第2話

重い瞼を開けたらいつもの天蓋が見えた。首を動かすと睡蓮の頭が見えた。

ベッドに突っ伏し眠っているようだ。

「生きてたか」

起き上がろうとするが腰に激痛が走る。

「!!琉韻様」

苦痛に動けない琉韻に気づいた睡蓮の顔は心なしかやつれていた。

「早く、陛下に報告を」

控えていた数人のメイドに声をかける。

「お前、酷い顔だぞ」

「三日三晩人事不省でらした方に言われたくないですね。美貌が台なしですよ」

「ウルサイ。皆は無事か?」

「はい。来賓も騎士団も聖祈塔の者にも怪我はありません。琉韻様を襲った者達は捕えましたが奥歯に仕込んだ毒物で自害しました」

「そうか、無事で何よりだ。身元は洗えなかったんだな」

「はい。申し訳ございません。式典はその副神官が取り計らいまして広場での披露目も無事に済ませました。国王陛下へのご挨拶は3名揃っての方がいいとまだ行ってはおりませぬ」

「季緒は無事なのか?」

饒舌だった睡蓮の舌が止まる。瞬きの時間が流れた。

「はい」

「ここへ」

「無理です。彼も怪我をしまして絶対安静です」

「そうか」

睡蓮が無表情なのはいつものことだった。なので気にせず琉韻は眠りに落ちた。

徐々に違和感に気づく。

何日過ぎても一向に季緒の姿が見えない。誰に尋ねても療養中と決まり文句のような答えしか返ってこなかった。

「ご加減はいかがですか。琉韻王子殿下」

豪華な花束よりも華美な笑顔で那鳴が見舞いにきた。

ベッドで国々の歴史書を読んでいた琉韻はつまらなそうにページを閉じる。上半身を起こせるようになったがまだ歩けないのだ。

下がれと、メイド達に手を振り室内は二人だけになった。

「頼みがある」

「何なりと殿下」

「斜め向かいの部屋に誰が寝ているか確認してくれ。誰にも気づかれないように」

辺りを確認し那鳴は王子の部屋を出る。鍵はもともとついていないので難なくドアが開く。

簡素な部屋だった。誰か寝ている風に言っていたが小さなベッドには誰も寝ていなかった。それどころかしばらく使われた形跡すらみあたらない。

「キャッ」

振り返るとドア口にメイドが立っていた。

「聖騎士様、どうしてこの部屋に」

「不審な物音がしましたの、どうも気になってしまって。何だったのかしら」

「そんな…この部屋は誰も使っておりませぬ」

「そうかしら?何着かの服も仕舞ってあるし置いてある本も新品ではない。何よりも生活の匂いが残っているわ。ここは誰のお部屋?」

笑顔を崩さぬまま有無を言わせぬ迫力の那鳴にメイドは囁くように答えた。

「季緒殿です」

その名前に心当たりがある。馬に揺られずっと泣いていた小さな子。式典で幻獣を召喚し、たった一人の世継ぎの命を救った者。

「あの子はどうしたの?」

「聖騎士様、季緒殿をご存じですか?!」

「ええ。仲がいいのよ。しばらく姿を見かけないから心配になって」

悲しげに瞼を伏せる姿にメイドは心打たれたようだった。

「誰も、いらっしゃいませんでした」

告げた言葉が王子を大いに落胆させた。

「しかし居場所は分かりました。季緒くんの」

「本当か?!」

那鳴の報告に琉韻は無理やりベッドから出ようとする。

「無茶をしてはなりませぬ殿下」

「くっ、動かぬこの身が疎ましい!!」

真っ赤になって苛立つ姿が痛々しく思えて那鳴はある事を思い出す。

「最近ですが、聖祈塔へ魏杏国から桔梗院が派遣されたようですわ。桔梗院といえば魔術を使う術師の一派。もしかしたら癒しの術も使えるかもしれません。使えるようでしたら連れて参ります。ただし、殿下への謁見は私でもこんなに時間がかかりましたの。特に睡蓮が口煩くて敵いませんでしたわ。また参りますので、その時に方法を考えましょう」

琉韻は力なく是首する。自分ができるのはそれだけだった。

深夜を回ったころ、呼びかけられて眼を覚ます。

「?那鳴、どうやってここへ?」

「魔術です殿下。ついでに塔の方々も深い眠りに就いていただいております」

那鳴の後ろに見知らぬ人物が立っていた。長身でやせ過ぎな体躯だが、穏やかな微笑みは親愛の情を抱かせる。允では見たこともない服装をしている。

「梔子と申します。王太子殿下。どうぞお見知り置きを」

重ねた両手を目の高さに掲げ目礼する。このやり方は術師特有の挨拶である。身体に幾重にも布を巻き付ける服装も術師独自のものだ。

「この方は空間移動術も扱える高度な術師殿でしたわ。ここまで梔子殿のお力を拝借しましたの」

「それはそれは」

素直に琉韻は感心した。

「失礼いたします。王太子殿下。お身体を拝見」

上掛けを取り、梔子は琉韻の腰の上に両手を翳した。ジワジワと染み込むような熱が掌から伝わってくる。琉韻の身体をうつ伏せにして直接傷口に掌を当てる。眼を瞑り集中している梔子の額に汗がにじんできていた。一瞬、身体が浮いて急降下した感覚に襲われて思わず琉韻も瞼を閉じる。

「処置いたしました。もう大丈夫でございます。しかし、普通の傷口ではありませんね。なにか呪術のかかっている剣での傷でございますか?」

祝福の剣で刺されたとは口が裂けても言えない二人であった。

ベッドから降りて数歩踏み出し室内を走り回った琉韻は喜悦満面で術師を褒め称えた。

「素晴らしい梔子殿。感謝の言葉も尽きぬほどです」

「よろしゅうございました。それでは目的の場所へ移動いたしましょう。私は見知らぬ場所には移動できません。場所を知る方の手助けが必要なのです」

梔子は琉韻の両手を握った。

「さあ、思い浮かべて下さい。我々が向かう先を」

琉韻は眼を閉じて、西塔の地下牢を思い浮かべた。


見回りの兵士は地下三階から地下一階の待機室へ戻ると仲間に声をかける。

「異常なし、だ」

「ああ御苦労さん」

二人は座ってお茶と菓子を頬張った。

いつもの様に静寂に包まれた夜である。いつもの様に何事もなく早朝交代の兵士に引き継ぎ事を話せばいいだけだ。静寂が突然の靴音にかき消された。

「何奴?!」

兵士たちは剣を抜き身構えた。音のする方向から白い制服が見えてくる。

「聖騎士様?!」

こんな場所に、こんな時間に、最も不分相な白く貴い姿があった。

目を丸くする男たちに那鳴はさも当然のように命ずる。

「最近、子供が連れてこられたわね。案内なさい」

「いえ、しかし、それには許可が必要でして」

言い淀む兵士達に、凛とした声が降る。

「誰の許可がいるか。言ってみろ!!」

那鳴の後ろから暗闇でも煌々と輝く美貌が現れた。

黒い髪、紫色の瞳。透けるように輝く肌。その容貌を知らぬ者はこの国には居ない。

夜着のままだったので那鳴から借りた外套を身体にまとっている。それでも体中から発せられる彼の気品は失われてはいなかった。

「王太子殿下!!」

兵士たちは剣を納め即座に額づいた。

「答えろ、誰の許可が必要なのだ」

怒りを露にしている声が兵士たちを困惑させた。

「恐れながら申し上げます殿下。螺紅大臣の許可が必要であります」

琉韻は鼻で笑う。左手を腰に添えて王家の貫録全力投球で言い放つ。

「オレが許可する。案内しろ」

4人は先頭の兵士が持つ灯りだけを頼りに湿っぽい階段を降りる。

こんな場所に季緒を押しこんでいたなんて…

腸が煮えくり返るとはまさにこのことだ、と琉韻は拳を握りしめた。

地下三階の最奥、光が全く射さない場所で両手両足を縛られ、胎児のように身体を丸めて倒れている小さな姿があった。

「季緒!!なんという事を…早く、ここを開けろ!!」

鉄格子を握りしめ急かす琉韻の隣で那鳴も憤りを隠せなかった。

こんな小さな子に、何て仕打ちを。

震える手の兵士から鍵束を奪い、一本ずつ鍵を嵌めこんでいく。ガチリと音がして牢の扉が開いた。

「季緒!!」

琉韻が抱き上げても小さな身体は何の反応も示さない。心臓に耳をあてたら微弱だがゆっくりとしたリズムが聞こえてきた。抱き抱え階段を駆け上る。その背中に那鳴が叫んだ。

「ここはお任せ下さいませ。どうぞ季緒くんを」

言い終わらない内に姿は見えなくなった。大きく息を吐いた那鳴は怯えている兵士に極上の笑みを向ける。

「知っていることを、全部話して頂けますわね」

地下から出てきて自分を探す王子の姿を見つけ、梔子は隠れていた木陰から姿を現した。

「王太子殿下、こちらです」

「季緒は死ぬのか?」

王子の腕に抱かれている子供の頬に触れたら、氷のように冷たかった。

「体温が低下しております。早く暖かい場所へ」

「オレの部屋へ、早くっ」

梔子は蒼惶する王子の肩を抱き、豪華な私室を思い浮かべた。


会議は午前中、早い時間に行われた。場所は西塔5階。螺紅大臣が席に着いたところで会議は始められた。

「あの子供はどうしている?」

大臣は隣の兵士隊長に尋ねる。隊長は口ごもりながら事実を話す。

「それが、ですねぇ。消えてしまいました。今朝、地下牢へ行ったら見張りの兵が昏倒しておりましてですねぇ、何も覚えてないと…」

「何だと!!あんな危険な子供を野放しにしたのか!!グラウリル!!聖騎士団長の名をかけて、あの子供を探し出せ!!」

大臣は向かいに座る聖騎士団長グラウリルに檄を飛ばした。グラウリルはゆっくりと立ち上がりまっすぐ、大臣を見返した。

「本当に必要なことでしょうか。あの子は殿下の命を救われた、いわば英雄です」

「ええいっ!黙れ」

大きな音でドアが開かれた。入室した人物に皆が瞠目する。

「東塔の、季緒に関する事なら、オレの権限だ。勝手な事は許さん」

「王太子殿下!!」

ただ一人を除いて、着席していた者が我先にと立ち上がる。琉韻は中央まで進み、座っている人物に目を留めた。

「何をしている!殿下の御前だ」

大臣に促され立ちあがった人物は優雅に微笑んだ。

両手を目の高さに上げながら王子に向かって挨拶をする。

「初めまして王太子殿下。魏杏国から参りました桔梗院梔子と申します」

差し出される手と握手を交わし琉韻も微笑んだ。

「琉韻という。宜しく」

さて、と言い王子は面々を見渡した。気まずそうに大臣は視線を避ける。王子の着席を合図に全員も倣う。

「螺紅大臣、何故季緒を地下牢に閉じ込めた。その理由がききたい」

「殿下、私はそのような事は…」

「式典の夜、意識の無い季緒の手足を拘束し放り込んだそうだな。大臣とそう、そこのお前だ」

琉韻に指さされた兵士隊長は真っ青になった。

「それは、大臣のご指示でして、私は従っただけで…」

「承諾した時点でお前も共犯だ」

「共犯ですと?私が罪を犯したとでも?危険人物を隔離しただけです!あの力は危険すぎる。我が国にとって災いとなるに決まっている」

「災いと決めるのは誰か。大臣でもなければ勿論オレでもない。季緒本人だ。そして季緒はオレを裏切る事は絶対ない。何よりもオレの命の恩人だ。お前達それを忘れるな」

グラウリルが口を開いた。

「王太子殿下、何故そこまで彼を気にかけるのですか?」

「オレが命を救った、だから最後までオレに責任がある。それでは不服か?」

いいえ。とグラウリルは首を振る。

「彼は我ら聖騎士の守護神でもある高貴なるグリフォンを召喚し、王太子殿下をお救いした英雄です。私個人の意志ですが、ここに王家と共に彼へも忠誠を誓いたく存じます」

あの場所、あの場面でグリフォンを召喚してみせた季緒のセンスはなかなかのものだ、と琉韻は感心した。

目が覚めたら褒めてやろう。


東塔へ戻る琉韻に追いつき、梔子は一緒に中庭を歩く。

「間に合ってようございました。私は昨日允国へ到着いたしました。先ほどの大臣殿に地下牢の一房へ結界を張るよう依頼されておりました」

「結界?」

「ええ。中に居る者が二度と出て来られない程強力な結界をと依頼がございまして私が参りました。まさか召喚士様を閉じ込める事になろうとは」

「あのハゲ、殺してやる」

息巻く王子にまぁまぁ、と梔子は宥めた。

「昨夜遅く到着いたしましたので、本日のこの会議の後に大臣殿と地下牢へ向かう手筈でした。本当によかった」

「何故、力を貸して下さった?」

梔子は何かを思い出すように笑みを浮かべた。

「美しい方のお願いは断れないのです。ましてや私の前で膝を折った女性の頼みを断ったりすれば、落雷に焼かれてしまいますよ」

「那鳴が…」

自信過剰で、腹黒い女と思っていたことを琉韻は後悔する。

「王太子殿下は良き友をお持ちでいらっしゃる。ところで召喚士様はお目覚めになられましたか」

「それがまだ」

「よろしければ、お見舞いに伺っても宜しいですか?私も召喚士様に興味があるのです」

「頼む。ぜひ来てくれ」

東塔、王子の私室の前で睡蓮が右往左往していた。

「琉韻様、その方は?」

話しかける睡蓮を無視して部屋に入る。仕方なく梔子は会釈して睡蓮の横を通りドアを閉めた。主従は冷戦状態に入っていた。

琉韻の徹底的な無視でこのドアの先は睡蓮立ち入り禁止となっていた。何故隠したという王子の問いに睡蓮は答えられなかったのである。

季緒が王子に危害を加える心配はない。万が一あったとしてもあの子供であれば容易く王子は回避できるだろう。しかし、召喚士となれば別である。間近でみてしまった恐ろしい力。

大戦後、他の召喚士が殲滅させられた理由も今ならば理解できる。危険すぎるのだ。幻獣相手など、誰が太刀打ちできようか。そんな睡蓮の心配と不安を王子は全く理解しようとしない。ただただ、小さな子供の身を案じているのである。

確かに、季緒は琉韻様の命の恩人ということにもなる…

睡蓮は扉に向かって肩を落とす。

「どうだ?目覚めたか?」

「殿下。お帰りなさいませ。全く…」

季緒の身体を拭いていたメイドは一礼する。季緒が最も懐いていたメイドで、那鳴に真実を教えたのも彼女であった。

「もういい。退がれ」

扉を閉めるメイドに梔子は御苦労さまと微笑んだ。隙間から真っ赤になった耳が一瞬見えた。梔子は子供の額に掛かっていた前髪を梳いた。

「以前、何人かの召喚士様と交友がありましたが。この子は私が知っている女性に似ています。特に眉毛が」

眉毛?と琉韻は森の小屋を思い出す。

「母君は確かに、美人の部類に入るだろうな。とても気丈な方だと見受けたが、眉毛はどうだったか分からない」

「キオ。という名前なんですね。この子は…」

梔子の眼差しがやけに慈愛に満ちている。まるで生き別れだった我が子との再会を喜ぶような。

「季緒は父君を一切知らなかった。もしかして貴方なのか?」

「桔梗院の者は生涯独身を貫きます。恋だの愛だの一時的な感情はご法度ですよ。そんな事より術の精度を磨くことの方が大切です」

そういうモノなのか…と一時的感情をまだ知らない王子は思う。

オレも、もっと強くなる方が大事だもんな。結婚もどうせどこかの姫君と政略結婚だ。

最近やけに他国の姫君の肖像画を見せられる事が多い。15歳なら一人前ですとしつこく言われていた。どの画を見ても同じ顔に見えた。

つまらんな。

「う…誰?」

大きく開かれた黒い瞳は潤んでいた。そこに見知らぬ男の顔が映り込んでいのを不思議に思う。この人知らない。

「目が覚めたか?季緒!!」

飛びついてきた琉韻を認めてぎこちなく微笑んだ。

「夢…かな?」

何が?と琉韻は優しく聞いた。

「琉韻が、死んだかと思った」

「バカなことを。オレは季緒より先に死なないぞ。だから季緒もオレより先に死ぬことは許さん」

めちゃくちゃな持論だが、わかった。と季緒は喜んだ。

「礼を言わなければ」

琉韻は季緒の額と頬と唇にキスを落とす。

「我が命の恩人だ。ありがとう」

季緒は心地よさそうに目を閉じた。

「紹介がまだだったな。彼は」

振り向くと真っ赤になっている梔子と目が合った。

「どうした?」

「いいえ、その…王太子殿下のくちづけがあまりにもサマになっていたというか、その、美しかったものですから…見ている私の方が照れてしまいました」

「好意を持っている相手への感謝の意は、惜しみなく態度で示せと怜之から教わった。怜之とは睡蓮の母君だがオレの育ての母でもある。何かおかしな点でもあるか?」

滅相もないと梔子は頭と両手を振る。

これから先、無意識に王子が流すであろう浮名の数々を思い、梔子は心配する。


三顧の礼と徹底的な謝罪。やっと琉韻の許しを得た睡蓮だったが、これから告げなければならない内容で、再度琉韻の怒りを買うと想像すると歩みに力が入らない。

オレは許さん!!と怒髪が天を突く姿が容易に想像できる。

「失礼します」

大きな扉の中では琉韻と季緒が枕を投げながら走り回っていた。目覚めてから3日後、季緒は走れるまで回復していた。これは梔子の力が大きい。彼が自己治癒力を呪術で力添えしてくれたのだ。

いつもなら大声で叱責する口煩い従者が口出ししないのが異様だった。

「何事か、言ってみろ」

問い詰める様な口調に、ゆっくりと睡蓮が口を開く。

「よく聞いてほしい」

睡蓮の視線を受けて、季緒は勢いよく頷く。

「君は今から聖祈塔で暮らす事になる。桔梗院梔子様を覚えているかい?彼が後見人になることが決まった。桔梗院様のご指示の元、君の強力すぎる力のコントロールを覚えてほしい、いいですね?」

青天の霹靂ともいえる宣告に季緒は目を丸くして声が出なかった。

「何だと!!オレは許可してないぞ!!」

「国王陛下のご英断です。覆すことは許されません。御理解下さい琉韻様」

「……………」

悔しそうな紫の瞳で睨まれて、居た堪れなくなる。

申し訳ありません琉韻様。これも季緒の為です。

俯いた季緒の肩を抱え、部屋を出る。扉が閉まる音を聞きながら、琉韻はいつまでもいつまでも俯いていた。拳を握り締めながら。

「荷物はこれだけですか?」

「うん…あ、その本も!!全部琉韻がくれたものだから」

本棚から5冊取り出し布袋に入れる。文字の練習帳や国の歴史書だった。それに着替えも全部入れて、二人は季緒の部屋から出る。すぐそばに琉韻が立っていた。

「送る」

と少年と子供が並んで歩きだす。二人の間で会話がないのが余計に睡蓮の胸を締め付けた。

聖祈塔の前では梔子が手を振り、大神官メシドが恐縮しながら礼をしている。

「聖祈塔と騎士塔は近い。会いに行く。抜け出してでも。これは別れじゃない。いいな」

涙目で頷く季緒の頭を琉韻は撫でた。

「今の台詞は、きかなかったことにいたします」

笑う二人をみて、睡蓮はほっとした。

「確かに、お預かりいたします王太子殿下」

「よろしく頼む。オレの弟だ。厳しく躾けてくれ」

「えっ?!厳しく?ヤダよ」

「当然だ。オレはこれからギチギチの規則生活だからな。季緒もギチギチになれ」



「ここ、この道から進むと行けるんじゃないか?」

「いや、これは罠だ。行き止まりだ」

「じゃあこっち。ここで右に行って、え~っと」

「琉韻様!!琉韻様」

睡蓮の声に二人の身体は反応した。

「気付かれたか。またな」

「うん。じゃあね」

走り去る季緒の後姿を見て、髪が伸びたと思う。短かった髪が肩まで伸びている。

日の光で見ると黒じゃなくて薄茶だな。瞳は真っ黒なのに。

自分の髪も随分伸びた。今は腰まで伸びている。伸ばす気はなかったが、嗜みと説得されて仕方なく放置している。成長期でお互いが伸び続けたため身長差は未だに変わらない。

「やはり、こちらでしたか」

「ちゃんと今から騎士塔に戻るぞ」

「いえ、陛下の政務室へお向かい下さい。重要なお話があるそうです」

琉韻の頭に政略結婚の文字が浮かび、憂鬱になる。今年に入って何度目だ?覚えているだけでも両の指を軽く超えていた。


「季緒」

聖祈塔に入る際、掛けられた声に足が止まる。

どこから出てきたのか梔子も塔に向かい歩いてきた。

「王太子殿下とご一緒だったのですか?」

「…はい」

消沈し小さくなる姿が可愛くて思わず頭を撫でる。

「悪いことでも叱るべきことでもありませんよ。今は自由に使える時間なのですから」

梔子はそう言ってくれるが、琉韻と会う事を皆が良く思っていないことを季緒は知っていた。それでなくても自分に対する態度がどこかよそよそしい。3年前のあの式典の日からだろうことは季緒にも分かる。しかし、自分は一切覚えていないのでどうする事もできない。

ただ一つ、梔子から「召喚士という貴方の特別な力を操る事ができれば、王太子殿下も周りの皆さんも喜んでくれますよ」と言われたことを励みに呪術や魔術の基礎を学んでいる。

今では初級程度の回復呪文を発動できる。癒しの魔術は健全な精神と共に、を徹底する梔子の元ギチギチとまではいかないが、規律ある生活を送っていた。その中で最も楽しみにしているのが琉韻との密会である。季緒以上に規則に縛られた生活と実戦での訓練を怠らない聖騎士は基本的に外部との接触を禁じられている。琉韻は王太子という立場上、王宮と行き来する必要がある。その僅かな機会を利用しているのである。

さっきまでは琉韻が持ってきた王宮の地下通路の地図を解読していた。平和が蔓延するこの時世、誰に尋ねても地下通路を隅々まで把握している者が皆無だったと琉韻は腹を立てていた。王宮に長く住んでいる相談役の大老ですら知らなかった。彼曰く、雅羅南城が攻められた時の緊急脱出通路なので、歴史上雅羅南城が危機に瀕した事実はなく、これから先もあり得ない。よって、永久に使われる事はないそうである。「国を背負って立つ者達が平和ボケなど許されることではない。今攻撃されてみろ、王宮は壊滅だ」と息巻く琉韻に付き添って、地下通路の探索に行く約束を交わした季緒である。

「古文経典法の暗唱はできそうですか」

全109ページに及ぶ経典の暗証を明朝の祈りの儀で披露しなければならない。伺うように覗き込んでくる梔子に

「大丈夫です。全て覚えました」

元気よく答えると再び頭を撫でられた。

「季緒は努力家だ。直向きな情熱はいつか大きな花を咲かせるでしょう」

イイ子イイ子と撫でられて季緒は赤面する。首筋まで赤い。

その時、季緒と梔子の間で何かが弾ける音がした。梔子は思わず瞠目する。

「わっ、わぁぁ!何で出てくるの?!帰って帰って」

炎を纏った小型のトカゲが二人の間で一回転して季緒の右肩に留まる。

「サラマンダー…」

梔子の呟きに答えるようにトカゲは小さな火の塊を吹いた。

紅蓮の炎を纏い、四大精霊・火に属する幻獣。パチパチと季緒の肩口から炎を飛ばしている。平然とする季緒に梔子が問う。

「熱くありませんか」

「大丈夫です。不思議なんですけど炎に触っても熱くないです。装束も燃えないし」

手を伸ばした梔子の指先が炎に触れた途端、痛みが走り顔を顰めた。慌てて季緒が回復の呪文を唱える。

「すみません。やっぱり桔梗院様でも…」

「召喚、しましたか?」

「いえ、あの、時々勝手に出てくるんですこの子。琉韻はマダラって呼んでます」

なるほど、小さい身体は黒と赤の斑模様だった。

高まる感情の行き場がなくなり無意識に幻獣を召喚していたのだろう。

「王太子殿下も?」

季緒は何を思い出したのか笑いだした。

「琉韻はマダラを鷲掴みして、凄い火傷をしました。3回ぐらい回復呪文をかけたんです」


遅くなりました。と一礼し、琉韻は騎士団の練習に加わった。

いつもに増して鬼気迫る動きを見て、絽玖は昨夜父親から聞かされた件だと思い至る。

今年絽玖も聖騎士団へ入隊した。政治の道へ進めと言い張る父親への反発もあるが、従兄弟への対抗心でもある。

「お疲れ様」

練習終り、自室へ向かう途中に掛けられた声を聞き流して琉韻は歩き続けた。今年から毎日顔を合わせることになった従兄弟にうんざりしていたのである。そもそも聖騎士に入りたかったというのも初耳であった。剣の訓練として騎士塔を利用していただけのはずである。必ず聖騎士入団が義務付けられている自分と違って、絽玖なら別な道を十分選べたにも関わらず。

「お疲れ様兄上」

お前の兄になった覚えはない。

「あの子も兄上と一緒に出奔するなら喜ぶでしょうね」

立ち止まる姿に、やはりと絽玖は確信した。

「未だに冷戦が続いている芭荻国への王手に使うお考えでしょう。唯一現存する召喚士の脅威を植え付けるとは国王陛下の怒りは未だに消え失せていないのでしょうね」

「お前には関係ないだろう」

「いいえ。私も出奔いたします。どうぞ宜しく兄上」

再び歩き出した琉韻の後ろでは絽玖が笑みを浮かべていた。

騎士塔3階の自室に戻った琉韻はベッドに倒れ込んだ。チェーンメイルがガチャガチャと耳障りな音をたてた。通常騎士の部屋は4人部屋だった。団長、隊長はそれぞれ個室が与えられているが、琉韻も個室であった。同室になった騎士たちが何かと気を使うのと微かな身の危険を感じた為の措置である。180cmを超えた男を襲うなどと琉韻も高をくくっていたが、ここは騎士塔である。無駄な肉が無く長身の割には着やせして見える琉韻に力任せでコトに及ぼうとする輩もおり、もちろん剣で返討ちにあったのだが。秋波も絶えず送られていたので個室になった。一騎士の身で隊長と同じ環境にはなれぬと物置を選んだのだった。この部屋は外壁に螺旋状についている階段に最も近い場所で、抜け出すにも都合が良かった。

国王からの勅命であった。召喚士を連れ芭荻国と親交を深めてこいと。

3年前、各国来賓の前で姿を現した幻獣は脅威として世界中に轟いた。唯一の召喚士を抱え持つ允国は最強だと囁かれている。恐れをなした隣国は事もあろうに天塔圏の者を招き、攻撃の機会を虎視眈々と狙っているという諜報の報告があった。芭荻国への明らかな脅しである。王太子である自分が直々に聖騎士団と共に足を運ぶのだから嫌がらせにも程がある。

天塔圏。国を持たない術師の集団である。負の魔術を使い殺戮と破壊を信念に世の静粛を行う他、実態は不明である。季緒と出逢ったその日から、密かに天塔圏を調べていた琉韻だが王太子の権限を持ってしても実態はようと知れなかった。

季緒の母君の仇だ。

出立は明後日の深夜。原因は追究して白日の下明らかにするに限る。15年前の大戦が未だに緒を引いているのが悪いのだ…


中庭には国王、大臣、聖騎士団、大神官、梔子と季緒が集まって出立の儀式をしている。

今回の選抜人員は琉韻、季緒、ファイ副団長、那鳴隊長、絽玖、他5人の聖騎士と睡蓮、梔子である。王太子の立場で向かう琉韻は国王へ最も近い祭壇の下で礼を取っている。その斜め後ろに季緒と梔子、その後ろにファイ副団長と続く。

メシドが与える祝福を頭に受けた面々は馬車と馬を駆り旅立った。

「梔子殿も一緒とは思わなかった。もしかして季緒のお守か?」

「回復呪文を使えるので、もしもの時にお役に立てたらと思いまして志願しました」

「桔梗院次期頭領との名が高い方のご後援痛み入ります」

深々と頭を下げる睡蓮に、私なんかがとんでもないと梔子は謙遜する。

「次期頭領か、それは凄いな」

4人が馬車に乗り込み、御者は那鳴、他の騎士団達が馬に乗り場所を取り囲むように一行は国境を目指す。

「一つ、解せない事がありまして」

「何だ」

睡蓮は声を潜めて話し始めた。

「琉韻様が総代というのは解ります。しかし琉韻様がいらっしゃるのに何故絽玖殿下までご一緒なのでしょうか。絽玖殿下は第二王位継承者です。王太子と第二の継承者が一緒に出立するとは、甚だ理解に苦しみます」

琉韻はムッとする。

「オレが芭荻に斃されるとでも言うのか、失敬な」

「いえ、あくまで仮定の話です。桔梗院様も季緒も一緒ですので万が一もないとは思いますが、相手は芭荻国ではなく天塔圏とお考えください。もしかすれば芭荻国王は天塔圏の者の傀儡に成り下がっている危険も十分考えられる範疇かと」

天塔圏という単語に季緒が反応した。

「不吉な名前ですね。実は桔梗院と天塔圏は未だに戦いを続けているんです」

3人は梔子の話に真摯に耳を傾けた。

世の中で魔術が生活に溶け込んでいたころ、一人の人間がより強力な魔術を求め研究を始める。徐々にその元に同士が集い名もなき集団を構成していった。魔法書に書かれている術だけでは飽き足らず禁呪とされる書物に手を出し神をも超える力を手に入れようと、欲望に自縄自縛される。それを諌めた者との間に亀裂のように走った溝はあまりにも深く、集団は手の届かない彼方を求め続けて誰の声も耳に入らなくなった。暴走する者達とそれを止めようとする者達それぞれに信奉者が付き始め、一つだった集団は分裂する。それが天塔圏と桔梗院である。

「世界に陰と陽があるように、樹木が光へと登れば登るほど根は暗い地中へ向かうように。ある種必然的に仕組まれていたのかもしれません。天塔圏の創始者で最高権力者、世界最高級の術師と悪名高いミューレイジアムロイヤルファムエトは」

ニューレイジアム?

長ったらしい難解な名前に琉韻と季緒は舌を噛みそうになった。

「あまり聞かぬ名だな。ニューレイとやらはどこの出身だ」

「ミューです。ミューレイジアムロイヤルファムエト。確か、允王国です」

馬車を揺らすほどの絶叫が響き、那鳴は驚いた馬の制御を咄嗟の反射神経で立て直す。

「何かありまして?」

「申し訳ありませぬ。お気になさらず」

睡蓮が小窓から顔を出して謝罪する。

「允だと?!悪の権化が我が国出身と?!」

「はい。今でこそ魏杏国が術師大国のように言われておりますが、もともと允王国は術師の国と呼ばれておりました。ミューレイジアムロイヤルファムエトが魔術の研究を始めたのも允です。自分の立場もわきまえず神に近づこうとした愚かな行為は允国王の逆鱗に触れ、ミューレイジアムロイヤルファムエトは国を追放されました。その際に命にかかわる傷を負い悪魔と取引をしたとも言われています」

悪魔、悪魔…呟く琉韻は梔子に確認を取る。

「悪魔も幻獣だな?」

「大きな分類ではそうなりますね」

季緒、と隣を向く。

「悪魔を召喚してみろ。そしてミューなんとかを滅ぼしていただこう」

あぁ、と心得る季緒に梔子は苦笑する。

「悪魔と契約の件はあくまで言い伝えでしかありません。それに契約を破棄するには本人かそれを上回る力を持った者でなくてはなりません。悪魔の方から契約を破棄することもありません。……私でも頭領でも難しいと思います」

期待に満ちた子供たちの視線に謙虚に答えた。激しく落胆する二人に睡蓮も心なしか悲しそうな視線を送っている。

しかし、と琉韻は顔を上げる。

「皮肉なことだな。術師の国と呼ばれておきながら、今や魔術を使えるものは神に祈ることしかしていない。歴史書にも魔術が盛んだったとは書かれていなかったぞ」

「人々は目に見える物しか信じられなくなり、世は平和になった。善き事だと思います」


一行は国境の允国領地で野営をし明朝一気に国境を抜けた。

芭荻王国は花々が咲き乱れ豊潤な作物を与えてくれる允王国と比べると赤茶けた大地が目立つ。奇襲に役立つ森も少なく領土の大半が海に面しているため海軍が抜きんでて統御されていた。

一行を待っていた芭荻国王の使いを先導に半日かけて王宮へたどりつく。

腰が痛いとボヤキながら琉韻は案内されるまま迎賓館で最も大きな部屋に入る。ベッドに身を投げ出してスプリングの反動に身を任せ揺れているとノックの音がした。入室を許可すると酷く疲れた顔をした季緒がベッドの縁に腰かける。

「何か、嫌なカンジがする。桔梗院様がこれを琉韻にって」

渡された護符を胸元にしまい込んだ。

「昨日琉韻が悪魔を召喚って言ったろ。実はまだ特定の幻獣を召喚ってできないんだ。その時その時で何がくるかわからない」

「無意識なのか?」

「違う。意識はちゃんとある。ただ思うだけ。召喚って頭に浮かべると身体中の血が逆流したみたいになって気がつくと召喚されてるんだ。…これって無意識?」

「気がつくんなら無意識だろうな。マダラはあいつの方から勝手に出てきてるだけか、あいつ触れそうな気がするんだよな。今呼んでくれ」

季緒は過去最多の12回、回復呪文を唱える事となった。


梔子は宮殿内にある外庭の土に触れてみた。陰の気に満ちている。これでは植物も育たないだろう。視線を感じ立ち上がると城内に続く扉の前に女が立っていた。16、7歳の少女にも初老を迎えた女性にも見える。金色の髪に翠色の瞳。太陽と無縁の生活をしているのだろう。大きく開いた胸元から見える肌も真っ白だった。近づく女の顔は可憐な少女の顔だった。

「ようこそいらっしゃいました。桔梗院殿」

「心にもないことを」

「心から喜んでいますのよ。貴方はあの男の血をひいておりますもの」

「私もお会いできて光栄です。ミューレイジアムロイヤルファムエト殿」

少女は錦上花を添えるように微笑んだ。

「嫌だわ。紗春と申します。お間違えのないように。夜には父が歓迎の宴を開きます。またそちらでお会い致しましょう」

腰まで伸びた金髪を揺らし立ち去る後ろ姿に梔子の呟く声が届いた。

「アスタンファエウス」


紗春は獣の気配を感じて迎賓館の中庭へ移動した。太陽が夕日に変わった外の空気は秘めやかな夜の気配を漂わせている。金属がぶつかり合う激しい音が響いている。白い制服に身を包んだ女が長剣を巧みに操っていた。ヒラヒラ舞う白い外套と水色の髪が清廉な印象を与える女性だと紗春は思う。それに対するのは――。

息を呑む紗春の胸で何かの音が鳴った、気がした。その男、青年と呼ぶのがふさわしい若い男は、黒い外套といい上から下まで黒づくめだった。漆黒の長い髪を後ろで一つに結わえ長身をものともしない滑らかな動きは、手にしているのが剣でなければ優雅な舞踏と見まごうばかりだった。

弾かれた女の剣が脇で見学していた少年の足もとに突き刺さる。一息遅れて後ずさる少年の頭には炎で覆われたトカゲが乗っていた。

サラマンダー。四大精霊を。自分が召喚するとすればどれほどの魔力を消費するだろうか。

笑いながら青年が足元の剣を引抜き、女に剣を返しながら3人は迎賓館へと戻って行った。

夕日よりも眩しく映る後ろ姿を紗春はただ眺めていた。


歓迎の宴は深夜まで続きそうだった。季緒は酒に酔い潰れ、那鳴が部屋に連れて行った。そのまま那鳴も戻って来なかったので、逃げたな…と琉韻は那鳴を恨む。

いい加減酒も飲み飽きて、世辞や噂話に付き合うのも飽き飽きしていた。特に曖春王女に辟易している。今も自分の左腕に絡みつき嬌態を演じている。王家至上主義を前面に押し出した彼女の話しぶりは烏滸がましく、酒が入ると陽気になる琉韻の気分を著しく害していた。親子だな、と思う。芭荻王も言葉の節々に驕慢さが滲み出ていた。しかも琉韻を目にして明らかな秋波を送ってきたのだ。

このオヤジに較べれば父上は雲中白鶴にみえる。

紹介された王太子は芭荻王と全く似ていなかった。春風駘蕩が現れる柔和な笑みが印象的だった。せっかちな父親と妹が、彼が何かをする前に全部やってしまっているのだろう。人が好いのは認めるが戦場では絶対に一緒に闘いたくない。芭荻王には4人の子供がいたはずだが、もう一人の王女は気分が優れないと宴には出席していない。

梔子を発見し、曖春王女の腕を擦り抜けるが、すかさず王女の両腕に捕獲された。

「わたくし、今夜はどこまでも王子についてまいりますわ」

……………

どんな事態でも公的には八面玲瓏さを崩さない琉韻の特技が発揮された。

「女性にはお聞かせできない男同士の話もあるものです。美しい女性の話は当の本人にはお聞かせしたくありません。あしからず」

極上の笑みを向けられた曖春はその場で夢の世界へ飛んで行った。夢現で立ちつくす王女を残し、琉韻は梔子に呟く。

「あの王女、オレの半径2m以内に近づかないようにできないのか」

「できなくはないですが、無暗矢鱈に人に関する術を使うのは禁じられております」

肩を落とす琉韻は酔い覚ましとその場を抜け出し外庭まで出てきた。

「お供いたします」

余計なおまけがついてきて琉韻は足蹴にあしらう。

「酔いが覚めたらすぐ戻る。供は不要だ」

「王太子殿下の護衛故、あしからず」

絽玖は琉韻と並び立って歩く。傍にいるだけで自分を不愉快な気持ちにさせるのもある種の才能だろうかと、考えながら何とか絽玖を引き離す計画を立てていた思考が金属音に邪魔をされた。

音に誘われるように琉韻は歩く方向を定める。戦いの音だった。

月下に咲く大輪の花の様だ、と琉韻は思った。闇夜に輝く黄金は太陽か?

引き締められた赤い唇は妙に妖艶で、鋭い翠瞳の眼差しは頭の芯を痺れさせる。黒いドレスから露出されている腕とデコルテが冴え冴えと輝く月よりも蒼白である。男と剣を合わせる少女の嫋娜な姿に目を奪われる。

紗春は何かに気を取られた相手の懐に踏み込み胸元から腹部にかけて剣を走らせる。

「っうあっ」

膝をついた延影は差し出された紗春の手を借りて立ち上がった。

「随分と上達されましたね。紗春様」

「騎士のお前に褒められるなんて、とっても気分がいいわ」

裂かれた服からうっすらと血がにじむ切り口が見えている。ギリギリの皮一枚だけが切られているので相当の腕前と言えよう。

紗春は手を翳し回復呪文を唱えた。

「一瞬隙ができたわ。何故?」

「見物客がおりまして」

振り返った紗春の目に琉韻の姿が入り込んだ。夕方の服装とは違い、白い服に白いブーツ、髪を結えずに垂らしている。拍手をしながら近づいてくる青年の瞳が鮮烈な印象を与える。間近でみる黒い睫に縁取られた紫色の瞳に吸い込まれそうだと紗春は感じた。

「允王国王太子、琉韻殿下であらせられますね」

跪いて礼をする延影の声で紗春は我に返った。

「失礼、邪魔をしてしまいましたか?あまりにも鮮やかな剣技でしたもので、つい見入ってしまいました。お名前をお伺いしても宜しいですか」

声が出ない。

「芭荻国第二位王位継承者、紗春王女でございます」

延影の紹介微笑えむ琉韻は紗春の手を取り、指先にくちづけた。

「あなたは罪な女性ですね。私を虜にしてしまった…」

小指から順に、一本一本の指に丁寧にキスをされている間、紗春の呼吸は止まっていた。

琉韻の後ろに立つ絽玖に延影が問いかける。

「もしや貴方様は絽玖殿下で」

「ええ」

「紗春様この方が。紗春様?」

まだ身体が動かない。

「琉韻様ぁ。琉韻様ぁ~」

やけに語尾を伸ばす大声に紗春は再度我に返った。曖春王女の声である。

「戻りましょう、延影」

足早に宮殿へと戻る後ろ姿も花のように美しいと琉韻は見惚れた。

甘ったるい声が近くなったので、絽玖に後を任せ迎賓館へと戻る。浮かれているのか足取りが軽かった。

「季緒!!季緒!!」

真っ暗な部屋で安らかな寝息だけが聞こえている。枕もとの灯りをつけると、真っ赤な顔をした季緒が熟睡していた。

「起きろ、季緒」

軽く頬を叩いてみるが目覚める気配は全くない。

「夢のようだった…」

この胸の高鳴りをどうしても話したい琉韻は何度か季緒を起こそうとするが徒労に終わる。那鳴を訪ねたが、寝てしまったのか扉の中からは何の反応もなかった。睡蓮と梔子はまだ会場に残っている。大人しく琉韻は部屋で眠れぬ夜を過ごした。

翌朝、日が昇り切らない内に琉韻にたたき起された季緒は、閉じそうな瞼を必死に持ち上げながら半分以上琉韻の話を聞き流していた。

「おい。ちゃんと聞いてるのか」

両瞼を引っ張られて情けない声を出す。

「聞いてる聞いてる。痛いって」

「剣の腕も素晴らしかったが、呪文を操ったのだぞ!!切った相手の血を止めていたのだ」

「その人も術師なの?」

「知らんな。今度お会いした時に尋ねてみよう」

琉韻の顔面からピンクのハートが飛び散ってきそうな勢いである。あの琉韻が傾城の美女と絶賛するのだから季緒も興味をそそられた。辛抱強く朝餉が始まるまで聞いていた。4時間ほど。

睡蓮に呼ばれ3人は食事のため食堂へ移動するが、国王の使いに王宮へと案内される。食堂で座っていた人物を目にした琉韻の顔色が3倍輝いた。芭荻国王と共に着席していたのは紗春だった。

プラチナブロンドを高々と結いあげ真っ赤な薔薇を飾っている。薔薇よりも艶やかな赤い唇はいささか妖艶過ぎるだろう。エメラルドよりも深い輝きをともす翠瞳が琉韻を認め微かに瞬いた。ピンク色のドレスが華奢な印象を一層可憐に彩っていた。まるで存在自体が花のようである。

ガン見する琉韻の隣で季緒も口を開けたまま動かなくなった。

芭荻王は琉韻達の反応に満足そうに口を開く。

「さぁ、席にどうぞ、琉韻王太子殿下、召喚士様に桔梗院様。絽玖殿下も」

最後の一言で琉韻が振り返ると、騎士団の白い制服を着た絽玖もここへ案内されてきたようである。

「おはよう兄上」

爽やかな挨拶に、踊っていた心が地中深くに沈んでいく。あぁと不機嫌に答えると

「挨拶しなきゃダメだ」

季緒に小突かれてしかたなくおはようと挨拶を返す。

「おはよう季緒。君は礼儀正しい子だね」

絽玖に頭を撫でられてまんざらでもない顔をする季緒を小突く。

「何?痛いよ。琉韻力強いんだから」

「いつからあいつに季緒って呼ばれる仲になったんだ!?」

小声で怒鳴る琉韻につられて季緒も小声になった。

「いつって、いつだっけ?覚えてないけど絽玖殿下優しくてイイ人だよ。時々お菓子くれる」

餌付けされてるのか!

「聖祈塔にいるのに何故絽玖と会う?あいつだって騎士塔にいるんだぞ」

「だってよく祈りにくるから。琉韻は一回も来たことないけどさ」

その手があったか…琉韻の目の前に今までの苦労が走馬灯のように巡って巡る。

座ろうよと小さい手に背中を押されながら席に着く。

振舞われた料理は朝から食すには少々胃にもたれる具合だった。

まだまだ成長期の3人の食欲を横目に梔子は軽そうな料理に手をつける。

神経は常に研ぎ澄ましている。

ミューレイジアムロイヤルファムエトがどう動くか。もしもの場合は季緒を護らなくてはならない。王太子殿下の身も心配はしているが、世界的に貴重なのは召喚士の方だ。

召喚士は自分に向けられる殺意に鈍感なのだ。誰かの為に、何かの為にと第三者的な視点で召喚するので、自身に向けられた刃に気づいた時は刺されている場合が多い。過去の事例では。ついでに季緒は攻撃・防御がまるでダメなのだ。

食後のお茶と焼き菓子が給仕されると芭荻王が口を開いた。

「これは私の長女で紗春と言う。琉韻王太子殿下、絽玖殿下、どちらかが嫁に貰ってはくれぬか?手前味噌だが器量は国一番、否、世界一だと思っておるがな」

頤を解く芭荻王だけが楽しそうだった。

琉韻は俯く紗春の表情をなんとか盗み見ようとしたが叶わなかった。

「嫁にとは、輿入れを望んでいるのですか?」

「勿論です。琉韻殿下。絽玖殿下には昨日の宴の後話しましたが。以前から允王へ申し入れをしておったんです。元々は絽玖殿下にという話でしたが、これも何かの縁。琉韻王子殿下もどうでしょうな。隣国同士、いつまでもいがみ合っているのはよくない。手っ取り早いのはご縁を作ることでしょう。これで親戚同士。争いの元もなくなるでしょうな」

脅しと嫌がらせではなかったのか。

「私個人ではお答致しかねます。改めて王太子としてご返答したいと存じます。宜しいか芭荻王陛下」

「勿論。よい返事を期待しておりまする」


「太陽はどこで見ても同じだな。形も大きさも」

「琉韻結婚するのか?」

二人は迎賓館の中庭で頭合わせに横になり空を見上げていた。雲一つない晴天だった。晴れ晴れした空に比べ胸中は暴風雨で荒れまくっている。

オレと、よりによって絽玖が王女と政略結婚。結婚に対して甘さも憧れも抱いていない王子は、隠された政治的な意味合いを探っていた。芭荻の目的は何だ?侵略か?

「こちらにいらっしゃいましたか」

睡蓮の声がしても二人は寝ころんだままだった。行儀が悪いと叱られながら起き上がり梔子の部屋へ移動する。

「あまりに重要な話だそうで、滅多な場所では口にできないそうです。桔梗院様の部屋に」

3名お揃いになったらお話しますと言うので内容は睡蓮も知らない。

扉を開けようとして、急に睡蓮は聞く気がなくなった。このままノックせずに帰ろうかと考えてしまう。

「どうした。開けないのか?」

右手を胸元まで持ち上げて動かない睡蓮の脇から琉韻が扉に手を伸ばしたが、入りたくなくなった。話の内容は気になるが、急激に気持ちが曲がった。二人が入室を躊躇していると中からドアが開く。

「どうぞお入りください。結界を張っておりましたので入りづらいかもしれませんが」

梔子に扉を大きく開けられたが、どうしても一歩が踏み出せない。罪悪感が湧いてくる。

痺れた季緒が勢いよく背中を押して、やっと中に入る事ができた。季緒はというとすんなり中に入り扉を閉めている。

「今ので、酷く疲れました。何故でしょうか」

「オレも…もう動きたくない」

椅子に座り眉間を押さえている睡蓮とベッドに大の字に仰臥した琉韻。

「人払いをするための軽い結界だったのですが。御気分は?」

「禁を犯してしまった気分だ。結界とはこういうものなのか?」

「この部屋だけに入りたくなくなるような、入ろうとしたら急に別な事が思い浮かぶとか入らなくてもいい気分に誘導させます。もう少し本格的な結界ですとこの部屋を見ているのに見えなくなります」

「では、オレ達が入ってから部屋を見えなくすればよかっただろう」

「そうしますと、気づかれそうでして」

誰に?言葉には出さないが3人の視線がそう語る。

「ミューレイジアムロイヤルファムエトです」

途端、琉韻が鍛え上げられた腹筋で起き上がる。

「やはり!芭荻王か!あの黒光りする顔の照りが怪しいと思っていたのだ!高慢な、驕り高ぶった不遜な男だ!」

「あの顔の色は変だった。夜光りそうだったよね」

「一国の王に向かって失礼ですよ。単なる栄養過剰摂取とも考えられますが、天塔圏と考えれば理由がなくても納得はできます」

三者三様酷い言い様である。

「芭荻王ではありません。夜会に出席されなかった王女、紗春王女です。そもそもミューレイジアムロイヤルファムエトは女性です」

え………

誰ともなくその言葉は発せられた。

「紗春王女殿下が、天塔圏の最高権力者ですか。どう見ても15歳前後の少女ですが」

「長命の術を遣っているのでしょう。睡蓮殿、私は幾つに見えますか」

「30歳手前の、27~8歳と」

クスリと梔子は微笑む。

「262歳です」

最早絶句である。口は開いているのに言葉がでない。

「頭領は500歳を超えています。ですから彼女はそれ以上かと考えられています。誰も本人の口から年齢を聞いた事がありませんので。あくまで推測です。彼女は紗春王女を殺してなり替わったのでしょう」

梔子の話が終わらない内に、琉韻は部屋を出て行った。立ち上がった睡蓮を季緒が制止する。

「琉韻は傷ついてるんだ。しばらくそっとしておいて。……失恋だと思うし」

昨日恋に落ちて今日破局を迎える。何とも琉韻らしいスピードだと思ったが笑えなかった。


傷心のまま部屋に戻った琉韻はベッドの違和感に気づく。

薔薇の花と小さなカード。

二つを握りしめ、外へ飛び出した。

外門には衛兵の姿が見えなかった。迎賓館から外へ出る際も誰とも接触しなかった。

魔術か……

罠かもしれないと考えながらも、滾る胸の鼓動は裏切れなかった。

古びた塔が見えた。蔦が生い茂りいくつかの窓は朽ち果てている。何十年と使われていないのが明白だ。誰からも忘れられている入口に佇む姿は紗春。

退廃的な背景でも彼女の魅力は色褪せない。寧ろ、滅びるものの前だからこそ、彼女の果てしなく続く生の輝きが増している。その姿が塔の中に消えた。慌てて琉韻も後を追う。

外観を裏切らない埃っぽい空気と雨季でもないのに湿っている足元。窓から光は入り込んでいるため真っ暗ではない。鼻と口を手で覆いながら歩き続けていると不意に重力から解放された気分になった。身体が浮かび、湿った床が消えた瞬時、足もとが白い大理石へと変わった。

「ここは…?」

百合をモチーフとしたベージュ色の壁紙に、ソファとテーブル。所々に白百合が飾られている。一見で女性の住まいと分かる。

「私の部屋です。どうぞおくつろぎを」

勧められるままにソファに座ると紗春がお茶を出す。甘いお茶の香りに緊張が解けていくのが分かった。知らずに脚と腹に力が入っていたらしい。

「魔術ですか?瞬間移動術?」

「そうですね。空間移動という方が正確です。あの塔とこの部屋を結びつけました」

季緒もそういうのができればいいのに。そうだ、召喚訓練をしなければ。望む幻獣を召喚できるように、例えば、悪魔。

「貴方は悪魔と契約して人外の魔力を得たのでしょうか」

真剣な顔で婉曲もせず質問をする琉韻が、あまりにも真っすぐに見つめてくるので紗春は微笑んだ。ゆるぎない眼差しは不撓不屈の王子の気概を表している。

「貴方は美しい。私は長く生きていますが貴方ほど美しい方はお目にかかったことがありません。その心は濁りもなく澄み切っている。貴方はもう私の正体をご存じでしょう?」

「先に私の質問に答えをいただきたい」

「契約はしていません。欲望とは果てがない。掴んだ瞬間渇望が生まれる。悪魔は私自身かもしれません。際限無い欲と貴方は無縁でしょうね。清廉玲瓏な王子様」

「私はあなたが欲しい」

間髪入れずの確答に紗春の内側の熱がざわめき立つ。

「このような気持は初めてなので説明が難しい。あなたが天塔圏の大魔術師と知って心が痛んだ。しかし、それでもあなたを想うと胸が熱くなる。瞼の裏に浮かぶのはあなたの姿だけだ。あなたが何者でも構わないとさえ思う…」

「あなたは私の何を知っているというのです」

「何も知らない。だから知りたい。それでは駄目なのか」

時の重みが沈澱するかのように二人の間に流れた。沈黙を破ったのはか細い声だった。

「では、琉韻王太子殿下。私と允、どちらをお選びになりますか」

「どういう意味だ」

「貴方が私を欲しいと仰るように、私も允が欲しいのです。私を選んでくださるなら共に暮らしましょう。允を選ぶならば、私達は生涯相容れないでしょう」

「允だ。オレは次期国王だ。国を、民を守るのがオレの使命だ」

「私よりも?」

「今の暮らしは民の礎の元にある。民の努力と汗が与えてくれるものだ。その民をないがしろにはできない」

まだ若い王子の未熟な青写真は先が見えていないからこそ、美しい理想とまだ見えない現実に広がっている。

「青い果実ね貴方。しかし貴方の信念は私達の大きな敵になる。今ここで…」

どこかで聞いたようなセリフだと思いながら琉韻は身構える。剣の柄を掴んだが手の動きが止まった。剣を抜こうにも動かない。

紗春の赤い唇からは絶え間なく呪文が流れ出している。左手を天に掲げると掌に発生した雷が徐々に大きさを増していく。部屋中に広がった閃光は身体の動かない琉韻に目をつぶることさえ許さなかった。

うわー、眩しい。

左手が下ろされると閃光が一斉に指先に集まり琉韻に向かって弾けた。

鼓膜を突き破る爆音と、部屋中を揺るがす爆発の衝撃に身を固まらせる。決して長くはなかった人生が高速で頭をよぎり、浮かんできた人々の名を思い浮かべた琉韻は自分の周りに光の壁ができている事に気づく。動くようになった両手で何度も目をこすりながら光の残像を追い払う。

掠り傷一つ負っていない紫の瞳に瞠目する紗春が映っている。

「何故貴方が結界を?」

琉韻の周りは薄靄のシールドが張り巡らされていた。胸元に熱を感じて胸襟を開くと光輝く護符が空中に浮かび出る。触ろうとしたら力を使い果たしたかのようにボロボロと空気中に散ってしまった。同時に結界も消滅する。

季緒から渡された梔子の護符だ。

突如、光弾が天から紗春に向けて降り注ぐ。飛びのいた足元を大きく抉る光の球を避けながら空間の攀じれを感じた。異空間から二つの影が現れる。

「王太子殿下!」

梔子の身体に抱きついたまま目を閉じていた季緒は切迫した梔子の言葉に反応した。

「琉韻!平気?!」

駆ける勢いのまま突進されて琉韻はソファごと転倒する。

「あ。ごめん」

危ないだろうと叱責する琉韻をそれどころじゃないと黙らせる。

対峙する魔術師達は若い兄妹のようだった。とても200歳を超えた同士には見えない。

「何故邪魔をする桔梗院」

「貴女がしようとしている事は平和を乱し。誰も幸せにはしない。自らが幸せに見放されたからといって周りを巻き込むのはいささか幼稚ではありませんか」

こちらも兄弟のように見える琉韻と季緒はソファから立ち上がった。

「季緒、王太子殿下とここから出なさい」

普段の柔和な姿からは想像に難い程の鋭い梔子の声質に、即座に二人は従った。

扉を開けようとするがびくともしない。助走をつけて長身を体当たりさせるが反動で身体が痺れるだけである。悪戦苦闘していると外から扉が開き黒いローブを頭から被った者達が入り込んできた。琉韻は季緒を抱えて壁側へ飛びのく。

「残念ね。この空間は外からは入れるけど中からは出られない」

紗春の言葉を合図に天塔圏の術師達は氷結自縛の呪文を唱えだす。氷の刃が二人を標本のように壁に刺し留める。と同時に季緒は痛みを堪えてある言葉を念じる。


来い!!


紗春と梔子はこれまで感じたことのない圧迫感と切迫感に襲われた。空間が、気が、大気が捩れる気配。

叶わないと悟れるのは高度な術者故だろう。レベルが違う。

季緒の頭上に現れたのは時に神とも崇められる幻獣。幻獣の中の幻獣。ドラゴンだった。

それも三つの頭、三つの口、六つの目を持ち全身は固い鱗で覆われているアジ・ダハーカ。大きな翼を窮屈そうに畳んでいる。多くの術師が声も出さず見上げるなか、一人の術師がドラゴンの正体に気づきシールドを張った。咆哮はその響きだけで、気の弱い人間ならば心臓が止まってしまうだろう。三頭がそれぞれ別の方向を向いてあたりかまわず毒の息を吐いている。梔子は毒息を避けながら二人の氷の呪縛を解呪する。季緒の腰に手を回し抱きかかえながら大理石に華麗に着地をする。

「う、うわっ、あああぁぁぁ」

凄いのが出てきちゃった…

思わぬ邪悪さに季緒はうろたえ、冷汗を覚える。

「しっかりしろ!!マスターは季緒だろう!!天塔圏達を倒すんだ!!」

と言いながらも紫色の眼は心配そうに紗春に向けられていた。彼女の周りに小さな竜巻が起きており毒の息は届いていないようだ。

毒の息は二人の周辺には降りかかってこない。梔子の周りも白っぽい光に包まれ息を反射させていた。

「よしっ!!」

声を出して気合いを入れ、やや暴走気味のアジ・ダハーカに命ずる。

まずあっちの扉!!

三つの口から轟音と共に紅蓮の炎が吐きだされ、天井まで覆う。術師達は二重にシールドを張って防ぐ。アジ・ダハーカの一つの首が炎を吐くのを止め防御解呪と手足錠磔の異なった呪文を一度に唱える。人間の言葉とは違い、高い音と低い音の唱和に聞こえる。術師達のシールドは粉々に砕け散り、身体は金縛りにかけられる。業火が地を這う蛇のように術師達にまとわり次々と炭と変える。火の勢いは扉の壁まで焼き払い、封印の結界が解かれた。

次は天塔圏のボス!!

念じてから逡巡が過ったが、ドラゴン達は先ほどと同じ要領で呪文と業火で攻撃を始めてしまった。

紗春の身体があった位置に人形の炭が現れ崩れ落ちる。

甘い花の気配に琉韻が振り向いたら、すぐ傍に紗春が立っていた。

「琉韻!」

「残像か?!殿下!!」

琉韻が姿を認めてから紗春の姿が消えるまで瞬き程の時間しかなかった。

消え去る刹那、翠の双眸がしっかりと琉韻を捉えた。

「貴方にお会いして……恋に落ちました」

その声は小さな独唱だった。最後の一言が呪縛のように王子の胸を締め付ける。


翌日の朝、允王国一行は出立の際、国王が見送りに来た。

脇に控えるは王太子、曖春王女だった。梔子が国王に問う。

「紗春王女殿下は如何なされたのですか」

「誰ですかな。娘は曖春だけですが。まぁ、婚約の件はよい返事をお待ちしておりますぞ」

国王は軽快な笑い声を残し城へ戻って行った。

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