第3話 法律事務所1

「長旅お疲れさまでした。終点ティルキス駅でございます」

 うやうやしい口調で車掌が到着を告げ、客車の扉を開ける。


 リーフェは大量の荷物を抱えて、前の人に続いてその出口をくぐった。すると、きらきらとまぶしい光がリーフェの目に入った。

「はぁ……、屋根があるのに、空が見える……」

 ティルキス駅のホームに降り立ったリーフェは、ぽかんと口を開けてその高く大きな天井を見上げた。


 格子状に交差する鉄骨に豪勢にガラスをはめ込んだ、透明に輝くアーチ状の屋根。太陽は屋根のガラスに反射してきらめき、青い空を淡く明るく見せている。

 屋根の下には線路が何本も集まっていて、ポジャール国の各州からやって来た真っ黒な汽車がいくつも止まっており壮観だ。ホームには大勢の人がひしめいて、汽車を待ったり人を見送ったりしていた。


 リーフェは人ごみをかき分けて、前へ進んだ。あまりに広いので、出口がどこにあるのかわからなかった。

 なんとか改札を見つけ出して外に出ると、たくさんの馬車が行き来するロータリーに出た。灰色の石畳に覆われたその空間は、列車の中で食べるのにちょうど良さそうなパンやお菓子を扱う売店や、待ち合わせや休憩の客でにぎわう喫茶店などに囲まれていて、華やかだ。


 リーフェは研修開始日を伝える手紙と一緒に送られてきた地図を、肩掛け鞄から取り出し開いた。

(えぇっと、確かスシェンキ法律事務所ってところは、ティルキス駅から徒歩十五分の場所にあるんだったよね。馬車もいいけど、せっかくだし街の見学がてら歩いて行こうかな)

 そうと決めたリーフェは、地図を確認し鞄にしまい、トランクを二つ両手に持って歩き出した。本や衣類でぎゅうぎゅうにつまったトランクはかなりの重量があったが、故郷では農民の子として日々田畑を耕していたリーフェにとっては特に苦となるものではなかった。足どりは軽く、不安も徐々に好奇心へと変わっている。


 ティルキスはきらびやかな街だった。丸い模様を描くように敷かれたタイル貼りの道も、その両脇に立ち並ぶ繊細な装飾に彩られた白い建物も、午後の日差しの下で輝いていた。

 道行く人々も皆街の美しさにふさわしい綺麗な服を着ており、男性のコートも女性のドレスもどれもこれもお洒落で上等なものだった。洗練された雰囲気に、リーフェは自分が田舎者であることを意識した。


(でも、私だってこの服は新調したやつだし、そんなには周りから浮いてはいない、はず!)

 都会に負けない気持ちで、リーフェは胸を張った。

 リーフェは揃いで仕立てられた、えんじ色のツイードの上着とスカートを着ていた。上着の下には白いブラウスと茶色のベストをあわせ、襟には焦げ茶のリボンを結んである。おさげの頭の上にはつば広の黒い帽子を被り、靴はローヒールのブーツを選んだ。

 リーフェが全力をかけた結果の、装いである。


 こうして歩くこと十数分、リーフェは市内を流れる川の近くまでやって来た。街の中心地に近いものの適度に静かな、住宅の集まる区域であるようだ。

(ここを左に曲がればあるはずなんだけど……)

 リーフェは橋の手前で横道に入った。同じ灰白色の煉瓦で同じ形をした二階建ての建物が、いくつも並んでいた。

 注意深く順番に見て行く。すると五、六軒通り過ぎたところに、スシェンキ法律事務所と書かれた看板が出ている家があった。周囲と同じメゾネットタイプの物件で、どうやら一階が事務所、二階が住居として使われているようだ。


(ここが、私の研修先……!)

 胸を高鳴らせながら、リーフェはドアベルを引っ張った。チリンと音がして、数十秒後にドアが開いた。

「こんにちは、はじめまして! 今日からお世話になる、研修生のリーフェ・ミシュカです。よろしくお願いいたします!」

 中から出てきた人影に、リーフェは反射的にお辞儀をしてあいさつをした。勢いのあるリーフェの大声は、閑静な住宅地に思った以上に響いた。


 顔を上げてみると、そこには金髪の青年が立っていた。

「あぁ、今日から来ることになってた、リーフェ・ミシュカ君。そうか、もうそんな時間か」

 青年は軽く後ろを振り返って、一瞬どうしようか考えているようだった。

 黒いフロックコートを着た、小奇麗な青年である。顔の造りとしては整っているのだが、どこか地味で印象が薄い。


 リーフェは今度は声を抑えて、青年に尋ねた。

「あの、あなたがハヴェル・ノヴァーチェクさんですか?」

「いや、俺はここで雇われてるだけの人間だよ。名前はイグナーツ・クレイツァル。とりあえず、どうぞ入って」

 イグナーツと名乗る青年は、リーフェを家の中へと手招きする。


(この事務所って、ハヴェルさん一人じゃなかったんだ。本当に何も説明なかったからなぁ)

 きょろきょろと辺りを見回しながら、リーフェはイグナーツに案内されるまま家に上がった。

 玄関を進むと廊下があり、キッチンやお手洗いらしき部屋のドアを通り過ぎた先が事務所であった。渋い色合いのデスクや本棚がきちんと並んだ、感じの良い場所である。

 だが、どこからか法律事務所にはふさわしくない匂いが漂っていた。酒の、おそらくかなり上等な赤ワインの香りである。


(都会じゃ、消臭にお酒使うのかな。まぁ、悪い匂いじゃないけど)

 適当に解釈しながら、リーフェは大きな天窓の側に置かれたソファとテーブルに近づいた。その瞬間、リーフェは部屋からワインの香りがしている原因を理解した。

 ソファには若い男が一人、横になってすうすうと寝息をたてていた。その前のテーブルの上には、半分減ったワインボトルが一本とグラスが一つ載っていた。

 男はもう午後の三時だと言うのに寝間着であるナイトシャツを着ていて、しかも前のボタンは概ねはずれていて半裸に近かった。客人、しかも妙齢の女子が来る予定を完全に無視しているとしか思えない姿である。


 その異様な光景を、リーフェは思わず無言で凝視してしまった。リアクションを取ろうにも、意味が分からなさ過ぎて無理だった。


「今日は研修の子が来るから、ガウンくらいは着ててくださいって俺、言いましたよね。ハヴェル先生」

 イグナーツは、ソファの背もたれに掛けてあったガウンを眠っている男に投げて寄こした。


(ハヴェル先生……ってことは、この人がハヴェル・ノヴァーチェク!? 私の指導官!?)

 リーフェは自分の師となる人物の、堕落ぶりに心底驚いた。平日の昼過ぎまで飲んで寝ていて、そのうえ半裸だとは、相当ろくでもない男であるなと思った。


 ハヴェルはイグナーツの声に半分目を覚ましたようで、寝返りをうってもごもごと何やら言った。

「今度の日曜日に直接百貨店に春物を見に行くから、外商さんには今日はいいですって言っといて……」

「外商さんじゃなくて、研修の子です。っていうか、ほとんど脱いでるくせにこれ以上服増やしてどうするんです?」

 呆けた老人のようなハヴェルの返答に、イグナーツは慣れた様子で対応した。

「僕のお金だもん。僕の勝手でしょ」

 やっと起き上がって、ハヴェルは焦点の合わない目で前を見た。眠たげな灰色の瞳が、ゆっくりとリーフェに向けられる。


 気が動転していたリーフェは、その時になってようやくまじまじとハヴェルの姿を見た。

 ハヴェルはふわふわした銀の巻き毛の長い髪を持った、かなりの美形であった。齢は三十前後といったところで、神話の登場人物を彫った石膏像みたいに端麗な顔をしている。おそらくよだれで汚れていなかったら、もっと素晴らしく美しく見えただろう。結わずにそのままにした髪も櫛を通すのがやっかいでありそうなほどにもつれていたが、手入れをすればとても見事なものであると思われた。

 はだけたナイトシャツからのぞく肌は、白くなめらかだ。窓から射しこむ日の光がシャツを透かして、うっすらと細身の体のラインを浮かび上がらせている。それが男のくせに妙に艶めかしかったので、リーフェは急に恥ずかしくなって目をそらした。故郷の村にいた若い農夫の男たちの裸ならよく見たのだが、ハヴェルのものは性質がどうも違う。

(人間性はともかく、風貌はすごい綺麗な人だな)

 あまり人の外見の良し悪しを気にしないリーフェであったが、ハヴェルが最高級の美男子であることはわかった。


「アル中なのは今更仕方がないにしても、せめてボタンだけでもちゃんと留めましょうよ。女の子の前なんですから」

 イグナーツはソファの前に屈んで、ハヴェルのナイトシャツのボタンを嫌そうな顔で留めていく。

「いいよ別に。減るものじゃないし」

 うっとうしげにイグナーツの手を振り払う素振りをするハヴェル。

(……消耗するのは、あなたの裸体ではなく私の目だと思うんですけど)

 その美貌に困惑しつつも、リーフェは心の中でつっこんだ。会う前に自然と抱いていた敬意は消えていたが、それでも初対面であるので目下の者としての礼儀はわきまえた。


「それでこの子は何で……うぅっ!」

 言いかけたところで、ハヴェルはうつむき口元を抑える。顔色は青く、調子は良くなさそうだ。

 イグナーツは「げっ」と声を上げ、素早くハヴェルの背後に回ってその肩を掴んだ。

「ここで吐くのはやめてください。掃除大変なんですから」

「……大丈夫、今日はセーフ」

 こらえ乗り切った表情で、ハヴェルは顔を上げた。

(いや、アルコール中毒って時点で、アウトですから)

 本日もうすでに二回目となったつっこみを、リーフェは飲み込んだ。だんだん我慢が難しくなってきていた。


「すみませんね、こんなんで。今何か飲むもの持って来るから、そっちに座って待っててくれれば……。ほら、自己紹介くらいはしてくださいよ」

 イグナーツはリーフェにハヴェルと向い合せに座るよう勧め、ハヴェルに話すよう仕向けた。

 あくびまじりで、ハヴェルは口を開いた。

「ハヴェル・ノヴァーチェクは僕だよ。えっと、君の名前は……」

「リーフェ・ミシュカです。今日からお世話になります、研修生です。よろしくお願いいたします」

 リーフェは慌てて名乗って頭を下げ、席に着いた。


 不思議そうな顔をして、ハヴェルはリーフェを見つめた。

「研修生……? 何でそんな子がうちに?」

「協会から研修生受け入れの依頼書が来てましたよね。断るなら返送必要なんで、サインしてくださいって言ったら先生、そのままでいいって答えたじゃないですか」

「そうだっけ?」

「そうですよ」

 あきれた様子で、イグナーツはハヴェルにことの次第を説明した。だが、ハヴェルはまったくぴんときていないようだった。


(大丈夫なのかな。いや、大丈夫じゃないよね、この人)

 リーフェは非常に不安な気持ちで、黙って座っていた。

「うーん、思い出せないなぁ。まぁいいや。イグナーツ、この子のことは君に任せた」

 ソファにもたれ考えこんでいたハヴェルは、やがてあきらめイグナーツに振った。

(えぇ!? いきなり責任放棄!?)

 リーフェは変な声を上げそうになるのを、なんとかのどの奥でこらえた。すんなりと普通に指導してもらえないことは先ほどから覚悟していたが、それでもここまであっさりと捨てられるとは思っていなかった。


 だがイグナーツにとっては想定内のことだったようで、浅くため息をついてやれやれといった顔でかぶりをふった。

「丸投げですか。そうですか」

 そしてリーフェとハヴェルの間に立って、イグナーツは尋ねた。

「じゃあ、飲む物持ってきますけど、紅茶とコーヒーどっちにします?」

「私は、その、どっちでも……」

「僕はハーブティーがいいなぁ。ちゃんとガラスのポットに入れてね。お茶請けはチェルナーのブッセで」

 謙虚に答えたリーフェに対して、ハヴェルはこの家の主人らしく図々しく細かな要求をした。

「わかりました。買い置きがあるので、お茶と一緒に持ってきます」

 イグナーツは少々の苛立ちをにじませて、部屋を出た。

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