第12話

 神はベッドの脇に腰掛けて日菜子へと近づく。

 神の体は氷のように冷たく、日菜子の頭を撫でる手も氷のように冷たい。

 日菜子は、その懐かしい温度に縋り付いた。


「お見舞いに来ましたよ、日菜子さん」


 神との再会。

 日菜子は喜びを全身で表わして神に縋り付いたのだが、その数秒後には冷静さを取り戻したかのように謝罪しながら体を離した。


「ごめんなさい、思わず……」


 目覚めてから後、日菜子は記憶の混乱から起きる恐怖に怯えていた。

 正体不明の恐怖感は何だったのか神に会えて気付く。


 会いたいと思い願うはずの神を忘れていく焦りや不安から起きている感情だったのだと。

 そんなにも会いたかったはずなのに、今の日菜子は神と過していた時のように積極的になれなかった。

 神は、日菜子の遠慮がちな態度を不自然に思い、首を傾げた。


「日菜子さん?」


 呼び掛けられても、日菜子は返事をしない。

 神は彼女の気を引こうとして指先で頬をくすぐる。

 日菜子が嫌がって怒り顔を向けてくるだろうと予測した行動であったが、日菜子は顔を背けて指先から逃げるだけだった。


「あの、私……もとの姿に戻ってしまったから」


 今の日菜子は、神から借りていた可愛らしい容姿ではなく元の姿に戻っていた。

 神からは元々の姿のままで可愛らしいと何度も言われているのだが、咄嗟の行動では日菜子の奥底に根付く保身する為の術が勝ってしまう。


 拒絶されて傷付くなら最初から近寄らなければいい。

 日菜子は幼少期からの経験で諦めてしまっているのだ、自分が馴れ馴れしくして喜ぶ異性など居るわけがないと。


「日菜子さん?……では、そのままで聞いてください」


 神は、日菜子の視線を向けさせることを諦めて話し始めた。


「本当なら僕達は再会すべきではありませんが、どうしても果たさねばならない用事が有って訪ねました。日菜子さんの記憶から僕に関する事を消そうとしているのですが、どうしても完全に消し去ることが出来ません」


 この言葉に反応し、ようやく日菜子は神へと視線を向けた。


「私は太郎君を忘れたくないと願いました。その影響でしょうか?」


「それはありません。人間が願ったところで僕の力が働かないとは思えません」


 日菜子は寂しそうな表情を浮かべ、また視線を落とした。


「そうですか……」


「記憶が消えていれば僕を見ても誰だか分からなくなるはずなのに、すっかり思い出していますね。申し訳ありません、僕の不手際です」


「あの……私、太郎君のことは誰にも話しませんから……お願いします、記憶を消さないでください」


「それは無理です」


 神は強い口調で否定をした後、日菜子の腕を掴んだ。


「こちらへ来てください」


 神は強引に日菜子の体を引き寄せた。

 日菜子の軽い体では抵抗など出来る筈が無く、なすがままに抱き寄せられる。


「僕が此処に来た理由は至近距離で記憶操作をする為です。僕を見ても誰だか思い出さないよう完全に消します」


「止めて下さい!」


 日菜子は抵抗しようと体を捩る。

 だが神の腕力は強くて日菜子では敵わない。

 日菜子は、神の腕を弱める言葉を思い出して呟いた。


「痛いです、太郎君……」


 日菜子の思惑通り、神は腕の力を弱めた。


「ごめんなさい、大丈夫ですか?」


 日菜子はベッドから立ち上がり、神と距離を置く為に部屋の隅まで走った。

 その些細な抵抗に神は苛立ったように溜息を吐く。


「太郎君、教えてください」


 神は立ち上がると、日菜子へと近づいていく。

 日菜子は追い詰められる緊張感に体を強張らせながらも質問を続けた。


「どうして私は元通りの容姿に戻ってるんですか?私の妄想は自分を可愛らしい容姿に代えたはずです。元の体に戻っても顔立ちは可愛いままだと思ったのに!」


 神は、壁際に立つ日菜子の前に辿りつくと質問に答えた。


「以前にも説明したはずです。人間の妄想とは神や妖怪を作り出すだけです。自分自身の姿を変えるほどの力を持つことはありません」


 神の答えを聞き、日菜子は落胆した。


「本来の姿で、日菜子さんは充分に可愛らしいですよ」


 神の言葉は日菜子を苛立たせた。


「そんな御世辞は止めてください!可愛い筈ないじゃないですか!!」


「神は人間に世辞など言いません。日菜子さんは御人形のように品ある御顔立ちで愛らしいですよ」


 壁際に立つ日菜子の逃げ道を塞ぐように、神の両手が日菜子の左右に置かれた。

 その威圧感に日菜子は身を竦めたが言葉では抵抗を続ける。


「だ、だから御世辞は必要ないです……。教えてください、私は漫画家の仕事を続けたいと願ったから元の体に戻れたんですよね?それは私の妄想を現実にする力が働いたと思うのですが違うんですか?」


「それも先程の説明と同じです。妄想で職業を決めることなど出来ません。日菜子さんが漫画家となったのは実力であり妄想は関係ありません。たかが人間の妄想に其処まで強い力はありません」


「では何故、元の体に戻れたんでしょうか?」


「僕が正解を知っているなら苦労しませんよ。状況からの仮説は立てられますが憶測に過ぎません」


 日菜子は仮説について質問しようかと思ったが、直ぐに気持ちを切り替える。

 過ぎた物事の原因よりも、今は願いを聞き入れてもらうことが先決だ。


「あの……どうしても太郎君に関する記憶は消さなきゃ駄目ですか?」


 神は、きっぱりと言い下す。


「はい、消さないという選択肢はありません」


 だが日菜子は引き下がることなく情に訴えるように語る。


「私、太郎君を忘れたくないんです。お願いします、誰にも言いませんから!」


「日菜子さんは、忌み嫌われる存在の僕を受け入れてくれました。このような僕の気持ちが邪魔して神力を鈍らせているのかもしれません。僕は駄目な神です」


「では消さずに……」


 神は首を横に振る。


「僕に関する記憶は消します」


 日菜子としては些細な願い事だと思えるのに、どうしても神は首を縦に振ってくれない。

 神の冷たい手が日菜子を抱きしめた。

 日菜子は記憶を消される危機感に体を捩るが敵わない。

 神の冷気で日菜子の体が冷たくなっていく。


 感覚が麻痺していく。

 気を強く持とうとしても睡魔には勝てなかった。




 日菜子が目を開けると、目の前に見えたのは白い天井であった。

 周囲を見回すと病院のベッドに戻っていることに気付く。

 そして、此処に戻ったという意識に不自然さを覚えた。


「あら、日菜ちゃんが起きましたよ」


 母の声がした方を見ると、祖父母と父が立っていた。


「お父さん!お婆ちゃん達も……お見舞いに来てくれたの?」


 父と祖父は安堵の言葉を述べて日菜子を気遣い、子供の頃から猫可愛がりしてくれた祖母に至っては涙を流して喜んでいた。


「日菜子、どこか痛いところはないのか?体の調子はどうなんだ?」


 父の質問に、日菜子は笑顔で答えた。


「うん。平気、体調は問題ないよ」


 問題あるはずがない。

 眠っている間は神の庇護下で暮らしていたのだから。

 全く記憶が消えていないことに気付き、日菜子は動揺を露わにした。


「でも顔色が悪いぞ?大丈夫か?」


「あ、うん……大丈夫だよ。きっと寝起きだからだよ」


 祖母が気遣うように日菜子の頭を撫でながら優しい声で話しかけてくる。


「日菜ちゃん、お家に帰ってきたら?漫画のお仕事は東京じゃなくても出来るんでしょう?」


 祖母の言葉に母が相槌を打つ。


「そうね、きっと疲れが溜まって倒れたのよ。お家ならお母さんが面倒を見てあげられるし帰ってきたら?」


 日菜子は、優しく微笑みかける家族の顔を眺める。

 確かに実家に帰れば生活は楽になる。

 忙しくて正常な食事が取れないなんてことも無くなるだろう。

 だが、日菜子は帰ることを拒んだ。


「ううん、やっぱり東京の方が仕事しやすいし……大丈夫だよ」


 日菜子は、家族と暮らすことに不服など無い。

 だが家族以外の人間を思い出すと、地元に良い思い出など無いのだ。

 友達が少なく、容姿を罵られ苛められた記憶も多い。

 大人からは可哀想な容姿の子だと侮蔑的な言葉を吐かれた。

 

 東京なら仕事関係で知り合った人達しかおらず、勿論、幼稚な苛めを行なう人などいない。

 人気漫画家である日菜子を煽てて媚び諂う輩さえ存在する。

 

 だが地元に住む学生時代の知り合いとなると、大人になった今でも日菜子を馬鹿にするような視線を向けてくる。

 短期間の帰省ですら、その視線に居た堪れなくなり早々に東京へと戻ったこともある。

 そんな場所に永住などしたいはずがない。


「もう日菜子は大人なんだ。東京が住み良いなら、そうしなさい」


 父が、日菜子の気持ちを悟ったかのように言葉を掛ける。

 祖母は不満気な顔を見せたが何も言わなかった。


「失礼します」


 聞き慣れた声に、日菜子は跳ね起きた。

 声の主は病室の入口に立っていた。

 母親は見慣れない訪問者に声を掛けた。


「あら、お見舞いの方でしょうか?」


 日菜子は咄嗟に病室内を見回したが、今回は家族が消えることなく滞在したままだ。

 まさか神が普通に病室を訪れるとは予測しておらず、驚いた日菜子は、あんぐりと口を開けたまま神を見ることしか出来ない。


「日菜ちゃんのお友達?」


 母に聞かれ、違うとも言えない。


「あ……うん、お友達……」


 神を友達などと軽々しく言って良いのかと危惧したが、他に答えようもない。


「どうぞ、お入り下さいな」


 日菜子の母親は娘の男友達の登場に喜び、浮かれた調子で神に声を掛けた。

 だが父親は神の入室を制し、神の前に立つ。


「娘とは、どのような御関係ですか?」


 神は丁寧に御辞儀をした後、自己紹介をした。


「僕は神山太郎と申します。御挨拶が遅くなり申し訳ありません。日菜子さんと親しくお付き合いさせていただいております」


 神の言葉に驚いた父親は、娘である日菜子へ鋭い視線を向けた。


「日菜子!本当なのか?お、お前!だから東京から離れたくないのか!!」


 言葉を荒げる父を宥めようと、母の手が父の肩をポンポンと叩いた。


「まあまあ。お父さんだって言っていたじゃない、もう日菜ちゃんは大人だって」


「それとこれとは別だ!」


 日菜子はベッドから降りてスリッパを履くと、素早い動きで父の脇を通り抜けて神の腕を掴んだ。


「ちょっとお茶してくるから!」


「待ちなさい、日菜子!」


 父の呼びとめる声を無視して、日菜子は神の腕を掴んだまま小走りにエレベーターへと向かった。


「日菜子さん、何処へ行くのですか?」


 神が発する間の抜けた質問に日菜子は苛立ちを覚えて声を荒げた。


「何処でも良いです!あの場所に居辛かったんです!」


 エレベーター前に辿りつき、日菜子は下へ向かうボタンを押す。


「では本当にお茶しましょうか」


 神が穏やかな口調で提案をしてきたが、日菜子は返事をしなかった。

 エレベーターに乗り込み、ドアが閉まると同時に日菜子は叫んだ。


「酷いです太郎君!突然来るなんて!!」


「大きな声を出すとエレベーターさんがビックリして落ちちゃいますよ」


「落ちません!!」


 叫んだ後、日菜子はエレベーターの動きに意識を向けると、下ではなく上に向かって動いている事に気付いた。


「先程から何を怒っているのですか?僕は日菜子さんの御家族に御挨拶をしただけなのに」


 エレベーターが目的の階に着くと、神は開ボタンを押して日菜子に先に出るよう促す。

 一歩出た日菜子は戸惑いの表情を浮かべて立ち止まってしまい、神から肩を軽く押される。


「行きましょう」


 そこは見慣れた場所、神と暮らしたマンション内の廊下だった。

 廊下を歩きながら神は話を始めた。


「困ったことに全然記憶が消えないのですよ」


「はい、あの……そういえば全く消えてないのですが」


 神は、日菜子の方をチラリと見た。


「僕は万能のはずなのに。どうにも日菜子さんに関わると無能になってしまうようです。可愛い生贄を手放したくなくて消せないのか……はっきりとした原因は分かりません」


 玄関前に着くと、神はドアを開けて日菜子に入るよう促す。


「おじゃまします……」


 神は少し笑って返事をした。


「はいどうぞ、御遠慮なく。数日前まで自宅として過ごしていたのに可笑しいですね」


 日菜子はスリッパを脱いで室内へと入り、辺りを見回す。

 改めて眺めれば、本来の自分などが暮らせるような場所ではなく、あの日々は神に与えられた分不相応な暮らしだったのだと思う。


「腰掛けてください」


「あ、はい!」


 日菜子は三人掛けのソファの隅に座った。

 神はキッチンへと向かい、丁寧に手を洗った後、冷蔵庫から日菜子用にと冷やしてあったアイスティのペットボトルを取り出す。


「何もかも、まだ日菜子さんが暮らしていた時のままにしてあって……此処に独りで暮らすのは少々寂しいです」


 神はトレーにグラス二つと御手拭き用のハンドタオルを乗せてリビングへと戻り、日菜子の隣に座った。


「そんな隅っこに座らず、こちらにいらっしゃい」


 神に手招きされて日菜子が近づくと、神はハンドタオルで日菜子の手を拭き始める。


「ありがとうございます……」


 過去には抱きついたりしたくせに、こんな風に手を拭かれると照れくさくなり日菜子は恥ずかしそうに俯く。


「日菜子さんの手は小さいですね」


 手を拭き終わると、神はテーブルにグラスを二つ置く。

 一つにはアイスティ、もう一つには炭酸水が入っていた。


「いただきます」


 御礼を言ってから、日菜子はアイスティを口に含む。

 この部屋で慣れ親しんでいた味が口中に広がった。


「あのウエイター……」


「え?」


「日菜子さんの朝食を運んでいたウエイターですよ。馴れ馴れしく日菜子さんの手を拭いたりしていたじゃないですか。腹立たしいです」


 日菜子はウエイターの態度や視線を思い出して溜息を吐く。


「あの人、今の私の姿なら手を拭いてはくれません。きっと視線すら合わせようとしないですよ」


「何故ですか?」


 神は、意味を理解出来ない様子で問う。


「だって人間の男は可愛い女の子にだけ優しいですから。今の私には優しくなんてしないと思いますよ」


「優しくしなくて結構。日菜子さんは僕のモノです。人間の男になど二度と触らせたくありません」


 軽い口調で大胆なことを言われ、日菜子は体温が上昇するのを感じた。


「それは……私が生贄だからですか?」


「それもありますが、記憶を消せない責任を取る必要が出て来たこともあります」


「責任?」


「はい。日菜子さんにご迷惑を掛けることになるかもしれません」


 神の冷たい手が日菜子の頬を撫でた。

 日菜子は冷たさにゾクリとした。

 その冷気は神に関わり続けることへの恐怖心を生んだ。


「あの……私の記憶が消せなくても大丈夫です。太郎君のことは誰にも話しませんから。責任とか気にしないでください」


「駄目です。人間の口約束など当てになりません。日菜子さんは僕との約束を破った前科が有りますしね」


 神は日菜子を軽く睨んだ。

 その視線に、日菜子は以前の体験を思い出して体を震わせた。


「ほ、本当に……本当に誰にも話しませんから……絶対に約束は破りません……」


 日菜子は、顔を引き攣らせながら絞り出すような声で固い決心であることを告げた。


「……日菜子さん?」


 神の手が再び日菜子の頬を撫でようと伸びた。

 それは日菜子の様子が不自然であることを心配しての行為であったが、日菜子は怯える様に手を避けた。


「何をそんなに怯えているのですか」


「い、いえ!あの……だ、大丈夫です」


 日菜子は首を大きく横に振った。

 あまりに激しく振った為に目眩を覚えてソファの背に頭を乗せた。


「嘘はいけませんよ。どう見ても怯えているじゃないですか」


 日菜子は神の様子を覗いながら答えた。


「だって……記憶を消せないから私の口を塞ぐのかと……せ、責任取るって……以前に首を絞められたことを思い出しちゃって、また怖い事されるのかなって」


 神は驚いて息を飲んだ。


「僕の責任の取り方はそんな方法ではありませんから安心してください」


 日菜子は怖々と質問をした。


「では、あの……神様が責任を取るってのは……どんな方法なんですか?」


 神は少々強引な力で日菜子を胸元に引き寄せた。

 日菜子の頭上で神の声がする。


「日菜子さんに取り憑きます」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る