第二話 見舞いと出会い
自転車でとばすこと40分。私は自宅に帰ってきた。吐き気をもよおすほどドロドロとした感情はまだ昂ったままで、いつもより乱暴に家の鍵を開けた。リビングに入ると、お母さんがソファに座ってテレビを見ている。ドアの音で振り向いたお母さんの顔にはお菓子の食べカスがついていた。
「あれ、あんた部活は…?」
「先生のご乱心により、強制帰還です。」
「あんた、まーたなんかしちゃったんじゃないのー?」
“また”というのは、今回演奏する曲のソロをとったことと、一度、先輩の練習態度が気に入らず顧問に直談判しに行ったことだ。後者は頭を冷やせと言われ、1人で勝手に帰ってきた。顧問の言い分には未だ納得がいかない。
「よくご存じで。合奏が上手くいかなくてさ。おかげ様で先輩に呼び出しまでくらいましたよ。」
「あららー。」
読みもしない教科書が入った重いカバンをドサリと降ろす。今日は休み時間に宿題を済ませたから夕飯まで目いっぱい練習できるのだ。楽器ケースを肩にかけ直し、自室に行こうとした時だった。「丁度いいわ!」とお母さんの声が上がる。嫌な予感がする。
「おじいちゃんのお見舞い行ってもらってもいい?」
「…私の背中に何が背負われているのか分かって言ってる?私、練習したいんだけど。」
「午前中に行ってきたんだけど、頼まれてた替えの下着をそのまま持って帰ってきちゃったのよ~。私なんかが行くよりも、可愛い孫が行った方がおじいちゃんも喜ぶでしょう?」
お母さんは私の話なんて聞いていない。お母さんの中で私がおじいちゃんのお見舞いに行くことは決定事項なのだ。
「やだ。健太に行かせればいいじゃん。もうちょっとで帰ってくるでしょ?」
弟の健太は帰宅部。ちょっと抜けているところはあるが、非行に走ることもなく平凡な人生を歩んでいる。私より遠い高校に通っているため電車登校だ。頭は私の方がいいが、あいつはピアノが弾ける。
「健太よりもお姉ちゃんの方が信用できるから~。」
「気持ちは分からなくないけど…。何だって今日…。」
「帰りにカラオケ行ってきていいから。」
「おっけ。」
私は即座に承諾した。お母さんが言うカラオケは、その辺の高校生が遊ぶために行くことではなく、カラオケで思う存分楽器を吹いていいことを表す。その辺り、お母さんは寛容だ。
私がお母さんの前に両手を差し出すと、3000円が進呈された。
「荷物が重いだろうし、電車で行ってきなさい。ちゃんと帰りの電車代も残しておくのよ?そんで、残りはリード代にとっておきなさいよ。」
「はーい!ありがとうございまーす!」
さっきまでの塩対応から一変、意気揚々と外へ繰り出そうとすると引き留められた。
「洗濯物を持ないでどうやって届ける気…?」
「あっ忘れてた…。」
「それに、ちゃんと制服を着替えてから行きなさい。みっともない。」
「はーい。」
練習のことで頭がいっぱいで肝心のものを忘れるところだった。すでに練習すべき箇所はいくつも思いついている。合奏での音の感覚が残っているうちに練習をしておきたい。
さっさと身支度を整え、玄関へ行くとお母さんが洗濯物の入ったカバンと共に待っていた。
「おじいちゃんきっと退屈しているだろうから、ちゃんとお話もしてあげてね。」
「分かってるって。おしゃべりなお母さんのお父さんだもん。その辺は心得てますよっと。」
スニーカーを履き終え、楽器をしょい直す。おつかいの荷物は、楽器に接触しないように手前で持つことにした。
先生や先輩に怒られたことなどもう気にしない。
前に進まなければ、何も変わらないから、うじうじなんてしない。
あんな先輩みたいに、周りにかまけて自分を見失ったりはしない。
「行ってきます。」
「気を付けてね。」
そうして私は家を飛び出した。
家に残されたお母さんは気づいてしまっただろうか。
私が泣きながら帰ってきたことに。
○ ○ ○
おじいちゃんは入院しているといっても重大な病気ではなく、ただのぎっくり腰である。救急車で運ばれたと聞いた時には肝が冷えたが、症状が症状なだけにいらぬ心配をしたと気が抜けた。入院する必要はないとのことだったが、1人暮らしで身の回りのことができないという事で、2週間ほど入院することになった。ついでに色々と検診も済ませてしまおうという算段らしい。
病院は私の最寄駅から電車で3つ隣。わりと大きな市立病院で、幼い頃熱を出してはここに連れてこられた覚えがある。注射をされる度にもう来るもんかと誓うものだが、どうにもそういうわけにはいかない。何回行っても、病院の消毒液の匂いは好きになれなかった。病気の人達が集まる場所という事は分かっていても、苦しそうな人ばかりがいる空間は重苦しい。こちらまで病気になってしまいそうだ。
面会用窓口で<フジノカナデ>と署名をし、入院者の名前を告げれば「面会」と書かれた通行証のバッチを手に入れることができる。診察待ちの人々を横目に入院棟へ入ると、私は「病気かもしれない人」からようやく「お見舞いに来た人」になることができた。おじいちゃんの病室は5階だ。いつもは肺活量を鍛えるためにも階段を使うところだが、今日は楽器を持っているためそうもいかない。エレベーターを使った。
5階に到着し、目的の病室に入る前にネームプレートを確認する。すると<フジノゲンジロウ>というおじいちゃんの名前の下に、新しいネームプレートが入っていることに気が付いた。おじいちゃんの部屋は2人部屋だが、前回来た時はおじいちゃんしか入院していなかった。「これじゃ1人部屋だ。なんという贅沢!」と言ったおじいちゃんはいつもながら能天気だと思った。
<トキタタクト>
カタカナで書かれているタクトという字を見て、タクトとは指揮棒を表す言葉だったと思い出す。おそらく関係はないだろうが、勝手に連想されてしまったタクトという言葉は妙に私の記憶に残った。
「おじいちゃーん。お届け物でーす。」
周囲の迷惑にはならない程度のボリュームで、あくまで明るく話しかける。ベットで横になっていたおじいちゃんは私を見た途端飛び起きて、腰の痛みに悶絶した後、感動の言葉を伝えてきた。
「カナデ!今日はお前さんが来てくれたのか!」
「うん。お母さんに買収されて、洗濯物届けに来た。」
「おじいちゃんに会いに来てくれたんじゃないのか!」
「いやだったけど、カラオケで手を打った。」
「相変わらず“つんでれ”な孫だ…!」
「おじいちゃん声が大き過ぎ。病院ではお静かにお願いします。」
そう言うとおじいちゃんはしまったという顔をした。
「なんという不覚…。でもさすが私の孫…!」
「この前来たばっかりなのになんでそんなにテンション上がるの?」
「病院ではやることがないんだよ…。カナデみたいにな。」
少しばかり小声になったおじいちゃんが、私の背にある楽器ケースを指差す。
「今日は部活はなかったのか?」
「…合奏で、私がソロ間違えたら、先生が怒って部活強制終了された…。」
「そりゃお疲れさん。先生は手厳しいな。」
おじいちゃんは私の頭をぽんぽんと撫でた。
おじいちゃんも学生の頃に吹奏楽部に所属し、トランペットをやっていた。だから、私のよき理解者でもある。音楽の楽しさを教えてくれたのはいつもおじいちゃんだった。私がソロに選ばれたときも一番喜んでくれた。そして今度一緒に河川敷でセッションしたいと言っていた。残念ながら、腰が治るまではお預けになりそうだが…。
私は洗濯物を棚に詰めながら向かいのベットに目を向けた。使われている形跡はあるが、そこに人の姿はない。特に興味はないが、これ以上部活について言及されるのも嫌だったので、話題を変えてみる。
「お隣さん入ったんだね。」
「おう。前回カナデがお見舞いに来てくれた次の日にやってきたんだ。お前と同じくらいの好青年だよ。今は検査に行ってるみたいだな。帰ってきたら紹介してやろうか?」
「別にそこまで興味ないし…。」
「遠慮するな!きっと気が合うぞ!」
「遠慮してない。」
「お年頃の男女の出会いは大切にしなきゃならんぞ…!私とばあさんみたいにな!」
「うるさいなー。だからそんなこと興味ないって言ってんじゃん。」
「それは悲しいなぁ。」
若い男声で感想が聞こえた。
振り向くと、車いすに乗った少年の姿がある。
ちょっと気まずい。
「タクト君!検査は終わったかい?」
「うん。なんとかねぇ…。」
のんびりとそう言いながら器用に車いすを操り、自分のベットへ移動する。ストッパーで車を固定した後、コロンとベットに乗っかった。
「それで…その子は前に話してたお孫さん?」
柔和に微笑まれれば、急に恥ずかしくなって会釈することしかできない。一方おじいちゃんはと言えば、愛する孫について聞かれて上機嫌だった。
「そうだ!これでも高校2年生だぞ。」
「これでもって…どういう意味…?」
「仲がよさそうで羨ましいなぁ。ゲンジロウさんが言ってた通り、可愛らしいお孫さんだね。」
私とおじいちゃんのじゃれ合いをほほえましく観察されて、さらに恥ずかしくなる。
「でも僕みたいな男の子には興味ないんだってねぇ…。悲しいなぁ。」
よよよ…とうつむく姿を見せられれば、それを否定せずにはいられない。
「さっきはごめんなさい。そういうつもりじゃなかったんです。ちょっと急いでて…。」
「何か用事でもあるの?」
「用事って程でもないんですけど…。」
「カナデはサックスをやっていてな!」
そこでおじいちゃんが表情を輝かせて身を乗り出す。そこでまた腰の痛みにやられてベットに慎重に背を乗せた。
「あぁ。ほんとだ。その背中にあるのはそうだね。そういえばゲンジロウさん。前に孫がソロやるって言ってたよね?」
「そうそう!そのソロで今日ぽかやったらしくてな!」
「おじいちゃんちょっと黙って。」
また興奮しだしたおじいちゃんをなだめる。こんなんじゃ治る腰も治らないだろう。それに、なんで初対面の人にそんな失敗談を聞かせなければならないのか。
「いやいや。タクト君も音楽が好きでな。特に吹奏楽が好きなんだと。ちょうどいいから話を聞いてもらうといい。」
「えぇ…?」
というか、それよりも早く楽器を吹きたい。
「僕はかまわないよ。ここはお年寄りばかりだから、たまには同世代の人の話も聞きたいし。僕はカナデちゃんと違ってカナデちゃんに興味あるし。」
にこやかに話しかけてくるタクトさんを無下にできるわけもなく、私はカラオケでみっちり楽器を練習することを諦め、2時間ほどしかできないことを悟った。
タクトさんは器用に車いすに舞い戻り、私の近くまでやってくる。
「まずは自己紹介した方がいいかな。僕は蒔田拓人。年は18だけど、ろくに学校に行けてないから、学校に戻ったらカナデちゃんと同じ2年生くらいかな。昔は家の近くにコンサート会場があったからよく聞きに行ってたんだ。知り合いにも吹奏楽部経験者がいたからその演奏会にも行ったし。お遊戯程度だけど、少しならピアノも弾けるよ。」
細くて白い体を揺らして笑って見せる。よく見れば、骨ばった指は大きく、力強いものを感じた。
「カナデちゃんは?」
そう言われてしぶしぶ口を開いた。
「藤野奏です。笹川高校2年。吹奏楽部所属。担当楽器はアルトサックスです。」
「笹川って吹奏楽部強いところだよね。カナデちゃんは、さっきソロ吹くって言ってたけど…2年生ですごいなぁ。」
褒められると照れくさい。でも、あの説教を受けた後の私には、今のは重い言葉でしかなかった。
「はい。ソロはオーディションで選ばれるので。」
「おぉ!その言い方だと、自分が選ばれて当然って思っている口だね。」
「そのために入りましたから。」
素直に告げると、タクトさんは吹きだした。
「あははっ。正直だねぇ。」
「よく言われます。」
「やっぱり?」
「おじいちゃんとしては、もう少し恥じらいが欲しいけどなぁ。」
「おじいちゃん。腰に響くといけないからしばらく発言禁止ね。」
変なことを吹き込まれるといけないので股をひとひねりすると、おじいちゃんは涙目になった。
「……ひどい孫だ…。」
「お使いもちゃんとこなす素敵な孫の間違いでしょ。」
「…それもそうだけどなぁ………。」
ようやくおじいちゃんを黙らせることに成功した。おじいちゃんは少ししょぼくれてはいたが、いつものことなので気にしない。
「それで。他にも何かあったでしょ?」
そんなおじいちゃんを気にせずに、タクトさんはさも当然のように言った。
先生からピンポイントで怒られたことも、先輩のことも練習禁止になったことも話していないはずなのに、まるで見透かされているようだった。
「何もないですよ。」
「女の子が強がっちゃだめだよ。カナデちゃんみたいな子はそうやって全部抱え込んで、気付かない内に壊れちゃうからね。僕でよければ話聞くけど…。」
その表情はバカにしたようでも、あの先輩のように迷っている風でもなく、いたって真剣な表情だった。それでも、それが信用に足る人物かどうかは判断しかねる。
それに私の何が分かるというのか。
話をして、何か解決するというのか。
それなら早く練習した方がいい。
「…嫌です。プライベートじゃないですか…。」
「そっかぁ…。」
私が嫌そうな顔をしてみせると、タクトさんは思ったよりあっさり引き下がってくれた。
「じゃあ友達になろう!そうしたら、相談してくれるでしょ?」
いや、引き下がる気はないようだった。
「ナンパですか…?」
「そんなもんじゃないよ。単純に心配なの。僕、これでもこの病院でよく患者さんの相談に乗ってあげてるんだ。だから困っている人をほおっておけないの。」
「困ってないです。」
「それでもいいから。ね。とりあえずお友達になろうよ。」
下出に出ているはずなのに、タクトさんの口調は有無を言わさない迫力がある。
おじいちゃんの親しみ具合といい、柔らかな物腰や話し方といい、ナンパをするような人には見えない。悪い人ではないだろうが…初対面で相談をするほど心を開いていいものか。私はそこの判断ができるほど達観してはいなかった。
私が黙り込んでいると、タクトさんは気にすることなくまたも話しかけてきた。
「これから練習しに行くんでしょ?」
「はい。母からお小遣いをもらったので、カラオケに行って練習しようかと…。」
そう言うと、タクトさんは不思議そうに首を傾げた。
「歌を?」
「サックスを。」
多少の沈黙の後、タクトさんは合点がいったようだ。
「いいねぇ。お母さんも協力的なんだ。」
「はい。家で練習されるよりはましっていう感じですけど。」
「あぁ。サックスは木管のわりに音が大きいからね。」
「カナデは芯の通った音がするから特にうるさいんだよな。」
「おじいちゃんは黙っててね。」
次は腰をつついてやると、おじいちゃんは涙目になっていた。
「でも、カラオケボックスじゃ音が思うように伸びないんじゃない?」
確かにカラオケボックスは狭いし、防音で音は跳ね返るしであまりいい環境とは言えない。
「そうですけど…練習できないよりはマシなので。」
私がそういうと、タクトさんは少し考えるそぶりをして見せた。
今度は私が首をかしげていると、タクトさんは車いすについていたポケットから携帯端末を取り出す。形を見るにPHSのようだ。そしてそのままボタンを押し、どこかへ電話を掛けた。
「お疲れ様です。タクトです。ちょっとお聞きしたい事あるんですけど…。」
そのまま少し話し込み、最後に「ありがとうございます」と言ってから通話を切った。
「カナデちゃん。カラオケは行かなくて大丈夫だよ。」
「はい?」
何を言っているのかよく分からないが、タクトさんはすごく嬉しそうにしていた。
「練習にはもってこいのステージを用意したからさ。」
「はぁ…?」
「じゃあ行こうか。」
キザなセリフを吐いたタクトさんが車いすから立ち上がった。さっきまで座っていたから気づかなかったが、私よりも顔ひとつ分くらい身長が大きい。
「え…今から⁉︎というか立てたんですか⁉︎」
「うん。体力温存のために乗ってるだけで、足は悪くないんだ。」
タクトさんが近づいて来たと思ったら、次の瞬間には私の手をつかんでいた。
「―――っ!?」
「ゲンジロウさんは腰に響くから来ちゃダメだよ~。」
「タクト君。どこに行くんだい?」
おじいちゃんが聞くと、タクトさんは私を見てにっこりと笑った。
「いいところ♡」
ゾッとした。
一方おじいちゃんは何かを察したようだった。
「あぁ!あそこなら練習にもってこいだな。カナデ、行っておいで。」
「え?ちょっ… なんで止めないの?どこ行くの!?」
「ついてからのお楽しみでーす。」
「腕離してくださ…。」
「嫌だよ。逃げられちゃいそうだもん。」
「逃げませんから!」
「いーやーだー。」
「はぁ!?」
「いってらっしゃい。あんまり遅くならんようにな~!仲良くしっかりやれよ~!」
「行ってきまーす!」
「おじいちゃん!恥ずかしいから大きな声出さないで!というかなんでタクトさんもそんなにノリノリなんですか⁉︎」
呑気なおじいちゃんに見送られ、調子に乗り出したタクトさんに引きずられ、私は病室を出たのだった。
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