第14話

 神が日菜子の部屋に現れたのは初夏だった。冬を越して春を迎え、あと三ヶ月もすれば出逢った季節がやって来る。日菜子は一つ年を取り二十一歳になっていた。


 日菜子はソファに寝そべったまま窓の外を見た。タワーマンションの最上階である神の部屋から見る空は何も遮る物が無い。

 のんびり空を眺めている日菜子に、神が声を掛けた。


「桜を見に行きませんか」


 日菜子の漫画家としての仕事は非常に順調であるが故に忙しく、普段は同じマンション内に借りた仕事部屋で籠りっきりとなっている。

 だが今日は締切明けであり、神の部屋でゴロゴロと休息を取っていた。

 日菜子は寝そべったまま答えた。


「もう桜は終わりじゃないですか?」


「大丈夫ですよ、あの村の桜は八重桜ですから」


 その言葉に反応した日菜子が体を起こした。日菜子が急に起き上がったことに神は少し驚いたが、穏やかな口調で言葉を続けた。


「お花見の場所は僕達が生まれた村です」


「私、引っ越してから一度も行ってないから……15年振りです」


 日菜子は同行する旨を伝えた後、身支度を始めた。

 クローゼットを開けると、神から与えられた可愛らしい容姿だった頃に購入した夏服が大量に飾られている。

 だが春の季節に着るには早く、例え夏だったとしても元の容姿に戻った日菜子には着る勇気はない。


 クローゼットの肥しとなってしまった少女趣味な服達を横目に見ながら、日菜子は紺色のワンピースと厚手のカーディガンを選んだ。


 日菜子が身支度を終えたのを確認した神は、寛いでいたソファから立ち上がり声を掛けた。


「おや、可愛らしい。日菜子さんは清楚なお洋服が良く似合いますね」


 本心なのか御世辞なのかは不明だが、日菜子が気を良くするには充分な言葉だった。

 日菜子は靴を玄関クローゼットから選び終えると、隣に立っている神と手を繋いだ。


 その数秒後、日菜子は御姫様抱っこをされた状態で春空の中に浮いていた。

 自分の置かれている状況に気付いた日菜子は小さく息を飲んだ後、神の肩に必死でしがみ付いた。


「そんなにしがみ付かなくても落っこちたりしませんから大丈夫です」


「だって怖いです!早く降ろして!!」


「大丈夫ですよ、ほら、下を御覧なさい」


 日菜子が怖々と下を見ると、桜の絨毯が広がっていた。

 その光景は素晴らしく美しいのだが、やはり日菜子は怖がって神にしがみ付く。


「僕にしがみ付くよりスカートを抑えた方が良いですよ」


 神が落下し始めると日菜子のスカートがフワリと捲りあがった。

 日菜子の片手は慌てたようにスカートを抑え込んだが、もう片方の手は神の肩から離すことは出来なかった。

 近づいてくる地面を見ながら日菜子は涙ぐんだ。


「酷いです太郎君……」


「ごめんなさい、サービスのつもりだったのですが怖がらせちゃいましたね」


 神が降り立った場所は学校で、小さな校庭を囲うように桜が植えられていた。


「まだ五分咲きですね」


 神は呟いてから、桜の幹に触れた。


「こんにちは。今年も見に来ましたよ」


 神が話し掛けると、桜は一気に開花して満開となった。その光景は日菜子を驚かし、そして喜ばせた。


「太郎君って、やっぱり神様なんですね」


「今更、何を……」


 神は少し笑った後、日菜子の手を取って桜の下を歩き始めた。

 日菜子は校舎をチラリと眺めてから質問をした。


「私、もし引っ越さなければ此処に通ったんですね。この学校って廃校ですか?」


「はい、過疎化が進んでいる村ですから。もう年寄りばかりで学校は使われていません」


 神の答えを聞き、日菜子は改めて校舎を見た。校庭は春の日差しと満開の桜で鮮やかなのに、久しく使われてないであろう校舎は寂れて暗々とした雰囲気を漂わせていた。


「桜は人間が見なくても花を咲かせます」


 神の呟きは独り事のようで、日菜子は返事を躊躇った。桜を見上げ続ける神に釣られる様に、日菜子も桜を見上げた。


 神と日菜子は暫く桜を眺めた後、神の希望で祠の跡地へと向かうことになった。


 日菜子は村内の道を歩きながら幼い頃の思い出を、神を相手に話し続けた。

 最初は楽しい散策であったが、里山に差し掛かると道が険しくなり、更には緩い坂道であることも手伝って日菜子の歩みは急激に遅くなる。

 日菜子が、もう歩きたくないと駄々を捏ねだした頃、神が立ち止まった。


「此処が参道の入口です」


 神が指差した道端には雑草が生い茂り、その隙間に石畳の小道と石造りの小さな道標が見えた。

 参道の通行を邪魔するように伸びた木々の枝と雑草は人が通らなくなって久しい事を物語っており、とても侵入出来そうにはない。


 だが神は躊躇うことなく、日菜子と手を繋いだまま参道へと足を踏み入れる。固い枝達は柳のように緩々と揺らぎ出し、神が歩を進めると枝も草も意思を持つかのように避けていく。


 石畳の参道が終わると空き地が広がっていた。立ち止まった神に、日菜子が声を掛ける。


「あれは石碑ですか?」


 空き地の中心地には小さな黒い石碑がポツリと建っていた。


「はい、祠の跡地に人間達が石碑を建ててくれたのです」


 神は日菜子の手を離し、石碑へと歩み寄る。


「この場所に僕が眠っています」


 神は石碑の前に跪いて地面を撫でた。日菜子は神の隣に屈み、神の顔をチラリと覗き見ながら怖々と尋ねた。


「太郎君が神として祀られた場所ですか?」


 神は日菜子とは視線を合わせず跪いたまま話を続けた。


「はい、人間の時間としては二千年以上も昔です。僕は此処に埋められました」


 生々しい神の表現に、日菜子は息を飲んでから地面を見詰めた。


「日菜子さん。僕は貴方を恨んでいます」


 日菜子は咄嗟に聞き間違えたのかと思った。隣を見ると神と視線が合う。そして聞き間違いではないと気付いた。神の目は冷たい色をしていた。


 この目を見たことがある。子供の頃、太郎君の祠を舞台に妄想していた話をした時だ。


「僕に捧げられた生贄の娘ですからね。本当に最初は特別待遇で保護したのですよ。でも僕を神とする妄想をした人間と知ってしまってからは無理でした。庇護欲より恨みの方が強くなってしまいました」


 日菜子は何かを問う気力も起きなかった。

 唯、頭を過ることは、やはり希望など持ってはいけない。端から絶望を想定しておけば傷は浅くて済むのだから。






「ひどいよ」


 日菜子は恨み事を呟いた。

 神は言いたいことを言ったら別れの言葉も無く忽然と消えた。この山中に日菜子を残してだ。


 感傷に浸っている場合ではない。

 熊が出てくれば命が危ない。

 日菜子は里山を下りながら神の言葉を思い出していた。


 ――護ってくれるはずの相手から裏切られる絶望を味わって下さい。


 無人島に置き去りにされたわけではない。最寄りのバス停を探して駅まで行けば東京に戻れるだろう。

 手持ちの現金は少ないが駅の窓口ならクレジットカードで東京までの切符が買える。


 随分と手が甘いのは、置き去り事態が仕返しではないからだろう。

 日菜子が庇護されることに慣れ切ったところで裏切ることが仕返しなのだ。


 日菜子は足元を見た。


「こんな靴で来るんじゃなかったなぁ」


 御花見なら歩き廻ることを想定できたはずだ。だが日菜子は長時間歩くのには不向きなパンプスを履いて来てしまった。


 これこそ庇護されることに慣れ切っていた証拠だ。いざとなれば神が助けてくれると思っていたのだ。

 だって神は散歩中に靴擦れが出来ても直ぐ治してくれたから。


 日菜子は深い溜息を吐いた後、また歩き出す。とにかく里山を下りなければバス停どころの話ではない。


 ――僕が生まれた時代。集落の中で見捨てられる事は、現代で置き換えるなら全世界から見捨てられるようなものです。


 神の言葉を思い出しながら意図を見抜こうと思考する。

 現代の人間には想像もつかないほど、人間同士の関わりが濃い時代。互いに助けあわねば生き延びることは出来ない。

 集落の中で他の人間達から見捨てられれば生きていける筈が無い。

 今まで護ってくれていた大人達が豹変して襲ってくる。

 そして誰も助けてくれない。


「誰も助けてくれない……」


 日菜子は周囲を見渡した。ここで大型の野生動物に遭遇しても誰も助けてくれない。なんとも心細いことだ。熊どころか猿相手だって勝つ自信は無い。野犬一匹でも無理だ。


 靴擦れが痛いとか足が疲れたとか言っている場合ではない。日菜子は足を速めた。


 そして思う。人間だらけの街中で日菜子が野良犬に襲われたとして誰か助けてくれるだろうか。

 自身の危険を顧みず見ず知らずの他人を助けるなんて出来るものじゃない。誰かが呼んでくれるだろう警察か救急を待つしかない。


 だが神が生きていた時代では、周囲の大人達は何が起きようとも護ってくれたのだ。

 その信じていた相手から裏切られる。護ってくれていた相手が豹変して襲ってくる。

 もう誰も助けてくれない。


 日菜子は、その瞬間の神が感じただろう絶望を想像して身震いするような恐怖を覚えた。


「……恨みますよね」


 日菜子は指折り数えた。

 神と出会ってから約十ヶ月だ。騙す為に手間暇掛けて飼い慣らす努力をしていたのかと思うと腹立たしい様な申し訳ない様な気分になる。

 そしてすっかり懐柔されていた自分を情けなく思う。


 神が聞いているかどうかは分からない。だが日菜子は声に出してみた。


「嫌いな私が生贄でごめんなさい!」


 神は混乱したのだろう。

 大事に想う生贄が、長年恨んでいた憎い相手だったのだ。


 だが仕方が無い。神を妄想するには自分は醜くなければならないし、醜くなければ曾祖母は祈願などしなかったろう。


 日菜子は気付く。神を救うには再び妄想するしかない。

 神山太郎を神と認識している自分が妄想をすれば叶うのではないか。

 憎い相手が生贄じゃなくなれば神の気持ちも楽になるだろう。

 自分が生贄でなくなる展開を妄想出来れば不幸な神を救えるかもしれない。


 日菜子は里山を抜けて広い道路に出た。もう少し歩けば先程の小学校が見えてくるだろう。


 スマートフォンを取り出して地図アプリを開く。山間部では繋がりにくいかと心配したが大丈夫のようだ。


 幼い頃の記憶でバス通りへの道を探すよりも地図を開いてバス停のマークを探すほうが早い。


「……無い?」


 地図上にバス停が無いことに気付いて動揺した声を出す。曾祖母に連れられてバスを見た記憶がある。ならばこの村での記憶のはずだ。路線バスが走っていたはずだ。

 地図に載ってないだけだろうか。それとも路線バスが廃止されてしまったのか。村人に尋ねたくても誰も歩いていない。


 路線バスが走ってないならタクシーを呼ぶしかない。だが手持ちの現金でタクシー代が足りるかどうか不安だ。この村の老人達を客としているタクシー会社がクレジットカード決済端末を装備しているだろうか。


 バス停を探しながら歩くうちに小学校へと辿り着く。神が満開に咲かせた八重桜が日菜子を出迎えていた。


 日菜子は数十分前に見た光景を思い返す。神は日菜子を優しく抱きかかえて空から桜を見せてくれた。でもあれは偽りだったのだ。


 神に生贄に捧げられた人間を慈しみ、神となる運命を妄想した人間を憎む。

 どうすれば慈しみの方の気持ちを強く持ってもらえたのだろうか。

 自分の努力では神の思惑など変えようも無いのか。

 もっとも神に対して何かを努力した記憶など無い。自分は神の庇護欲に甘えていただけだ。


 日菜子は自暴自棄になる。もう帰るのを諦めて朽ち果ててしまおうか。このまま桜の肥しになってしまおうか。そして来年の春、桜になって神を迎えようか。






 結局、地図アプリを頼りに五キロの道を歩いた。

 幹線道路でカードOKのステッカーを貼ったタクシーを拾い、最寄りの大きな駅まで辿り着いた。


 窓口で東京までの切符を買い求めて電車を乗り継ぎ、新幹線ホームに着いた。

 スマホで時刻を確認すると十六時を過ぎていた。何も食べてないので売店で御握りと御茶を買い込む。

 新幹線内で御茶を飲むと急に疲れが出て来て東京駅まで眠ってしまった。結局、御握りは食べなかった。


 東京駅から自宅の最寄り駅に向かう電車内で日菜子は気付く。


 鍵は持っているが神の部屋に戻るわけにはいかない。

 仕事部屋としている日菜子名義の部屋はあるが果たして入れるのだろうか。部屋代を支払っているのは神だ。通常の賃貸形式を取ってあるのか疑問だ。


 スマホで時刻を確認すると二十時を過ぎている。路頭に迷うには辛い時間だ。


 それでも他に行く当ても無く自宅としていたマンションへと向かう。

 オートロックの鍵はスマートキー方式だ。鍵を携帯していれば自動ドアは開いてくれる。


 日菜子は緊張の面持ちで最初の関門である自動ドアへと向かう。

 特に問題も無くスイッと入ることが出来た。

 不自然に思われないよう、いつもの通りにフロントへ「こんばんは」と挨拶をする。


 日菜子は最上階に住む住人として堂々とエレベーターへと向かわねばならない。

 だが、これから向かう部屋は低い階層の方に借りている仕事部屋だ。

 もしも部屋に入ることが出来れば仕事着に着替えてソファで寝るしかない。


 日菜子は初めてマンションに泊まった夜のことを思い出した。

 フロントでパジャマを借りられるのだ。アメニティグッズも買えるはずだ。


 そして問題なく鍵は使うことが出来て仕事部屋に入れた。

 やはり神は優しい。日菜子は安堵の溜息を吐く。


 お水を飲もうとキッチンに向かう途中、また溜息を吐く。

 安堵の溜息ではない。パジャマの心配などしなくても良いのだと気付いたからだ。


 日菜子が神の部屋で使っていた物がリビングテーブルの上に並んでいた。服もパジャマも化粧品も。御丁寧に毛布まで置いてあった。


 もう僕の部屋には来ないでほしいという強い意思表示だ。

 自覚は出来ていた。だが改めて神に捨てられたのだと思うと日菜子は悲しくなってきた。

 すごく悲しい。

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