第6話
夜中に目が覚めて入浴などしていた為、今朝の日菜子の起床時間は遅かった。
寝室から出て異変に気付く。
室内に神が居ないのだ。
神は水浴びをすることがあるが、浴室から水音は聞こえてこない。
この部屋はキッチン、ダイニング、リビングと繋がっており、寝室と浴室や洗面室以外は見渡せない場所は無い。
「……太郎君?」
呼びかけても返事は無い。
何も言わずに姿を消すなんて、一緒に住み始めてから初めてのことだ。
日菜子の脳裏に、自分に呆れて出て行ってしまったのか?などの考えが過るが、此処は神の家であり出て行くとは思えない。
日菜子が不安に駆られながら室内をウロウロしていると、玄関のドアがガチャリと開いた。
「太郎君!!どこに行ってたんですか?」
「あぁ、日菜子さん。御目覚めですか。一階の花屋で花を買ってきたのですよ」
「お花……?」
「人間に学んだ求愛行動です」
神は、新聞紙に包まれた向日葵とヒペリカムを日菜子に手渡した。
「ってのは半分冗談ですが。今日からセールなのですよ、お花屋さん」
「私……た、太郎君が……居なくなったかと……」
花を抱えたまま、日菜子は泣きだした。
「此処は僕の家ですから居なくなったりしませんよ。それに此処なら日菜子さん一人でも安全ですから大丈夫です。……貴方は昨日から泣いてばかりですね」
「ご、ごめんなさい」
日菜子は崩れる様にソファに座りこんだ。
神は傍に膝を付いて日菜子に声を掛ける。
「謝らなくても良いですよ。大丈夫ですか?」
「はい……」
「こちらこそ今まで申し訳ありませんでした。これからはあまり接近しないようにしますから安心してください」
神は、日菜子が胸元に抱えていた花を手に取り立ちあがった。
「どういうことですか?接近しないって……」
「だって僕は嫌われていたようですから」
言い残し、神は洗面室へと向かった。
日菜子は昨日の会話を思い返してみる。
神から、僕を嫌いですか。と問われた記憶があった。
「嫌いだなんて答えてません……」
呟いた声は小さく、洗面室までは届くはずもなかった。
だが立ち上がって自分の気持ちを告げに行くほど、日菜子は能動的ではなかった。
とにかく昨夜の無礼は詫びねばならないだろうと、日菜子は神への謝罪の言葉をシミュレーションしながら姿勢を正した。
数分後、シンプルな白い花瓶に花を生けた神が戻ってきた。
リビングテーブルに花瓶を置き、日菜子に声を掛ける。
「此処に置きましょう。御花が有ると華やかで良いと思いませんか?」
日菜子は神の問いには答えずに立ち上がって頭を下げた。
「昨夜は神様に御無礼なことをしてしまい申し訳ありませんでした」
彼女の仰々しい物言いに神は一瞬怯んだが、穏やかな口調で返事を返す。
「気にしないで下さい。人間とは僕を嫌うものですから慣れていますよ。お腹空いたでしょう。朝食の用意をしますね」
キッチンへと向かう神に、日菜子が声を掛けた。
「あ、自分でやります!」
「僕が作る物は食べたくありませんか?」
日菜子の発言は、嫌われていると思わせてしまった自分の行いを反省し、今まで通りに世話をしてもらうのを心苦しく思ったからだ。
だが、神には正しく伝わらなかった。
「いえ、そのような意味ではなく……いつも作ってもらうのは申し訳ないので……」
「そんなこと気にしないでください。僕が作りますから」
神は、手慣れた様子で調理を始める。
十数分後にはダイニングテーブルに朝食の並んだトレーが置かれた。
昨日のパン屋で購入したクランベリーパンと、コールスローサラダ、スクランブルエッグ、アイスティが氷入りのグラスに注がれる。
いただきます。と手を合わせた後、日菜子は大きな口を開けてパンに噛り付いた。
日菜子の食事が終わる頃、神が声を掛けた。
「これから買い物に出掛けますが、一緒に行きますか?」
「はい。あ、片付けますので少し待って下さい」
神は、トレーを持って立ち上がろうとする日菜子を制した。
「片づけは僕がやりますから。日菜子さんは着替えを済ませてください」
日菜子は、寝起きでパジャマ姿のままであった。
慌てて洗面室で身形を整えて、寝室のクローゼットから白いシフォン生地のワンピースを選んだ。
窓の外を見ると相当に日差しが強そうで、日菜子は、つば広の白い帽子を被った。
支度を終えて玄関へ向かうと、待っていた神が手を差し出した。
「ごめんなさい。やはり、この部屋から出る時は手を繋ぎましょう」
「あ、あの……謝らなくていいです」
日菜子は、差し出された神の手を握った。
「私……太郎君と手を繋ぐのは嫌じゃありません」
随分と上から目線な言い草だが、日菜子にとっては精一杯の言葉だ。
心臓を高鳴らせながら、日菜子が視線を上に向けた。
神は、いつも通りの慈悲深い笑顔を見せた。
男女が手を繋いで歩く姿とは傍から見れば仲睦まじく映るものだろう。
だが日菜子が神の手を離せない理由は、そんな甘いものではない。
今日の買い物は近所ではなかった。
神と日菜子は電車に乗り、三駅先の街まで出向いた。駅から暫く歩き、着いた所は洒落たインテリアショップであった。
「何を買うのですか?」
「白檀の精油ですよ」
店内に入り、神が立ち止まった棚には小さな瓶が沢山並んでいた。
日菜子は一緒に覗き込んだが、値札を見て驚いた。
「せっ……精油って高いんですね」
「精油の値段はピンキリです。この店の物は質が良いので気に入っています」
慣れた手つきで品物を選び、神は真直ぐレジカウンターへと向かう。
年配の女性店員が手打ちのレジで会計を済ませた後、話しかけてきた。
「今月はセール中で、くじ引きを行なっているんですよ。こちらへどうぞ」
案内された先には、賞品と思われる様々なインテリア商品が並んでいた。
神が、日菜子の耳元に口を寄せて小声で囁いた。
「日菜子さん、どれが欲しいですか?選んでください」
「え?えっと……あ、あれ!六等のが欲しいです!」
神が小声で囁いた意味もなく、日菜子は大きな声を出しながら欲しい商品を指差した。
指差した先には可愛らしい花瓶敷きが飾られていた。
薔薇の地模様があるクリーム色の布で、縁には薔薇の刺繍とレースのフリルが施されていた。
「あれですか……」
少女趣味なデザインに神が戸惑う。
「今日飾った花瓶の下に敷きたいです」
日菜子は、神を見上げて楽しそうに笑い、無邪気な日菜子の様子に店員が微笑んだ。
店員から差し出された抽選箱から、日菜子が三角くじを一枚取り出した。開くと、そこには六等と書かれていた。
「凄い!御希望の品を当てましたね!おめでとうございます!!」
店員は酷く驚き、花瓶敷きを受け取った日菜子は非常に喜んだ。神にとって、くじ引きを操作することなど造作もない。
その日の夜。
入浴を済ませた日菜子が脱衣室から出てくると、神の姿が無かった。
「太郎君……?太郎君!何処ですか?」
「こっちですよ、日菜子さん」
返事は寝室から聞こえてきた。日菜子はホッと胸を撫で下ろし、寝室のドアを開けた。
神はスーツの上着を脱ぎ、黒いドレスシャツの裾をスラックスから出したラフな服装で、膝を抱えて床に座っていた。
傍にはアロマライトと今日買った精油が置かれていた。
日菜子は神の隣に座った。
「良い香りですね」
「白檀は心を鎮める作用があります。日菜子さんの泣き虫も治りますよ」
「なっ……泣き虫じゃありません!」
日菜子は今日の買い物の目的に気付いた。
昨日から泣いたり喚いたりしていた日菜子の為に鎮静作用のあるアロマを用意してくれたのだ。
「僕は日菜子さんに謝らなければなりません」
「謝るって……?」
日菜子は、隣に座っている神を見上げた。
眼が合うと、神は珍しく視線を逸らして俯いた。
「ごめんなさい。生贄の事は黙っておくべきでしたね。僕、日菜子さんと仲良くなれたと思って嬉しくて話してしまいました。……浅はかでした」
「いえ、それは……」
日菜子は言葉を選ぼうと顔を顰めた。その様子に神はまた勘違いをする。
「ごめんなさい。不愉快な気持ちにさせてしまって」
どんどんと暗い表情になっていく神の様子に彼女は慌てた。
「ち、違います!違うんです!太郎君は何も悪くないんです!私……私側の問題なんです」
「日菜子さんの問題?」
「私は幼い頃から容姿が劣っていることを理由に馬鹿にされることが多かったんです。だから太郎君も私のような子より綺麗な人が生贄の方が嬉しいんじゃないかなとか……そんなことを思ってしまって……」
「生贄という制度はそのようなものではありません!」
神に怒られて、日菜子は頭を掻く。
「はい、もっと神聖なものですよね。でも私などで良いだろうのかと思ってしまうんです」
「日菜子さんは御自身を否定ばかりしていますね。でも、僕の気持ちまで否定しないでください」
「太郎君の気持ち?」
首を傾げた日菜子の頬を、神の冷たい指先が突いた。
「僕が日菜子さんを可愛いと思う気持ちです。大体、神の言葉を信じずに、愚かな人間達の言葉を信じるなんて論外です」
神は立ち上がり、ベッド横のサイドテーブルに置いてある小さな屑籠に精油の包み紙を捨てると、そのままベッド縁に腰掛けた。
離れて座る神に、日菜子は寂しげな目を向けた。
そんな視線を向ける日菜子に、神は少し気を良くした。
「日菜子さんは現代女性だから扱いが難しいです。僕、神なのに敬ってくれませんし」
「そ、そんなこと……」
「反抗的だし」
「そんなことありません!」
「約束、平気で破っちゃうし」
「そ……それは……」
勝手に独りで出掛けて助けてもらった時のことを言われると、日菜子に言い返す言葉は無い。
「ひとつ種明かしをすると……僕が此処に住んでいるのは偶然ではありません」
「え?ホテル型で便利だから引っ越して来たって……」
「このマンションを選んだのは便利だからですが、この街を選んだのは日菜子さんが住んでいるからです。関東地区には僕以外にも黄泉神が沢山いるので、日菜子さんが体を失ったときに他の黄泉神に連れていかれたら大変ですから」
「そうですか……それであの時、直ぐに来たんですね」
「はい。その判断は、功を奏したようです」
心地好い白檀の香りと神の優しい声に日菜子は眠気を催し欠伸をした。
神は腰掛けていたベッドを彼女に譲ろうとして立ち上がる。
「眠そうですね。御話の続きは明日にしますか?」
「いえ、まだ大丈夫です。では私からも一つ御話します」
「はい。なんでしょうか?」
神は話を続ける彼女の隣に座り相槌を打つ。
「私は子供の頃から妄想ばかりしていたって話したこと覚えてますか?」
「覚えていますよ。だから漫画家になれて嬉しかったのでしょう?」
「実は、太郎君の祠を舞台にした妄想もしていたんです」
神の手が、突然、強い力で日菜子の両肩を掴んだ。
急に強い力を掛けられて、日菜子は小さな悲鳴を上げた。
「ど、どうしたんですか……」
日菜子の瞳を覗きこむ神の顔は、先程までの穏やかな表情ではなかった。
神は強い口調で日菜子に命じた。
「どのような妄想をしたのか、詳しく話しなさい!」
「嫌です!妄想の内容なんて恥ずかしくて話せません!!」
「話しなさい!!」
神の只ならぬ物言いに日菜子は怯んだ。
「わ、分かりました!話しますから……」
日菜子の妄想は、「昔々……」という子供向けの昔話のように始まった。
***
昔々。神話として語り継がれるような時代の物語。
人間達は集落を作り、助け合いながら生きていた。
その平穏な村に巨大な蛇が現れ、次々と幼い子供達を喰らった。
獰猛な大蛇を、ある者は神の化身と崇め、またある者は化け物と忌み嫌い、その意見は対立していた。
神として崇めるべきか。
化け物として退治すべきか。
交わされる意見の中、一人の少年が大蛇退治に名乗りを上げた。
少年は村一番の剣の使い手であった。
幼子を喰らう奴は神などではない、ただの獰猛な蛇だと少年は強く主張した。
その力強い言葉に、やはり大蛇は神の化身ではなく化け物であろうと断定する村人が増えた。
村人達は大蛇退治を少年に託した。
少年の手に掛かれば大蛇退治など容易なものであった。
問題は、その後に起きた。
大蛇の死体を囲み、村人達は口々に「神の化身を殺した愚か者」と少年を罵った。
神ではなく化け物だと断定していたはずが、その巨大な死体を前にして震えあがり、やはり神の化身であったのではと恐れ慄いたのだ。
神の化身を殺した!!
このままでは恐ろしい災いが起こる!!
村人達は話し合い、神への生贄として少年を差し出すことを決めた。
村一番の剣の使い手とはいえ、大勢の大人達の手に掛かれば少年の抵抗など無に等しかった。
そして、村を救った英雄である少年は、無残にも生贄として殺された。
気弱な大人達は、保身のために勇敢な少年を犠牲にしたのだ。
事の後、良心が咎めたのか、もしくは畏怖の念に駆られてなのか、村人達は少年の為に祠を造った。
哀れな少年は、村人達から地を守る神として祀られた。
村人達は少年への非道な行為を隠し、祠は生贄を捧げる為に造られたと伝承した。
子孫は先祖の言い伝えを守り、災害や飢饉、害獣、疫病、災いの度に幼い娘を祠に捧げた。
少年は、差し出された生贄に優しく声を掛ける。
祠に捨てられた可哀想な娘よ、哀れな娘よ、僕が幸せにしてあげよう。
生贄になったことを労い、見目好い娘でなくとも花嫁として大切に敬った。
祠は、朽ちては修復を繰り返しながら、村の鎮守として大切に継がれてきた。
祀られてから数千年と過ぎ、少年だった神は大人の姿となり平成の世に現れた。
醜いと蔑まれる幼い少女が祠の前で泣いているのだ。
少女は哀れな生贄として神に捧げられたわけではない。
だが、神は少女に声を掛けた。
泣かないでください、可哀想な娘さん。
僕が幸せにしてあげましょう。
***
「これが粗筋です。神様に出会って御終いです」
日菜子の話を聞き終わった神は頭を抱えて呻いた。
「太郎君?」
様子がおかしい神を案じ、日菜子は声を掛けてから手を伸ばした。
しかし、その手は神に制された。
「僕に触るな……」
神は、手の甲で涙を拭きとってから溜息を一度吐いた。
日菜子に視線を向けることは無く立ち上がり、寝室のドアへと向かう。
ドア枠の隣にあるメイン照明のスイッチを切ると、寝室内は壁付けの間接照明と床に置かれたアロマライトの明かりだけとなった。
ドアを開け、振り返らずに日菜子に声を掛けた。
「おやすみなさい、日菜子さん」
「太郎君……どうしたんですか?」
「今夜は、もう寝なさい」
神は寝室を出ると、静かにドアを閉めた。
寝室に取り残された日菜子は、神に何が起きたのか不安に震えた。
豹変したのは、日菜子が子供の頃に祠を舞台として妄想をしたと告げた時だ。
たかが子供時代の身勝手な妄想に何があるのだろうか。
日菜子の耳に、遠く水音がするのが聞こえた。
神が浴室で水浴びを始めたのだろう。
今夜、真相を探ることは不可能だろうと日菜子は判断し、神に言われたとおり眠ることにした。
つい先程まで神が座っていた床を触ると氷のように冷たかった。
日菜子の目に涙が浮かぶ。神が豹変した理由は分からない。
だが、やはり自分は誰からも嫌われてしまう運命なのかと思うと泣けてきたのだ。
微かに聞こえる水音と寝室を包む白檀の香り。
日菜子はベッドに横たわり、すっぽりと頭までガーゼケットを被った。
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