第一話 否定と否定

「なんだその演奏は‼」

指揮台の上に立つ先生の怒号が響いた。

指揮棒が台に叩きつけられ、怒りに染まった目が私を見据える。

それまで進んでいた音楽は、バラバラと消えて、なくなってしまった。

時間が止まったかと思った。

「お前は今まで何をやってたんだ?」

その言葉は疑問ではなく断定だった。

全否定だった。

「こんなこともできずに、先輩だなんてちゃんちゃら可笑しい。伸びしろがある分1年の方がましだ!」

教室には50人近くの吹奏楽部員。

その中で私だけが責められている。

何故なら今まで私がソロを吹いていたから。

私がソロを上手く吹けなかったから。

アルトサックスを持つ手が震える。

音楽室はクーラーがついているはずなのに、嫌な汗が出てきた。

「なんで基本的なことができていないんだ。ロングトーンなんて1年の時にできていなければならないことじゃないのか?本番は1回しかない。そこでお前はこんな演奏をするのか。みんなで作り上げた音楽を、お前のソロひとつでぶち壊すつもりか。恥ずかしいとは思わないのか‼」

先生の声で、空気がびりびりと振動している。

そのせいで大太鼓の膜が共鳴している。

先生の前の席にいたフルート担当の子たちがびくりと体をこわばらせた。

そうして、沈黙が広い音楽室を支配した。

私は反論できなかった。

先生の言うことはきっと正論だ。

恥ずかしい。

こんなことができない自分が恥ずかしい。

こんなことで怒られている自分が恥ずかしい。

悔しい悔しい悔しい悔しい悔しい!

自分が情けない情けない情けない情けない!

あんなに練習したのに。

練習ではうまくいっていたのに。

何でできないんだろう。

何で出来なくなってしまったんだろう。

色んな感情が湧き出てきて、顔が熱くなった。

悔しさで胸が痛い。

喉の奥が焼けるように痛い。

今すぐに部屋を飛び出したい気分だ。

溢れてきた涙で景色が滲んでいく。

それでも先生という名の指揮者兼指導者は、容赦なく私をにらみつけている。

こうなったのも私がソロを間違えたせいだ。

私の音が汚いせいだ。

指が上手く回らないからだ。

曲が止まるのはこれで連続三回目だった。

焦れば焦るほど、私の頭と体は思うように動かなくなっていった。

「おい、何とか言ったらどうだ‼お前のせいで無駄な時間を作ってるんだぞ。分かってるのか‼」

「………はい。」

震える喉で声を絞り出した。しかし、指揮者はそれで満足しない。

「声がちいせぇよ‼」

「はい‼」

泣きながら出した声は情けなかった。

だが、それを笑う者はいない。責めるも者も、擁護する者もいない。この部屋にいる全員が、ひたすら真剣な表情でこの現場を見守っている。

「返事ひとつまともにできないのか…。」

「…………。」

顧問はそれを鼻で笑った。そしてスコア(※1)に視線を落とし、ページをめくりながら説教を続ける。その間に私の目から涙がこぼれた。

「こんなことで泣くくらいなら、ソロなんてやめちまえ。お前ができないなら他のやつにやらせればいい。それでもダメならこの曲をやる必要なんてない。夏のコンクールに出場する必要もない。演奏会どころかソロひとつまともにこなせないようじゃ勝てるわけない。それこそ時間の無駄だ。」

それを聞いて、今までつまらなそうにしていた部員たちの顔がこわばった。

「それは絶対に嫌です!」

私が叫ぶと顧問も怒鳴り返す。

「そういうことはまともにソロが吹けるようになってから言え‼ふざけんじゃねぇ‼」

顧問がスコアを指揮台に思い切り叩きつけた。ぺしゃんっと音がして、スコアが台の上から滑り落ちる。

拾う者はいなかった。

「今日の練習はこれで終わりにする。コイツだけじゃねぇぞ。全員演奏が全くなってない。ソロに引きずられてんじゃねぇよ。下手くそ。そう言うのは技術じゃなくてメンタルの問題だよ。居残り練習も禁止だ。演奏会がしたいなら、まずは精神をどうにかしろ。各々明日から自分にできることを考えろ。俺は帰る。」

そう言うと、彼はさっさと音楽室を出て行ってしまった。

シンッと静まり返る音楽室に、廊下を歩いていく顧問の足音がこだまする。

数秒は誰も動こうとはしなかった。

私はなぜだか涙が止まらなかった。

そのうち誰もが気まずそうに目くばせを始める。それを見計らって、部長が立ち上がった。

「そういうことなので、今日の練習はもうできません。皆さんは楽器を片づけてください。金管はしっかりクールダウン(※2)して。」

いつもより控えめな返事が上がり、部員たちはのろのろと動き始める。皆の表情は暗い。

「演奏会まであと1か月もないんだよ?先生も何を考えてんのかな。」

「先生よりもソロだよ。合奏だってのにあんな演奏じゃ…。」

「そこ!うるさい。口より手を動かして。」

「「はーい。」」

先輩に注意されて、また静かになった。

同期たちの容赦ない言葉。本人たちは小声で話しているつもりだったのだろうが、静まりかえってしまっているこの空間では丸聞こえだった。でも、彼女たちを責めるのは間違っている。言いたいことも分かる。たぶん、私も同じ立場だったら同じように思うだろう。

全ては事実だ。

金管楽器がゆるゆると音を下げていく。その他の楽器担当者はカチャカチャと譜面台を片づけ始めていた。

私は一生懸命に音楽に取り組んできた。むしろ、自分のできる限りのことをしてきたつもりだ。それなのになんでこんな目に合うのか。なんで自分はこうなってしまったのか。答えのない自問自答を繰り返す。うつむいているせいで涙が制服のスカートを濡らしていく。無意識に楽器には涙がかからないよう、唾拭き用のタオルを掛けた。

体が重い。

何も考えたくない。

どうしたらいいんだろう。

辛い辛い辛い辛い。

悔しい悔しい悔しい悔しい。

逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい。

ここから、一刻も早く、誰もいないどこかへ。

物事が短絡的にしか考えられなくなっていく。自分が混乱している事は理解できた。でも、どうしたらいいのかは理解できなかった。

「………っ!」

力が入らなくなった体が傾いた時だった。

「藤野ちゃん…!」

大きな手によって体が支えられる。顔をあげるとサックスのパートリーダー倉田先輩の姿があった。代わりに彼女の首にかかるストラップ(※3)がカチャリと垂れる。先輩は座っている私に目線を合わせてくれていた。

「楽器、危ないよ。」

「先輩…。」

「気持ちは分かるけど、ちゃんと楽器を片づけておいで。それが終わったら、校門のところで待ってて。ちょっとお話ししよう。」

「………ハイ。」

ゾッとした。普段は優しい先輩。それでいて、何事にも的確な人だった。

あんなことの後だ。本能的にいい話はないことは分かる。

先輩はいつも通りの笑顔だったが、私は先輩の目が直視できなかった。

先輩から差し出された手を片手でそっと握り、もう片手で自分のサックスを支えながら立ち上がる。さっきまで力の入らなかった足に、やっと力が入った。

「それじゃあ。また後で。」

「はい…。よろしくお願いします。」

私の歯切れの悪い返事にうなずいてから、先輩は音楽室の隣にある楽器倉庫へ行ってしまった。周りを見ると、部員の半数が楽器ケースに楽器を片づけていた。

私は最低限の荷物とサックスを持ち、音楽室を出た。廊下に出ると、クーラーのおかげでまとっていた清涼な空気が、湿気を含んだ重いものに変わる。気持ちを切り替えようと思ったのに、さっきの暗い気持ちがよみがえってきてしまった。

先生は一度決めたことは、私達が何を言っても撤回しようとはしない。

彼がここでのルールだ。

私は深呼吸という大きなため息をついた。こうすると体にたまっていた嫌なものが少しだけ外に出るような気がする。さっきまでの衝動的な涙は止まり、心臓はいつものリズムを刻もうと動いている。

(ここで、つまずいてなんていられない。)

あと1か月。私はどうにかしてこの演奏会でソロを勝ち抜きたかった。そうしてコンクールに出場したかった。そのために吹奏楽部の強い学校を受験したのだ。ソロから降ろされたりなんてされるもんか。

私は楽器庫から持ち帰り用の簡易ケースを取り出して、楽器をしまった。


  ○  ○  ○


 校門に行くと、私よりも早く片づけを終えた倉田先輩が待っていた。長い黒髪が少し汗ばんで首に張り付いている。まだ初夏前だというのに、湿気を含んだ風が私達の間を通り抜けていく。コンクールの行われる夏は、湿気が多くてリード楽器(※4)には最悪の季節。その調整をするのも一苦労だった。特に日本は湿気が多い気候のため、外国の気候に合わせて作られている楽器を使っている人は、楽器を吹くたびにずるずると鳴る唾の音に悩まされる。気候のことを考えただけでそこまで考えてしまう自分は、つくづく楽器に毒されているな、と自嘲した。

自転車は、校門のすぐ横に止めた。

「お待たせしました。」

そう言うと、先輩は持っていたスコアを閉じた。

「来てくれてよかった。」

「先輩の呼び出しを無視できるほど肝は据わってません。」

「呼び出しのつもりはないんだけど…。」

そこで先輩は、私の背に楽器ケースが背負われていることに気付いた。

「サックス、持って帰るの?」

「はい。あんなこと言われて、何もしないなんてありえないですから。」

「…相変わらずはっきりものを言うんだね。」

「先輩は持って帰らないんですか?」

そう言うと先輩の動作が少し、鈍くなった。

「したいのはやまやまなんだけど、それよりも受験勉強があるから…。」

まだ部活に励む運動部の声が聞こえる。しかし、それらは1、2年生のみで、3年生の姿はない。もうとっくに部活を引退し、受験勉強に励んでいるのだ。夏前に大きな大会がある運動部とは違い、吹奏楽部は夏休み中にコンクールがあり、それを機に引退を迎える。上に進めば、冬手前まで引退はできない。だから、受験を控える3年生は部活と並行して受験勉強をしなければならず、補講授業を受けるために部活を抜けることも少なくない。それがしょうがないのは分かっていても、部活に命がけで取り組んでいる私からすれば、ただの言い訳にしか聞こえなかった。

「それで…お話ってなんですか?」

こんな無駄な時間を過ごしている場合ではない。一刻も早く家に帰り、練習したい。大きな音は出せなくても、指回りの練習や、イメージトレーニングができる。

「単刀直入に言うと、ソロのことなんだけど…。」

そう言いながら長い髪をいじる。前髪を耳にかけ、後ろ髪を前へ持ってくる。単刀直入と言ったわりに言いよどんでいる。それさえも私をイラつかせた。

「先生に怒られちゃったじゃない?練習で出来て、先生の前で出来なくなることは結構あるから気持ちは分かるんだけど…なんで相談してくれなかったのかなって思って…。最近の練習もずっと練習してたところだし、私もそんなに上手いわけじゃないけど、アドバイスくらいはできるし…。あぁなる前に、何かできたんじゃないかなって思って…。」

また髪をくるくるといじりながら、私の方を見もせずにそんなことを言う。

私はイライラした感情で気が狂いそうだった。

「そんなことを言うためにわざわざ呼び止めたんですか?時間の無駄です。先輩の自己満足のために私の練習時間を削る気ですか?」

「そんなつもりじゃ…。私は心配して…。」

「それならなんでそれを言うのが今日なんですか?もっと前にも言えたじゃないですか。よりによってなんでこの最悪のタイミングで呼び出したんですか?不愉快です。」

先生に怒られて、気が動転していた私は、普段思っていたことをぶちまけてしまった。

「一番不愉快なのは、私を呼び出したのがソロのオーデションで私に負けた相手で、しかもその後一度も再オーディションを申し込むこともなくのうのうとしていられる人間で、心の中で私のこと憎んでいるくせにそれを直接言う事も出来なくて、いい子ちゃんぶってる先輩だってことです。私を励まして周りからの評価を上げたいんですか?そんなことするより、今こそ私からソロを奪えばいいじゃないですか。そんなやる気のなさでパートリーダーやっているようじゃ、私は倉田先輩の下にはつけません。」

こんなのは無駄話だ。できない人間がひがんでいるだけだ。

「別に藤野ちゃんのことを憎んでなんかないし、評価を上げようなんて思ってないよ。ただ、藤野ちゃんが落ち込んでると思ったから…。」

「今の私のどこが落ち込んでるんですか?」

埒が明かなくてイライラする。あれだけのことを言っているのに、先輩は泣きも怒りもしない。常に冷静でいる、という点では、リーダーにふさわしい人だ。でも欲が足りない。

「オーデションは実力で決まるものでしょう?実力がないって言われたんだから、潔く諦めて、自分のできることを精一杯やりたいと思ってるの。それが、あなたにとって気に入らないことだとしても、私のことなんだから、とやかく言われる筋合いないよね?」

「先輩の意見は関係ありません。私が気に入らないんです。」

「そんなこと言ったら、私は、あなたのせいで、こうしてコンクール前の大切な時間を無駄にされたことの方が気に入らない。だから呼び出したの。」

「結局はそれも自己満足だっていう話です。ぶっちゃけ、私は先生の言っている事も納得していません。私ができないことをなぜこんな風に連帯責任にする必要性があるのか。でも、自分が悪いのはちゃんと分かってます。これからもっと練習します。今日のところは急いでいるので失礼します。」

「あっちょっと…!」

私は強引に自転車に飛び乗り、走り出した。先輩の声が後ろから聞こえる。

「明日もちゃんと部活に来るんだよ!先生に一緒に謝りに行くから!」

謝る必要なんてない。ソロを完璧に吹いて、態度で示せばいい。

私にとっては、先生と話すこと自体が無駄としか思えなかった。

私に必要なのは、練習する時間と、その成果を発表するにふさわしい舞台だと。

そう思い込んでいた。


★楽器・音楽用語解説

※1 【スコア】

全ての楽器のパートが書かれている楽譜。

※2 【クールダウン】

楽器を吹いた後に唇の調子を整えるために行う吹き方。特に金管楽器は唇を直接震わせて音を出すため、長時間吹くと唇が変形してしまう。それによってアンブシュア(演奏する際の口の形)が崩れるのを防ぐ役割がある。

※3 【ストラップ】

サックスやファゴット等を吹く際に首から下げる器具。楽器本体にある輪に通して楽器を支える。

※4 【リード楽器】

クラリネット・サックス・オーボエ・ファゴットに見られる竹べらのような板(リード)を使って音を出す楽器をまとめて言う言葉。クラリネット・サックスは1枚の板を使うシングルリード楽器。オーボエ・ファゴットは2枚の板を使うダブルリード楽器とも言われる。

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