第8話
魏杏国の西側、通称『鬼眼』に入る。
桔梗院管轄の術師ではない、自由と孤高を好む術師達のが住む地域だ。
名誉や地位よりも己の矜持を高く持つ、一言で言うとひと癖ある連中が多い。他人との無意味な接触を避け、日夜術を磨いている、いい意味で研究熱心な輩ばかりの集落は昼間なのにひっそりと静まり返り、通りには人影すら見られなかった。
すれ違うのがやっとの細い道の脇には長屋が点在している。どの家も人の気配が全くない。自然と誰もが無口になる。
縦一列に並んだ一行が見つけた酒屋は、集落の中心部で異彩を放っていた。
ギラギラと輝く電飾に飾られた看板には酒樽の絵と半裸の女性の絵が描いてある。入口に扉は無く中を覗ける仕様だが、床はピンクの絨毯が敷き詰めてあった。
琴屋のようだ。
顔を合わせて琉韻と季緒は笑い合った。
魏杏国では国を挙げて飲酒を禁じているため、この店は国唯一の酒屋であった。もちろん非公式である。
梔子を先頭に入口をくぐる。魔人は奥のテーブルで優雅に片手を上げる。麗しさに眼を奪われてしまった蟻は両手で自分の頬を叩きまくる。
やっぱり変態だ、と季緒は足を蹴った。
「痛って!何すんだこのガキ!!待てコラ!鼠にしてやる」
走り回る二人はなんだか楽しそうに見えたので、琉韻はあえて止めもせずアスタロト公の隣に座る。店内には3人程の客がそれぞれ違うテーブルで手酌酒をしていた。揃いも揃って黒いローブ姿である。
「いらっしゃーい。皆さん術師様ですね~。ようこそ」
奥の調理場から陽気な女主人が白いローブ姿で現れた。
「オレは術師じゃないぞ」
「ご謙遜を。入口の電流にやられなければ術師様です」
「電流?感じなかったが……この剣のせいか?」
鞘から取り出された剣を見て梔子が、剣ですか?と問う。
「ドラゴンスレイヤーだそうだ」
「うっそ―!!」
誰よりも女主人は驚いている。黒ローブ姿の客たちも反応して騒がしいテーブルを盗み見ている。
「王子様、軽々しく言っちゃダメだって!その剣狙われるぞ!宝石よりも貴重だぜ!!」
もちろん一番貴重なのは王子様自身だけどさ。と自然に琉韻の隣に座ろうとする蟻を季緒が阻止した。
「え?このイイ男って王子様なの?どこの?」
女主人はそこにも食い付いた。
「女、騒がしいぞ。酒を持て」
一刀両断とばかりに魔人が命令すると、女主人は口を噤み奥へ向かった。
「ドラゴンスレイヤーですか、魔力を発するという伝説の剣。どんな幻獣も切れるという」
梔子の言葉に、季緒はアスタロト公を凝視する。
「我は切れぬ。リンドドレイクより強い故。サラマンダーなら切れるぞえ」
「ダメダメ、切っちゃダメ」
必死に頭を振る季緒に、切らないよと琉韻は笑う。
「失礼。貴方様は梔子卿か」
斜め向かいに座っていた術師が話しかけてきた。被っていた黒いフードを取ると小さい顔と大きい茶色の瞳、華奢な造りの鼻と口でできている少女が現れた。
「蘭音?何故ここに?桔梗院を離れたのですか?」
蘭音と呼ばれた少女は頷いた。みるみる内に目に涙が溜まっている。梔子は少女が座っていたテーブルに移動して話し込んでしまった。慰めるかのように少女の背中を擦っている。
大量に運ばれてきた酒を水のように飲み干す魔人は、奴と深く関わるとは不憫なと含み笑いを洩らす。
「大公は大嘘吐きと言ったな。どういう意味だ。あまりにも失礼だぞ」
「司祭共を嬲り殺しにした故、時間がかかったのよ。悪魔のように残虐よのう」
愉快愉快と魔人は酒を呷る。清廉潔白の梔子のイメージが音をたてて崩れていく。
梔子様…。
季緒は親身になって話を聞いている裏表がありそうな桔梗院と、信じられないと馬鹿みたいに口を開けたままワケ有りな様子を見ている王子を交互に見比べてみた。
アスタロト公の前に置かれた酒はすぐなくなってしまう。女主人は何度も調理場と客室を往復するが、それでも公爵のペースに間に合わない。しまいには酒樽を3つほど持ってきてテーブルの脇に柄杓と共に置いた。
うっかり公爵のペースに巻き込まれた季緒は潰れ、蟻も座りながら左右に揺れている。
「この国の酒はウマイな」
琉韻はもくもくと飲み続けている。
「惚れ惚れする飲みっぷりよの。どうだい、魔帝の酒は人間の涙と欲望でできる故美味ぞ?共に呑まんか」
甘い息が耳を擽り、遠慮すると琉韻は椅子ごと横にずれる。アスタロト公は長い指で絹のように長い黒髪と戯れ始めた。
「琉韻は美しい。外見もそうだが魂が美しく輝いている。その光は純白で我には少々痛い。純粋なものを汚す歓びに抗うのは難しい」
「……オレは純粋でもないぞ。嫉妬もすれば人を憎みもする。蔑んだりもするな。人を殺した事もある。ドラゴンも殺したな。…許されない想いも止められぬ」
「それらは人間として当然の感情ぞ。人間だからこその感情だ。」
褒められているのか判断が微妙なところだが、とりあえず礼を言う。
「痛みは甘美であろう?もっと陶酔したくはないかえ」
若き王子はしばし黙考する。
「いや。そうは思わないな。楽しい方がいい。仲間と同じ事で笑い合いたい」
酒を飲み下し、官能的に動く喉仏を真っ赤な眼が愛でる。
魔人とは別の視線を感じて琉韻は眼を走らせた。近づいてくる術師の身体が二重にも三重にも見える。
酔っているな、と琉韻は額を押さえる。横目で魔人を観察するが、平然と酒樽を空にしている。
魔界の酒代はどれくらいなのだろう。ここの支払いは誰がするんだ?と気づいたら一気に酔いが醒めていった。懐は非常に寒い。空間移動術を遣ってもらうべきだったと激しく後悔する。
金になりそうな物は………
かくなる上はこの剣を………否、それはできん。魔術を遣えない身の以上、この剣は必要だ。
「琉韻王太子殿下ですね。全てが生まれし始まりの国、允王国の」
琉韻の前で術師は膝を折って礼をした。
売れば一国が買えるという蟻の謳い文句が頭を巡っていたため琉韻は生返事をする。
「ご尊顔を拝し光栄の至りでございます。やはり我らが姫の面影がある」
「姫とは誰だ」
「アルバザードクワィエンクロイツ姫です。貴方の御母上でございます」
聞き返したくなる長い名前に嫌な心当たりがある。
「瞳のお色が全く同じでいらっしゃる。お美しい」
「戯言を、天塔圏に用はないぞ。去るがいい。それにオレの母上の名は違う」
「私は天塔圏ではございません。スプリガンです。ナイアデスの守護者でございます」
「…………」
自分には管轄外の話題だと思い、琉韻は大声で梔子を呼んだ。
梔子は蘭音を伴ってテーブルに加わった。少女は間近に琉韻を見た衝撃で顔を真っ赤にして俯いてしまっている。
「如何されましたか」
「スプリガンとかナイアデスとかは何奴だ」
「スプリガンは妖精を守る用心棒のような存在ですね。普段は小人のような姿ですが本来は巨人です。大神殿ほどの大きさと聞きます。ナイアデスは湖に住むニンフの呼称です。特定の場所に住み、そこを守護する役目を持つ妖精の総称ですね。ニンフは全て美しい若い女性です」
「で?その妖精たちが何用だ」
琉韻は膝を折ったままの術師に問いただす。
「色々お互いに相容れない困難もございましたが、王子がお幸せそうにご立派にお育ちになられて、嬉しゅうございます。姫も喜んでいることでしょう」
琉韻の両手を握りしめ、目の高さに掲げて「末長い栄光を」と祈りを捧げ、術師は消えた。文字通りその場から消えたのだ。満足そうな微笑みを残し。最もフードのせいで口元しか見えなかったが、確かに笑っていた。
謎が解明されぬまま取り残された琉韻は、府に落ちないまま酒に手を伸ばす。
あいつは酒代を払ったのだろうかと気になって、女主人を目で追うと、斜め向かいに座る術師のテーブルの上から札束を取り懐に入れていた。
大問題だ。
無銭飲食という汚名を被って生きていかなくてはならないのか。
気高い王子は頭を抱える。苦悩する琉韻の表情を肴に魔人は3樽目に手を伸ばした。すかさず琉韻は口を挟む。
「大公。オレらは飲み過ぎだと思うぞ」
「飲み足りないのかえ?この店には存分に酒がある」
「そうじゃない」
飲み尽くす気かと呆れながら、女主人に交渉するため立ち上がった。
「失礼。支払いの件で相談があるのだが」
「はい?そちらのテーブルなら先に勘定してるよ。店の酒全部出してもお釣りがくるぐらい。あっちのイイ男も怖いけど気前いいね~。二人とも王子様かい?」
王子は無言でテーブルに戻る。魔界の大公爵も人間界の金を持っているものなのか。
「ごちそうになる忝い。魔界人も金を持っているのか。それは本物か。大公は酔わないのか」
軽く頭を下げる琉韻の、流れる髪に蝋のように白い指先が絡む。
「琉韻の為ならば、いくら遣っても構わんぞ」
「それは困る。過ぎた贅沢は身を滅ぼすからな」
「欲が無いのう。汝ならば世界を欲したら与えようとする輩が大挙するであろうに」
「世界を手中に収めて何になるんだ。自らの責任が増して雁字搦めになるだけだ。オレの器では允だけで精一杯だな」
「謙遜を。汝が望むなら、我が与えてやろうかえ」
琉韻を捉えている赤い目が一層激しく燃え上がったかのように見えた。頭の芯が痺れる気分になり、琉韻は左右に頭を振った。
「……誰彼かまわずに甘言を与えるのはどうかと思うぞ」
「汝だから言っておる」
甘甘な雰囲気を発している二人を鹿爪な顔をして見ていた梔子が口を開いた。
「先ほどのスプリガンの話から推測すると、王太子殿下はナイアデスと允王の子供と言う事になりますね」
「ナイアデスって妖精か?オレが?」
自分を指さして馬鹿な事をと声を出して笑う。
おずおずと蘭音が声を出した。
「それで納得できた。貴殿は同じ人間とは思えないほど美しい。ニンフの子で正しいと思われる。申し遅れた、鬼眼蝕の蘭音と申す。お見知りおきを」
重ねた両手を目の高さに上げた目礼をする。真っ赤な頬で術師の正式な挨拶を交わす蘭音に王子は自他を紹介した。
「琉韻と言う。そこで寝ているのは季緒と蟻。……………」
迷ったが、同席している以上紹介する事にした。
「こちらはアスタロト大公」
店内の空気が変わった。数少ない客の背中に緊張が走ったのが目に見て取れた。
やはり大物なのだと少なからず感心した。フェニックスを一瞬にしてバロックに戻した力といい、思わず引きずり込まれそうな端正な容姿といい。
大公は周囲の視線を気にもせずマイペース(かなりの速度)で酒を飲んでいる。まるで琉韻以外は眼中にないといった感だ。
「魔界の実力者を召喚されたのか」
驚愕する蘭音の問いに琉韻が答えられるわけもなく、撃沈している季緒に目を走らせた。
つられて蘭音も小さい子供に目を向ける。テーブルに突っ伏している小さな姿からは大公爵を召喚するほど強力な魔力は感じ取れなかった。
能ある鷹は爪を隠すというアレなのか?
規則正しく上下する肩と気持ちよさそうな寝息が聞こえてくる。
大公が飲んでいた最後の樽が空になったのを頃合いに琉韻がそろそろ店を出ようと季緒を起こそうとするが、全く起きる気配はない。
「起きろ!季緒!!起きないと置いていくぞ」
琉韻の大声に隣で寝ていた蟻が起きだした位だった。
「あ~…お開きか。王子様って酒強えーなぁ」
「おい!起きろ!!」
肩を大きく揺さぶるが、うめき声すら上がらない。
「季緒」
大公の一声で季緒は眼を開けて椅子から立ち上がった。直立不動である。
眼を瞬かせて現状を把握していない様子だった。大公は琉韻に鮮やかな微笑を向け立ち上がる。
「名残惜しいが、そろそろ戻らなくてはならぬ。また逢おうぞ琉韻」
立ち上がり、差しのべられた長い指に触れようとしたら、手首を掴まれ大公に引き寄せられた。隙をついて大公の真っ赤な唇が琉韻の瞼に触れる。
熱い感触だけを残し魔界の大公爵は姿を消した。同時に季緒の身体の緊張も解けて椅子に座りこむ。残された口付けの後を照れくさそうになぞる琉韻を脇目に、梔子は季緒の背中をさすった。
「無闇に名を与えるからですよ。自業自得です。肝に銘じなさい」
はい。と項垂れたまま力ない返事があった。
「お開きはいいんだけどさ、この後何するんだ?どこか行くあてでもあるのか?今までの話だとデカいバトルがありそうだよな」
蟻の率直な質問に、女術師を除いた全員が黙りこくった。梔子は琉韻達の旅の目的の底に隠れた真相を把握していなかったことを思い出し、季緒と琉韻は悪魔と呼ばれる美しい女を思い描いた。
よければ、と蘭音が口を開く。
「ウチへ来るか。梔子卿に教えを請いたい魔術理論があったので丁度いい。どうだ」
「梔子殿は彼女と一緒に行けばいい。オレ達はもう一度街へ向かう」
「王太子殿下が魏杏国に足を運んだ理由は何ですか」
「ミューレイジアムロイヤルファムエトに会うためだ」
蘭音が大きく目を開いた。
「…そうか、貴殿が。女王の様子が最近妙だったのは貴殿が原因だったのか」
女王?と梔子は首を傾けるが、瞬時に顔の色を失った。
「蘭音、貴女は、そこまで堕ちてしまったのですか」
女術師はかつての師を仰ぐように見上げた。
「天塔圏と桔梗院は表裏、光と影。裏がなければ表と言えないように、光無きところに影は存在しない。誰もが闇を恐れるのは、自らが闇を抱えているからに他ならない。誰もが闇を暴かれるのを恐れている。たったそれだけの事と気づいた。女王とお会いして」
気色が混ざった表情から放たれる言葉は妙に滑らかだった。迷いのないことを示す。
蘭音は改めて琉韻を見つめた。美し過ぎる端正な顔の造形。強い意志を灯す紫の瞳。心地よい響きの音を発する薄めの唇。品性の正しさを表す高い鼻梁。透き通る色の白さ。
女王が迷うのも無理はないと感じる美しい、美しい男。
琉韻に向かって蘭音は手を差し伸べた。
「来るか?女王の元へお連れしよう」
全ての視線が琉韻に集中した。
一歩踏み出し、目の前の小さな手に自分の手を添える。
もう、戻れなくてもいい。戻るつもりはない。
「連れて行って頂こう。彼女の元へ」
清廉な微笑みにつられて蘭音も笑みを返す。
「琉韻!!」
悲痛な声の季緒に心配するな、と微笑んだ王子の姿がその場から消えた。
「ここは」
上空に浮かんでいる琉韻は眼下に広がる大きな塔に目を馳せた。すぐ傍に浮かぶ蘭音が説明する。
「世界一高い天の塔。魏杏国の者も桔梗院も大神殿と呼んでいる」
いつかペガサスの背上で眺めた景色と同じだった。知らずに繋いでいる手に力が入ってしまった。不安定な足元を意識すると気が遠くなってしまうので、大きく深呼吸する。
「この塔の最上階に女王がいらっしゃる。さぁ行こうか」
突然目の前に豪奢な扉が現れた。足元は大理石に変わっている。炎球がそこかしこに浮かんでいるので暗くはない。繊細なタッチで彫り込まれている扉に蘭音は手をかけ軽々しく開く。
女王の部屋というには質素な空間だった。扉の豪奢さを期待した者は落胆するであろうシンプルな家具しかおいていない。
彼女が存在すれば、それだけで華美な空間になるな。
甘い香りが漂ってきた。
「ようこそ」
紅い唇が開く甘い音。部屋の奥から姿を現すは15歳程の少女が円熟した妖艶な微笑を向けて立っている。
蘭音は術師の礼をとり、その場から消えた。梔子達がやる礼の仕方と全く同じな事に、琉韻は軽く笑む。
「何か、愉快な事がありまして?」
「貴方に逢えて、嬉しくて」
デコルテを大きく露出した黒いドレスを身に纏う淑女のような少女は琉韻に近づき目を閉じる。二人の唇がゆっくりの重なった。
「熱いわ、貴方の唇も、身体も、心も何もかも」
「可笑しいな。貴方は冷たいな。唇も指先も」
二人の顔から微笑が漏れた。
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