第3話
神は、口にする物は水程度で食事は取らない。
だが日菜子のために食事を毎食作ってくれた。
神はとても丁寧に調理する。
食料となる全ての材料に感謝するように。
最初は日菜子自身が食事を作ったこともあった。
だが大雑把に食材を扱った為に神を怒らせてしまい、その後は食材に触らせてもらえなくなった。
「夕食は、ひよこ豆のカレーです。日菜子さん好みの甘口で作りましたから安心してください」
以前、手製のチリソースを食べさせたら辛くて泣いてしまった日菜子を気遣っての発言だ。
ダイニングテーブルに料理を並べ終えると、神は日菜子に声を掛けた。
「今夜は仕事が入ったので出掛けます。いつも言っていますが、絶対に一人で出歩いては駄目ですよ。部屋から出ないでくださいね」
「で、出掛けるんですか!」
日菜子は、神の傍へと駆け寄った。
不安そうな瞳を向ける日菜子を安心させるように、神は日菜子の頭を撫でた。
神の手は優しそうに日菜子の上で動く。だが感触は氷のように冷たく、日菜子をゾクリとさせる。
「朝までには戻りますから。この部屋に居れば何も心配することはありませんよ」
軽く頭を下げた後、神は玄関から部屋を出て行った。
独りきりになると静寂が日菜子を包んだ。
此処に来る前は一人暮らしだったのだから独りで過ごすことには慣れている筈だった。
だが毎日を神の保護下で過ごしている今、独りきりになるのは妙に心細かった。
日菜子は静寂に耐えきれずテレビを点けてから食卓に着いた。
神の作ってくれた、ひよこ豆のカレーとサフランライス。たっぷりとスプーンで掬って頬張る。
神が見ていたなら、喉に詰まらせないように。と、注意をしただろう。
テレビからは笑い声が流れる。ゴールデンタイムに相応しい賑やかなバラエティ番組が放送されていた。
ゆっくりとテレビを観るなんて随分と久しぶりなことだった。
日菜子は遅筆な漫画家で、月刊誌とはいえ連載を始めてからは落ち着いてテレビを観る時間など殆ど取れなかった。
この部屋に来てからは、いくらでもテレビを観る時間はあった。
だが神はテレビなど殆ど観ない。家主が観ないものを点けるのは心苦しくて、日菜子はテレビを観ることを遠慮していたのだ。
独りきりの時間、日菜子はテレビを眺めながらこれまで起きた様々なことを推察した。
けたたましいテレビ音はバックミュージックと化した。
(どうして戻れないんだろう……?)
未だ、本当の体に戻ることが出来ないのは何故だろうか。
神の言うとおり、戻りたいと真剣に願ってみても、どうしても戻れない。
自分は心のどこかで戻りたくないと思っているのだろうか。
自分の体は、どうなっているのだろう。
無事に発見されていれば意識不明の患者として、どこかの病院に入院しているだろうか。
連載漫画は、どうなるのか。描きかけの来月分はアシスタント達だけでも仕上げられただろう。
その後は休載となるか、もしくは打ち切りだろう。
そして更なる疑問、神は何故、独りで出歩いてはいけないと言うのだろうか。
食べ終わった食器を洗っていながら様々な推察するうちに、日菜子の中に一つの考えが生まれた。
「出掛けてみようかな……」
キッチンの壁掛け時計は二十時を過ぎていた。
夜の外出は少し怖かったが、今を逃せば次回の神の外出を待つことになってしまう。
独りで出掛けるという禁忌を犯せば、何か変化が生まれるかもしれない。
神は朝までには戻ると言っていた。ということは、そんなに早くは帰ってこないだろう。
日菜子の心臓が高鳴る。
約束を破るのは罪悪感と緊張が生まれるものだ。
決心を固めた日菜子は出掛ける身支度をするためにクローゼットを開いた。
その中には神という太っ腹なスポンサーから大量に買ってもらった洋服が並んでいた。
白い提燈袖のブラウスと、黒地に白い小花が散ったワンピースを重ね着し、スカートの下には白いパニエを入れてふんわりと膨らませる。ハイソックスは白いレースが施されたものを選んだ。
クローゼットの扉に着いた姿見に自分自身を映す。
今までは醜い自分が可愛らしい服など着れば見世物になるだけだと諦めていた。
だが神から借りている現在の容姿なら憧れていた可愛い洋服を着こなせるのだ。
一人で出掛けると思うと、日菜子はウキウキとした気分になった。
部屋の鍵は神が持って行ってしまったが合鍵の起き場所は知っていた。
日菜子が約束を破るのは非常に簡単であった。
日菜子が先ず向かった場所はマンション構内にある中庭だった。
いきなり建物外へ出るのは躊躇したのだ。
石畳で作られた散歩道脇には花壇があり、可愛らしい草花が植えられていた。併設されたオープンカフェにはチラホラと人が座っていた。
日菜子は散歩道を歩いてみたが、何か危険なことが起きるような気配は無かった。
マンション住人らしき年配の女性から、こんばんは。と、声を掛けられたくらいだ。
このような高級マンション内で生活する人間が、害悪とは掛け離れていそうな日菜子に敵意を向けることなど無いだろう。
やはりマンションの外へと出てみなければ変化は望めないと、日菜子は再び決心を固めてロビーへと向かった。
ホテル型マンションの為、フロントには常時スタッフが居る。
行ってらっしゃいませと声を掛けられ、日菜子は軽く頭を下げた。
玄関の自動ドアを抜けた時、日菜子の心臓が激しく高鳴った。
これは何らかの変化が起きたわけではなく、神との約束を破った緊張から来るものだ。
夜の街を独りで歩いたことが無いわけではない。
しかし此処に来てからは神と一緒にしか外出をしていないのだ。
この姿になってからは初めてのことだ。
何処へ行くかと思案の結果、最寄りのコンビニへ向かうことにした。
やはり自分自身の連載漫画が気になり、状況を確認したかった。
日菜子が歩道を歩いていると、前方から数人の男子高校生が歩いてきた。
その中の一人が、日菜子に向かって、最近流行りのお笑いタレントのモノマネをしながら声を掛けて来た。
「こんばんはー」
突然の出来事に、日菜子は戸惑いの表情を見せることしか出来なかった。
「止めろよ、お前!驚いてるじゃん!!」
「お姉さん御免ね!コイツ変な奴で!」
「だって可愛いし!」
大きな声で騒ぎながら、男子高校生達は通り過ぎて行った。
彼の行動理由に気づき、日菜子は軽く笑った。
可愛い女の子を見つけたから、からかってみたくなったのだろう。
(もし私が本当の姿だったら視線も合わせやしないくせに)
そんな風に思うと、彼の行動がバカらしくて笑ってしまったのだ。
300m程も歩けばマンションから一番近いコンビニに着いてしまった。こんなに近いのに一人で行くことを禁じられていたのだ。
「いらっしゃいませー」
コンビニの挨拶にしては珍しく愛想の良い声に、日菜子は思わず店員の方を見た。
レジに立っていたのは20代前半くらいの男性で、目を輝かせながら日菜子のほうを見ていた。
可愛い女の子が客だと店員の声や視線まで違うものなのかと驚いた。
雑誌コーナーへ行こうと歩くと、パニエで膨らませたスカートが商品に引っかかり、数点の菓子が転がり落ちてしまった。
気付いた日菜子は慌てて拾い始めた。
「あ、いいですよ。僕がやりますから」
先程の、目を輝かせていた店員が声を掛けて来た。
彼は素晴らしい営業スマイルを見せながら日菜子が拾った菓子を受け取った。
今まで、こんなにコンビニ店員から愛想良くされたことなど記憶に無い。
世の男とは、こんなにも可愛い女の子には優しいものなのだと気付く。
もしも生まれた時から美しい容姿をしていたなら、日菜子は、男とは優しい生き物だと信じて疑わなかっただろう。
だが彼女は知っている。男の中には、醜女など人間ではないと思っている節がありそうな奴もいることを。
どんなに男から優しくされても、日菜子には嘘臭い優しさにしか思えなかった。
日菜子は雑誌コーナーの前に立ち、自分が連載している漫画雑誌を手に取った。
神は日菜子に現金を渡してくれない。
購入することは出来ないので仕方なく立ち読みをした。
パラパラと捲り自分の作品を探す。
今月分は掲載されていたが、最終頁に、作者急病のため休載致します。との説明文が載っていた。
日菜子は落胆した。
仕方のない事だと理解は出来る。作者が意識不明なのだから。
しかし、今まで粉骨砕身の覚悟で描き続けていたのに休載とは、何となく水泡に帰するような気分になってしまうのだ。
雑誌を閉じ、表紙を眺めてから丁寧に什器へと戻した。
日菜子は店内を見回した。
神との約束を破っては見たが、今のところ異変は起きていない。
単なる神の心配性だったのだろうかと安堵するような残念なような複雑な心持であった。
日菜子はコンビニを出ようと自動ドアの前に立つ。
立ち読みだけして何も買わずに出てしまうのは心苦しく感じたが、お金を持っていないのだから仕方がない。
自動ドアが開き、店外へ出る。
日菜子の耳にドアの閉まる音は聞こえた。
だがその後、全ての音が途絶えた。不自然な静寂に足が止まる。
(音が無い……?)
日菜子は冷静に周囲を見回した。
街並みは何も変わっていない。
だが生きている者の気配が無い。
誰もいない、車も走っていない。
歩道に植えられていたはずの街路樹さえ無くなっていた。
今し方出て来たばかりのコンビニを振り返った。
やはり店員も客も居なくなっていた。
日菜子は気付く。
神の言葉通り、一人での外出は異変を起こした。
(早く太郎君の部屋に戻らなきゃ)
街並みは変わってないのだからマンションには帰れるだろう。
だが、そんな楽観的思考は瞬時に遮られた。
日菜子は歩くのが困難なほどの暗闇に飲まれたのだ。
光を探してみたが見つからない。
あまりの暗さに天も地も無いような感覚に襲われ、自分自身の足元を確認しようと視線を落とした。
しかし確認しようにも足元が見えない。
その不自然さに、日菜子は手を見ようと目の前にかざす。
そこで日菜子は気付く。
(体が無い……?)
暗闇だから手が見えないのではない。
自分は神から与えられた体を失ったのだ。
今さら、日菜子は神との約束を破ったことを激しく後悔した。
心の中で何度も謝罪の言葉を呟く。
そして神の名を呼び、助けを乞う。
神は救いに来てくれるだろうか。
それとも約束を破った自分など見捨ててしまうだろうか。
その時。遠くで何かが蠢く気配がした。
(来てくれた?)
日菜子は期待していたのだ。
優しく世話してくれる神なら助けに来てくれるであろうと。
静寂と暗闇の中、何かが蠢く気配。
視力ではなく第六感のようなもので見える気配。
(違う!)
神ではないと気付いた瞬間、ドン!と、何かが圧し掛かってくる。
静寂の中、沢山の人間の呻き声が耳元で聞こえる。
逃げたいと思うが叶わない。
己の中に何かが浸食してくる恐怖。
日菜子に抗う術はなく、ただ必死に神に助けを求めた。
「不浄の者が馴れ馴れしく近づくな!」
日菜子の近くで神の声が響いた。
強い力で引き摺られ、投げ飛ばされる様に床に叩き付けられる。
日菜子は全身の痛みに呻いた。
日菜子は取り戻した光で周囲を見回す。
そこは神の部屋であった。
リビングの床に転がる日菜子に神が声を掛けた。
「人間の分際で、神との約束を破るとは良い度胸ですね」
日菜子は謝ろうとするのだが、息苦しくて呼吸もままならない。
体は硬直し、指先すら動かすことが出来ない。
動けない日菜子の上、神は馬乗りになった。
神の冷たい手が日菜子の喉元に絡みついた。
「要らない命だと言うなら、僕が貰ってあげましょうか?」
神の脅すような言葉とは裏腹に、徐々に日菜子の息が楽になっていく。体の硬直も緩みだすと神の手が喉元から離れた。
しかし体は解放してもらえず馬乗りになったまま、神は質問をした。
「何故、外出したのですか?」
「それは……私の連載漫画が気になって……」
神は冷たい指先で、日菜子の頬を突いた。
「駄目です。答えになっていませんね、雑誌ならネットで買えるでしょう?」
「……どうして体に戻れないのか、理由が分からないから。約束を破ったら何か変化が起きるかと思って……ごめんなさい……」
日菜子の瞳から涙が溢れてくる。
「先程の人間達は何らかの理由で体を失い彷徨っているのです。日菜子さんも僕が助けなければ同じように彷徨ったでしょう。今の日菜子さんは中途半端な存在ですから仲間にしようとして襲われたのです。気を付けてください」
神からの説明を聞き、日菜子は改めて神との約束を破ったことを後悔した。
もしも神が間に合わなければ、あの蠢く者達に飲み込まれたのだろう。
「私も本当の体に戻れなければ……いずれは先程の人達のようになってしまうのですか?」
「いいえ、僕の傍にいれば大丈夫ですよ」
神は、ようやく日菜子を解放した。
リビングの床に座り込む日菜子を、神は優しく抱きしめた。
「連れて行かれなくて良かった……」
氷のように冷たい神の体に抱えられ、日菜子は体が冷えていくのを感じた。
「それで?日菜子さんの漫画は連載されていましたか?」
「あ、はい……。今月は載っていました。来月から作者急病による休載となると書かれていました」
神は慈悲深い笑顔を見せて頷いた。
「そうですか。では日菜子さんの体は無事に保護されたようですね」
「……え?」
日菜子は、神の顔を覗き込んだ。
「保護されているようですねって……?太郎君は私の体が保護されているのを知っていたんでしょう?」
「いいえ、知りませんでしたよ」
「で、でも!眠っているのと同じ状態だから大丈夫だろうって!!」
「ですから、眠っているのと同じ状態だから発見が数日遅くても大丈夫でしょうって意味ですよ。誰かが不審に思えば、そのうち部屋に突入して保護するでしょうから」
「そんな……もし保護されなければ死んでいたってことですか?」
日菜子は、神に対しての第一印象を思い出した。
やたらと“面倒くさい”という言葉を連発していた。
この神様は面倒くさがりなのだ。
「実際、死亡しているなら連載は休載ではなく打ち切りとなるでしょう。大丈夫、貴方の体は生きています」
日菜子は、ケロリとしている神に腹が立ってきてしまい、思わず声を荒げた。
「太郎君の“大丈夫”は結果でしかありません!もし、もしも大丈夫じゃなかったら……」
神の腕の中、日菜子は俯いて表情を強張らせた。
「もし、体が無くなれば戻る場所は無くなってしまうわけですよね……」
「日菜子さん?」
言葉を詰まらせ、日菜子は考え込んだ。
戻らなければ連載は打ち切りとなるだろう。
それは絶対に嫌だ。
必死で描き続けた漫画を途中で終わらせるなんて嫌だ。
でも描きたいと願った内容の漫画ではない。
強制され、妥協して、描き続けている漫画だ。
黙り込んでいる日菜子に、神が声を掛ける。
「もしも戻れなければ、今の体を使ったらいいのです。僕の傍に居てください」
「この体のまま生き続けることも出来るのですか?」
日菜子は先程の男達の反応を思い出した。
この可愛い容姿は生きやすいだろう。
「ええ、可能ですよ」
神は立ちあがると、座り込んだままの日菜子へと手を伸ばした。
その手を取り、日菜子も立ちあがる。
手は直ぐに振りほどかれ、神は、リビングのソファに腰掛けた。
そして何かを考え込むように窓の外の闇を見詰めた。
日菜子は、テーブルを挟んで向かい側へ腰かけて話しかけた。
「あの……先程の人達は、どうなるのですか?」
「安心してください。僕が連れていきます」
神の目は、外の闇を見詰めたままだ。
「連れて行く……天国にですか?」
「天国?……まぁ、そのようなところです」
神の目が、外の闇から日菜子へと移る。
「日菜子さんも行きたければ、一緒に連れて行きましょうか?」
冗談かと思い、日菜子は笑おうとしたが、神の目は真剣だった。
「僕は黄泉神(ヨモツカミ)です」
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