第9話

「太郎君!!」


 神が帰って来たのだと、日菜子は声の方を見た。

 しかし立っていたのは神ではなくウエイターであった。


「いけませんね、御客様に御迷惑な行為をするとは」


「ち、違うよ!奥さんが寂しいからって俺を……」


 ウエイターの手が、クリーニング屋の襟首を掴んで体を引き上げる。


「そんなはずないでしょう。こんなに怯えているのに」


 そのまま、強い力でクリーニング屋を引き摺るように部屋から連れ出していくと、ウエイターは後ろ手で玄関ドアを閉めた。

 ドアの向こうで何か言い争っていたが、日菜子が耳を澄ませても防音が良すぎて聞きとることまで出来なかった。

 最後、何かを殴るような音がして言い争いは収まった。


 玄関ドアが開くとウエイターだけ戻ってきた。

 ウエイターはランドリー籠を持ち、また玄関から出て行く。

 日菜子は、ウエイターを目で追ううちに床に何かが落ちているのに気付いた。

 ウエイターは再び室内へ戻ってくると、その落ちている物を拾った。


「もう大丈夫ですよ、御姫様。魔物は退治しましたから」


 ウエイターは手にした物を日菜子へと差し出した。


「可愛い……」


 それは兎と猫のアニマルピックであった。


「これはカフェに飾る新しい小物なんです。再生紙で造られたアニマルピックです。たくさん買ったので御姫様にも差し上げようと思って……」

 

 ここまで話した後、ウエイターは不思議そうに日菜子を見つめた。


「本当は明日の朝、ルームサービスと一緒に渡そうと思っていました。でも何故か……今、渡さないといけない気がして……虫の知らせって本当にあるんですね」


 ウエイターの話に、日菜子は驚いて息を呑む。

 この人から助けられたのは偶然ではない。神が呼んでくれたのだ。

 ポロポロと涙を零しだす日菜子に、ウエイターが気遣いの言葉を掛ける。


「大丈夫ですか?女性従業員を呼びましょうか?」


「いえ……平気です。ありがとうございました」


 日菜子はソファから立ち上がり、深々と頭を下げた。


「そうですか。何かあればフロントへ電話をしてくださいね」


 ウエイターは一礼して部屋から出て行った。独りきりになると日菜子は崩れ落ちる様にソファへと腰掛ける。


「太郎君……」


 神の名を呼んでみるが、部屋は静まり返ったまま物音一つしない。


「太郎君ありがとう……」


 返事は無くとも、日菜子は御礼を言う。

 姿は見えなくとも神は日菜子を守ってくれているのだ。

 嬉しいはずなのに、日菜子の心は苦しさに締め付けられる。

 神の部屋で神に守られながら生活をしているのに神の姿を見ることは出来ない。

 会いたくても会えない今、神の気配は日菜子の精神を追い込む。


 こんな状態であるなら、元の体に戻り神との記憶を消されてしまった方が楽だろう。

 だが元の体に戻る方法は見つからない。

 追い詰められて日菜子は涙ぐんでしまう。

 泣いても何一つ解決などしないことを分かっているのに涙が出てきてしまう。

 とても情けない気分になり、さらに彼女を追い詰める。


 本来の自分はもう少し強かったはずだ。

 綺麗な容姿でチヤホヤされるうちに精神まで華奢にでもなったのだろうか。

 何と情けない事だろうと彼女は自分自身を罵った。




「お疲れさまでした」


 日菜子が声を掛けたのは洗濯乾燥機を取り付けに来た家電業者だ。

 クリーニング屋と縁を切る為に日菜子は洗濯乾燥機を購入した。

 洗面室には防水パンが置かれており、住居人が購入すれば洗濯機を置くことは可能となっている。

 だが家主である神は洗濯などしないから購入することなく暮らしていたのだ。


 家電業者は、家事など出来そうもない金持ちの若妻を気遣っているのか、長々と取り扱い方を説明してくれた。

 もちろん日菜子は洗濯の仕方くらい知っている。

 此処に住むようになるまでは古いマンションに独りで住んでいたのだから。


「御丁寧に有難うございます。大丈夫です、後は取扱説明書を見ますから」


 日菜子は話を終わらせようとするのだが、業者は話を止めようとしない。


「こちらはバルコニーが広くて良いですね。この時期なら乾燥機など使う必要なさそうですね」


「いえ、洗濯物を干すのは禁止されているんです」


 業者の言うとおり、洗面室のドアからルーフバルコニーへと出ていくことが出来る。

 そこは燦々と夏の日差しが降り注ぎ、確かに洗濯物など直ぐに乾いてしまうだろう。

 広いバルコニーには夕涼みをするには丁度好さそうなガーデンテーブルとチェアまで置かれていた。


「あ!そうか、高層階ですからね。ここは花火が良く見えそうでいいですね」


「花火?」


 業者の言葉で、昨年の今頃、花火大会があったことを思い出す。

 もっと昨年は自宅で仕事に追われながら花火の音を聞いていただけだが。


「そうですね、今年は部屋で花火見学が出来そうだわ」


 名残惜しそうに話しかけようとする家電業者を無理やり送り出すと、日菜子は直ぐに新品の洗濯乾燥機に洗濯物を突っ込んだ。

 ふと、日菜子は独り暮らしを始めた頃に洗濯機を購入した時のことを思い出した。

 あの時の家電業者は使い方の説明などしてはくれなかった。

 一言、これが取扱説明書だと教えてくれただけだった。


 買った店も商品の値段も違うのだから、業者の態度が違うのは有り得ることだ。

 だが、やはり一番の違いは自分の容姿なのだろうと気付く。

 可愛ければ家電業者の態度すら変わることに気づき、日菜子は自嘲するような薄笑いを浮かべた。


 憧れていた可愛らしい容姿、羨望の眼差しで見上げていた高級マンション。

 今、そのどちらも手に入れているのだ。

 それは日菜子が妄想していた通りになっており、そして神の犠牲を伴っている。


 日菜子はリビングテーブルの前に座ってノートパソコンを立ち上げた。

 花火大会の日程を調べるためだ。

 方角的には先程の家電業者が言った通り、この部屋から見ることが出来るだろう。


「浴衣欲しいな……」


 誰に言うわけでもないが、声に出してみる。花瓶に生けられた向日葵とヒペリカムは今日も元気だ。


「浴衣、通販しようかな」


 通販サイトの浴衣を見ると、あまり古風な柄の物が見つからない。

 古風で、尚且つ可愛らしい浴衣が欲しい。

 先ずは着物や浴衣を趣味としている人達が交流する掲示板を覗いてみることにした。

 通販したら自分一人で着なければならないから、着付けの仕方も調べねばならない。

 様々な意見が交換されている掲示板を読んでいるうち、ふと、日菜子は自分が描いている漫画の事が気になった。


 今まで、自分の漫画について検索をしてみたことがなかった。

 中には否定的な意見だってあるだろうと思うと検索することが怖かったからだ。


 だが休載している今、読み続けてくれていた読者達の声が気になる。

 日菜子は自分の名前を打つと、深呼吸してから検索ボタンを押した。

 当たり前のことだが大量の検索結果が出て来た。

 改めて、自分とは人気ある部類の漫画家なのだと自覚をしてしまい溜息を吐く。

 自分はメジャーな少女漫画雑誌で連載をしている漫画家なのだ。


 検索結果のトップは出版社が運営しているサイトだった。

 ここなら手厳しい意見も少ないだろうと開いてみた。

 見ると、休載を心配している書き込みばかりが目に付いた。

 日菜子は他のサイトも開いて読み続ける。

 

 そして日菜子は決心する。

 やはり原因を見つけて元の体に戻らなければならない。

 今の状況を悲観したり甘んじたりしているだけでは駄目だ。


 現在の連載は自分が好んだ内容ではない。

 だが人気があるからこそ連載が続くのだ。

 読みたいと待っている人達の為にも連載を再開せねばならない。

 そして自分が描きたい漫画を描かせてもらうためには今の人気を捨ててはいけない。

 有無を言わさぬ地位にまで上がれば、必ず自分が希望する内容の漫画を描ける。


「なんで元に戻れないんだろう……」

 

 今の日菜子は、溜息を吐くことしか出来ない。

 このまま戻らなければ、連載は休載から打ち切りへとなるだろう。

 夢が叶って漫画家になれたのに。

 日菜子はデビューが決まり歓喜した日の事を思い出した。


 ――私の中に巣食う妄想達。

 やっと、あいつらを私の中から出してあげることが出来る。

 私と私の妄想達は世間から認めてもらえたのだ!!


「妄想……」


 日菜子は眉間にしわを寄せて思考する。

 神山太郎と名乗る神は自分の妄想から生まれた。

 そこを起源とし、神は人間達の様々な妄想により造り上げられていく。

 もしも自分の妄想が神を生まなければ、自分の妄想は何の力も持たなかっただろう。

 だが神が生まれた以上、自分の妄想は神を造る為の妄想となる。

 それは妄想が現実となることを意味する。

 そうでなければ現実の世界で神が造られていかないからだ。


 全てが妄想からの産物だとしたら。

 漫画家になれたのも、今の姿になれたのも、此処に住んでいるのも、妄想から生まれた現実。

 ならば、この可愛らしい容姿が自分の現実の姿になったことになる。

 では、元の体に戻りたいと願っても、元に戻れるはずがない。


「八方塞がりか……」


 この結論では、やはり元に戻る方法がないことになる。

 日菜子はイライラとして頭を掻き毟った。

 何かがテーブルの上に落ち、カツリと小さな音を立てた。

 音の主は小さなパールストーンだった。

 神と争ったときに傷ついたネイルは、飾りが落ちやすくなっていた。

 指先を見ると中途半端に残っている飾りと少しカラーの剥がれた爪先が痛々しい。

 直したいと思っても、今はネイルサロンへと出向くことが出来ない。

 この部屋から出られないなら自分で直すしかないと、日菜子はネイルアートについて調べようとネット検索をした。


「出張してくれるんだ……」


 参考にしようと、神に連れて行ってもらったネイルサロンのサイトを見ていて気付く。

 あのネイルサロンは店へ出向かなくとも出張で施行をしてくれるのだ。

 サイトには予約申し込みのページがあった。

 

 争った時の傷を直してしまいたい気持ちと、残しておきたい気持ちがある。

 日菜子は予約しようか悩み躊躇した。

 しかし残しておいたところで神が戻ってくるわけではない。

 何より、このような記憶に縋り付こうとしている弱さが腹立たしく思えた。

 日菜子は出張での予約を申し込んだ。




「すごい御部屋ですねー……」


 来客は、玄関先で挨拶もせずに感嘆の声を上げた。


「どうぞ、お上がり下さい」


「あ、はい。御邪魔します」


 部屋に来てくれたのは、以前も日菜子を施行してくれたネイリストだった。

 リビングのソファを勧めたが安定しない場所は施行がしづらいと断られ、二人でダイニングの椅子に腰かけた。

 ネイリストは日菜子の手を取り指先を眺めて小さな溜息を吐く。


「申し訳ありません。まだ二週間程しか経っていませんのに剥がれていますね」


「あ、いえ……私の扱いが雑だったせいですから気になさらないでください」


 剥がれたのは神と争ったためだから仕方がない。

 決して店側の落ち度ではないのだ。


「もし宜しければ、次回はジェルネイルどうですか?」


「次回って……一ヶ月後くらいですか?」


「ええ、そうですね」


 一ヶ月後という言葉に日菜子の心臓がゾクリとする。

 その頃までには事態が好転しているのだろうか。

 それとも今と変わらず、この部屋での軟禁状態が続いているのだろうか。

 俯いたまま表情を硬くしている日菜子に異変を感じてネイリストが声を掛けた。


「奥様?体調が優れないのですか?顔色が悪いようですが……」


「い、いえ平気です!」


 日菜子は努めて明るい声で返事をした。


「今日は、旦那様はお仕事ですか?」


「ええ。長期出張中で暫く不在なんです」


「あら……それは御寂しいですね」


 インターホンが鳴った。

 日菜子は、ネイリストという来客の為にルームサービスをお願いしていたのだ。

 日菜子は席を外す詫びを言った後、玄関へと向かった。

 玄関ドアを開けると見慣れたウエイターが立っていた。


「姫、ルームサービスです」


「御客様ですから姫は止めてください!」


「失礼致しました、奥様」


 丁寧過ぎるほど恭しい態度でウエイターが室内へと入ってくる。

 運ばれてきた紅茶を見て、ネイリストが社交辞令を言う。


「奥様、どうかお構いなく」


「いえ。遠慮なさらずにどうぞ」


 ダイニングテーブルの上に並ぶ道具を見てウエイターが声を掛けた。


「奥様、これは何ですか?」


 日菜子の代わりにネイリストが答えた。


「男の方には見慣れない物ですよね、これはネイルアートの道具です」


「今日は御直しをしてもらうんです」


 ウエイターは納得したように頷いてから、日菜子の手を取った。


「そうですか、姫の爪は色が剥がれていて痛々しいと思っていたんですよ」


「もう!そんな呼び方しないで下さい!」


 二人の会話にネイリストが笑った。


「確かに御姫様ですね。こんな素敵な御部屋で暮らして、電話一つで御茶が出てくるんですもの」


「ウエイターさんは、いつも冗談ばっかり言うんです……」


 日菜子とネイリストの目が合う。

 ネイリストの笑顔は優しげであった。

 だが日菜子はネイリストの目から少しの敵意を感じた。


 かつての日菜子が他の女性から受けていた蔑みの視線とは違う。

 自分よりも恵まれている者が妬ましい、

 憎らしい、悔しい。そんな嫉妬心から向けられる敵意を含んでいる目だ。


「ではまた明日の朝に。失礼致します」


 深々と御辞儀をした後、ウエイターは部屋を出て行った。

 ネイリストはウエイターの言葉を疑問に思い、無遠慮に日菜子へ質問をし

 た。


「明日の朝って?」


「えっと……朝食のことですわ」


「まぁ、食事もルームサービスなんですか?」


「ええ。朝食だけはキチンと取るようにと主人から言われて……。紅茶、いただきましょう」


 話題を変えようと、日菜子は紅茶ポットを手にした。


「先程の人……」


「え?ウエイターさんですか?」


「ちょっと馴れ馴れしすぎですよ、手を触ったりして」


「そうですか?」


 毎朝、ウエイターは日菜子の手を拭いてくれる。

 今さら手を触らないでとは言えない。


「だって先程の人、毎朝ルームサービスを届けに来るんでしょう?室内で二人きりになるのであれば、あまり気を許さない方がいいですよ。不用心です」


「はあ……」


 日菜子はそのような注意を受けたことなど皆無で、気の抜けたような返事を返すことしか出来なかった。

 紅茶を飲むネイリストの横顔を眺めていると、見目好い女達から馬鹿にされた過去を思い出した。


 もしも自分が本当の姿なら男に対して用心しなさいなどと言ってくれただろうか。

 むしろお前のような醜い女の子に言いよる男がいれば感謝すべきと馬鹿にしたのではないか。

 そんなことを思うと、八つ当たりと分かっていてもネイリストに強く当たりたくなってくる。


「主人以外の男性から優しくされるのって……そんなに変なことですか?」


 お前と私では扱われ方が違う、置かれている環境が違う、格が違うのだと。

 そんな意地悪な感情を詰め込んで、わざと無邪気な口調で尋ねた。


「……いえ、変ではないですが……」


 気まずい雰囲気を壊そうとしたのか、ネイリストは話題を変えて来た。

 在り来りな世間話をしながら日菜子の手を取り指先をチェックし、施行の準備を始めた。

 日菜子はネイリストと会話をしながら、頭の中ではウエイターのことを考えていた。


 今は可愛らしい容姿だから優しく接してくれるだろうが、醜い姿に戻れば掌を返すように冷たくなるかもしれない。

 日菜子の中にある、過去にウエイターのようなタイプの男から容姿が醜いという理由だけで苛められた記憶が警報音を鳴らすのだ。

 この記憶がなければ、ウエイターの優しい行為を疑うような気持ちなど生まれなかっただろう。


 ネイリストに対しても同じことで、忠告をしてくれる優しい女性だと素直に思っただろう。

 彼等を疑い心の中で罵ってしまうのは、自分が醜く蔑まれてきた女の子だからだ。

 生まれた時から今の愛らしい容姿であれば他人の行為をもっと素直に受け取ることが出来たのだろうと、日菜子は思った。

 もしも可愛らしい容姿でチヤホヤされていたなら。

 妄想による現実逃避などしなかった。

 自分が現実を謳歌していたなら、妄想から神山太郎は生まれなかった。


 日菜子は気付く。

 妄想しなければ神は生まれない。

 自分が醜い事は、神が生まれるための必須条件だったのだ。

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