第10話

 ネイリストが帰った後、日菜子は来客での人疲れからソファに横たわった。

 日菜子は仕上がったばかりのネイルを眺めながら神と自分の繋がりについて考えた。


 神と人間の持つ時間の概念は同じではないと説明を受けたことがある。

 神の持つ時間の流れは一直線ではなく、電波を探している時の電波時計のようにグルグルと回っている。

 その針先が人間達の妄想を受信し、原点となる妄想から神が生まれ、更なる妄想の群れが神を造り上げていく。


 神山太郎。

 この神が生まれる為には自分の妄想癖が重要なのだ。

 これが無ければ少年は神にならず人間のままだったろうから。

 その重要なる妄想癖を、自分が患ってしまった理由。

 それは醜いと蔑まれる現実が嫌で妄想へと逃避し続けたからだ。

 もしも可愛らしい容姿の少女であったなら妄想の世界に逃げなかっただろう。


 少年が神となる為には醜い少女の妄想癖が必要。

 そして神の生贄になる為には曾祖母の願いが叶うことが必要。


 であれば、やはり大人になったら綺麗にならねばならない。

 もう元の姿に戻ることは出来ないのかもしれない。

 しかしそれでは神は此処に戻ってくることが出来ない。

 やはり八方塞かと日菜子はイライラとした感情を覚え、頭をクシャクシャと掻きたい衝動に駆られたが、先程仕上がったばかりのネイルアートを気遣って手を止めた。


「可愛い……」


 日菜子は爪を眺めながら呟いた。

 白地に紺の花模様のデザインは、通販サイトで購入した浴衣に合わせてある。


 過去、どうせ似合わないからと可愛い服や可愛い物を全て我慢してきた。

 醜い自分が分不相応な服装をして罵られるくらいなら着ない方がマシだった。

 だが現在の可愛らしい姿であれば、どんな物だって臆することなく手を伸ばすことが出来る。




 深夜。彼女は体に異変を感じる。

 今夜だけの事ではなく、数日前から起きている現象だ。

 彼女自身、恐らくは精神的な事から起こる身体疾患だろうと見当をつけていた。

 

 元の体に戻る方法が見つからず、漫画家としての仕事を続けることも出来ない。

 神の部屋に居ながらも神と会うことも出来ない。

 この状況が自分を苦しめていることは自覚しているのだ。

 夜中に目が覚めてしまい、暗闇の中で漠然とした不安に襲われて眠れなくなる。

 追い打ちを掛ける様に息苦しさと腹痛に悩まされて、さらに眠れなくなっていく。

 日菜子はベッドから抜け出して床に置きっぱなしのアロマライトへと近づく。

 神が彼女の為に買ってくれた白檀の精油を上皿へと垂らす。


「このくらいかしら……」


 コンセントを入れるとアロマライトが柔らかな光を放つ。

 日菜子はベッドへと戻り、ガーゼケットの中へと潜りこむ。

 暫くすると白檀の香りが寝室内に立ち込めてゆく。

 いつもなら気持ちが落ち着いて眠りの世界に戻れるのだ。

 だが今夜は何故か目が冴えてしまう。

 指先を見ると施されたばかりのネイルアートが可愛らしい。


 日菜子は今日の会話を思い出していた。

 ネイリストに意地悪な発言をしてしまった。

 どうしてくだらない優越感に浸った様な発言をしてしまったのか。


 容姿が変われば性格も変わってしまうのだろうか。

 彼女は自分自身の発言を思い出すと情けない気分になって寝付けなかった。


 日菜子は大きな溜息を吐いた後、リビングへと移動する。

 眠れないのにベッドへ戻っても仕方が無い。


 日菜子はリビングテーブルの前に苺型の座布団を置き、ソファを背もたれ代わりとして腰掛けた。

 気を紛らわすためにノートパソコンを立ち上げてインターネットを始める。

 しかし何かを検索する気分にもなれず無料ゲームサイトを開いた。

 無料で出来る単純なパズルゲームを無心で続ける。

 単調なゲーム音楽は眠気を誘う。

 そのままゲームを続けていると途中で意識が途切れてゲームオーバーになってしまう。

 だがベッドへ戻る気分にはなれなかった。

 静かな場所では寝付けないような気がして、日菜子はソファに寄りかかったままウトウトと浅い眠りに落ちたり、また目を覚ましたりを繰り返していた。

 そのうちに深い眠りへと引き摺り込まれ、次に目を覚ました時、日菜子はベッドの上に居た。

 目が覚めた時は気付かなかった。

 だが意識が明瞭になっていくうちに不自然であることに気付く。


「なんで……?」


 リビングで転寝していたはずなのにベッドの上で眠っている。

 寝ぼけたままベッドへと移動してきたのだろうか。

 思い出そうとするが歩いた記憶は無い。

 眠っていた時の記憶を探ると神の夢を見たような気がした。


 しかし、それは今夜に限ったことではなく数日毎に神の夢は見ている。

 冷たい手で頭や頬を撫でられて名前を呼ばれる夢だ。

 会いたい気持ちが見せるのだろうと思うと日菜子の胸がチクリと痛む。


 サイドテーブルの時計を見ると短針は七時近くを指している。

 直ぐに身支度を済ませなければルームサービスに間に合わない。


 寝室を出て、まずは日課である花瓶の水を交換しようとリビングテーブルの方に視線を向ける。

 そこで日菜子は体を硬直させた。


「夢じゃないんだ……」


 神は日菜子が眠っている夜中に戻って来ているのだ。

 ノートパソコンはスリープ状態ではなく電源が切られ、座布団は片づけられていた。

 そこまでなら、もしかしたら寝ぼけた状態でも日々の癖で行なったかもしれない。


 間違いなく神が来ていた証拠が残っていた。

 花瓶に生けられている花が変わっているのだ。


 向日葵とヒペリカムは無くなり、代わりに色取り取りの千日紅が咲いていた。

 日菜子は花瓶の前に力なく座り込んだ。


「そうだ、ストロベリーフィールド……」


 昨夜、神は居た。

 眠っている自分の耳元で「これは千日紅、朱色の花は苺に似ているのでストロベリーフィールドとも呼ばれています」と教えてくれた。

 そしてベッドへと運んでくれた。

 あれは夢じゃなかったのだ。

 日菜子は、神の名を呼んだ。


「太郎君……」


 日菜子は花瓶へと近づき、花に手を添えた。


「太郎君、お花ありがとうございます」


 日菜子は花を眺めていると気持ちが落ち着いていくのを感じた。

 神は、神となったことを不運だと言っていた。

 だが自分自身は、この運命を嫌わずに神と出会えたことを幸運と思ってしまおう。

 数千年前に生まれた少年。

 神となってくれなければ出逢えるはずもない相手だ。


 容姿を罵られ続けたことに意味があるのなら、醜く生まれたことを悔やむことはない。

 日菜子の目に、涙が溢れて来た。


「駄目だ」


 日菜子は両手で涙をふく。

 泣くという行為など何一つ解決しないことは分かっている。

 日菜子は立ち上がった。

 神の言いつけ通り、きちんと身支度をして朝のルームサービスを迎えるためだ。




 数日後、ネットで通販した浴衣が届いた。

 段ボール箱から浴衣を取り出して確認すると、日菜子は不満を呟いた。


「ちょっと色が違う……」


 やはりネットで見る色と実物の色は違うものだ。

 しかし店頭へ出向けないのだから仕方がない。

 紺色の地に桃色の小花を想像していたのだが、これは藍色に近い。


 日菜子は箱の中に詰まっている品物を一点ずつ確認していく。

 浴衣など幼い頃に着せてもらったきりで、何が必要なのかも分からないので帯や下着までセット買いをしたのだ。

 帯を結べる自信がないので結び帯を選んだ。

 これなら自分一人でも着ることが出来るだろう。


 浴衣の柄に合わせて購入したカンザシと、黒地に白い小花が描かれた下駄も同梱されていた。


 日菜子は浴衣を眺めながら、曾祖母と行った夏祭りを思い出した。

 幼い頃に過ごした村には夏祭りが無く、隣村にある神社まで二人で歩いたのだが、老婆と幼児の足では遠かったことを覚えている。


「なんで祭りが無かったのかな」


 呟いてから気付く。

 祠が廃されたから祭りが無いのだ。

 神が祀られていた祠は小さくて、昭和初期に隣村の神社と合祀されて廃されたと神は言っていた。

 放置された祠には、曾祖母のような年寄りが昔の名残で参拝に訪れるだけとなったと。


 日菜子は夏祭りの記憶を辿る。

 曾祖母と隣村の夏祭りへ向かう前に祠に立ち寄った記憶がある。


 そうだ。

 昔は、この祠でも夏祭りが行なわれていたのだと曾祖母から言われ、隣村へ行く前に立ち寄って参拝していた。


「あれ……?」


 呟いた後、日菜子は嬉しそうに浴衣を見ながら微笑んだ。

 とても幼い時に聞いた話とはいえ、どうして今まで思い出さなかったのか。


「そっか、曾婆ちゃんが見たのは太郎君だ」


 曾祖母は幼い頃に神を見ているのだ。

 日菜子は曾祖母から聞いた話を詳しく思い出そうと目を閉じた。


 曾祖母が幼い頃に体験した不思議な出来事だ。

 七歳になった年の夏祭りで、村の者ではない若い男を見掛けた。

 その男は、祭りに浮かれる人々を慈悲深い眼差しで眺め、優しそうな笑みを浮かべながら境内をゆっくり歩いていた。

 曾祖母が目で追っていくと、男は祠の中に吸い込まれるように消えていった。


 男は、この世の者とは思えないほど美しく品良い顔立ちをしており、数十年経った今でも鮮明に覚えていると……曾祖母は楽しそうに語っていた。


 日菜子は目を開くと再び浴衣を眺めた。

 その美しい若い男とは、地主神として祀られていた神に間違いないだろう。


「曾婆ちゃんは太郎君を現実として見ているんだ」


 呟き、日菜子は自分の言葉を確信するように頷く。

 曾祖母が、「祠には若い男の神様が祀られている」と言っていたのは妄想ではなく、幼い頃に体験した記憶からの発言だ。

 曾祖母が神を目撃しているのなら、神と曾祖母の関係は妄想ではなく現実だ。


 神は関わる全てが妄想の産物だと嘆いていた。

 曾祖母との関わりは現実であると知れば喜んでくれるかもしれない。




 最近の日菜子は変化のない毎日を送っていた。

 今朝も決められた時間に起きてルームサービスを招き入れる。

 ウエイターは日課の冗談を言いながら日菜子の手を拭き、そして日菜子は朝食を取る。

 その後は少量の衣類を洗濯機に突っ込み、暇つぶしの種を探して情報媒体を漁るだけだ。


 しかし、今日の日菜子はいつもと違った。

 日菜子の心臓は楽しみの前の浮かれ気分と緊張感で躍っていた。


 今日は花火大会の日なのだ。

 夕暮れ時、日菜子はインターネットで仕入れた知識により浴衣を着る。

 洗面台の鏡の前で四苦八苦しながら長い髪をクルクルと纏めて御団子状にしていく。

 ようやく形が整うと、浴衣と一緒に購入したカンザシを挿した。


「こんなもんかな……」


 髪を仕上げるために上げ続けていた為に倦怠感を覚えた両腕を摩り、溜息を吐く。

 日菜子は洗面室からバルコニーへと続くドアの前に下駄を置く。

 日は暮れかかり、もうすぐ一発目の花火が上がるだろう。

 日菜子は、足元の下駄を緊張の面持ちで見詰めた。

 神との約束を守るなら、浴衣と一緒に下駄を購入する必要など無い。


 これは約束を破る為に購入したのだ。


 日菜子の心臓が緊張から壊れそうなほど高鳴る。

 息を整えてから足元の下駄を吐き、バルコニーのドアを勢いよく開けた。


「何をしているのですか?」


 日菜子の片足がバルコニーへと出た時、背後から声が掛かった。

 振り向けば、無表情の神が佇んでいた。


「どうして日菜子さんは僕との約束が守れないのでしょう、不思議でなりません」


 日菜子は、室内に残っていた片足もバルコニーへと出す。


「だって約束を破れば太郎君が来ると思って……ごめんなさい」


 神は溜息を吐いた後、日菜子の後を追うようにバルコニーへと出て来た。


「僕の近くに来てください、外に出るなら手を繋がなくては危険です」


 日菜子は大人しく従い、神の隣に立って手を繋いだ。


「僕の邪心による影響も危険ですが、外からの影響よりはマシでしょう」


「そんなに怒らないでください……」


「怒っていませんよ、呆れてはいますけど」


 日菜子は気まずい表情のまま、俯いたり神の顔を仰いだりを繰り返しながら、小さな声で話す。


「私、太郎君と一緒に花火を見たかったんです」


「僕と花火を見たい?……何故、危険を冒してまで花火など見たいのですか?」


「はい……。あの、私……浴衣を着て好きな人と花火を見に行くのが夢だったんです。彼氏がいるクラスメート達は、みんなそうしていたから……憧れてたんです……」


「そうですか。その相手に僕を選んでくれて光栄です」


 日菜子が視線を上げると、神は慈悲深い笑顔を見せた。


「日菜子さんが僕を慕ってくれるのは、とても嬉しいです」


「約束……破ってごめんなさい……」


 夜空に一発目の花火が上がり、大きな音を立てる。


「折角の花火大会です。腰掛けて見学しましょう」


 神は、バルコニーに置かれているガーデンセットのチェアを指差した。

 ガーデンチェアを並べ、神と日菜子は手を繋いだまま次々と打ちあがる花火を眺めた。


「太郎君、あの……私、幼い頃に聞いたことで忘れていたのですが……」


 日菜子は上手く説明する為に言葉を選ぼうと考え込んだ。

 神は、何かを話そうとする日菜子の表情を読み取り、次の言葉を待っていた。


「曾祖母は、子供の頃に太郎君を御見掛けしたことがあると言っていました」


「僕を?」


「はい。太郎君の祠で行なわれた夏祭りの時だそうです」


「そうですか、人間に見られたとは……僕としたことが祭りに浮かれて油断していたかもしれません」


 日菜子は再び考え込む。神妙な顔をしている日菜子に、神が気遣うように声を掛けた。


「どうかしましたか?」


「いえ、あの……以前、太郎君は、曾祖母は曾孫が地主神の花嫁となる妄想をしたのではないかと言っていました。でも現実に地主神……太郎君を見ているなら、曾祖母にとって地主神の存在は妄想ではなく現実ではないでしょうか」


「僕を妄想したのではなく、現実に僕と出会っているということですか」


 神は考え込むように腕組をした後、数回頷いた。


「曾祖母は、太郎君の事を慈悲深い眼差しで優しそうに笑う若い男の神様と言っていました。だから太郎君なら願いを叶えてくれる、そして曾孫を幸せにしてくれるだろうと……花嫁にと言い出したのではないかと思います」


「成程、そうですねぇ……」


 神は、打ちあがる花火を眺めながら答えた。


「それでは日菜子さんが僕の生贄となったのは、曾御婆様の妄想から成り立った現実ではなく、誰の妄想でもない時間の流れの中で現実として起きたことであろうと」


「はい。私はそう思います」


 花火を見上げていた神の視線が日菜子へと移る。


「それは僕にとって、とても喜ばしい事です」


「太郎君は、神様とは人間達の妄想から出来ているんだと嘆いていたから……。妄想ではなく現実として起きた事が見つかったら喜んでもらえるかなと思ったんです」


「そうですね……ありがとうございます」


 神の目が潤み、日菜子を見詰めた。

「何より、日菜子さんが僕の事を案じてくれたことが嬉しいです」

 神から喜びの言葉を述べられた日菜子は嬉しそうに笑った。


「神となった時から、僕の存在など人間達の妄想の産物に過ぎないと思っていました。でも僕が持つ時間にも現実として起きた事柄が含まれていたのですね」


 しかし、神が見せる笑顔には憂いが含まれている。

 その影に気付いた日菜子は笑顔を消した。

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