れていた。きつく批判的に、リーフェはハヴェルをほとんど責めていた。

「とりあえずで取っただけで働く気がないなら、どうしてこうして事務所の所長やってるんですか? 仕事しないなら、誰かに頼めばいいじゃないですか。それともこれにもまた、とりあえずな理由があるんですか?」


 リーフェがそう言った時、ずっととぼけたようだったハヴェルの表情の、色が変わった。灰色の瞳が真冬の冷たい空みたいに暗く曇る。一瞬虚をつかれたような顔をして、動きは止まった。

(……!? どうしてここの所長をやっているのかって、そんなに聞いたらまずいことだったの?)

 考えていなかった反応に、リーフェは怒りを忘れて少々焦った。特別ひどいことを聞いたつもりはないのに、自分が心遣いに欠けた人間であるように思える。


 リーフェがどう続けるべきかわからず思考停止していると、ハヴェルはすぐにまた人を馬鹿にした態度に戻って、ふぬけた笑みを浮かべた。しかしその目は冷たく、先ほどと同じようには笑っていなかった。

「君はどうして、弁護士を目指したのかな?」

 ハヴェルはおもむろに立ち上がった。そしてするするとリーフェに近づき、そのすぐ隣に腰掛け問いかけた。ハヴェルの白く整った顔が、真っ直ぐにリーフェに向けられる。

「それは、その……私は、真実を追求することで、誰かに寄り添い、救えたらと……」

 お互いの体温がわかってしまうほどすぐ近くに座られて、リーフェはつい動揺してどもってしまった。鼓動が速まり、頬が火照る。

(ちょっと、これは近すぎるって!)

 リーフェは異性が苦手なわけではなかったが、ごく至近距離で、しかもハヴェルのような弩級の美形に見つめられれば頭がのぼせた。だらしない人間だとわかってはいても、条件反射には逆らえない。


 だが、ハヴェルはまったく遠慮することなく、さらにリーフェに近づいた。

「ふぅん。真実の追及、ねぇ……。君は本当に、真実ってやつが常に人を救うと思ってるの?」

 それは軽い調子であったが、確実にリーフェを否定していた。ハヴェルはソファの背もたれに手をつき、リーフェに覆いかぶさるように体を傾けた。ほとんどリーフェを押し倒す形である。

(はぁ? 何なのこの人、私を襲ってるの?)

 リーフェは意味不明に迫るハヴェルの体に、ただ困惑した。ハヴェルが細身ながらそれなりに背が高いことに、そのとき気がつく。平均身長よりやや上くらいのリーフェの体は、簡単にハヴェルに組み敷かれた。


「っ何を言ってるのか、よくわかんないんですけど? 真実が第一って、当たり前のことじゃないですか」

 リーフェは必死で体を反らしてハヴェルから離れようとしながら、言い返した。だが身体は柔らかいソファに沈むばかりで、まったく距離をとることはできない。

 質問の意図も、理解できなかった。ハヴェルが何を考えてこのような言動をしているのか、まったく掴めない。

 ナイトシャツ一枚しか着ていないハヴェルの体は熱っぽく、リーフェも嫌な汗をかいた。より強く感じられるワインの香りに、酔いそうになる。


「そうやって救うとか正義とか真っ直ぐなことを言っていられるのは、いつまでだろうね?」

 ハヴェルはくちびるがふれ合いそうなほどの近さで、リーフェにささやいた。その力の抜けた声に、ぞくりとする。

 高い体温に反して熱を感じさせない端正な顔を、リーフェは息もできずに見つめた。深い灰色のハヴェルの瞳に、縫い止められたような心地がする。

 そうしているうちにもじりじりと、ハヴェルとの距離は縮まっていた。酔っ払いは何がしたいのかよくわからない。


(もしかして初キスはこの人……? 初対面で、しかもこんなわけのわからない流れで……? 駄目だ。顔は申し分ないけど、いろいろ無理! どう考えてもおかしい!)

 リーフェは限界を感じて、目を閉じた。

 しかし、予想していた接触は訪れなかった。ハヴェルはリーフェから離れたらしく、身体は軽くなる。

 リーフェはゆっくりと目を開けた。ハヴェルはもう立ち上がっていて、リーフェを先ほどよりも大分遠いところからくすくす笑って見下ろしていた。

「キス、してほしかった?」

 完全に、ハヴェルはリーフェで遊んでいた。

「……、馬鹿言わないでくださいっ!」

 リーフェは急いで起き上がり、ハヴェルをにらんだ。期待しているような顔をしてしまったのかもしれないと、自分を恥じる。


「ふふ、心配しなくても、僕は何もしないよ。君は対象外だし」

 そう言い残すと、ハヴェルは薄く笑って立ち去った。ナイトシャツの裾を翻して、ドアの向こうへと姿を消す。


 リーフェは一人残され、時間差で怒りに震えた。

(何もしないって……、今さっき色仕掛けしてきたくせに! だいたい、対象外って何?)

 考えれば考えるほど、ハヴェル・ノヴァーチェクという人物への嫌悪感が募った。冗談で押し倒してきたことも、よくわからない問答で惑わしてきたことも、どれもこれも許せなかった。

(まるで、真実を求めることが悪いことみたいな言い方をして……)

 ハヴェルの言葉を思い出し、一層苛立ったところで、ドアが開いた。


「お茶とブッセを持ってきましたよ……っとあれ、先生は?」

 ハーブティーの香りを漂わせながら、イグナーツが部屋に入ってきた。

「さっき出ていきましたけど」

 何事もなかったふりをして、リーフェは答えた。

「じゃあ自分の部屋か。しばらく爆睡だな、これは」

 そう言ってイグナーツは、ガラスのポットとお菓子の載ったお盆をテーブルに置いた。そのままお菓子をひとつつまんで、一口で食べる。

「リーフェ君も食べるか? 結構いけるよ」

「ありがとうございます」

 勧められるまま、リーフェはハーブティーとお菓子をいただいた。どちらもおいしいとは思うのだが、複雑な味わい過ぎてリーフェにはよくわからなかった。


 一通り食べ終えると、イグナーツは机の上を片付けキッチンへ行った。そして戻ってくると、リーフェのトランクを持とうとしながらこう言った。

「さて、小腹も満たしたし、君の部屋に荷物を運ぼうか」

 だが力がわりと足りていなかったようで、ひとつ持ち上げただけでふらついた。

「あ、いいですよ。私が持ちますから」

 倒れそうなイグナーツに駆け寄ると、リーフェはトランクを掴みとり軽々と持った。

「ごめん。俺、結構腕力無いから……。しかしリーフェ君は、力持ちだな」

「まぁ私、農村育ちですから」

 イグナーツが非力すぎるのではないだろうか、と思いながらもリーフェは二個目のトランクを持った。

「じゃあせめて、俺はこの肩掛け鞄を持とう。あれ、これも結構重……」

 若干頼りない足取りで、イグナーツは廊下へと進んだ。リーフェもイグナーツに続いて廊下へ行き、そして二階に上がった。


「階段のすぐ近くが浴室で、その隣の部屋が先生の部屋。ここは物置。で、ここの左のドアが俺の部屋で、君のは右」

 イグナーツは順番に部屋の説明をしながら歩いた。そして突き当りのドアを開いて、リーフェを中へと案内した。

「元々はゲストルームなんだけど、こんな感じで不自由はないか? 女の子に必要なものって、いまいちよくわからなくて」

 そこは小さな部屋ではあったが、上品に程よく家具が並び、素敵に設えられてあった。


「ここが、私の部屋ですか」

 リーフェは床にトランクを下ろし、浮かれた気分で見回した。

 壁は淡いピンクで、床は明るい色の木の板張り。大きな窓からは、川と橋が見えており眺めはかなり良かった。窓際にあるベッドにはすっきりとしたベージュの花柄のカバーが掛けられている。ベッド脇のチェストの上には鏡が置かれ、ドレッサーも兼ねられるようになっていた。反対側には、小振りながらもきちんとしたライティングテーブルも備えられている。


 リーフェは振り返り、イグナーツにお礼を言った。

「ありがとうございます。良い部屋ですね」

「満足してもらえたみたいで、安心した。また足りないものがあれば言ってくれ」

 ほっとした様子で、イグナーツは微笑んだ。そして、ドアを開けたまま進み出ると、リーフェの顔を見て確認する。

「先生があの調子だから、明日からは俺が代理でリーフェ君を指導することになるが、構わないか? 制度での指定もそこまで厳格じゃないから、だいたい問題はないはずだが」

 イグナーツはリーフェに不安を感じさせないように話していた。しかし、イグナーツ自身もこういったことは初めてなのだろう。ほんのすこし、心もとない様子であった。


 しかし、多少のとまどいを感じさせても、イグナーツは真っ当で普通にやるべきことはやる人間に見えたので、リーフェはハヴェルには向けることのできなかった信頼をもって、返事をした。

「はい、お願いします。イグナーツ先輩」

「こちらこそ、よろしく」

 軽くうなずき改めて挨拶をすると、イグナーツは小さくぼやいた。

「……しかし、本当に先生の気まぐれにも困ったものだ。言うことが日ごとに変わるからな。どうしたことか」

 イグナーツは腕を組んで、首を傾げた。ハヴェルが何を考えているのかは、イグナーツにも理解できないらしい。


(本当に、なぜあんな人が弁護士で、しかも所長ということになってるんだろう?)

 最初から詮索しすぎるのも失礼かと思ったが、やはりそこは気になってしまった。何か事情を知っていないかと、リーフェはイグナーツに尋ねた。

「あの人は、なぜああいう生活を送ってるのでしょうか? 最初からですか?」

「うーん、俺が雇われた時には、もう酒浸りで、昔のことはそれほど知らないからな……。それでも頭はおかしいけど金払いは良いし、悪い人じゃないはずだ」

 イグナーツは言葉を濁し、ごく控えめにハヴェルを擁護した。あまり心がこもっていないうえにそれなりにひどい内容であったが、ハヴェルへの好意がまったくないわけではなさそうだった。

「そう、ですか」

 釈然としない気持ちを抑え、リーフェは無難に追及を避けた。

(雇用主としては悪くないってことなのかな)

 リーフェは心の中で納得しようと試みた。


「それじゃ、荷解きとかいろいろあるだろうから、俺は退散しようか」

 イグナーツはリーフェから離れ、ドアの前に立った。話すべきことは、おおよそ話し終えたらしい。

 リーフェはぺこりとお辞儀をした。

「どうも、ありがとうござました」

「どういたしまして。また何かあったら呼んでくれ」

 そう言って、イグナーツはリーフェの部屋を後にした。


 ドアが閉まり、一人になる。

 すると、ハヴェルの顔がリーフェの頭に再び浮かんだ。リーフェは窓際のベッドに腰掛け、だんだんと沈んでいく太陽の光にきらめく静かな川の流れを眺めながら少し考えた。

(私の指導官になるはずだった人。ハヴェル・ノヴァーチェク。どうしようもない人に見えた。だけど、それだけの人でもなさそうだった)

 リーフェはハヴェルの言動を思い起こした。人を馬鹿にした態度、だらしない生活、図々しい物言い……。どれもこれも、困難な試験に合格して弁護士になった立派な肩書を持つ人物とは思えないものばかりである。リーフェはまったく、ハヴェルのことを良く思えなかった。

 だが、なぜこの事務所の所長をやっているのか尋ねたときの表情が、引っかかった。そしてその後の、不可解な接近に、何が言いたいのかよくわからない会話。


 キスするふりをしてからかってきたのもむかついたが、真実というものが常に人を救うと思うのか、という問いも頭に残った。

 真実が人を救わないのだとしたら、一体何に意味があるのだろうか、とリーフェは思った。ハヴェルのことを深く知れば、その真意がわかるのかもしれない。だがリーフェは、あまりハヴェルの本当の考えを探りたくはなかった。自分の大切なものを否定されるような何かがあるような気がして、触れるのが嫌だった。

 しかし、ハヴェルが何を考えているのかはまったくわからなくても、一つはっきりとしていたことがあった。ハヴェルはリーフェを何も知らない未熟で青臭い女の子、として扱っていた。リーフェにとって、それが一番気に入らないことであった。ハヴェルがリーフェをろくに教える気がなさそうなのは、彼が怠惰な人物であるという理由も大きいと思われた。だがリーフェにとっては、ハヴェルが自分を一人前として見ていないことの方が許せなかった。


 リーフェは川に映る太陽を見つめ、深く息を吸った。


(どんな事情があるのか知らないけど、私はあの人の屈折には負けたりしない。あの人の力を借りなくても、私はやれる。私はトマーシュ様の援助に恥じない人間として、この研修を全うする!)


 リーフェの脳裏に、トマーシュの姿が浮かぶ。リーフェはトマーシュに救ってもらったことに値する生き方がしたかった。

 そのためにも、ハヴェルのような邪魔な障害に惑わされているわけにはいかなかった。リーフェは奇妙な変人の言葉は無視をして、前に進むことに決めた。

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