第5話
神の足が、パン屋の前で止まった。
「あ、このパン屋さんですよ。日菜子さんが美味しいと褒めていたクランベリーパンは、この店で買ったのです」
「はあ……」
日菜子の頭の中は先程の神の言葉で占領されていてパンどころでは無かった。
だが、神は彼女のそんな状況など配慮もせずパン屋へ入ろうと誘ってくる。
「日菜子さんは昼食を取る時間ですよ。此処に寄りましょう。朝食用のパンも買い置きが無くなりましたし」
神がトレーとトングを持つと日菜子とは手が繋げなくなってしまう。
ぼんやりと店の出入口付近に立っている日菜子に神は声を掛けた。
「日菜子さん。建物の中に入ってください。僕の傍を離れてはいけませんよ」
「はい!」
先日の恐怖体験を思い出して神の傍に駆け寄る。日菜子は神に寄り添い肘に手を掛けた。
他人の目には新婚か恋人として映るんだろうなと日菜子は思う。
だが真相は違うのだ、神に寄り添う理由はそんな甘いものじゃない。
数点のパンと炭酸水を購入してイートコーナーに腰掛けた。
日菜子は、お気に入りのクランベリーパンには手を付けずに怖々と質問をした。
「あの……私が生贄ってのを詳しく教えてもらえませんか……」
「そうですね、折角の機会ですから詳しく説明致しましょう」
神はパンを小さく千切って日菜子の口へと押し込んだ。
「では先ず、僕のことを話します」
神は咳払いを一度して、仰々しく姿勢を正した。
「僕は最初から神であったわけではありません。元々は人間でした。死後、祀られて村の地を守る地主神となりました」
「村を……?黄泉神様ではないのですか?」
「黄泉神となったのは、つい最近です」
神は炭酸水のペットボトルを手に取り、キリキリと音を立ててキャップを開けた。
二つのグラスに平等に注ぎ、一つを日菜子の前に差し出した。
「実は、僕が祀られていた祠は日菜子さんが生まれ育った村にありました」
「私は六歳頃まで山奥の村に住んでいました。そこの祠……」
日菜子は視線を揺らして記憶をたどった後、潤んだ目で神を見詰めた。
「その祠、覚えています。私、曾祖母に連れられて行きました!あの祠に太郎君が祀られてたなんて……」
「はい。日菜子さん、参拝に来てくれたことがあります。幼かったのに覚えていてくれたのですね」
嬉しいですと小さく呟き、神は千切ったパンを日菜子の口へと入れる。
そして自分の口には炭酸水を流し込んだ。
「僕の祠は昭和初期に隣村の神社と合祀されて廃されました。でも祠は取り壊されず放置されていたので、僕は祠に残ったのです。だって人間の都合で引っ越せだなんて酷い話じゃないですか。それに日菜子さんの曾御婆様のような御年寄は変わらず参拝に来てくれていましたし。ですが、徐々に参拝に来る人が減ってきて終には何方も来なくなりました。地主神として必要とされなくなったのです」
「それで黄泉神様に?」
「はい。地主神の仕事がなくなり黄泉神へ転職です。神も仕事をしなければなりませんのでね」
日菜子は、チラチラと神を見た後、遠慮がちに口を開いた。
「私……あの祠、好きです。朽ちた雰囲気が幻想的で……」
神の手がパンを千切り、日菜子の口へと運ぶ。
「そうですか、有難うございます。僕の祠は誰からも忘れられたと思っていましたが、日菜子さんは覚えていてくれたのですね」
日菜子は炭酸水を飲んで、一呼吸置いた。
「それであの……私が祠へ行ったことがあるから生贄なんですか?」
神は、頭を左右に振って否定した。
「参拝したくらいで生贄には頂きません。日菜子さん、僕の祠で何を御願いしたか覚えていますか?」
「いいえ、そこまでは覚えていません」
日菜子は不安そうに神の目を覗き込んだ。
神は、その不安を拭い去るように慈悲深い笑顔を見せた。
「では本題に入りましょうか」
***
幼い頃、日菜子は山奥の小さな村に住んでいた。
或る夏の日の朝。曾祖母に連れられて、日菜子は古い祠へと御参りに行った。
「日菜ちゃんが綺麗な花嫁さんになれますように」
手を合わせて御参りする曾祖母に釣られ、日菜子も手を合わせた。
「私、大きくなったら綺麗になれる?」
無邪気に質問をする日菜子に、曾祖母は笑いかけた。
「ああ、御参りしたから大丈夫。日菜ちゃんは大人になったら別嬪さんになるよ。綺麗な花嫁さんになれるよ」
曾祖母は、日菜子の頭を撫でた。
「大人になったら此処の神様の花嫁さんにしてもらいなさい。若い男の神様が祀られておるからね」
***
神は、曾祖母との約束を日菜子に説明した。
「そんな!その程度の祈願なんて初詣になれば誰でもするレベルじゃないですか!!それで生贄だなんて……」
神は彼女の抗議を聞いて笑った。
「いいえ、祈願の代償を提示する人間なんて滅多にいませんよ。普通は願い事を言って終了です。貴方の曾御婆様は、日菜子さんを美しく成長させてほしいと祈願しました。その代償として日菜子さんを生贄に差し出しました」
「まさか、神様の花嫁にしてもらいなさいってのが、生贄に差し出すって意味になるんですか?」
「そうです。生贄を頭からバリバリと食らうのは八岐大蛇のような化け物達です。神は生贄に差し出された娘を食べたりせず花嫁にします」
神はパンを千切って日菜子の口に入れ、慈悲深い笑顔を見せた。
「安心して下さい。神の生贄とは体を奪うことではありません。神のモノになるということです。僕は日菜子さんが体を失う時まで何十年でも待つつもりです。今はまだ、体は眠った状態ですから……」
日菜子は、神の話を遮って話し出した。
「ちょっと待って下さい!私は美しく成長なんてしてないじゃないですか!曾祖母の祈願は成就されてないのに、なぜ生贄にならなきゃなんですか?」
「日菜子さんは美人に可愛らしく成長したじゃありませんか」
神はパンを千切ったが、日菜子は顔を背けた。
「私は美人になれませんでした。だから生贄にはなりません!」
「僕から見て日菜子さんは御人形さんのように可愛らしいですよ」
「嘘!!」
興奮して声が大きくなる日菜子を制するように、神は日菜子の口元に人差し指を立てた。
「嘘じゃありません。日菜子さんは現代の美人しか知らないからですよ。美人とは時代によって変わります。だから全ての女性が美しいと僕は思います。何千年と生きていますからね、僕は」
「そ、そんな屁理屈っ……!!」
神は購入したパンの入っている袋を開け、日菜子の食べ残しを片づけた。
「冗談です、日菜子さんは現代で充分通用する美人ですよ」
神は手元にある紙おしぼりで指先についたパンの汚れを拭いた。
「失礼します。腕を少々……」
神の手が、日菜子の腕を強い力で掴んだ次の瞬間、日菜子はベッドの上に投げ出されていた。
日菜子は周囲を見回すと、そこは神の寝室だった。
「生贄となった人間に選択肢があると思いますか?」
日菜子の上に神が圧し掛かる。
「忘れないでください。僕は神です」
神の冷たい手が日菜子の頬を撫でた。
「日菜子さんは人間で僕は神です。従わないことは許されません」
日菜子の目から涙が流れた。
「生贄だから、この姿にしたのですか……?」
日菜子の質問に、神は不思議そうな表情を浮かべた。
「醜い女の子を生贄に貰いたくないから、だからこの姿に変えたんでしょう!!答えてください!!」
日菜子の強い口調に神が怯んだ。
「そんなつもりはありません。これは一時的な体として提供しただけであって……僕は日菜子さんを醜いなどとは思っていません。僕は何度も日菜子さんは可愛いと言っています」
感情的になった日菜子は、力任せに神を付き飛ばした。
「私が元の体に戻れない理由が分かりました。太郎君が戻れないようにしてるんでしょう!!生贄だから!!」
「そんなことはしていません。僕は日菜子さんが体を失った後に花嫁にすると言ったでしょう。体を失うとは、物理的に生きるための体を失うと言う意味です。それが何十年先でも構いません。僕にとっては年齢や容姿など関係ありませんから」
「そうよね、関係無いですよね、御自分の好みの容姿に変えちゃえばいいんだから!!」
神は深い溜息を吐いた。
「違います、僕にとって人間の年齢や容姿など大した問題ではないということです。それに日菜子さんは御人形さんのように可愛らしいですよ」
「嘘!!信じない!!」
日菜子は枕に顔を埋めて泣きだした。
「これ以上は何を話しても無駄のようですね」
神はベッドから降りた。
「残念です。可愛い生贄を襲い損ねてしまいました」
泣いている日菜子をからかう様な言葉を残し、神は寝室から出て行った。
ベッドに伏せ、日菜子は泣き続けた。
こんなにも日菜子が泣く理由は、小学生の頃、祠を妄想の種にしていたことがあるからだ。
妄想の中の神様は人間達とは違い、醜い少女を差別したりせず花嫁にしてくれた。
だが現実は違った。
現実の神様は花嫁に差し出された醜い娘を美しい姿に代える魔法を使った。
現実は妄想通りにはならない。
だからこそ妄想は妄想のままが良いのだ。
「偶然だよ……」
呟いた後、日菜子は緩々と体を起して涙を拭った。
妄想の中の神と現実の神である神山太郎は何処となく似ているのだ。
だが万人が認める美形とは似たような容姿になってしまうものだ。
似ているのは偶然だと、自分の中に生まれた疑問を打ち消した。
当時、日菜子は不思議に思っていた。
どうして自分は、祠の神様が若い男性であると知っているのか。
今にして思えば何のことは無い、曾祖母の言葉を覚えていただけだ。
自分が神様の花嫁に選ばれるのも、曾祖母の言葉を覚えていての飛躍だろう。
現実を知れば、突然、妄想がつまらなくなる。
自分は見眼麗しい美少女であると妄想していても、鏡を見てしまえば御終いなのだ。
「もう嫌だ……元の姿に戻ろう」
もう現実など沢山だ。
自分は醜い。こんな自分は誰からも相手にされなくて当然だ。
そんな現実など忘れていたい、妄想の世界に浸っていたい。
妄想は最高の快楽だ。
様々な世界の主人公になることを妄想しながら漫画を描いていたい。
妄想なら中世の姫にも人魚姫にも宇宙を司る女神にでもなれるのだから。
そうだ、せっかく夢が叶って漫画家になれたのだ。
楽な仕事ではないが、連載途中の作品もある。
これから描きたいと願っている作品達も脳内に眠っている!
日菜子は眼を閉じて願った。
元の体に戻りたいと。
何度も何度も強く願った。
だが、目を開ければ見慣れた神の寝室にいる。
日菜子は癇癪を起して、手近にあった枕を壁に投げつけた。
大きな物音に驚いた神が寝室のドアを開けた。
「日菜子さん?」
ベッドの上には泣き腫らした顔の日菜子が座っていた。
「どんなに願っても元に戻れない……なんでなの?」
日菜子は俯き、また泣きだした。
神はベッドの淵に腰掛けて、日菜子に話しかけた。
「そんなに僕が嫌いですか?」
神の言葉に、日菜子は顔を上げた。
神の瞳は寂しそうに揺れていた。
「これだけは信じてください。日菜子さんが元の体に戻ることを邪魔などしません。僕は黄泉神です。生きようとする人間を邪魔する力など持ってないのです。僕が出来ることは体を失った人間達を道案内するだけです」
神はベッド脇のサイドテーブルに置かれている箱ティッシュを取ると日菜子に手渡した。
「顔を拭きなさい」
このティッシュは、元々は神の部屋になど無かった物だ。
人間である日菜子には必要であろうと、神が買ったのだ。
「ごめんなさい。元の体に戻りたいという願いを叶えてあげたいけど、黄泉神となった僕は人間の祈願を叶える力は持っていないのです。僕が地主神として最後に働いたのは日菜子さんの曾御婆様の祈願を聞いたことです……もっとも御本人は納得されてないようですが……」
日菜子は数枚のティッシュを取り出して涙を拭いてから鼻をかんだ。
神はサイドテーブルに置いてある小さな屑籠を取り、日菜子の前に差し出す。
日菜子は使用済みのティッシュを捨てた。
この屑籠も元々は無かった物で、人間である日菜子の為に神が買ったのだ。
「忘れないでください。生贄は神から逃れられません。日菜子さんは僕のモノです。僕が地主神として最後に貰った人間です。願い通り元の体に戻れたとしても、日菜子さんが体を失う日に迎えに行く黄泉神は僕です」
日菜子が目を覚ますと、そこは薄暗い神の寝室だった。
あのまま泣き続け、そのまま眠ってしまったらしい。
ベッド脇の時計の短針は一を指している。
折角の仕立て良いワンピースは、しわくちゃになっていた。
日菜子はベッドから降り、静かに寝室のドアを開けた。
神はリビングに居た。
リビングテーブルの上にノートパソコンを置き、日菜子の購入した苺型の可愛らしい座布団に座っていた。
寝室から覗いている日菜子に気づき、神は声をかけた。
「おや、お目覚めですか?お腹が空きましたか?」
神に言われ、確かに空腹であることに気づく。
しかし日菜子が欲している物は別であった。
「御風呂に入りたい……」
神は立ち上がり、日菜子へと近づいた。
「どうぞ、御自由に御使いください。それとも浴室まで抱っこして連れて行きましょうか?」
少々の意地悪な言い草に、日菜子の目から再び涙が零れた。
「独りで歩けます!」
日菜子は強く言い放ち、急ぎ足で浴室へと向かった。
脱衣室に入ったところで背後に気配を感じ、振りかえると神が立っていた。
「な、なんですか……服を脱ぐから出てください!」
「でもこれ、御風呂で使う物でしょう?今日の夕方、宅配で届きましたよ」
神は、苺型のプラスチック製ボトルを持っていた。
日菜子が数日前にネットで通販したものが到着したのだ。
「あ、ありがとうございます……」
少々バツが悪そうに、日菜子は礼を言う。
ボトルを手渡すと神は脱衣室から出て行った。
見渡せば、脱衣室や浴室には日菜子が購入した物で溢れていた。
独りで暮らしていた頃は最低限の物しか持っていなかったくせに、此処へ住んでからは図々しくも様々な物を買ってもらっている。
今日、届いた物はバブルバスを楽しめる固形入浴剤だ。
これは勿論、生活必需品などではない。
日菜子は浴室内に入り、蛇口のレバーを上げた。
浴槽に適温の湯が注ぎ込まれ心地良い湯気が立つ。
今日届いたボトルの蓋を開けるとベリー系の甘い香りが漂った。
「良い香り……」
一粒、湯が注ぎ込まれる場所へ置いた。
ぷかりと浮いた入浴剤は融けながら泡立っていく。
しわくちゃになったワンピースを脱ぎ、長い髪を結わえて湯と泡に満たされた浴槽に浸かる。
甘い香りと泡に包まれながら、日菜子は神のことを思った。
生贄と言う言葉の響きは確かに悪いかもしれない。
でも神は自分に悪いことなど何一つしていない。
肉体から離れた自分を保護して守ってくれている。
神としての義務以上の気遣いをしてくれているだろう。
素直に神の言葉を信じることが出来ない理由は分かっている。
幼い頃からの経験が邪魔をするのだ。
こんな自分に好意を持ってくれるはずなど無いと疑ってしまう。
神を信じることが出来ない原因は自分の方にあるのだ。
神は何も悪くないのに罵ってしまった。
日菜子は自己嫌悪に陥り、また泣きだした。
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