第13話

 日菜子は意味を問おうと神を見上げた。神は慈悲深い笑顔を見せていた。


「取り憑くって?……物の怪なんかが憑くようなことですか?」


「神だって取り憑きますよ」


 日菜子は冷気に凍えて小さなクシャミをした。


「あ、ごめんなさい。僕の体、冷たいですよね」


 神は立ち上がり寝室へと向かう。

 ソファに戻って来た時には、日菜子が此処に住んでいた頃にクローゼットに片づけていたリネンのストールを手にしていた。

 神は冷気を気遣うように体を離して腰掛け、日菜子の肩にストールを羽織らせてから説明を続けた。


「日菜子さんが誰にも僕のことを話さないよう憑いて見張り続けます。それが僕なりの責任の取り方です。日菜子さん、この部屋で一緒に暮らしませんか」


 神からの申し出は日菜子にとって喜ばしいものであった。

 忘れたくないと願った相手と一緒に居られるのだから。

 だが日菜子は戸惑いの表情を浮かべていた。


「あの……取り憑かれるとどんな状態になるのか教えて下さい」


「日菜子さんは此処で普通に暮らしてくれれば良いのです。もしも日菜子さんが僕の正体を誰かに話そうとしたら神罰を下すだけです」


 日菜子は即答した。


「誓います!誰にも言いません!」


「僕を裏切るような行為をしなければ大丈夫ですよ。可愛い生贄に手荒な真似など致しませんから」


 神はストールで日菜子の体を包んでから引き寄せた。

 不安そうな日菜子を安心させようとの行為だが、依然として彼女の表情は浮かない。


「僕と暮らすのは嫌ですか?」


「いえ、太郎君と暮らせるのは嬉しいです……けど……」


 日菜子が浮かべている表情は嬉しいという言葉が不似合いなものだった。言葉を濁す彼女に神は戸惑う。


「けど?なんですか?」


 日菜子は神の言葉を素直に受け取れない。

 誰だって可愛い女の子が好きだ。

 醜い女の子に傍に居てほしいなんて希望するはずがない。

 幼い頃から容姿を罵られることが多かった日菜子の経験が、希望を持たずに打ち消すことが保身になると教えてくる。


 希望を打ち砕かれて絶望するのは嫌だと思うと、日菜子は同意を示す笑顔を作ることが出来なかったのだ。


「浮かない御様子ですが従ってもらいますよ。これは苦肉の策です。神が人間と暮らすなんて本来なら許されません。でも記憶が消えないから仕方ないのです」


 神の横暴な口振りに日菜子の気持ちが救われる。

 神だって日菜子を生贄として捧げられた為に日菜子から逃げられないのだ。


 日菜子は思う。

 もしかしたら神の目だけには生贄が可愛らしい姿で映っているのかもしれない。曾祖母の祈願は「祠の神様の綺麗な花嫁」なのだから。

 日菜子は心の中で曾祖母に感謝した。

 黙り込んでしまった日菜子を宥めようと、神は話し続ける。


「どうか僕の立場を理解して下さい。貴方の記憶を消せない僕を不憫に思って従ってもらえませんか……日菜子さん、返事くらいしてください」


「はい……」


 促されて返事はしたがその先の言葉が続かない。

 日菜子は思案しながら爪の先でソファをカリカリと引っ掻いた。


「止めてください、生地が傷みます!」


 神の手が、ペチリと日菜子の手を叩いた。


「痛っ!」


 抗議するように睨んでくる日菜子を、神は諭す。


「神に関する記憶を消せないのは不味いのです。神とは驕る人間達の防波堤として怒らせると怖い存在でなければなりません。……いえ驕る人間とは日菜子さんのことではなくて一般論ですよ、一般論。人間にとって神が身近な存在になり過ぎてはいけません。だから日菜子さんの記憶を消せないなら僕は責任を取らねばなりません。取り憑かせてもらえませんか」


「その……取り憑くってイメージが悪くないですか?なんだか太郎君が悪い神様みたいです。護るとかは駄目なんですか?」


「特定の人間の守護となると、それなりの理由が必要になります。でも憑くのは僕の勝手ですから大丈夫のはずです。日菜子さんは優しいですね」

 

 神から優しいと褒められて、日菜子の心にチクリと棘が刺さる。

 元の体に戻る時、「私は私の為に妄想します」と神に告げた。

 それは虚勢を張ったわけではなく、本当に自己本位な妄想をした。


 とても神には話せない内容の妄想をしたのに、優しいと言われるのは心苦しかった。


 日菜子は思い出す。

 神に関する妄想は叶うのだ。

 この結果は、やはり自分の妄想する力が働いたのかもしれない。

 神の力が正常に働かず記憶を消せないのは妄想の影響だ。

 ならば臆することは無い。


「私は太郎君と一緒に暮らせるなら嬉しいです」


「そうですか。同意を得られて安心しました。今のところ取り憑く以外に方法も思いつきませんので。まあ、どんなに嫌だと駄々を捏ねても神の決定には従ってもらいますけどね」



 ***



 退院後、日菜子は元々住んでいた部屋を引き払って神の部屋で暮らし始めた。

 神は同じマンション内に日菜子名義でも部屋を借りてくれた。

 それは漫画家としての仕事部屋であったのだが、日菜子の父親を安心させるのにも大いに役立った。

 二部屋を借りることは娘の相手の経済力と誠実さを示す行為として充分だった。


 日菜子の仕事部屋は低い階層のオフィス向けワンフロアで、簡易なパーテーションでキッチンとリビングを仕切った以外はすべて作業机を並べた。

 ピーク時に訪れるアシスタント達が座っても広々と作業が出来るよう配慮したスペースを取った。

 日菜子にとって作業スペースは広いほど快適で便利が良い。


 神と日菜子の生活は順調に過ぎ、季節は冬を迎えていた。

 日菜子は仕事机の隅に置かれたマグカップを見詰めていた。

 先程、神が仕事部屋を訪ねて来た時に入れてくれた御茶だ。


 数日前、仕事部屋のキッチンで神が何やら作業をしていた。

 流れてくる柚子の香りが心地良かったのを覚えている。

 何を作っているのか問うと「日菜子さんの仕事が捗る物を作っています」と、優しい口調で答えてくれた。


 日菜子はマグカップを手に取って一口含む。

 柚子の香りとシロップの甘さは仕事に詰まって必死の形相になっていた心を和らげた。

 今、仕事部屋には日菜子一人きりだ。だが日菜子は神に語りかける。


「太郎君、ありがとうございます」


 神は優しい。

 日菜子は、それに気付くたび心が痛くなる。

 神に優しくされればされるほど日菜子の中の罪悪感は強くなる。

 日菜子は花火大会の夜を思い出した。


 ――私は私の為に妄想します。太郎君は私の妄想に従って下さい。


 神は、あの発言を咄嗟の戯言だと思ったのか、それとも忘れてしまったのか問い質してこない。

 あれは戯言ではなく本当に身勝手な妄想をしたのだ。

 妄想を利用して神を縛り付ける罪悪感、それが自身を嫌悪する感情を生む。


 あの時の妄想が無ければ、神は自分の記憶を消すことが出来たかもしれない。

 それでも口を噤んでいれば現状は守れるのだという保証が有るなら良いのだが、一つの焦りが保証を揺るがす。


 神と関わる女の誰かが妄想したらどうなるのか。

 自分の妄想が掻き消され、新しい妄想に塗り替えられたら……。


 だって、神は誰にでも優しい。

 マンション内で働く人や漫画の仕事関係者。

 特に仕事部屋に来るアシスタント達は神と接する機会が多い。

 先月も、神はアシスタント達の為に手作りのフォンダンショコラを振る舞っていた。

 

 それは下心などではなく、神としての人間への慈悲なのは分かっている。

 だが優しく見目好い神を前にすれば誰だって尻尾を振りたくなるものだ。

 勿論、神が尻尾に釣られやしないことは分かっている。

 それでも不安でたまらなくなる。


 だから結局は罪悪感に苛まれながらも、誰にも奪われたくない一心で更に妄想をする。

 神を縛る為の妄想の言葉を繰り返す……

 

 日菜子の思考を遮るようにインターホンが鳴り響いた。

 玄関モニターを見るとドアの向こうに立っていたのは神と担当編集者であった。

 モニター越しに入室を促しながら奇妙な組み合わせに懸念する。

 自分の仕事相手が何故、神と一緒に居るのだろうか。

 日菜子の怪訝そうな様子を察した神は状況を説明した。


「僕の部屋の方へ来られたので仕事部屋へお連れしました」


 日菜子の担当編集者は三十路手前の色気ある女性だ。


「コートお預かりしますね」


 神が親切にコートを預かる。

 その下に着た服は胸元が大きく開いていた。


 編集者は、漫画家である日菜子には御座なりの挨拶をしただけで、しつこく神へと話し掛けている。

 日菜子は察する。

 会いたかったのは仕事部屋にいる漫画家ではなく、目当ての男であろうと。


「日菜子さん、御土産を頂きましたよ」


 神は日菜子に話し掛けたが、返事をしたのは編集者であった。


「この御店のマカロンとっても美味しいんですよ」


 神は、慈悲深い笑顔を見せながら編集者に返事をする。


「そうですか。御気遣い頂き有難うございます。御二人とも座ってください。御茶を入れましょうね」


 神は客人にリビングのソファへ腰かける様に勧めた。

 だが、この客は呑気に腰掛けたりしなかった。

 キッチンへと向かう神を追って客が付いていく。


「御茶でしたら私が入れますわ」


 この部屋はリビングとキッチンが一体となっていて、対面式のシステムキッチンがリビングから見えるようになっている。

 日菜子がリビングのソファに腰掛けていれば神と編集者のやり取りは丸見えだ。

 編集者は何ら臆することなく日菜子の目の前で神に馴れ馴れしく接触していた。


「コーヒーと紅茶、どちらが御好きですか?そうだ、僕の作った柚子茶もありますよ」


 神は冷蔵庫から柚子シロップの瓶を取り出して愛想良く笑った。


「神山さんの手作りなんですか!ぜひ頂きたいです!」


「でもこれは甘い御菓子とは合わないかもしれませんねえ……良ければ御分けしますのでお家で飲んで下さい。寝る前に飲むと暖まりますよ」


 このやり取りを見て、日菜子の中に決意が生まれる。

 弱気になっていては勝てない。

 この人に限ったことではなく誰もが日菜子になら勝てると思うのだから。

 この裕福な見目好い男を日菜子から奪うのは簡単なはずだと。

 これから先、たくさんの女が挑戦してくるだろう。


「私、コーヒーが好きです。神山さんは何をお飲みになりますか?」


「今日は気温が少々低いので白湯にします」


「……白湯?」


 神はコーヒーカップにドリップバッグを乗せて御湯を注いだ。

 コーヒーの香りが室内に流れる。


「日菜子さん、コーヒーを取りに来てください」


「あ、はい!」


 神は日菜子に動くよう指示した後、優しい調子で客人に声を掛ける。


「どうぞ、あちらのソファにお掛け下さいね」


 日菜子は対面キッチンのカウンター越しに神が渡して来たトレーを受け取る。

 コーヒーが二つとカステラの乗った小さな皿が二つ、土産のマカロンは大きめの菓子皿に行儀よく並んでいた。


「あの、どうぞこちらへ」


 日菜子は客をリビングの方に連れて行こうと声を掛けたが無視された。

 客はキッチンの神から離れようとしない。

 神が自分専用の湯呑に白湯を注ぎソファへと戻るまで、ぴったりと傍に付いていた。


 リビングのソファは二人掛けでテーブルを挟んで対になっており、神は日菜子の隣に腰掛ける。

 編集者は神の隣を諦めて一人で座るしかない。

 ようやく腰掛けた客に、日菜子は少々威圧的な口調で編集者に問う。


「御持たせで申し訳ありませんがどうぞ。ところで何の用ですか?打ち合わせは先日の電話で済みましたよね」


「えー……怖ーい。たまには様子伺いに来ても良いじゃない」


 編集者は脅えた表情を見せてから、神に助けを求めるような視線を送った。

 その媚びた様子に日菜子は苛立って冷静さを失ってしまい、手元に在ったマカロンを編集者の胸元へと投げつけた。

 編集者は驚いて短い悲鳴を上げた後、泣き出しそうな顔で神を見詰めた。

 被害者ぶって神から同情を買おうとしての行動だろうが、神が発した言葉は編集者が望んだものとは違った。


「日菜子さん!食べ物を粗末にしてはいけません!!」


 神の剣幕に、日菜子は怯んで直ぐに謝罪した。


「ごめんなさい……」


「どんな食べ物にも素材の命や作った人の苦労が含まれています。粗末にしてはいけませんよ」


 神は小さな溜息を吐いた後、日菜子を膝の上に座らせた。

 小動物を扱うように頭を撫でながら気遣うように優しく声を掛ける。


「日菜子さん、随分と機嫌が悪いですね。どうしたのですか?」


 日菜子は強く思う。

 この冷たい手を失いたくない。

 居心地の良い神の膝を失いたくない。


 神は、編集者をチラリと見て声を掛けた。


「申し訳ありません。お仕事の用件でしたらマンション内のカフェでお待ち下さい。落ち着いたらお呼びしますから」


 編集者は慌てた様子で立ち上がり、特に用は無いことを告げると足早に出ていった。

 日菜子の表情が和らいだことを確認した神は声を掛ける。


「癇癪を起した理由を話して下さい」


 その言葉に、日菜子は動揺する。

 神には言えない身勝手な妄想の言葉が脳裏を過る。


 ――神は私の虜となり二度と離れることが出来ない。


 これが、花火大会の夜に願った身勝手な妄想。

 この呪縛が解けない限り、神は日菜子から離れられないはずだ。

 だが神と関わる女の誰かが妄想したらどうなるのか。

 自分の妄想が掻き消され、新しい妄想に塗り替えられたら……。

 その不安が過ると涙が浮かんでくるほど辛くなる。


「だって太郎君は誰にでも優しいから」


 神の指先が、日菜子の目尻を拭いた。


「そんなこと心配していたのですか?僕は神だから誰にでも優しいのです。でも大丈夫ですよ。日菜子さん以外の人間に特別な感情を持つことは絶対にありませんから」


 神は慈悲深い笑顔を見せた。

 それは先程の客に見せていた笑顔と同じだ。

 神だから仕方ない。

 どの人間にも区別なく優しさを施すのだ。


 理解は出来ていても不安になってしまう。

 日菜子は不安の種を解消する為に質問をした。


「例えば私以外の誰かが太郎君のことを妄想したら……太郎君がその影響を受けないのですか?」


「それは大丈夫かと思います。今の僕は人間の振りをしていますから。日菜子さん以外の人間が、どのような妄想をしたとしても、神として認識してなければ影響は受けないはずです。だから日菜子さんが誰かに僕が神であることを教えたりしなければ絶対に大丈夫ですよ」


「だ、誰にも話したりしません!神罰なんて受けたくありません!」


 神は慈悲深く微笑む。


「信じていますよ、日菜子さん。それから……」


 神はマカロンをジロリと見た後、言葉を続けた。


「先程の様な人は僕の好みとは程遠いです。他人の家の台所に入ってくるなんて失礼な人です。日菜子さんはあのようなことをしては駄目ですよ」


「でも優しくしてたじゃないですか!私に作ってくれた柚子茶も分けてくれようとしてたし」


「随分と薄着の女性でしたから風邪防止のためにお渡ししようと思いましたよ。だって風邪をひいたら可哀想でしょう」


「あの人は風邪をひいても自業自得です!わざと胸元を開けて生地の薄いペラペラした服を着ているんです!」


「……なぜですか?人間は寒さに弱い筈なのに」


 神の思考は日菜子の想像では追いつかない。

 日菜子は面倒になり適当に説明した。


「きっと暑がりな人なんですよ」


「そうですか。体感温度は人それぞれですからねえ」


 日菜子は安心する。

 神の説明通りであれば日菜子以外の人間の妄想は無効だ。

 それ以上に、この神は現代を生きる女性が取る一般的な方法では落ちないだろう。

 他の女に取られるかもしれないなど、そんなこと悩む必要は無いようだ。

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