第11話

 神がガーデンチェアから立ち上がった。


「部屋に戻りましょう」


 神の決定に日菜子は従わなかった。


「嫌です!花火大会は始まったばかりじゃないですか!」


「でも、長い時間を一緒に過ごすのは危険ですからね。そろそろ僕は消えますよ」


「嫌です!!」


 日菜子は立ち上がらず、強く首を横に振った。


「嫌って……駄々を捏ねないでください。もう説明してあるでしょう?僕の邪念が……」


 日菜子は神の声を遮って抗議した。


「太郎君が禊をして邪念を弱めた時でも元の体には戻れませんでした!悪影響だって無いかもしれないじゃないですか!きっと一緒に居ても大丈夫です!!」


「何か起きてからでは遅いのです。最悪の事態を想定して危険を防ぐことが大事です。部屋の中に入りましょう」


「嫌!!!!」


 日菜子は立ち上がらない意思表示としてガーデンチェアの背もたれを強く掴んだ。

 頑なに拒む日菜子に根負けして、神は再び腰掛けた。


「日菜子さん。此処で大きな声を出したら他の住人に迷惑ですよ」


「私は太郎君と一緒に花火が見たいんです!!」


 抵抗を示そうと背もたれを強く掴んでいた日菜子の両手に神の手が重なる。


「日菜子さんは神に逆らうことの怖さを知らないから困ります。悪い子には神罰を与えちゃいますよ」


「……花火を見たくらいで神罰が下るとは思えませんけど」


 神の指先が日菜子の甲を軽く抓った。

 日菜子の表情が歪む。


「酷いです、太郎君」


「日菜子さんが逆らうからですよ」


「ずっと部屋に閉じこもっているんです。たまに外に出ても良いじゃないですか!」


「この部屋での暮らしに不満がありますか?御希望通りに改善しますから部屋から出ずに大人しく暮らして下さい」


 日菜子は強い否定を表す為に首を激しく横に振る。

 今日の為に購入したカンザシがシャラシャラと音を立てた。


「ここでの暮らしに不満などありません。むしろ感謝しています。でもこのままでは、ただ時間が過ぎてゆくだけです。それが不安なんです」


「そうですか。人間とは無意味に過ぎる時間に不安を覚えるものかもしれませんね」


「ここでの暮らしで希望を叶えてもらえるなら以前のように太郎君と暮らしたいです」


 日菜子の切なる質問に、神は表情を曇らせる。


「申し訳ありません。生まれた邪念を消すことは難しいのです。僕は穏やかな神ですから暴れ出すことは無いでしょう。でも消えることもありません」


 日菜子は神を見上げた。


「分かりました」


 日菜子の発言を、部屋に戻ることに同意したと思った神が立ち上がる。


「では部屋に戻りましょうか」


 日菜子を立ち上がらせようと、神が手を差し出す。


「いいえ、違います」


「日菜子さん?」


 神の手を取り、日菜子は立ち上がった。

 そして強い視線で神を見上げる。


「私は私の為に妄想します。太郎君は私の妄想に従って下さい」


 日菜子の横暴な口振りに、神は戸惑い動揺した声を上げた。


「僕が従う?人間に?」


「この部屋で独りきりの間、どうして私は元の体に戻れないのか考えていました」


「そうですか。何か分かりましたか?」


 日菜子は強く頷く。


「私が元の体に戻れない原因は私の妄想癖にあると思います。私の妄想は神を生みました。私は妄想癖を持たねばならなかった。もしも私が可愛らしい容姿でチヤホヤされていたなら妄想による現実逃避などしなかった。私がコンプレックスを持つことは太郎君が神となるための必須条件でした」


「そうですね。僕が神となる為に日菜子さんは幼少期に辛い体験をしてしまいました。愚かな人間達から心無い事を言われた。とても可哀想なことです」


 表情を曇らせる神に、彼女は慌てた。

「いえ、それも太郎君と会えることに繋がるなら私には喜ばしい事です。太郎君は神になりたくなかったのでしょうけど……ごめんなさい」


 彼女は頭を下げた後、また話を続けた。


「神を生んだ私の妄想は特別な力を得たのかもしれません。その力は、可愛らしい容姿になりたい、憧れの高級マンションに住みたいという妄想をも現実としたのだと思います。妄想が叶って現実となった今、太郎君と出会う前の自分に戻ることは叶わないのかもしれません」


 日菜子の持論を聞いた神は首をかしげた。


「その結論が正しいなら元の体に戻れないのではないですか。ですが人間の妄想とは神や妖怪を作り出すだけです。日菜子さんが考えている様な其処までの力はないと思いますよ」


「でも試してみます。元の体に戻れるかもしれません」


 彼女の決意に神は寂しげな表情を浮かべる。


「日菜子さん、帰ろうとしているのですね」


「はい。もう一つ、私が妄想していたことを達成する為に帰ります。これは元の体に戻らなければ達成することが出来ませんから」


「もう一つの妄想とは何ですか?」


「漫画家になれたことですが、まだ目的は達成されていません。私は、私の中に巣食う妄想達を世間に晒す権利を得たはずなのに、他人から求められる作品しか書いていません。だから……」


 神は話を遮った。


「待って下さい。漫画家になれたこと?しかし人間が職業を選択する事は妄想とは違いますよ」


「それでも戻れる可能性が有るなら試してみます」


 日菜子は緊張を解きほぐすように深呼吸してから背筋を伸ばした。


「太郎君、一つ確認させてください。曾祖母の祈願は叶えて下さるのですよね」


「曾御婆様の祈願は既に叶えられています。日菜子さんは美しく育ちました」


「いいえ、私は美しく育っていません。曾祖母の祈願は曾孫を美しくすることではなく祠の神様の元に嫁がせることですから。約束通り生贄にする為に迎えに来てくれますか?」


「それは勿論。必ず行きますよ」


 神は約束の意を表すよう慈悲深い笑みを浮かべた。

 日菜子は思い詰めた表情を見せた後、神へと抱きついた。


「日菜子さん駄目です、僕に近づき過ぎては……」


「私は目的を達成するために漫画家へと戻ります。元に戻っても太郎君のこと絶対に忘れません」


 日菜子の言葉に反論しようと、神は口を開いた。


「無理ですよ、神と過ごした日々など記憶に残すわけにはいきません」


 神が告げた言葉は日菜子には伝わらなかった。

 既に、神の目の前から日菜子は消えていたから。



 ***



 日菜子は、長い眠りから覚める様に穏やかに目を開いた。


「日菜ちゃん!」


 不意に名前を呼ばれ、声の方を見ると母親が驚いた表情で立ち尽していた。

 親元を離れて一人暮らしをしているのに、何故、母親が傍に居るのだろうか。

 そんな疑問を感じ、日菜子は周囲を見回した。


 白い天井、蛍光灯、白い壁。

 日菜子は、自分の居場所が自宅ではなく公立病院等の典型的な個室であることに気付いた。


「お母さん……」


 日菜子は母親に声を掛けたが、母親は酷く慌てた様子で頭上にあるナースコールに話しかけていた。


「娘が!娘の意識が戻りました!」


「お母さん、私どうしたの?」


 母親は興奮を抑えてから、日菜子に優しく話しかけた。


「日菜ちゃん、一ヶ月以上も眠り続けていたのよ。目が覚めて良かったわ」


「一ヶ月……?」


 日菜子は記憶を辿ろうと視線を泳がせた。

 病室に医者と数人の看護師が急ぎ足で入ってきた。


「私……そんなに寝てたの?じゃあ原稿は?連載はどうなってるの?」


 起き上がろうとする日菜子を、医者と看護師が制した。

 宥める様に母が優しく話しかける。


「大丈夫よ、大丈夫!休載ということになっているから」


 看護師の優しい手に促されて、日菜子は再び横になった。

 日菜子は冷静になろうと意識を巡らすが頭の中は霞が掛かったように曇っている。

 何か大切なことを忘れているような気がしてならない。

 それは仕事の事だろうと思ったのだが違う。


 日菜子はカチャカチャと金属音がする方へ無意識に視線を送る。

 音の主は看護師で運んできたカートの上で何やら準備作業をしていた。

 思わず見てしまったカートの金属部分には自身の顔が映っており、日菜子は咄嗟に視線を逸らした。

 醜い自分を再認識させられるような物など、髪を整える等の必要に迫られた時以外は見たくないのだ。


「あっ……」


 日菜子が、思わず声を漏らす。

 娘の声に反応した母親が声を掛けた。


「どうしたの?」


「ううん、何でもない。眠っている間に見ていた夢を思い出したの……」


 日菜子は夢の内容を細かく思い出そうと記憶を探る。

 眠っている間に見ていた夢に“忘れている大切な何か”が在るような気がするのだ。


 夢の中の自分は丁寧に作られた人形のように可愛い女の子だった。

 綺麗なマンションに住んで……誰かと一緒だったような……。


 頭の中を探っても漠然とした内容しか思い出すことが出来ず、日菜子はイライラとした感情に支配される。

 夢の中で可愛い女の子になれたって仕方が無いのだ。

 現実の自分は醜いのだから。


 夢は夢でしかない。

 自分の姿は先程カートに映った通り醜いのだ。


 醜いのだ……そうだろうか、自分は醜いのだろうか。

 違う、妄想が現実となり自分は可愛らしい容姿になったのだ。

 そんなことを不意に思うが、日菜子は直ぐに自分自身の気持ちを否定した。

 夢の中の出来事を現実のように感じる程、愚かでも幼くもないはずだと。



 ***



 目が覚めてから数日後、まだ日菜子は病院に居た。

 体に起きた異変の原因を探る為の検査が続けられていたが、どんな検査を行なっても異常は見つからなかった。

 日菜子自身も体調不良を訴えることは無い。

 ただ、精神面は非常に不安定で日菜子を苦しめていた。


 何かに自分の顔が映るたびに漠然とした違和感を覚える。

 いつも通りの自分自身が映るのだが日菜子は納得が出来ない。

 夢の中の愛らしい容姿が自分の本当の姿のような気がしてならない。


 大人として理屈では分かっているのだ。

 そんなはずは無い、夢は夢でしかない。


 ベッドの上で考え込んでいる日菜子の思考を遮るようにカチャカチャと音を立てながら何かが廊下を通った。

 日菜子はベッド脇の時計を確認し、昼食のワゴンが来たのだと気付く。


 寝てばかりで空腹を感じる間もなく次の食事の時間が来てしまうのだが、入院患者は管理された食事を取るのが義務であり拒否などすれば看護師が心配顔でやってきてしまう。

 母親を見ると、パイプ椅子で転寝をしていて目覚める気配はない。

 日菜子はベッドから抜け出して廊下に置かれたワゴンへと歩く。


 ワゴン傍には、入院患者の付添をしている人らしき若い男が立っていた。

 長身、黒い髪に黒いシャツ……日菜子は何かを思い出す。


「太郎君のところに帰らなきゃ」


 呟いてから気付く。

 太郎君とは誰の事だろうか?

 自分で口走ったことに、自分が不思議に思う。

 日菜子は記憶を探ろうと考え込むが太郎という人物は思いつかない。


「ちょっと、ごめんなさいね」


 声を掛けられて、自分の立っている場所が廊下の真ん中だと気付いて端の方へと歩く。

 きっと長い眠りから覚めたばかりで頭が混乱しているのだろうと結論付けて、ワゴンへと近づき自分の名前が書かれたトレーを取り出す。


 病室へ戻ろうと足を踏み出した時。

 日菜子の動きに合わせて長い髪がサラサラと揺れた。

 その不自然さに日菜子の動きが止まる。


(私の髪は、こんなに長かっただろうか……?)


 日菜子は、金属製のワゴンに映る自分自身の姿を見た。

 そこには夢の中の可愛らしい女の子が映っていた。


 日菜子は強い目眩を覚えてトレーを落とし、立っていることが出来ずにうずくまる。

 激しい物音に驚いた看護師数人が走り寄ってきた。

 日菜子は看護師に名前を呼ばれていることに気付くが答えることすら出来ない。


 自分に起きたことが怖くてたまらない。

 恐怖と怯えで体の震えが止まらず呼吸が苦しくなっていく中、日菜子は助けを求めた。


(怖い、怖い太郎君!!助けて神様!!)


「困りましたね、完全には記憶が消えないようです」


 その聞きなれた声に、日菜子は顔を上げた。


「太郎君……」


 日菜子の視線に合わせる様に神は跪く。

 神の冷たい手が日菜子の頬を撫でた。


「大丈夫、日菜子さん。何も怖くないですよ」


 咄嗟に、日菜子は目の前の体に縋り付いた。


「大丈夫ですよ」


 縋り付いた体は暖かく、日菜子は違和感を覚えて相手の顔を見る。

 そこには優しく笑う女性看護師が居た。


「病室に戻りましょうね」


 日菜子は周囲を見回したが、神の姿を見つけることは出来なかった。


「ごめんなさいね、日菜ちゃん。お母さんが運べば良かったね」


 声を掛けられた方を見ると母親が立っていた。

 日菜子は看護師と母親に支えられるように病室へと戻った。

 ベッドに横になると、日菜子は母に声を掛ける。


「お母さん、鏡が見たい」


 母親は自分の鞄から折り畳み式の鏡を取り出して日菜子へと渡した。


「はい、どうぞ」


 日菜子は鏡を覗き込む。

 そこには、いつもと変わらない醜い姿の自分が映る。

 幼い頃から大嫌いな自分の顔だ。

 日菜子は安堵して鏡を枕元に置いた。

 やはり長い眠りから覚めたばかりで混乱しているのだろうと結論付ける。


「大丈夫ですか?食事は取れそうですか?」


 看護師に様子を尋ねられた日菜子は、誰かに同じように食事の心配をされた記憶があることに気付く。


「あ、はい。大丈夫です……」


 数分後、先程の看護師が代わりの昼食を部屋まで届けてくれた。

 ベッドテーブルの上に昼食トレーを置いた後、看護師は日菜子に優しく声を掛ける。


「無理しないでね、また目眩が起きたら直ぐに呼んでください」


「はい、ありがとうございます」


 日菜子は体を起こして箸を取り、茄子の煮浸しを一口食べた。

 ゆっくりと租借しながら記憶を探す。

 私の食事を心配していたのは誰なのか……。

 食事を運んでくれていた。

 そうだ。カフェの制服を着ていた。

 長身でスタイルが良く、フォーマルな制服を品よく着こなしていて……だが、それは夢の中に出て来た人物だ。

 なのに、どうして現実のように感じてしまうのだろうか。


 やはり夢の中で起きたことは現実なのだろうかと思った途端、日菜子の中に再び恐怖心が沸き起こる。

 日菜子は箸を必死に動かして食べることに集中して恐怖心を忘れようとした。

 大きな口を開けて、ゴロッとしたサツマイモサラダを頬張ってから気付く。


 こんな食べ方をしては神に叱られてしまう。

 食べ物を喉に詰まらせないようにねと、注意されてしまう……。


 日菜子の箸が止まる。そうだ、大量のキャラメルを喉に詰まらせたのが切っ掛けだ。


「やはり何度試しても記憶が消えませんね」


 声に驚き、日菜子が顔を上げるとベッド横に神が立っていた。

 黒いスーツに黒いネクタイ、黒いシャツ、そして黒い髪。


 外見は不気味なほど黒尽くめなのに、表情だけは慈悲深く穏やかであった。


「太郎君……」


 カチャリと静かにドアが閉まり、病室内は静寂に包まれる。


「申し訳ありませんが、日菜子さんのお母さんには出掛けてもらいました。これから暫くの間、この部屋には誰も侵入出来ません」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る