第8話
「あの……」
神の様子を窺うように、日菜子は小声で質問をした。
「これから私はどうしたら……なんで元に戻れないのでしょうか……」
「僕の邪念が想像以上に強いのか、もしくは他に原因があるのか……理由は分かりません」
日菜子は傷の塞がった右手を撫でた。
「邪念の影響を受けた時、私の身に何が起きるのですか?」
日菜子の質問に神は戸惑いの表情を浮かべた。
「僕は黄泉神になって日が浅いので何が起きるのか具体的には見当が付かないのです。神力が正しき方向に働かないのは大変恐ろしい事です。黄泉神が祟れば日菜子さんは体を失っても黄泉国に行けなくなるかもしれません。もしもそうなれば闇を彷徨うことになります」
「彷徨うって……それじゃ、以前に私を襲ってきたモノと同じことに……?」
日菜子は、その時の恐怖を思い出して身震いした。
自分自身が、あのモノと同じになるなど想像すらしたくはなかった。
「はい。しかし永遠に彷徨うわけではありません。いずれは僕以外の黄泉神に救ってもらえるでしょうが……」
「嫌です!もう、あの場所に行きたくない……そこを彷徨うなんて!!」
日菜子は強く否定するように声を荒げた。
「救ってもらえるのは幸運で、最悪は……。いえ、僕の邪念が、どのように祟るのかは憶測に過ぎません」
「じゃあ、大丈夫かもしれない……」
「いいえ。どんな状況になるか分からないからこそ怖いのです」
神の強く断定する言葉に、日菜子は落胆して項垂れた。
「私はどうしたら……」
「難しいですね。今までは僕の傍に居るのが一番安全でしたが、もう安全とは言い切れません。どうして元の体に戻れないのか原因が分からないのですから」
日菜子は不安に体を震わせた。
「それから……もし僕が祟れば、日菜子さんを生贄として頂くことは出来なくなるでしょう。たとえ救われても他の黄泉神に連れて行かれるのですから」
神の言葉に日菜子は息を呑む。
闇を彷徨い、例え救われても二度とこの神とは会えない。
「太郎君の生贄になれないのは嫌です……」
「僕の生贄になることを望んでくれて嬉しいです」
神は、慈悲深い笑顔を見せた。
「いっそのこと今すぐ生贄にいただいてしまいましょうか」
「二度と会えなくなるくらいなら傍に行くことを望みます」
神は、日菜子の腕を掴むと強い力で引き寄せた。
日菜子は抵抗することなく、神の冷たい胸に顔を埋めた。
再び神の手が日菜子の喉に触れる。
先程とは違い、優しく徐々に力を加えてゆく。
日菜子は息苦しさを覚えたが抗うことはなかった。
日菜子が目を覚ました場所は神の寝室にある大きなベッドの上だった。
寝起き直後の頭は夢と現実の区別を付けることが難しく、日菜子は即座に状況を判断することが出来ない。
自分は神に首を絞められたはずだ。
それが夢の中での出来事か現実に起きたことかを思い出そうとする。
意識が明瞭になっていくと、日菜子は飛び起きた。
そうだ。自分は首を絞められたのだ。
だが、何かが変化したような感覚は微塵も無い。
クローゼットの姿見を覗き込むと神から与えられた体のままの自分が映る。
服装は今朝のままだ。
神から買ってもらった肌触り良いパイル地の部屋着を着ている。
周囲を見回しても神は居なかった。
日菜子はベッドから降りてリビングへと繋がるドアを開けた。
そこにも神の姿は無い。
「……太郎君?」
呼び掛けても返事は帰ってこなかった。
室内を見回し、日菜子はリビングテーブルの上にブロックメモが置いてあることに気付く。
丁寧に行動を取る神が何かを出しっぱなしにするのは珍しい事だ。
日菜子の胸が嫌な予感に痛む。
置かれたメモには何らかの伝言が書かれていると想像が付く。
日菜子は痛む胸を押さえて深呼吸してから、ゆっくりとテーブルへと近づいた。
近づくにつれ、やはりメモに何か書かれているのが見えた。
日菜子は読むのを拒否するように強く目を閉じた後、覚悟を決めて目を開けてからブロックメモを手にした。
――日菜子さんへ。
愚かな僕を許して下さい。
黄泉神である僕が、人間の生死を決めることなど絶対に行なってはいけないことでした。
日菜子さんを早く生贄にしようと焦っていたのは、僕自身が僕の邪心に飲み込まれていたのかもしれません。
やはり最初に話した通り、日菜子さんを生贄に頂くのは体を失う時まで待とうと思います。
日菜子は癇癪を起してブロックメモをソファに投げつけた。
文字通り一世一代の大決心で神の手に従ったのに、神は日菜子を拒み、今すぐには生贄にしないと結論を出したのだ。
「太郎君の馬鹿!!!!」
罵っても神の返事は聞こえない。
日菜子はソファを叩きながら泣き喚いた。
しかしどんなに神を罵っても、返事は無い。
一頻り泣き喚いた後、日菜子は諦めて溜息を吐きソファの上に転がっているブロックメモに手を伸ばす。
メモ用紙の一番下には(めくってください)と書かれていた。
神の几帳面さに日菜子は少し笑ってからメモをめくって続きを読む。
――今まで通り、元の体に戻れるまでは僕が与えた体を使用して下さい。この部屋は日菜子さんが安全に過ごせる唯一の場所です。
でも僕が同じ空間に居ることは危険ですから、選択としては僕が部屋を出て行くしかありません。
そろそろ真面目に働かないと怒られそうですので神の仕事に専念します。
暫くは部屋に戻りませんので安心して生活を続けてください。
一番下には、一枚目と同じように(めくってください)と書かれてある。
3枚目には日菜子が独りで生活するのに困らないよう、ハウスキーピングや日用品のレンタル、食料品の宅配等々、ホテル型マンションで暮らす為の必要な知識が細かく書かれていた。
――日菜子さんは朝が苦手でしょうから、毎朝7時半に朝食を届けるよう手配しました。寝過ごさず、きちんと起きて朝食を取りましょうね。
最後に。
絶対に部屋から出てはいけませんよ。
日菜子は、読み終わったメモを虚ろな視線で眺めていた。
「部屋から出てはいけない……」
日菜子は呟く。
これは当初からの決して破ってはならない神との約束だ。
「そんなに心配なら傍に居たらいいじゃない!」
声を荒げても、駄々を捏ねないでと宥めてくれる神が居ない。
日菜子は癇癪を起こすことなくブロックメモをリビングテーブルの上に静かに置いた。
独りきりで住むには少し広すぎる部屋かもしれないと、日菜子は室内を見回しながら思う。
リビングとダイニングにはソファと椅子を合わせると9人分も有るのだ。
独りで住むには多すぎる。
神の部屋で、日菜子の孤独で退屈な生活が始まった。
神が約束した通りに毎朝7時半になるとルームサービスが届く。
だが部屋から出られない生活をしていては食事も喉を通らなくなっていく。
日菜子の食事は殆ど朝だけとなりつつあった。
ハウスキーパーやクリーニング業者が部屋へと訪ねてくるが、元々社交的でない日菜子は進んで世間話などすることもなく挨拶程度しか会話をしない。
神がいなければ声を出す機会すら少なくなっていく。
日菜子はただ、神の言いつけ通りに大人しく部屋の中で過ごすだけの日々を続けていた。
今日も昨日と変わりなく、朝の日課である花瓶の水を取り換える。
神が買ってくれた向日葵とヒペリカムは不思議なことに枯れずに元気なままだ。
「今日も元気だね」
日菜子は花に話し掛けた。
きっと、この部屋は神の力で覆われているから花が枯れないのだろう。
暇つぶしにテレビのスイッチを入れるが、日菜子が喜ぶような内容の放送は無かった。
それでもスイッチを切らずにテレビを付けたままソファに横たわる。
ぼんやりとテレビを眺めているとインターホンが鳴った。
毎朝7時半にカフェから届く朝食が来たのだ。
「お早うございます」
ウエイターは爽やかな挨拶をすると、ワゴンからトレーを降ろして室内へと運んできた。
日菜子は、この少々馴れ馴れしいウエイターが苦手だった。
日本人離れした長身でスタイルが良く、フォーマルな制服を品よく着こなしている様は、日菜子が苦手とするタイプに思えたのだ。
日菜子の経験からして、この手の見目好く自信に充ち溢れた男は醜い女の子を人間扱いせずにゴミのように扱う。
自分は選ばれた美しい人間で醜い人間など馬鹿にして良いと思っているのだろう。
もっとも今の日菜子は愛らしい容姿をしているのだから、そんな心配をする必要は無いのだが、どうしても苛められた記憶が甦って来てしまう。
「今朝は和風ですよ、御握りです」
ウエイターは勝手知ったる他人の家とばかりにダイニングテーブルへと進み、朝食を並べてから最後の仕上げに椅子を引いた。
「どうぞ、御姫様」
「またそんなこと……」
日菜子が椅子の前に立つと、ウエイターは慣れた手つきで丁度良いタイミングに椅子を押す。
トレーに並ぶ料理を見て日菜子が微笑んだ。
球状の御握りに海苔で顔が描かれていたのだ。
「可愛い、御握りが笑ってる」
ウエイターはトレー脇に置いてある御手拭きを広げて日菜子の手を拭いてあげた。
「可愛いでしょう。食の進まない御姫様の為に特別に作ったようですよ」
ウエイターの言葉に、日菜子は昨日の朝に食べ残したサンドイッチを思い出した。
「ごめんなさい、ちょっと食欲が無くて……」
ウエイターは日菜子と目線を合わせようと床に膝をつく。
「部屋に閉じこもっていては食欲も出ませんよ」
見透かされたような事を言われて、日菜子は驚いた。
「別に……閉じこもっているわけでは……」
「確か新婚さんですよね?最近、御主人を見掛けませんが出張ですか?」
御主人とは神の事だろう。
「見掛けないって……そんなに目に付くものですか?」
まるで見張られているかのような言われ方に腹が立ち、日菜子の口調が少し荒くなる。
「いつも御二人仲良く手を繋いで歩いていますからね、目立ちますよ」
「いい加減にしてください!」
怒りだした日菜子を宥める様に、ウエイターは立ち上がってから頭を下げた。
「失礼致しました。では2時間後、食器を引き取りに参ります」
事務的な言葉を残してウエイターは部屋から出て行った。
とても丁寧な対応ではあるが個人的な領域に立ち入るような言葉が日菜子を苛立たせた。
だが、苛立ちが食欲を増進させたのか、最近の日菜子にしては珍しく朝食を残すことなく食べ終えた。
2時間後に来たウエイターは、意外にも馴れ馴れしい口を聞くことも無く事務的に作業を済ませるだけだった。
所詮は客とウエイターの関係なのだから毅然とふるまえば済むことだったのだ。
気構えていた日菜子としては拍子抜けであり、馬鹿なことで神経をすり減らしたことを後悔した。
翌朝のルームサービスでも、ウエイターは紳士的な振る舞いで冗談を言うことも馴れ馴れしくすることもなかった。
ウエイターが椅子を引き、日菜子が腰掛ける。
日菜子はトレー脇にある御手拭きを手に取り、今朝は自分で手を拭いた。
トレーを覗くとトーストが笑っていた。
「これ……」
「はい。シュガートーストにチョコで顔を描いたそうです。昨日は完食してくださいましたのでシェフが喜んでいましたよ」
日菜子が見上げると、ウエイターは気遣うように優しく微笑んでくれた。
「では2時間後に引き取りに参ります」
ウエイターが部屋を去ると独りきりの静寂が戻ってくる。
シュガートーストは、とても甘かった。トレーを眺めると日菜子の好物が並んでいた。
シェフが気遣い、日菜子が残さず食べた物だけを選んでくれているのだろう。
そのメニューは自然と神が作ってくれた物へと近づいていく。
神も日菜子が好む物を食卓に並べていてくれたのだから当然だ。
日菜子が小さく神の名を呟く。
だが、返事は帰ってこない。
部屋に閉じ込められたまま神に会うことも出来ない。
この生活は日菜子を精神的に追い詰めていた。
2時間後に食器を引き取りに来たウエイターは、ほとんど手つかずの料理を見て小さな溜息を吐いた。
しかし、事務的な言葉以外は何も言わずに部屋を出て行った。
日菜子は食事を残す罪悪感に責められ、朝食のサービスを断りたいと思うが、神が日菜子の為に残したメモに背くことも心苦しかった。
気を紛らわすため、日菜子はフローリングモップで掃除を始めた。
プロのハウスキーパーが隅々まで掃除をしてくれるので少々の埃が取れる程度なのだが。
日菜子がボンヤリとモップを動かしているとインターホンが鳴った。
玄関脇のモニターで確認するとクリーニング屋さんが映っており、今日が洗濯物を出す日だと気付く。
この部屋には洗濯機が設置されていないので、手洗いするような物以外はランドリーサービスに頼るかコインランドリーへ行くしかないのだ。
部屋から出られないのだから必然的にランドリーサービスを頼ることになってしまう。
ドアを開けると、明るい笑顔のクリーニング屋さんが立っていた。
「お早うございます!洗濯物を引き取りに参りました」
年の頃は、日菜子と同じくらいに見えた。
明るい笑顔が清潔そうでクリーニング屋の店員が天職のように思える青年だ。
「お早うございます。今、持ってきますので少し待っていてください」
日菜子はクリーニング屋を玄関先に残し、脱衣室へとランドリー籠を取りに行く。
数枚の部屋着やタオルが入っているだけの籠なのに、日菜子は運ぶ途中で重さを感じて足を止めた。
それでも運ぼうとリビングを歩いていると足が縺れてバランスを崩した。
本人は平気であっても体の方は栄養が足りずに悲鳴を上げているのだ。
「大丈夫ですか、奥様!」
奥様など、呼ばれ慣れない言葉に日菜子の返事が遅れる。
「奥様?」
「あ、はい。大丈夫です……」
「僕が運びます!」
彼は、御邪魔しますと叫んだあと、素早く運動靴を脱いでリビングへと入ってきた。
彼の手はランドリー籠ではなく転んでいた日菜子へと伸びた。
先ず、日菜子を抱き起こしたのだ。
近づいた彼の制服から、日菜子は久しぶりに外の匂いを感じた。
日差しと埃の匂いだ。
「大丈夫ですか?」
声を掛けられて目が合う。
日菜子は、この青年の穏やかそうな笑顔と暖かな匂いに魅かれてしまい、近づきすぎた体を離すことを一瞬だけ忘れた。
「は、はい。大丈夫です、よろけただけですから」
日菜子は慌てる様に彼から体を離して立ち上がろうとした。
だが、動揺した日菜子は上手く立ち上がれず、ふらついてしまう。
「腰掛けた方が良いですよ」
彼は、強引に日菜子を抱き上げるとソファへと運ぶ。
「本当に大丈夫ですから!」
「キミ、軽いね」
「え?」
急に馴れ馴れしい口調に変わった彼に違和感を持ち、日菜子は緊張した。
日菜子を三人掛けのソファへと降ろすと、彼は並んで腰を下ろした。
「最近、旦那さん見かけないけど、どうしたんですか?」
日菜子は、昨日のウエイターとの会話を思い出す。
どうして誰も彼もが神と日菜子を見ているのだろうか。
「……貴方に関係ないでしょう?早く洗濯物を持って出て行って下さい!」
日菜子は強い口調で反論した。
これでクリーニング屋は怯んで帰るだろうと思ったのだ。
しかし、日菜子の考え通りには事は進まない。
「近くで見ると、やっぱり可愛いね」
彼の手が、日菜子の腕を掴む。
その力が強くて日菜子は恐怖に震えた。
「羨ましいよ、こんな可愛い子を嫁さんに出来るなんて」
日菜子は心の中で神の名を呼んだ。
「寂しいでしょ、旦那さんが居なくて独りきりで。俺が代わりに遊んであげるよ。どこか出掛けない?」
神以外と部屋から出るなど、無理な相談だ。
日菜子は強く首を横に振った。
「何故?良いじゃん、今夜遊びに行こうよ。どうせ旦那さん、長期出張か何かでしょ?大丈夫バレないって」
「何をしているのですか?」
不意に声が掛かる。
驚いたクリーニング屋は日菜子から体を離した。
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