第2話 始まり
天文十三年(1544年)十二月、井伊家に難問を持ち込んだ人物がいる。家老の
「殿、今川家から書状が届いております」
小野政直が直盛に書状を手渡す。
「今川家、か」
この頃の井伊家は今川家の属国となっていた。宗主国の今川家からの書状となると、戦の先鋒やら、年貢の引き上げやらと良い連絡は皆無と言って良い。
直盛は気が重いながらも書状を読む。そこには、直盛が想像していなかった内容が書かれていた。
「
直満と直義というのは井伊直平の次男と四男だ。
さらに、直満は
「まさか、あの二人が……」
今川家、つまり今川義元は直満と直義の二人が今川家に弓を引いていると考えているようだ。
だが、直盛はそのようなことは微塵も考えていない。
「何かの間違いであろう」
直盛はすぐに二人を呼び寄せ、話を聞いた。もちろん、謀反など考えたこともない、というのが二人の回答だ。
「
「ですが、義元様の疑念は深いものがあります。書状にも二人を
「う、む」
直盛も義元の書状には反抗できない。仕方なく、二人は無実であるという直盛の書状とともに直満と直義は駿府城へと出発することとなった。
出発の朝、直盛は亀之丞の父親である直満に声をかけた。
「直満殿、亀之丞殿のためにも、円のためにも、生きて帰ってきてくだされ」
直満は笑みを浮かべながら深く頷く。直盛はその笑顔を信じるしかなかった。
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駿府城に到着した直満と直義はすぐに義元と対面できなかった。それどころか、謀反人として屋敷に押しとどめられ、外に一歩も出ることができなかった。
「直義、これはどういうことだと思う」
直満が直義に尋ねる。
「……我らを、殺すつもりでは?」
直満も頷く。直盛の書状はすでに義元に届いているはずだ。義元はそれを読んでいるはずだが、音沙汰がない。
「兄上、どういたしますか?」
直満の頭に亀之丞の凛々しい顔つきが思い出される。側には許婚の円姫もいた。
「私は、ここで死ぬわけにはいかない」
「では、脱出を?」
「それでは自ら謀反を認めたことになる。ここは、書状を書いて待つしかなかろう」
「それで、大丈夫でしょうか」
直義の額にしわが寄る。直満の作戦に不安を抱いているようだ。
直義からしたらもはや逃げるしかないように思える。しかし、直満は
直満は義元にあてて弁明の書状を何通も書いた。一縷の望みを託して。
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天文十三年(1544年)十二月二十三日、直満と直義は屋敷の周りを今川家の兵で囲まれた。
「これは、どういうことだ……」
直満は呆然として、何もできずに壁の向こうに見える槍の動きを見続けている。直義は沈痛な顔をして部屋の隅で正座をしていた。
「これが、義元様の答え、ということです」
直義がポツリと呟く。もはや自身の運命を受け入れたようだ。声に抑揚がなく、顔に生気が見られない。
「いつか、わかってくださるとおもっていたのだが……」
直満がここにきて自らの考えが甘かったことを思い知らされた。義元は最初から直満と直義を殺害するつもりだったのだ。そうでなければ申し開きの場も与えずにこのようなことをするはずがない。
「直義」
直義はコクリ、と頷くと屋敷に火を放った。火炎はあっという間に屋敷を取り囲む。
「亀之丞、すまない」
直満は刀で腹部を斬り裂いた。苦しむ間もなく、直義が直満の首をはねる。
「私も、今から行きます」
直義も自らの刀で腹部を斬り裂くと、そのままの勢いで自らの喉を突いた。目がカッと開き、口から血が吹き出る。
直満、直義の二人は、今川家への謀反の疑いで切腹した。このことは井伊谷へ嵐のような不幸を誘い込むことになった。
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「くくく、直満と直義が死んだか」
井伊谷の一角、薄暗い屋敷の中、酒を片手に月を見ている男が一人。縁側で着物を着崩して顔を綻ばせていた。小野和泉守政直である。隣には息子の
「二人の謀反の話、父上が仕組みましたね?」
「当然よ。あの二人は私の計画には邪魔になる。さっさと死んでくれなければ困るのでな」
まだ幼い道好が杯に酒を注ぐ。酒の中に夜空に浮かぶ月が映った。
「父上、これから井伊谷はどうなりましょう」
政直は酒をあおりながら道好に視線を向ける。随分と酔っているようだ。
「これからは我ら小野家の時代よ。ゆくゆくは、井伊谷全体を小野家が貰い受けてやる」
くくく、と低い笑い声が月夜に響く。道好も父の思想に感化されているのか、同じような笑みを闇夜に浮かべた。
ここに、二人の幽鬼が生れ落ちた。
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