第6話

梔子は小さな背中を押しながら山を登っている。バロック山に空間移動でやってきて上り始めてからずっとだ。季緒が自力で歩こうとしないからである。

麓へ置いていこうとしたが、琉韻の為に行きたいと我を張るので、仕方なく連れてきたが自分で歩こうとしない。

温厚な梔子だが、さすがに苛立ちが隠せなくなる。季緒のせいではない、解っているけどイライラする。

麓に着いた頃はまだ太陽が空を飾っていたが、今は薄暗い。

「ここで待っていなさい。私が上へ行ってきますから」

頭に大きな溜息がかかって季緒は振り向いた。頂上まで登る気持は十分ある。梔子よりも燃えているハズなのに、気力が続かない。やる気がすぐに燃え尽きる。その繰り返しだ。身体を動かすのもだるい。琉韻は体力があるから3日間ぐらいは大丈夫だろうとも思ってしまう自分に嫌悪感を抱くが、動く気がしない。

「怒らないでください。自分でもどうしようもないんです」

「怒ってはいません。ただ王太子殿下が心配なだけです。こうして(無駄な)時間が過ぎる間も殿下の身体は死に向かって蝕まれているかと思うと。心配で心配で」

「行きます!一人で歩けます!」

支えられている手から離れ歩き出したが、すぐに座り込んでしまい、オレもうダメだと足元の砂利に話しかけている。その姿を哀れに思い心が痛んだ梔子は術を遣う事にした。この山は霊鳥の守護があるので術が効きづらく通常の3分の1しか発揮されない。季緒の傍に立ち、一息で3回呪文を繰り返す。

梔子が詠唱する姿は滅多に見る機会はなかったが、低い声で歌うように唱える音を聞くのは非常に心地よく、好きな光景の一つだった。

最も好きなのは剣を操る琉韻の姿である。流れる髪と鋭い視線、しなやかに力強いステップ、長い腕が流線を描き剣を奮う。

琉韻みたいに自在に剣を操られたらな…とボンヤリしていると、背中に違和感を覚え振り向く。30cmぐらいの蛇が近づいてきていた。

「危険です、季緒!」

梔子は季緒を抱え、その場から飛び去った。

「っぐ、うあっ」

全身が絞られるような激痛が走る。詠唱を中断したため呪の力が全身を循環する血液に反転されている。立てない程の痛みで梔子は崩れ落ちた。

「梔子様!どうしました!梔子様」

顔、首、手の甲に血管が黒く浮かび上がり蠢いているのが分かる。露出されていない部分でも同現象がおこっているのだろう。

「逃げ、ま、しょう…あれは、バシリスクです」

魔眼を持つ幻獣バシリスク。小さい蛇の姿をしているが、非常に殺傷能力の高い毒を吐く。燃えるような赤い眼をしており、その視線に捕らわれた者は瞬時に死に至るほど強い致死作用を持っていた。小さいが毒の塊だ。

果敢にも梔子は立ち上がろうとするが、吐血して倒れてしまう。

「梔子様!しっかり!」

梔子は左手で口元を押さえたが、指の隙間から血が噴き出ている。

「ど、どうしようどうしようどうしようどうしよう」

うろたえる間にもバシリスクの威嚇の音は近づいてくる。絶対にバシリスクの目を見るなとキツク注意されたので、季緒は背中を向けている。毒臭も吸わないようにとなるべく息を止める。

「どうすれば倒せますか?」

「私を置いて、頂上へ行きなさい。不死鳥を」

「嫌だ!梔子様を置いて行けません!それに、不死鳥の獲り方も分かりません!梔子様がいなきゃダメなんです!」

肩を借りて梔子は立ち上がる。本人さえも持っているのを忘れていた短剣を麻袋から取り出して季緒に握らせる。バシリスクの後頭部に王冠のような白い模様が輝いている。そこが急所だ。そこに投剣しなければならない。剣を持ったまま刺すとバシリスクの毒が剣を媒体に自分にも伝わって即死してしまう。退治にてこずる毒蛇だ。

梔子は大きく深く息を吐き、せめて倒れないように気を張る。痛々しい紋様は浮かび上がったまま絶えぬ苦痛を与え続けている。魔力の高さが幸いして、死なないだけでも幸運だった。

どうしよう、琉韻を助ける前に死んじゃうかも…

季緒の脳裏に今日一日の出来事が蘇ってくる。美味しかったアルグレスの手料理、お茶にパンにスープに焼き菓子、焼き…サラマンダー焼き。

「マダラは?梔子様、マダラの炎で焼けませんか?」

「焼き尽くすことができれば…効果的かもしれませんね」

マダラ!頼む!!

「…………」

「…………あれ?」

何も起こらない。梔子に腕を掴まれながら走りだす。何度か召喚を試みるが事態は変わらなかった。

「何で?!オレってもう召喚士じゃなくなったのか!」

挙措を失う季緒に従容な声が響いた。

『火霊が参戦とはつまらぬ』

「あっ!あ――――!!中の人だ!!ヒドイ、オレら死んじゃうんだぞ」

『死ぬのも愉快ぞ』

「酷い、酷過ぎる!あああぁぁぁぁぁぁああ!!」

二人を飛び越えたバシリスクが目の前に着地する前に、二人は後ろを向いた。毒蛇が通過した後はむき出しの岩や土砂は溶けだして異臭を放っている。二人は両手で口と鼻を覆う。

「梔子様、オレ目の前が霞んできました。頭も痛い」

痺れる眼から流れる涙を拭ったら隣の術師が失神した。鈍い音がしたので受け身もとらずに倒れたのだろう。

「ぎゃああああぁ――!梔子様ぁ!!あああああ」

紋様が浮かぶ肌は青く、血の気が全くない。

死んでしまう。琉韻より先に、琉韻も助けられずに、死んでしまう。

ダメダメダメ!絶対ダメだ!!琉韻も、梔子様も助けなければ!!オレしかいない!!

季緒は短剣を握り直す。覚悟を決めたが、振り返る決心がつかない。振り返ってバシリスクを見てしまえば死んでしまう。

『名を申すかい』

「それどころじゃない!!」

空気を読まない大公爵に顰蹙しながらも、季緒は打倒バシリスク対策を考える。

『あ奴、そろそろ死ぬぞえ?よろしいか』

楽しそうな笑い声が頭に響いた。

「うるさーい!笑うな!あんた最低だ!!」

『我は悪魔ぞ。快哉だ』

ブチッと何かが切れる音がしたと同時に季緒は叫んでいた。

「季緒だよ!季緒ってゆーの!!ぐあっ!!」

左の脹脛が抉られたような痛みを感じて、うっかり季緒は振り返ってしまった。

バシリスクが鋭く鋸状に並んだ歯をつきたて噛みついていた。反射的に捕まえようとしたが、バシリスクは尻尾を起点にして飛び去った。狙いを定めている真っ赤な眼を見据える。

「あ、見ちゃった…」

対峙する四つの目は膠着状態だ。

「死んでない…」

『汝には我がついている故、毒蛇の効力など無効ぞ』

流石は地獄の大公爵。頭の中で知ってる限りでボキャブラリーいっぱいの褒め言葉を述べていると、目の前にマダラが現れた。気分をよくした大公爵の計らいだろう。

マダラが火を噴くとバシリスクは一瞬で炎に包まれる。動きを封じられた毒蛇の後ろに回り、炎の中に入り込み短剣で急所を思いっきり突き刺した。暴れていたバシリスクは動かなくなり、業火で黒こげになっていく。

「完成。バシリスク焼き」

流韻がみたら大笑いするだろうなと考えながら、炭となり空中に散ってゆく最後の姿を見届けた。

マダラを労おうと小さい頭に手を伸ばすが、その前にマダラは消えてしまった。魔人と精霊はよっぽど相性が良くないらしい。

気を抜いた途端、激痛に季緒は崩れ落ちる。噛まれた左脹脛がフトモモまで腐食し始めており真っ黒く変色していた。バシリスクを刺した右手も黒く変色している。

「えええぇぇ?!効果ないって言ってたのにぃ!!」

何の回答も言い訳も返ってこなかった。片足でピョンピョン跳びながら倒れている梔子に向かう。呼びかけても返事がない。二度と目を開けないのではと思い胸に耳を当てる。音が聞こえない。

「ど、どうして?!どうしよう!!こんな時は…」

一心に念じていると、蹄の音が近くに聞こえてきた。美しい毛並みと凛々しい表情をしたユニコーンが距離を取ってこちらを見やっている。近づこうとしない。

おいでおいでと呼びこむが首を振って嫌がる。

「もう!!いいからおいで!!」

季緒の剣幕に観念したのか、ゆっくりとユニコーンは近づいて変色した左足と右腕に螺旋状の角を擦り付ける。痛みが和らぎ黒かった部分が元に戻っていった。

「ありがとうありがとう!梔子様もお願い!」

ユニコーンは鼻を近づけ、梔子を嗅いでいる。そのまま胸の中心を角で突き刺した。

「ちょっ、ちょっと待って!何する」

抜こうと鬣を引っ張る召喚士は、ユニコーンの後脚に蹴られて吹っ飛んだ。

岩にぶつかった衝撃は心臓が口から出てきそうな程だった。

なんで…と呟きながら匍匐前進で梔子の元へ向かう。胸から角を抜くと、ユニコーンは早々と山を下って行ってしまった。胸からは不思議と血は一滴も出ていない。斑紋も色が薄くなっていき、顔色も元に戻ってきた。胸に耳を当てると、弱々しい音が聞こえてくる。安心した季緒は頭を乗せたまま目を閉じた。


息苦しさに目を開けると、暗闇と同化したような小さな頭が見えた。空には月が浮いている。投げ出したままの指先に力を入れる。

握れる。生きていたとゆっくり息を吐いた。

バシリスクから逃げ出したまでの記憶しかない。季緒が倒したのだろう、胸に乗る軽い身体を懐へ抱きかかえる。

詠唱中断の反動で生体エネルギーのほとんどを持って行かれた。呪文を三種唱えていたのだ、今生きている事が奇跡に近い。体中の斑紋も消えた。眼を閉じて王太子の無事を祈りながら眠りに就いた。

翌朝、経緯を説明しながら山頂を目指して歩く。魔人に名前を教えた事に梔子は難色を示したが、今のところ実害がないので大丈夫と季緒は深く考えていない。それよりも琉韻の方が優先だった。季緒に勢いのあったのは最初だけで、また背中を押してもらって歩く。

空気が熱くなってきてしっとりと汗をかくようになった。

まだ?まだ?と文句を言う小五月蠅い子供に何十回目かの同じ答えを返した頃、大きく開いた火口が出現する。

遠目からも火口から火の粉が飛び散っているのが確認できた。

暑い。須恩国の砂漠よりも暑い。あらゆる先端から熱が心臓に向かって這いあがってきてジリジリと心臓を焦がすかのようだ。汗が目に浸みて眼球から透明な液体が零れるが、涙なのか汗なのか区別がつかない状態だった。熱風で髪に含まれていた水分も蒸発し増毛のように広がっている。肌水分も同等で、話す度に口の周りが引き攣られて痛い。二人はなるべく口を大きく開かないように小声で話をしている。不死鳥捕獲作戦を考えているのだ。

「灼熱地獄ですね。こんなに暑いとは思いませんでした。長年この国に住んでいましたが、見識が狭かったと思い知らされます」

「近づけるんですか。溶けちゃいそう」

「ダメだと思った時は進むのです」

梔子はマシマシの葉を探し、双眸に装着させる。季緒を引きずるようにして火口を一緒に覗き込んだ。

寄せて返す炎が海のようにしぶいて見える。フェニックスは炎の海を自由気ままに泳いでいる。燃え盛る火炎の中に異物を発見した。木枝の山である。

「絶好ですね。明日になれば捕獲完了です。今夜一晩王太子殿下の無事を祈りましょう」

大きな一枚岩に寄りかかり二人は夜通し祈りを捧げた。

朝日が瞼を射し、季緒は目を開けたが起き出す気にはならなかった。夜が明けても暑さに変わりはない。昨夜見えていた火の粉はもう見えなかった。気になったが動きたくなかったので隣が起き出すまで待つがよく見ると火口から炎が見えなかった。それが気になったので梔子を叩き起す。

「大変ですよ!炎が見えません!ねぇ、梔子様!起きてくださいよ」

半分目を開けた梔子がいつもの2倍低い声で話す。

「…不死鳥は、再生のため、…………です」

「えっ?!聞こえません梔子様」

寝起きから元気な季緒の声で覚醒に至った梔子は火口に歩きだした。

枝山の上にオレンジ色の物体が集まり固まろうとしていた。

「見てください。不死鳥が凝固し始めています。これが固まったら持って帰りましょう」

隣で季緒が盛大に拍手をする。

「これで琉韻を助けられますね。良かった。良かった」

オレンジの塊が出来上がり、マシマシを装着した梔子が火口に降りて捕獲完了。

両手で大事そうに季緒が抱えて下山する。

バシリスクの毒が漂っているので行きとは違うルートを取った。お互いにこれ以上幻獣に遭遇しないことを願う。

「この坂道を転がって行けば早く着きますよね」

「露出した岩に頭をぶつけて死んでしまったらどうするんですか。下りの方が危ないのですよ山道は」

いかに早く下山できるか考えていると、後ろから名を呼ばれた。

「季緒!!」

聞き覚えのある声に振り向くと、そこに居てはいけない人物が立っていた。

「る、いん?何で?」

しかも後ろに蟻の姿も見える。相変わらずニヤニヤしていた。

怪しい、蟻がいることで思いっきり怪しい二人組だ。

「これって夢だと思いますか」

両手が塞がっているので梔子が季緒の頬をつねる。

「痛いです。え?琉韻??何で?」

「王太子殿下…」

髪の色、長さ、肌の肌理の細かさ、美白、紫色の瞳、手足の長さ、身長、腰に下げている剣も琉韻と同じだった。

「その手に持っているのはフェニックスだな。季緒、何故それが必要か答えろ」

話し方も一緒だ。左手を腰に添える癖も同じ。目の前の頗る健康そうな琉韻と、地下室で瀕死の琉韻が頭を交互に巡っている。


蟻は予想以上の悲しみに襲われているのが意外だった。召喚士が持っているフェニックスを取り戻せば、愛しい王子との旅も終ってしまう。たった一日の短く儚い旅だった。自分が空間移動術を遣える事をこれほど後悔する事は、蟻の人生この先絶対ないだろう。

軽く自己嫌悪に陥っていると、場の空気が妙な事に気づく。王子と召喚士が牽制しているのだ。いや、牽制ではない。威嚇し合っている。

「王子様あいつらに警戒されてるぜ。何かあったのか?」

記憶が欠落している時間がある。しかし、自分が季緒に何かする筈がない。

無い。と琉韻は言い切った。

「なら、あれってホントに召喚士?もしかしたら幻夢をかけられてる別人かもしれねーぞ」

「この山は魔術が効きづらいと言っていなかったか。確かに季緒と梔子殿だ」

桔梗院梔子の顔は元から知らないし、召喚士の顔もうろ覚えなので蟻は異を唱える根拠がない。何より重大なのは、目の前の二人がフェニックスを持って逃走してくれればいいのだ。そして自分は時間をかけてゆっくり王子を堕とす。このタイプは懐に入り込めさえすれば、後は情に訴えて転がせる!

長年の経験から蟻は確信していた。好き嫌いは激しそうだが、一度信用した相手を絶対に裏切ることはできない諸刃の剣だと。

重くなった空気に切り込んだのは召喚士の予想外の言葉だった。

「誰だ!?琉韻の偽物め!!正体を現わせ!!」

あまりのセリフに蟻の目が点になる。

「笑わせるぜ。こんな美貌世界に二つとねーよ。ちゃんと目ぇ開けてんのかガキ」

「不死鳥は渡さないぞ!その変態の仲間だな」

蟻にとっては好ましい展開になったが、王子は違う。怒りか屈辱か、照れているのか(蟻の希望的観測)肩が震えている。

「最後のセリフは聞き捨てならん。誰が誰の何だと?もう一回言ってみろ!!」

今にも切りかかりそうな勢いだったので蟻は後ろから王子を抱きしめて動きを封じる。

「接触禁止だと言っただろう!」

爪先を踏まれた痛みに蟻はのけぞって呻いた。

「やっぱり変態の仲間だ。不死鳥は琉韻を助ける為に必要だから絶対渡さない」

「助ける?オレはここにいるのに誰を助けるというのだ。笑止な」

「琉韻を助けるんだ。変態は邪魔するな!!」

「だから誰を助けるつもりなんだ、このバカ」

「バカって言ったな!この変態」

「誰が変態だ!いくら季緒でも許さんぞ」

放っておくと子供たちの罵り合いは延々と続きそうだったが、先に季緒が動いた。

季緒の目の前、琉韻との間にドラゴンを召喚する。鰐のような長く尖った口に鋭い牙。前脚は鷲のように鉤爪になっており、後脚はライオン、尻尾が三角形にとがり、首から尻尾までが鬣で飾られている。翼のない翼竜リンドドレイク。

「召喚士のガキはホントに王子様の連れかよ~。俺だったら連れにドラゴン召喚するような真似はしねえぜ。」

泣き言を喚く蟻を睨みつけ、琉韻は剣を抜く。ドラゴンに遮られて見えなくなった季緒に向かって大声で怒鳴る。

「本気か?!そっちがその気なら本気でドラゴンを倒すぞ!!」

援護しろと言い残し琉韻はリンドドレイクに向かって走り出した。

「術遣えないっつーの!王子!!無謀すぎる――!!」

言いながら片足で魔法円を作成し、攻撃威力を倍にする呪文を詠唱し始める。

無理だと疑っては効力は発揮しない。俺の為に王子は頑張ってるんだ!と本気で思いこんで、蟻は心を込めて詠唱する。

炎のドラゴンブレスを警戒して反復しながら一気に飛びかかる。重力と共に左前脚の付け根に切り込むが、装甲以上に頑強な鱗に弾かれて、反動で手首まで痺れる。大きく距離を取り痺れが取れるまで時間を稼ぐ。思わぬ方向からドラゴンの尻尾の攻撃にあい、琉韻の身体は吹き飛ばされそうになり、剣を地面に突き立てて耐え抜く。剣先が地面に埋まり10mほど流されてしまった。避けたつもりが鏃の先が脇腹を掠ったらしい。暖かい体液が滲む。この痛みは切り捨てる。痛くないと武道で鍛えた精神力で忘れ去る。柄を握り直した時、剣の先端から柄までが煌いた。

「王子様の攻撃力を増やしたぜ。他に何が必要だ?」

「弱点は?」

「えーっと、リンドドレイクだから、う~」

「尾の先です」

蟻とは違う上品な声色が琉韻の耳に届いた。

季緒は隣の術師の袖を引っ張って抗議した。やんわりと梔子が窘める。

「彼が偽物と確定されていません。私には彼が王太子殿下以上に殿下に見えます」

梔子の言葉に、季緒は怪しい男をしっかりと観察する。

が、見れば見るほど琉韻に見える。しかし、瀕死の状態の琉韻が頭を巡る。

爬虫類を思わせる銀と黒の冷たい眼に捕まると、身体の底から恐怖が湧きあがってくるのを抑えられない。べらぼうにデカイ上に、炎のブレスを吐き、体に剣がたたない。

恐怖を捨てられないなら受け入れるまで!!それ以上の克己を発動させるんだ!!

尻尾を捉える前に、鏃で刺されそうだな。呪文を操らないだけマシだ。

臍に力を込めて息を整え剣とドラゴンのみに集中する。他は何も見えなくなっていく。大切なものは無意識でも守ろうとする力が働くので、季緒と梔子の身は大丈夫だろう。この際蟻は無視する。周りが薄暗くぼやける中、光る焦点が視えた。そこに向かって勝手に身体が動いていく。踏み込んだ左足に力を入れ、一気にドラゴンとの距離を詰める。大きな口の牙の間からブレスが吐きだされようとした。

「ドラゴンブレスは俺に任せろ」

蟻は魔法円の中で氷弾呪文を発動し、炎の息を凍らせて砕いていく。

この山の中で氷弾を発動させる結構な術に、梔子は感心した。

細粒が陽光を反射させプリズムを発生させる中、琉韻は掴みかかろうとする鉤爪をよけながら前脚を踏んで跳び上がり鬣にぶら下がる。振り払おうと体を左右に激しく揺らすドラゴンの背中から頭部によじ登っていく。鬣は柔らかい黄金の毛だが、鱗にしがみつき移動すると爪が割れ血が滲んでくる。リンドドレイクが琉韻を振り落とそうとのけ反り空中に向かってブレスを吐きだした。降りかかる炎の滴と振りかぶって安定感のないドラゴンの額の上で鱗にしがみ付くだけで精一杯だ。血で指先が滑り、ドラゴンの頭から落下する。蟻の悲鳴が聞こえたような気がしたので

「眼を狙え!」

琉韻は蟻に叫び、何とか受け身を取り衝撃に備えた。背骨が砕けるほどの衝撃でしばし呼吸が止まる。

蟻は光集光槍でリンドドレイクの両眼を射ぬいた。傷付けられたドラゴンが暴れ回る。

琉韻は横転して地団駄を踏む脚から逃れた。すぐ様立ち上がり尻尾に向かうが、あたりかまわずに吐き散らかされるブレスに阻まれて近づけない。

季緒、許さん!と闘志を燃やし、ブレスの中を突っ切ったら意外と平気だった。姉妹がつけてくれた耐性のお陰だ。暴れ狂う尻尾を捉えるのは難しい。背中から尻尾まで鱗に覆われているが、先端、鏃の付け根だけは鱗の色が違っていた。急所と知っていて眼を凝らさなければ分らない色の違いだ。確実に捉える方法は一つ。真上から振り下ろされる鏃を受け流し、尻尾を左脇に掴もうとするが血で滑ってしまい鱗を掴めない。悪戦苦闘していると鏃が脇腹に突き刺さる。

「ぐあっ」

「ああああぁぁぁあああ!!王子ぃ!!俺の王子がぁぁぁぁ!!」

蟻の絶叫を聞きながら季緒は両手で目を覆った。琉韻と同じ顔の人物が傷付くのを見るのは流石に抵抗がある。自らが召喚しておきながら。

意識が遠のきそうだったが腹に刺さった鏃ごと抱き込んで、右手で剣を急所に向かって叩きつける。他の鱗よりもやはり柔らかい。何度か叩きつけ一気に剣先を中腹まで差し込む。

断末魔の咆哮を上げて苦しむドラゴンは我武者羅に尻尾を地面に叩きつける。尾の先を咥え込んでいる琉韻は人形のようにされるがまま地面と空中を行ったり来たり繰り返す。それでも尾を離さずに、叩きつけられる勢いと重力と体重を利用して尻尾を鏃の付け根から切り取った。

リンドドレイクが大地に巨体を横たえた。バロック山が轟音と共に揺れる。季緒と梔子は不安定な足元にバランスを取りながらも盛大な拍手を送った。

「ホントに倒しちゃった」

音もなくドラゴンの亡骸が砂のように崩れて消えていく。脇腹に刺さった鏃も消えて一気に血液が吹き出した。慌てて両手で押さえる琉韻は気丈にも立ったままでいる。

蟻は満身創痍の王子に近づき魔法円をえがいて強力な回復呪文をかけている。

魔術の助けを借りたとはいえ、剣でドラゴンを倒した誇り高き横顔に梔子は問う。

「貴方は何故不死鳥が必要なのですか。私達は切実にこれを必要としています」

「太陽を取り戻すのだ。ケット・シー達に」

蟻も初めて知った理由だった。王子様ったら動物に好かれるねぇ~。

「王子様は本物だぜ。人間は嘘を吐くけど、ユニコーンは嘘吐かねぇ」

ユニコーンに好かれる汚れなき純白童貞王子様だぜ。と口に出したら刺されそうだったので敢えて口にはしなかった。

「美麗ぞ」

重々しく荘厳な声が聞こえてきて、琉韻と蟻はまた幻獣か?と辺りを見回す。

召喚士の小さな身体が震えて、二重にぶれたと思ったら、長身な男の姿が現れた。かなり不健康な顔色で極細だった。高い身分を思わせるほど高貴な顔立ちは端正と表現できる。

「スゲェ、大物だぜ。地獄の大公爵アスタロト公だ。ユニコーンが嫌がる筈だぜ」

俺だって嫌だと呟く蟻の声を聞きながら、琉韻は男の侵せざる雰囲気と禍々しい美しさが彼女に似ていると感じた。やはり闇の眷族なのだろうか。

「我はアスタロト。汝、名は」

「る」「あ―――――!!!」

季緒と蟻が同時に大声で叫ぶ。

「悪魔に名前教えちゃダメだぜ!そいつに支配されるぞ」

「そうだ!琉韻と同じ顔した人が取り付かれるのは何か嫌だ」

「……オレの名は続きがあるので、知られても支障ないと思うが」

「えぇっ!?」

今度は梔子も声をあげて驚いていた。喫驚する三人をよそに琉韻は名を告げる。

アスタロト公は琉韻に近づいて何か話しかけている。季緒も梔子に話しかける。

「今の内に逃げましょう。中の人も出て行ったからオレ走れます」

「そうですね。早く地下室に戻ってどちらがご本人か確かめましょう」

二人がこっそり走り去る姿を蟻の眼は捉えていたが、これ幸いと琉韻には教えなかった。

そのままフェニックスと共に永久に行方不明になってくれと祈る。

王子はアスタロト公から質問攻めにあっていた。蟻も聞き耳をたてる。

「琉韻は馥郁薫る。魔族を迷わす芳香ぞ」

自分よりも背が高い魔人が首筋に顔を近づけてくる。琉韻は半歩横へずれてかわした。

「これは、乳香樹の山で、あっ!いないぞ!!」

「あらら~。逃げられちゃったな~。何だよ、俺だって公爵に気を取られて気付かなかったんだぜ」

睨んでくる紫眼に言い訳を返してその場を誤魔化す。その間に王子は走り出してしまった。

「元気だなぁ王子様は」

アスタロト公が空中浮遊で移動を始めた。

「うわっ卑怯。自分だけ楽しやがって」

走る王子の横をピッタリとマークする魔人に嫉妬心が湧きあがってきたので蟻もダッシュした。

短時間で下山を終えた一行は術師と召喚士の姿を探すが、影すら見えない。

「空間移動したな。王子様、どっかめぼしい場所、知らねーか」

盛大に息切れしながら必死に話す蟻とは対照的に琉韻は息切れすらしていない。

「知らんな。心当たりもない」

真剣に探す気がない蟻が、適当に術を遣うフリをして、妨害されて追えないと悔しそうに呟く。琉韻は腕を組んで黙考する。

「季緒の居場所は我が悟れる。よろしいか」

差し出された病的に白い手を琉韻は握った。繋いだ手の中から発生した闇が二人を包み、小さな点になって闇は消えた。

「ここは…」

蟻と会った場所、神殿通りである。左の小指が蟻に握られていたので振り払う。

「王子様は俺と契約してるんだからな!!二人っきりにはさせないぜ」

訳の分らない事を言う馬鹿は放っておいて、アスタロト公にエスコートされるまま一際大きな神殿の中に入る。

祭壇のタペストリーを引き裂き、床から地下道を出現させた。アスタロト公は一瞥しただけでこの流れをやってのけた。数分前に梔子が脱力する呪文を唱えた個所である。先導されて階段を下りる。暗い足元を踏み外さぬよう炎球がそこかしこに浮かぶ気配りっぷりである。

「踏み外しても助けてやらぬぞえ」

「そんなに愚鈍ではない」

ヤバイヤバイヤバイヤバイぞ!この危機的状況はヤバイぞ!古今到来、優等生は影があるミステリアスでちょっと冷たく不良的で、俺は他とは違うんだ。って雰囲気を醸し出してる奴に弱いんだよ~!マズイ!王子様がほだされる~!二人の後ろで蟻は頭を抱える。

重々しい扉が目の前に立ちはだかる。琉韻が開けようと押すがびくともしない。

「俺がやる。下がってろ」

蟻は扉の前に立ち、呪文詠唱を始めた。長々と続く詠唱に、琉韻は腕組みしたままの指を手持無沙汰に動かし始めた。

「解錠発動!!」

堂々と言い放つ蟻の隣で琉韻が再度扉を押す。

「開かないぞ。ふざけているのか」

「はぁ?!そんな訳ねーだろ」

魔人に負けまいと本気モードだった。乱暴に扉を蹴り付けるが開かない。

蟻は振り返りアスタロト公にいちゃもんをつける。

「ホントにここに居るのかよ。大公爵様が間違ったんじゃないのか」

アスタロト公が扉に手を翳すと、それが合図であるように扉が開いた。

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