第2話
日菜子は、豪華なキングサイズのベッドの上で目覚めた。
己の置かれている現状を見回し、昨夜の出来事は夢ではなかったと気付く。
昨夜の彼女はクタクタで、神から与えられた安息の地に身を沈めた途端、眠りに落ちてしまった。
広々とした浴槽に浸かり、フロントから借りたシルクのパジャマを着て、キングサイズのベッドに潜りこんだあとから記憶が無い。
あまりの寝心地の良さに、たっぷりと眠ってしまったらしく、ベッドのサイドテーブルに置かれた時計を見ると短針は数字の二を指していた。
あの奇妙な現象が起きてから十二時間も過ぎている。
「お目覚めですか?」
優しい声が寝起きの耳に心地よい。
空耳などではないハッキリとした声は、やはり夢ではなかったのだと日菜子に再認識させる。
日菜子は一夜にして、可愛らしい容姿と憧れの住処を手に入れたのだ。
「よく眠れたようですね」
優しい声の主がベッドへと近づき、その淵に腰をかけた。日菜子は、ゆっくりとした動作で体を起こした。
「ごめんなさい、ベッドを占領してしまって」
「神は眠りませんから気にしないでください」
神がベッドに近づいた理由は二つあり、一つは日菜子に声を掛ける為、もう一つはベッド脇にある電話機に用事があった。神の指が幾つかの数字を押してフロントへと電話をかけた。
「あまりにも疲れると眠ったりもしますけどね。相当に疲労困憊するような……あ、もしもし。3001号室の神山です。ルームサービスを」
神は、受話器を塞いでから日菜子に話しかけてきた。
「お腹が空いたでしょう。サンドイッチと紅茶で良いでしょうか?」
日菜子の好みを確認し、神はフロントとの会話を再開した。一通りの会話を終えて受話器を置くと、日菜子へと向き合った。
「ルームサービスで申し訳ありません。神は人間のように食事をしないのでキッチンに何も無いのです。食材も食器も有りません、水を飲むためのコップがあるくらいで……日菜子さんが必要とするものを用意しないとなりませんね」
他愛ない話を続ける神を、日菜子はボンヤリと眺めていた。神の手が日菜子の頬を撫でた。
「良かった、眠る前よりも顔色が良くなりましたね」
その手の感触が氷のように冷たくて、日菜子の心がゾクリとした。
そうだ。この者は人間ではないのだと思い出させる。
「さあ、そろそろベッドから出てくださいね。食事が届きますよ」
だが、優しげな笑顔と声は日菜子を心地よくさせる。
「フロントから女性用のアメニティグッズを届けてもらいました。洗面台に置いてありますのでお使いください」
「ありがとうございます」
「それから日菜子さんの服、洗っておきましたよ」
昨日まで着ていたTシャツとジャージパンツを出されて、日菜子は自分自身の仕事を思い出した。
「あっ……!」
締め切りが近いことを思い出し、思わず声が出た。だが、今となっては原稿を描きに戻ることも出来ない。
神は、日菜子の驚いた声を別の意味として捉えた。
「すみません、女性の衣服を勝手に洗うのは失礼でしたね……」
神は少々、戸惑った表情で頭を掻いた。
「まぁ、僕は人間じゃなくて神ですので気にしないでください」
「いえ。むしろ神様にお洗濯などさせてしまって……その……大変申し訳ありません」
日菜子は深々と頭を下げてから服を受け取った。
運ばれてきたルームサービスは大層に豪華であった。
三段のケーキスタンドには上段にパイ、中段にスコーンと数種類のクリームやジャム、下段にサンドイッチが盛られていた。
ダイニングテーブルに並べられた食事を目の前にして、日菜子は自分自身の空腹を思い出した。
思えば、あまりの空腹に好物のキャラメルをがっついたのが原因だったのだ。
「僕がやりますので結構です」
神は、給仕をしようとするウエイターを制して部屋からの退出を促した。
日菜子の様子を察したのだ。豪華な部屋での物々しい状況に臆した様子で俯いていた。
ウエイターは一礼して部屋から出ていった。
「ちょうどティータイムの時間でしたからね、アフタヌーンティーセットが届いてしまったようです」
神は、手慣れた様子でティーカップに紅茶を注いだ。
「良い香りです、ダージリンですね。ミルクを入れましょうか?」
「あ、は、はい!」
アフタヌーンティーなど日本人には無い習慣に戸惑いながらも、日菜子は食べ物を口にした。
お腹が満たされて人心地が付くと、次には様々な不安的感情が沸き起こってきた。やはり、途中で投げ出す格好となってしまった仕事が気になる。
そして何より、自分自身の体……。
日菜子の手が止まり、神を見た。
「神様、あの……」
「太郎君と呼んでください」
「あっと、た、太郎君。私の部屋、鍵とチェーンが掛かっています!」
神の言う、瞬間移動とやらで部屋の玄関を通らずに出てきてしまったのだ。
玄関は内側から閉まったままだ。まず室内に誰もいなければ、マンション玄関のオートロックすら開かないだろう。
「誰も私の部屋には入れないです。私の体は保護されたんでしょうか」
「日菜子さんの体は眠っているのと同じ状態ですから心配いりませんよ」
神の慈悲深そうな優しい笑顔を見て、日菜子の心情は幾分か安心した。
きっと、良いように計らってくれたに違いないだろうと思えた。
この部屋で親身に世話をしてくれているように。
日菜子は神を信じて、それ以上は追及をしなかった。
「日菜子さんはパソコンの操作は大丈夫ですか?」
日菜子が食事を取っているテーブルの隅にノートパソコンが置かれた。
大口を開けて、たっぷりとクリームを乗せたスコーンを頬張ろうとしていた日菜子は、神からの質問に答えようとして喉を詰まらせた。
「ゴホッ……だ、大丈夫です。パソコンは使えます」
「また、食べ物を喉に詰まらせないようにね」
「はい……」
子供のように注意され、日菜子は気まずそうに返事をした。
「しばらくは僕と生活をすることになるでしょうから、当面の必要な衣類や日用品などをネットで購入して下さい」
神は、女性向けの通販サイトを開いた。
トップページには可愛らしい夏物のワンピースが映っていた。
日菜子は、その画像を見つめた。
赤いタータンチェックのハイウエストなワンピース。
常々、こんな可愛らしい服を着てみたいと夢見ていたが、醜い自分が着ても似合うはずもないと諦めていた。
スプーンに映る自分の顔を見た。今の容姿なら、どんな可愛い服を着ても似合うだろう。
「どうぞ、日菜子さん。遠慮なさらずに好きなものを通販してください」
「あの、神様……じゃなくて、太郎君。好きなものを……いいんですか?」
確認するかのように、日菜子は神の目を覗き込んだ。
神は何も答えずに慈悲深く微笑んだ。
***
朝の陽ざしを浴びる度、夜空を見る度。場所を変え時間を変え、日菜子は元の体に戻りたいと強く念じてみた。
だが、どんなに戻りたいと念じても日菜子の精神は体に戻ることが出来なかった。
仮の体のまま、神と日菜子の暮らしはとても穏やかに続いていた。
神との規則正しい生活は、今までの日菜子の生活とは掛け離れたものだった。早寝早起き、健康的な食生活、日課の散歩。
神は、日菜子が退屈しないようにと街中まで連れて行くこともあった。
だが絶対に一人での行動は許してくれず、外出時には必ず手を繋ぐことを強要した。
「今日は少し遠出をして大きな公園を散策しましょうか」
日菜子が朝食を食べ終わる頃、神が声を掛けた。
「太郎君は、いつも私と一緒にいますけど神様としての仕事はないのですか?」
「勿論ありますよ。でも八百万の神って言葉通り、神様って結構たくさん地上に住んでいるのです。僕一人が少々サボっていても問題ないくらいに。まぁ、日菜子さんを保護するのも神としての仕事ですけどね」
二人は手を繋いで、徒歩で二十分ほど離れた公園へと向かった。
日菜子は夏の日差しから逃げようとつば広の帽子を被っていた。
それ程に強い日差しの中、神は暑苦しそうな黒いスーツを着ていた。
今日に限ったことではなく、いつも神はスーツを着用している。
「いつも太郎君はスーツを着てるけど暑くないんですか?」
「え?ああ、まぁ……神なので。僕は体温が低いので丁度良いくらいです」
日菜子は赤いタータンチェックのワンピースを着ていた。あの時、ネットで一目惚れした服を通販したのだ。
公園内にあるドッグランを眺めていると、取材に来ていたらしいテレビ局のレポーターに声を掛けられた。
「現在、なにかペットは飼っていますか?」
神に、マイクが向けられた。
「いいえ、飼っていませんよ」
もしも飼うなら何のペットが良いか、犬は好きか等々の質問がされた後、日菜子の方にマイクが向いた。
「奥様ですか?」
予想していなかった質問に、日菜子は戸惑ってしまい答えが見つからなかった。そんな彼女に代わり、神が無難な返答をした。
「ええ、近々そうなります」
神の発言に、レポーターは目を細めた。
「おめでとうございます!」
レポーターは、この女性なら可愛らしい花嫁になるだろうと絶賛し、カメラマンは二人を撮り続けた。
可愛いとの褒め言葉に、日菜子は自分の本来の容姿を思い出して俯いてしまう。
もしも本当の姿であったなら、このカメラは向けられたのだろうかと。日菜子の心は複雑な気持ちに揺れた。
日菜子の表情が曇ったことに気づいた神は、レポーター達に軽く頭を下げると、日菜子の手を引いてドッグランを離れた。
日菜子の体調不良を案じた神は、日陰にあるベンチへと連れて行った。
「大丈夫ですか?遠出をしたので歩き疲れましたか?」
日菜子は無言で、首を横に振った。
「あの……なんで、あんな嘘を?奥さんだなんて」
「あのような時は、夫婦か恋人同士の振りをするのが一番自然だからです。手を繋いで公園を散歩する男女といえば、恋人か新婚夫婦くらいでしょうからね。神が人間を保護しているのだろうと思う人などいませんから」
サラリと悪びれもせずに説明をする。神様でも嘘を吐くのかと、日菜子は感心した。
「私、可愛いなんて……初めて言われました」
日菜子の唐突な言葉に、神は聞き返した。
「初めて?まさか……女の子であれば可愛いと言われながら育つものでしょう?」
日菜子は神の言葉を否定するように首を横に振った。
「いいえ。親戚や御近所等の大人達からよく言われたのは女の子なのに可哀想な顔だと……幼い子供には理解出来ないと思って言っていたんでしょうね。でも私は大人達の言葉を理解出来ていた。だから私は幼い頃から自分の容姿を自覚していました」
「大人達が幼子にそんな言葉を?本当に?」
問われて、日菜子は自嘲するような笑みを浮かべた。
「大人達のは不敏に思っての同情や哀れみの言葉でしょうから。仕方ないです。それより小学校で意地悪な級友から容姿を罵られる事が嫌でした」
日菜子は、深い溜息を吐いた。
「幼い頃から現実逃避の妄想ばかりしていました。私は可愛い、本当は可愛いんだって。現実の世界から逃れるように……」
日菜子は声を震わせ言葉を詰まらせた。神の手が日菜子の頭を撫でた。
夏だと言うのに、やはりその手は氷のように冷たい。
「日菜子さんは可愛らしいですよ」
その言葉は慈悲深い笑顔で吐かれたからこそ、日菜子には嘘臭く聞こえた。
それでも神の気遣いは嬉しく思え、日菜子は声の調子を明るくした。
「でも、そのおかげで漫画家になれたのかもしれませんね。私の妄想は段々とエスカレートして多種多様になっていきましたから。宇宙を彷徨う異星人の姫、時間旅行する中世の王女、神と話せる巫女……これだけは現実になりましたか」
「そうですね、僕は神ですから」
神と日菜子は視線を合わせて笑った。
「漫画家になるのは夢だったのですか?」
「はい!妄想も大好きだし、それに絵を描く事が得意でしたから」
日菜子は空を見上げた。
真夏の青空は日菜子の瞳をキラキラと輝かせる。
「漫画家としてデビューが決まった時は本当に嬉しかった。舞い上がりました。これで私の現実逃避の種でしかなかった妄想達は日の目を浴びることが出来るのだと思いました」
だが日菜子の声は再び元気を無くしていく。
「でも、実際は違いました。私が描きたいと願うストーリーは全てボツになりました。私の絵は学園物向きだからと、連載漫画は女子高校生が主役のラブストーリーに決まりました。高校卒業したばかりの漫画家が描く等身大のリアルな漫画ってのが作品コンセプトらしいです。可笑しな話ですよね、私は楽しい高校生活なんて送っていないのに。現実が嫌で妄想ばかりしていたのに」
「まぁ……。仕事とは、そのようなモノです。客から求められる物を提供せねばなりませんから」
そろそろ帰りましょうと、神が立ちあがった。
「日が高くなると暑くなりますから」
「はい」
手を繋いで歩きながら、日菜子の話は続いた。
「こんな風に可愛かったら彼氏が出来たのかな?とか、性格が明るかったらクラスの人気者になれたのかな?とか……結局は妄想しながら描いた漫画です。等身大だなんて嘘っぱちです」
神は相槌を打つ。
「成程。万人から好かれるような女子高校生を妄想しながら描いてるわけですね……可笑しなことです、人間とは千差万別、十人十色、いろんな人がいて当たり前です。それが個性ですから」
「でも、誰でも可愛くありたいし好かれたいと願います。それが叶わないことが個性なんでしょうか」
日菜子は自分の髪を撫で、そして何かを確かめるように静かに頬を触った。
「今の容姿なら、誰からも好かれるんでしょうね。人間って、ただ可愛いだけで好かれるんです。どんなに性格が悪くても可愛いだけで許されるんです」
「それは……」
神は、考え込んでから言葉を続けた。
「人間ほど激しい感情はありませんが、神にも感情はあります。当然、好き嫌いという感情もあります。勿論、全ての人間を平等に扱いますけどね。僕にとって日菜子さんは大好きな部類の人間です」
「こんな私をですか?」
「僕が嫌いなのは根拠のない自信に満ちて、根拠のない優越感に浸っているような人間です。日菜子さんのように自分に自信が無くて悲観的になってしまうのは人間なら当然のことです。神である僕から見れば、人間とは非常に愚かで滑稽な生き物ですからね」
神は、いつもと変わらない優しい声で話していた。しかし日菜子はゾクリと冷たい感覚を覚えた。
一瞬だけ、とても冷たい眼を見せたのだ。
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