第7話
日菜子は微かな水音を聞きながら目覚めた。
たっぷりと眠ったように感じるのに時間が経ってないのだろうかとベッド脇の遮光カーテンを捲ると、日はすっかりと昇り切っていた。
では、この水音は何時間も続いているのだろうか?
日菜子は遮光カーテンを開けて、寝室内に光を入れた。
時計を確認すると、短針は六を指している。
日菜子は転がり落ちる様にベッドから抜け出して、小走りに浴室へと向かった。
脱衣室に入ると空気がひんやりとしていた。
長時間に渡り水が流れ続けた為に空気が冷えたのだと想像が付く。
一晩中、水浴びを続けることは正常ではないだろう。
昨夜の神の様子を思い出せば不安は一層強くなる。
「太郎君、いますか?」
浴室のドアをノックし、呼びかけても返事は無い。
「太郎君、開けますよ」
日菜子は意を決しドアを少しだけ開けた。
隙間から浴室内を確認すると、蛇口から浴槽内に水が流れ、溢れた水は洗い場の排水口へと流れ続けていた。
しかし神の姿が見つけられない。
日菜子は浴室内へと足を踏み入れ、神の姿を確認すると声にならない悲鳴を上げた。
恐ろしい光景に全身の毛が逆立つような感覚を覚えた。
「太郎君!!」
神は、浴槽の中に沈んでいた。
日菜子は両腕を浴槽内に沈め、神の腕を引いた。
浴槽から無理やり引きずり出された神は、ぼんやりとした表情で目を開けた。
「な……何ですか?日菜子さん……」
日菜子は腰が抜けたように、その場に座り込んだ。
「もう!びっくりするじゃないですか!!」
「えっ……ご、ごめんなさい……。で、何か用ですか?」
「太郎君が水の中に沈んでいるから驚いたんです!」
「あぁ、成程」
神は前髪の水気を払うように頭を振った。
蛇口レバーに手を伸ばし、水を止めてから日菜子に説明を始めた。
「僕は神です。人間ではありませんから水の中でも平気です。気が済んだら浴室から出てもらえませんか?僕、全裸なので」
日菜子は慌てて立ち上がり、無礼を詫びると浴室から飛び出した。
リビングで高鳴る心臓を鎮めようと深呼吸を繰り返していると、脱衣室のドアが開き、パジャマ姿の神がバスタオルで頭を拭きながら出てきた。
「日菜子さんの寝間着、びしょびしょじゃないですか。早く着替えなさい」
「あ、はい!」
先程の騒ぎの為に日菜子のパジャマは濡れていた。
寝室へと戻り、濡れてしまったパジャマを脱いで部屋着に着替える。
次いで、寝起きのままだった寝具を整えた。
アロマライトが点灯したままであることに気づいてスイッチを切る。
まだ寝室内は白檀の心地良い香りに包まれていた。
日菜子がアロマライトを眺めていると、神が寝室へと入ってきた。
「禊により僕の邪念を弱めました」
神は、日菜子には近づかずにベッドに腰掛けた。
「邪念……?」
聞き慣れない言葉に日菜子が聞き返す。
頭を拭くバスタオルが邪魔で、日菜子は神の表情を読み取ることが出来ない。
「日菜子さんへの……僕の中にある邪念です。恨みは消えなくても邪念を弱めることは出来ます」
神の言葉に、日菜子は聞き返す気力さえ殺がれた。
ホテル仕様の吸収力に優れたバスタオルは神の頭を程良く乾かし、役目を終えて頭から外された。
邪魔する物が無くなり、神の目が見える。
その冷たい眼差しに日菜子の体が震えた。
黄泉神の目は、その体に比例して冷たい色をしていた。
日菜子が視線を落とすと、傍にはアロマライトと白檀の精油が置かれている。
昨日、一緒に出掛けたのは夢だったのだろうか?
それとも神が、哀れな醜い娘に期間限定で甘い夢を見させてくれたのだろうか。
今までの日菜子なら、自分には分不相応な数週間だったと自嘲して終わっただろう。
だが、此処に来て日菜子は少し変わっていた。
一度は信じてしまった神との関係を簡単に断ち切ることなど出来なかった。
日菜子は気持ちを奮い立たせて強く質問をした。
「私を嫌いってことですか?」
「いえ、嫌いとは違います。恨みです」
「では私を恨む理由は何ですか?答えてください!」
「日菜子さんが元の体に戻れずにいたのは、僕の邪念が原因かと思います。元の体に戻りたいと願ってみてください。今度は戻れるはずです」
「答えてください!!」
日菜子は立ち上がり、ベッドに腰掛けている神に強い力で抱きついた。
「なんで?昨日まで優しかったのに!!こんなこと私が納得すると思ってるんですか?」
「僕が溜めこんでいた積年の邪念が祟らないうちに逃げてください」
「祟る……?太郎君が?だって太郎君は神様でしょう?」
抱きつく日菜子の手を、神は振りほどいて体を離した。
しかし日菜子は怯まずに神の体へと掴みかかった。
「お願いですから、きちんと説明してください!!」
「離れなさい!!」
神は強い力で日菜子を付き飛ばした。
日菜子の軽い体は、神の想像以上に飛び、ベッドの上で一度バウンドしてから床へと転がり落ちた。
神は、自分が取った咄嗟の行動に驚き、詫びる為に日菜子へと駆け寄った。
「ごめんなさい、日菜子さん……大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないです、痛いです!!」
日菜子は床に転がったまま強く抗議した。神は、日菜子の体を抱きかかえるように起こした。
「ごめんなさい、日菜子さん。ごめんなさい……」
「太郎君、私の妄想を聞いてから変です。きちんと説明してください!」
神は、起き上がった日菜子の隣にペタリと座り込んだ。
「日菜子さんに解りやすく説明が出来るか自信ありませんが……神とは人間達の妄想から生まれます」
「神って……太郎君や他の神様達が?」
「はい。神や妖怪などは妄想の産物です。強い妄想により形作られ命を持つのです」
神は一呼吸置き、日菜子に告げた。
「日菜子さん、貴方の妄想が僕を神にしたのですよ」
神の説明は分かりやすい日本語であっただろう。だが、日菜子には内容を理解することは出来なかった。
「よく解りません……だって私は二十歳です。確か、太郎君は何千年も生きていると……」
「人間が持つ時間の概念と、我々の時間は違うのです。そうですね……電波時計を思い出して下さい。日菜子さんの部屋に有りましたね」
「はい……アナログ式の電波時計を持っています」
「神が持つ時間の流れとは一直線ではなく、電波を探している電波時計のようにグルグルと回っています。強い妄想を受信したときに針が止まります。例えば、日菜子さんの妄想が神代のことなら、そこで針が止まって僕という神が生まれます」
日菜子は神妙な面持ちで考え込んだ後、口を開いた。
「電波時計は、電波を受信すると正しい時間を刻み始めます。私の妄想が受信された時間に太郎君が神になったと……?」
「まあ、そんなところです。神とは多くの人間達の妄想が積み重なって生まれます。僕も日菜子さんの妄想だけでなく様々な人間の妄想によって生まれたのでしょう」
神はチラリと日菜子を見た後、視線を降ろした。
「神とは祟るものです。ですが神になるよう妄想してくれた人間に祟るなど稀なことです。僕は弱くて情けない神です」
「では太郎君は神になりたくなかった……ということですか?」
「はい。僕は村を守るために勇気を出しました。それ故に人間達の犠牲となり、挙句、神として利用され続けました」
神は膝を抱えて背中を丸めた。
日菜子が確認しようにも神の表情は全く見えないが、声の様子から憂いているのは分かる。
「……邪念とは恨みから出来ています。僕の意志ではどうにも出来ないことを御理解ください。弱めることは出来ますが無くすことは出来ません」
「それが私に祟ると?」
「そうですね……日菜子さんが邪念の影響を受けなかったのは生贄であることが理由かと思います。生贄を庇護したい僕の気持ちが邪念に勝ったのでしょうけど……」
神の声が震えた。
「ごめんなさい。邪念が日菜子さんを捕らえようとして精神が体に戻れなかったのだと思います」
日菜子は気付いた。
自分の身勝手な妄想のせいで、少年は不幸にも神となったのだ。
ならば恨まれるのは仕方がない。
「それで妄想をした私を憎いと……」
神は顔をあげ、手の甲で目尻を拭いた。
「もう分ったでしょう。さあ、僕の邪念が弱まっているうちに元に戻りたいと願って下さい。触らぬ神に祟りなしです。僕とは距離を置いて関わらないのが一番ですよ」
「はい…………」
日菜子は弱々しい声で返事をした。
泣いてはならないと目を伏せ、神の指示に従おうとした。
日菜子は思う。
今まで通りに悲観的な推測をしていれば良かった。
神が彼女に優しかったのは妄想の影響を受けていただけだ。
やはり自分のような醜い女の子を好きになってくれるはずなどないのだ。
なぜ愚かにも希望など持ってしまったのだろうか。
希望を打ち砕かれた時に傷つくのは嫌だと。
自分自身の経験から悲観的に推測する業を習得していたはずなのに。
日菜子は後悔の念に苛まれていたが、それでも最後に一目だけ神の顔を見たいと視線を上げた。
そして一つの疑問が頭を過る。
「太郎君……あの……私は生贄なんですよね?」
「そうですよ。この点は日菜子さんの妄想と違いますね」
「あ、はい……。私の妄想では祠の前で神様と出逢うだけで生贄にはなっていません」
神は、少し考え込む素振りを見せてから答えた。
「今となっては想像の域を出ませんが曾御婆様の妄想かもしれませんね。曾孫が地主神の花嫁になる妄想をされたのでしょう」
「曾祖母は地主神様を敬っていたのですね」
「さあ、早く。元に戻りたいと願って下さい」
急かされて、日菜子は御別れの言葉を述べる。
「はい。御世話になりました。太郎君と過ごせて楽しかったです。おかげで憧れていた可愛らしい容姿というものを体験出来ました。元に戻るのは少しだけ残念です」
日菜子は社交辞令的な事を言う。
本当は楽しかったなんて言葉では言い表せない感情があるのに。
「大丈夫ですよ。元に戻れば此処で過ごした日々は忘れてしまいます」
「忘れる?太郎君のことを忘れちゃうんですか?そんなの嫌です!」
「また会えますよ。今度お会いするのは黄泉神として迎えに行くときになると思います」
日菜子の押し殺していた感情が溢れだし、それは涙となって流れた。
「嫌です!!太郎君を忘れたくありません!!」
「無理ですよ。神と過ごした日々など記憶に残すわけにはいきません」
「嫌!!絶対に嫌!!太郎君を忘れたくない!!」
神が溜息を吐く。
その仕草に日菜子は息を呑んだ。
感情的になった自分に対して呆れや怒りから溜息を吐いたと思ったのだ。
「そんなにも日菜子さんが僕を好いてくれていたなんて驚きです」
「そ、それは……」
隠そうとしていた気持ちを見透かされ、日菜子は動揺した。
「今すぐに生贄になるか、それとも人間として生きるか。どちらを選択しますか?」
日菜子は答えられずに言葉を詰まらせた。
神が日菜子に近づいていく。
神の右手が、日菜子の喉元へと伸びた。
その手は恐怖に怯む日菜子の喉を強く締めあげていく。
締め付ける手は片手から両手となり、更には強い力で日菜子を押し倒した。
「御自身で選択出来ないなら、僕が決めてあげます」
日菜子は苦しみから逃れようと神の手を掴むが、身体的差は力の差となり歯が立たない。
必死の思いで爪を立て、神の手を掻いた。
日菜子の爪に施されていたネイルアートのパールストーンがパラパラと床に散った。
「抵抗しますか。では人間として生きることを選択するのですね」
神の手が日菜子の喉元から離れた。
日菜子は息を吸おうと激しく咳き込んだ。
「さあ早く元に戻りたいと願いなさい!」
日菜子は息を整えようと深呼吸を繰り返した。
「太郎君……酷いです……」
「はい、僕は酷い神ですよ。最初の頃、なぜ僕が日菜子さんの体を確認しなかったと思いますか?あのまま日菜子さんが体を失えば否が応でも生贄として頂けたからです」
神は、横たわったままの日菜子の顔を覗き込んだ。
「僕なんて、こんなものです」
「では太郎君の本心は……私を今すぐ生贄に欲しいのですか?」
「僕の本心……」
神の言葉が途切れた。
目が泳ぎ、言葉を選ぼうとしているのを日菜子は感じ取る。
「僕という存在は……誰かの妄想であり、今の僕が持つ気持ちですら誰かの妄想から生まれているなら……僕の本心など……そんなことを考え始めると、僕自身、僕の気持ちが分からなくなります……」
日菜子は、本心など聞こうとしたことを後悔した。
本心など聞いて何になるのか。
此処に自分が存在することが神を苦しめている。
それだけは、はっきりとした事実だ。
今の自分に出来ることは、苦しめる存在である自分を神の前から消すことだけだ。
「私、元の体に戻ります……」
神は冷たい手で日菜子の頬を撫でた後、体を離した。
日菜子は目を閉じて元に戻りたいと強く願った。
緊張の中、自分の鼓動だけが強く聞こえる。
次に目を開けた瞬間、自分は別の場所に居るのだ。
想像通りなら病院のベッドに寝かされているのだろうか。
誰か傍に居てくれるだろうか。両親か、祖父母か。
息苦しさを覚えるほどの緊張の中、日菜子は異変を感じて目を開けた。
いや。正確には異変を感じないから目を開けたのだ。
元に戻るという気配がない。
「あれ?」
日菜子が目を開ければ其処は神の寝室であり、目の前には神が居た。
「……日菜子さん?」
日菜子は体を起こして、寝室のクローゼットに付いている姿見を見た。
そこには神から与えられた愛くるしく可愛らしい容姿のままの日菜子が居た。
間違いなく元の体には戻れていない。
「戻れません……」
日菜子は不思議そうに首を傾げた。
「日菜子さん?本当に願いましたか?」
「はい、強く願いました……なんで戻れないのでしょうか」
神は苛立ちをぶつける様に床を殴り付けた。
大きな音に日菜子は怯えて体を震わせた。
「ごめんなさい……太郎君……」
神は咄嗟に取った行動で日菜子を怖がらせてしまったことに気付く。
日菜子は怯えた表情で神を見詰めていた。
「僕の方こそ、ごめんなさい。大きな音を立ててしまって……」
自分自身の恥ずべき行動に神は頭を下げた。
日菜子は神の苛立ちを感じて謝罪の言葉を繰り返す。
「ごめんなさい。私は太郎君を苦しめる原因なのに消えることが出来ない……ごめんなさい!」
手足を縮めて体を丸め、泣きながら「ごめんなさい」と謝罪の言葉を呟き続けた。
「日菜子さん、もう謝らないで」
神は、泣きじゃくる日菜子の前に座った。
「僕、本当は日菜子さんの気持ちを宥める為に背中を撫でてあげたいと思っています。でも日菜子さんが邪心の影響を受けるだろうと気付いた今、そのように密着する行動は危険かもしれません」
神の優しい声が日菜子の心を落ち着かせていく。
「神とは人間達の妄想から生まれて膨らんでいきます。でも僕は此処に存在して感情を持っています。今の僕は日菜子さんを慰めたいと思っています。僕の感情すら妄想の産物だとしても、これが今の本心であることは間違いありません」
日菜子は泣きながら何度も頷いた。
泣きやむ為に自らの胸元を撫でて深呼吸を繰り返す。
「日菜子さん、怪我を……」
神の視線を追い、日菜子は自分の右手を確認した。
小さな引っ掻き傷から微かに血が滲んでいた。
「ごめんなさい、争った時に僕が引っ掻いたかもしれません」
神が手をかざすと傷が消えて行く。
見る間に消えて行く傷に、日菜子はゾクリとした。
この者は神なのだ。
宥めるような優しい声や言葉は神の慈悲だとしたら。
怒りこそが本心なのかもしれない。
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