真珠とアレキサンドラ

 それからの数日を、おれはぼーっと過ごした。

 一応、委員会にも参加はしていたが、作業はまったく手に付かず真珠に怒鳴られることしばしばであった。一度なんて教室の隅にあいていた大穴に落ちそうになった。下の階まで通じていた穴だったので落ちればけっこう痛い思いをしただろうが、琥珀が手を引いて助けてくれた。

 家に帰り、ベッドに入って、今日一日何をやったかと思いだすと、なにも記憶にないこともよくあった。

 どうしてあの夏祭りの夜、おれはもっと早く家を出なかったのだろう。珊瑚が宇宙船に乗って飛び立つところを目にしていればこんな気分にはならなかったはずだ。見ていないから宇宙人も宇宙船もその実在を信じることが出来ない。それが事実だと簡単に受け入れてしまう連中も信じることが出来ない。

「矢島くん、大丈夫?」

 ある日の休み時間、ひとりの女子に話しかけられた。えーと、誰だっけ? いや、クラスメイトなのは覚えているが、名字が・・・・・・そうだ、竹内だ。でも自信はないから名前は出さずにおこう。

「大丈夫って、なにが?」

「なんか最近元気ないし、ぼーっとしてるように見えるから」

 ろくに話したこともない相手にもわかるほど、おれは深刻な状態だったのか。

「そりゃまあ、悩み多き年頃なんだよ」

 つまらない冗談を言うと、竹内は「ふーん」と言って眼鏡の位置を直しながらちょっと笑ってくれた。地味な反応だった。見た目も地味だ。黒いおかっぱ頭に、黒ぶちの眼鏡、黒い瞳。だから名前がすぐに思い出せないほど印象が薄かったのだ。まあこれは不公平な評価だろう。委員会のメンバーが派手すぎるのだ。

「──きみたちはぁ、まぁだそんなことやってるのかぁい?」

 気持ちの悪い口調が、教室の後ろの方から聞こえてきた。マロの席のあたりだ。

 金髪を芝居がかった仕草でかきあげているのは、篠宮雪彦しのみやゆきひこ。なんだかしらんが、本人が言うには由緒正しい家柄のおぼっちゃんらしい。「本人が言うには」という部分が重要で、そういうことを自らアピールする点にあいつの性格のすべてが現れている。あまりかかわりたくないやつだが、おれにはクラスメイトという以外に間接的ながらつながりがある。

「きみにはそんな埃っぽい仕事は似あわないんだがねえ、真珠くん」

「あたくしが好きでやっていることですの。あなたには関係ありませんことよ」

「関係ないとはひどいなあ。未来の夫じゃないかぁ」

「何度も申しあげていますが、あたくしは結婚するつもりなどありません! あれは親同士が勝手に決めたことではありませんか!」

 というわけで、我らが委員長どのの許嫁なのだった。

「勝手に決めたことには違いないけどさぁ、子どもは親の言うことに従うものだしねえ。それに世の中に真珠くんに釣り合う男なんて、ぼく以外にいないと思うよ?」

「いいえ、失礼ですがあなたと比べたらこの永野さんの方がいくらかましですわ。そして永野さんよりはるかにましな男性が世の中にはおりますの!」

「変なところで比べんなよ・・・・・・」

 哲のオレンジの頭がうなだれる。

「ふん・・・・・・こんな男がぼくよりましだってぇ? 真珠くん、きみは少し付き合う相手を選びたまえよ。上流階級には上流階級にふさわしい人づきあいというものが・・・・・・」

 また真珠が「きーっ!」とか金切り声を上げ、二人のやりとりはまだ続きそうだったが、途中で竹内が話しかけてきた。

「ねえ、あれってほんとなの? 二人が許嫁って」

「ああ、そうらしい。少なくても二人はそう言ってる」

「ありえないよね、いまどき高校生で許嫁、しかも二人が同じクラスなんてさ。六義園さんがあえて同じクラスにしたわけでもなさそうだし」

 おれは竹内の顔を見なおした。そのとおりだ。そういう基本的なことに関心を持つやつがおれ以外にいたなんて。

「そうだよな。だってさ、そもそも・・・・・・」

 そのとき休み時間を終えるチャイムが鳴った。

「じゃあね。せっかくかわいい子がいっぱいいるクラスに入ったんだからさ、もうちょっと元気出して行こ?」

 と、妙なセリフを残して竹内は席に戻っていった。廊下側の隅の席。そうだ、確かに名字は竹内だ。下の名前はなんだったかな。まさか柘榴ざくろとか金剛こんごうとかいうんじゃないだろうな。

 いや、そんな名前だったら記憶に残っている。おれは逆方向の斜め後ろをちらりと見た。確実に宝石の名前を持っている女子が、別にもう一人いる。汀水晶みぎわすいしょう。マロの二つ前、真珠のひとつ前の席だ。

 また難しい姓名である。名字も珍しいが、「水晶」ってもはや人の名前として無理があるよな・・・・・・



 翌週になり、委員会の活動は終幕を迎えた。特別教室やその他こまごまとした部屋、廊下などを含め、旧校舎を隅から隅まで調べ終えたのだった。

 当初からの予想通り、「自殺した生徒」の遺品など出てこなかった。なにか怪しげなものが出てきても、真珠は「それは無関係ですわ」と彼女にしか分からない基準ではねのけてしまうのだった。

 おれたちは最後の探索場所となった教室の机や椅子に座り、真珠の言葉を聞いていた。

「さて、これで旧校舎をすべて調べ終えたわけですが・・・・・・」

「ぜーんぶ無駄に終わりました、とさ」

 哲の言葉におれは苦笑した。哲は別に真珠を責めているわけではないだろう。なにも出てこないのは承知の上だ。こうして集まっておしゃべりしたり、課外活動と称してぶらぶら遊びに行くのがけっこう楽しかっただけだ。ここにいる全員がそうだったはずで、それぞれの表情で同じ気持ちを表しているように見えた。

 だが真珠だけは違ったようだ。

「無駄などではありませんわ。こうしてあたくしたちが丹念に調べて回ったことが、お亡くなりになった方の供養につながったのです」

「・・・・・・?」

 もう一度最初から調べなおしましょう、という展開を予想していたおれは、意外な言葉に戸惑った。

「誰にも気づかれぬまま、いきなり校舎が壊されようとした。だから彼は怒ったのです。あたくしたちは彼の存在を信じ、長い時間をかけて生きていた証を探し出そうと努力しました。確かに証拠は見つかりませんでしたが、彼はそのことに満足して、すでに成仏されたのでしょう」

 いつの間にそんな話になってたんだ・・・・・・。「彼」と決め付けてるし。

「どうでもいいんだけどさ、なんで成仏したってわかんの?」

 翡翠が机の上に座って、足をぶらぶらさせながら訊いた。

「何度か申しあげましたが、あたくしは感じていたのです。あたくしのことを見つめる視線を、学校だけでなく、家でも。それが二学期に入ったあたりからまったく感じなくなりました。きっと夏休みを境に成仏されたのですわ」

 霊は学生の都合に合わせて行動しているらしい。

「というわけで、委員会の活動はこれで終了です。みなさんのご協力には感謝の言葉もありませんわ。どうにか間に合わせることができましたから」

「間に合わせるって、何にだ?」

 マロが尋ねると、真珠は待ってましたとばかりに胸を張った。

「よくぞ聞いてくれましたわ! 実は来週の九月十五日はあたくしの十六回目のバースデー。その日に開催されるパーティーで、旧校舎の取り壊しと、その跡地の再利用計画を発表するのです!」

「でもそれって、前から発表しては立ち消えになっていたんでしょ? またあらためて発表しなくてもいいんじゃない?」

「いいえ瑪瑙さん、あたくし個人が主導するのは初めてです。そこにパーティーの席上で発表する意味があるのですわ」

 ああ、そういえばそもそも跡地を利用するのが真珠の目的だったな。その成果を親父に示して許嫁を解消させるんだと。

 まあ相手があの篠宮ならいやがる気持ちもわかる。真珠は結婚そのものを嫌っているような口ぶりだったが、ほんとは相手が篠宮なのが気に食わないだけだろうということは、以前から察していた。

 どういうパーティーか知らないが、たぶん外部の人間も参加するのだろう。そこで発表すれば許嫁解消の話も持ち出しやすくなるということか。

「その跡地って、結局何を作んの。どうせ増築して生徒数を増やして、ひと儲けするつもりでしょうけど。『発展的利用』が聞いてあきれるわね」

「失敬ですわ! そもそもこの学園から利益なんて出ていません! むしろ低く抑えた学費の不足分を六義園家から持ち出ししているのです!」

「あらそうだったの。自分で払ったけど学費がいくらだったかなんて気にしなかったわ。じゃあ良心経営なところだけは褒めてあげる」

 それが高校生の会話か。どうでもいいけど利益をあげてなくても良心経営と呼ぶのだろうか。それに発展的利用ってなんだっけ? ああ、確か委員会の正式名称にそんな言葉があったような。

 真珠は咳払いして、

「まあそれはパーティーまで秘密ですわ。慰労を兼ねて、ぜひみなさんにも出席していただきたいと思っていましたから」

「メシ、メシ食えんの!?」

「もちろんですわ。一流シェフによる世界各国の──」

「真珠の手料理じゃなけりゃなんでもいいって! おれ行く! みんなも行くだろ!」

 哲が小躍りしてメンバーを見渡す。つくづく欲望に正直なやつ。そんなの堅苦しいだけのような気がするけど、腐りがちな気分を晴らすにはいいか・・・・・・

「真珠さん、パーティーは何時からですか?」

「十九時の開演予定ですわ」

「十九時・・・・・・わたし、その時間はちょっと・・・・・・」

 琥珀が頭を下げた。やはり門限が厳しいのだろうか。そうか、琥珀は来られないのか。でも「じゃあおれも行かない」とは言えないし。と思った瞬間、おれの心を代弁するかのような声が聞こえた。マロだった。

「あ、あのさ、じつはおれも・・・・・・」

「ごめんなさい、真珠さん。みなさん、わたしの分まで真珠さんをお祝いしてさしあげてくださいね」

 琥珀がマロのセリフを遮るように言った。ように、というか明らかに遮ったよな。マロは困ったような視線を琥珀に向けている。なんだこのやりとりは。

 真珠は二人の様子に気づかないのか、話をまとめてしまった。

「そうですか・・・・・・それは残念ですわね。おうちのお仕事もあるなか、よく頑張っていただきましたのに。いずれ別の形でお礼させていただきますわ」



 九月十五日、平日なのに学校は休みだった。真珠の誕生日だから──って、いいのかそれ。私立とはいえ、学習指導要綱をクリアしてるのかこの学校は。

 それにしても、このパーティー会場は一体・・・・・・。おれは周囲を見回した。

 広さは学校の体育館以上だ。これ、町の施設じゃなくてほんとに個人の所有物なのか。まあヨーロッパの宮殿と見まごうような豪華さを見れば、公共施設などではありえないが。

 真珠の家はちょっと高台に登れば町のどこからでも見えるのだが、おれはその大部分が国定公園か何かだと思い込んでいた。だが違った。このホールとか、周囲に点在する建物を含め、全部六義園家の敷地だったらしい。何十人もの案内係がいなければおれはこのホールにたどりつくこともできなかったのだろう。

 ほんとに金持ちだったんだ、真珠のやつ。というか、日本にこんな家が実在してたのか。TVとかで取り上げられてもよさそうなものだが。

 こんなアラブの石油王レベルなら、つきあいがあるのもたいそうな肩書きの持ち主ばかりなのだろう。紳士淑女を絵にかいたような人々に、おれたちは囲まれていたのだった。

 委員会メンバーはホールのすみっこに陣取っているのに、それでも落ち着かないことこの上ない。他の連中はよく普段通りにしていられるな、と思ったら、マロだけは違うようだった。さっきからそのあたりをウロウロしてはスマホを取り出して画面をにらみ、また元に戻す動作を繰り返している。

 マロがそんな調子なので、哲にあることを訊いてみた。

「マロとか哲って、どうやって委員会に入ったんだっけ?」

「ん? ああ、おれは矢島と似たようなもん。マロは『入った』っていうか、あいつが作ったようなものなんだよ」

「作ったのはあのお嬢さまだろ?」

「んー、それがだな・・・・・・」

 四月、まだおれがこの六義園学園に転校する前、真珠の親父さん、六義園の当主って人が学園を訪れた。そこで真珠と許嫁の件で言い争いになった。その親子げんかは理事長室で行われたのだが、たまたまそこを通りかかったマロが話を聞いてしまった。盗み聞きをしたと思い込んだ真珠は最初はマロを責めたのだが、彼と話をするうちに親に反発しているだけではダメだと気付き、委員会の設立を思いついた。重要なヒントを与えたマロは断るに断れず、設立に手を貸した。

「たまたま通りかかった」ねえ・・・・・・。おれはいまだに理事長室がどこにあるのかすら知らないのに。

 ともあれ真珠が最初からマロに気があるように見えたのは、そのときのことが原因であるようだった。おれが転校するまでの二か月ばかりの間にいろいろあったらしい。

「なんだぁい君たちぃ、その格好はぁ」

 篠宮だった。こいつが招待されてても不思議じゃないか。似あわないタキシードなんぞを着ている。確かに服装では気まずい思いをしていたところだった。ほとんどの出席者がドレスアップしている中、委員会メンバーはみんな軽装である。おれなんかサンダルの代わりにスニーカーを履いてくるのがせいぜいだった。

「格好なんて関係ないだろ。おれたちは真珠の誕生日を祝いに来たんだから」

 スマホをしまったマロが反論する。いや、そんなに祝いたかったわけでもないけど・・・・・・

「そうね。似あわないタキシードなんて裸になるより恥ずかしいもんね」

 翡翠が真っ赤な髪を指先で払いながら言った。翡翠と瑪瑙も軽装だけど、この二人は高価そうなドレスのオネエサマ、オバサマ方の中でも見劣りしていない。翡翠は黙っていれば、瑪瑙は黙っていなくても、とてつもない美人だとつくづく思う。

「君たち・・・・・・! 真珠くんのお情けで出席させてもらっている身であることを忘れないでくれたまえよ。ぼくは未来の六義園家当主なんだからね!」

「はっ、たかが婿養子の分際で偉そうなこと言ってんじゃないわよ。婿養子すら怪しいじゃない。真珠はあんたのこと大っきらいだって」

「なんだってぇ・・・・・・?」

「なによ、やるっての?」

「やめろって、翡翠も」

 マロが翡翠と篠宮の間に割って入った。

「いいんだよぉ、こっちはぁ。SPを呼んで君たち全員追い出してやるんだからぁ」

「あんたね・・・・・・」と翡翠はマロを押しのけた。

「あたしはともかく、他の連中に指一本でも触れてごらんなさい。あたしの全身全霊をもってあんたのこと叩き潰してやるから」

 篠宮は情けない声を漏らして沈黙した。そりゃあの顔ですごまれたらそうするしかないだろう。翡翠があんなこと言うなんて意外だった。

 雪彦、と声がして篠宮が振り返った。

「パパ・・・・・・」

「何をしている、真珠お嬢さんのスピーチが始まるぞ」

 篠宮は親父さんらしき人に連れられて会場の前の方に行ってしまった。ほんとに胸くそ悪い野郎だな。ここは真珠の作戦の成功を祈るとするか。



「えー、おほん・・・・・・」

 司会者に紹介され、真珠がステージに上がった。ちょっと緊張しているらしい。

「ほ、本日はあたくしのバースデーパーティーにお集まりいただき、まことにありがとうござ、ござりばす・・・・・・」

 おいおい、だいじょうぶかよ・・・・・・。だれか笑いだせばよかったのだろうが、出席者は礼儀正しく沈黙を守っている。

 それでも真珠の口は話しているうちになめらかになっていった。型どおりの挨拶を終え、これから本題に入るらしい。

「・・・・・・この場をお借りして、あたくしから皆様にお伝えすることがございます。かねてより懸案であった、六義園学園の──」

 ごん、という鈍い音が、真珠の足元で鳴った。自分の足元に目をやる真珠。ジュースの缶ほどの物体が投げ入れられたらしいのが、おれの位置からもわかった。

 金持ちには敵が多いのかな、とおれがのんきなことを考えた瞬間、ジュース缶のようなものから白い煙が吹きあがった。

 マイクを通した真珠の悲鳴が上がるなか、煙はまたたくまにステージを包み込んだ。たちの悪い悪戯じゃなくて、パーティーの演出なのか。おれはまだそんな風に思っていたが、客席の方にもいくつか缶が投げ込まれたらしく、各所で煙が上がりはじめるのを見て、考えを改めなければならなかった。

 白い煙は視界を覆い隠しながら、すぐに会場の隅にいたおれたちのところにもやってきて、委員会のメンバーを包み込んだ。咳き込みはじめるマロたち。毒ガス、という縁のない言葉が頭に浮かび、おれは思わず口を押さえた。

 だが呼吸も整えていなかったので、息を止めていられたのは十秒ほどだ。我慢できずに息を吸い、一緒に煙も吸い込んでしまった。

 ──なんともない、な。またすぐに息を止めようと思ったが、その必要もなさそうだ。周りの人々も咳き込んでいるだけでそれ以上苦しんでいる様子はなかったが、おれには咳も出ない。なんだこの煙は。

 あちこちで悲鳴や警備を呼ぶ声がする。しかし視界が利かないので誰も動けないようだった。ただ、それも長いことではなかった。煙の濃度はみるみるさがり、会場が見渡せるようになってきた。

「見ろ! ステージの横だぁ!」

 と、若い男の声がした。いまの・・・・・・篠宮じゃなかったか?

 会場中の視線が言われた場所に集まる。ステージ脇の扉の前で、誰かが誰かに抱えあげられている。抱えあげらているのはドレス姿の女。派手な金髪を間違えるはずがない、さっきまでそこに立っていた真珠だ。身動きしていないように見える。そして抱えている方の人物を見て、おれは息をのんだ。編上げのブーツ、濃紺のズボン、同じ色の上着、防弾ベストらしきもの、顔にはゴーグルとガスマスク。

 その人物はちらりと会場に顔を向けると、軽々と真珠を肩に抱えたまま扉の向こうに消えた。

「侵入者だ!」

「真珠お嬢さまがさらわれた!」

 あちこちで太い声があがる。侵入者? さらわれた? また縁のない言葉が頭を占め、おれは立ちすくむしかなかった。

 そばにいた黒服が、イヤホンから何事か指示を受けたらしかった。マイクがあるらしいスーツの袖口に了解と吹き込み、彼はスーツの内側に手を伸ばした。

 そしてなにか黒光りするものを取りだした。

 拳銃・・・・・・?

 本物、か? 日本の一私邸の警備員だかSPだかが拳銃を持っている? いや、よく見えなかったから拳銃を模したスタンガンのようなものかもしれない。それに今、ホルスターじゃなくてスーツの内ポケットから取り出したようにも見えたのだが。そもそも胸元に不自然なふくらみなどなかったように見えたのだが。

「おれたちも探しに行こう!」

 黒服が会場から走り去っていく中、マロが言った。篠宮とのやりとりの後もそわそわして落ち着かなかったが、いまは別の種類の緊張を浮かべている。それにしてもこいついまなんて言った?

「バカ言え、強そうなおっさんたちがいっぱいいるんだから任せておけよ。おれたちが行ってどうすんだよ」

「真珠がさらわれたんだぞ、放っておけないだろ!」

「なにがどこにあるのかもわからないんだぞ、邪魔になるだけだって言ってるんだよ!」

 ほんとに、なんでこいつはいつもそういうこと言いだすんだ。そりゃ真珠のことは心配だが、おれたちじゃなんの役にも立てないことは、常識的に考えたらわかるだろ。

「そうだな・・・・・・料理も食えなかったし、真珠に恩を着せて、おれたちのためにもう一度パーティーやってもらうとするか」

 おまえまで何いいんだすんだ、哲。

「あれ・・・・・・翡翠ちゃんは?」

 瑪瑙が周囲を見回した。翡翠がいない。さっきまでそばにいたのに。

「まさか翡翠も追いかけにいったんじゃないだろうな」

「うそ・・・・・・じゃあわたしも行く!」

「だめだ。女の子を危険な目にはあわせられない。おれたち三人でいくから、瑪瑙はここに残ってるんだ」

 また真顔で臭いことを・・・・・・同じ高校生なんだから危険なのは男も女も変わらん。ちょっと待て、三人て、おれも含まれてるのか。

 瑪瑙はマロを見つめたまま黙ってしまい──決死の覚悟で事件に立ち向かう男たち、その身を案じながら見送る女、という構図が出来上がってしまった。

 男らしくないと言われてもまったく構わん。おれも見送る側でいたかったのに・・・・・・



 時刻は十九時半を回ったあたりか。とっくに日は落ち、外灯が道を照らし出している。それぞれの建物は林に囲まれていて、あまり視界は利かない。

 巨大な森林公園のなかに博物館が点在している印象である。まったくもって個人の敷地とは信じられない。

 公園と異なるのは、ガタイのいい黒服の男たちが何か叫びながら行き来していることだ。ヤクザの抗争にでも巻き込まれたようであった。

 実際に起こっていることも、現実感のなさではヤクザの抗争と同程度だ。おれは舗装された薄暗い道を歩きながらぼんやり考えた。

 マロと哲の姿はない。マロが手分けして探そう、と言い出し、ふたりは勝手な方向に走っていってしまったのだ。取り残されたおれはホールに戻ることもできず、一人で道を歩いていた。

 やがて別の建物が見えてきた。本館だか別館だか知らないが、こちらは住居かもしれない。裏口と思われる扉があるが、警備の姿はない。扉のノブを回すと、意外にも開いた。警備員は真珠の捜索に回ったのだろうか。

 順当に考えて、真珠の誘拐は身代金目的だろう。だとすれば建物の中に残っているはずはなく、敷地の外に出ようとするだろう。これだけの広さだから警備の穴があってもおかしくない。犯人はそこを探して移動しているのではないか。

 だったら建物の中にいた方が安全だ。真珠を助けるのはSPや警察の仕事だ。しばらくここで待ってからホールに戻れば言い訳も立つだろう。真珠には悪いけど、おれに何ができるっていうんだ? おれはただの高校生なんだ。薄情なんて言うやつがいるなら、そいつをここに呼んでくればいいんだ。おれと同じことをするに決まってる。

 扉をくぐると、管理人室だのボイラー室だのと書かれたドアが並んでいた。まあこんなでかい建物ならそれくらいあるか。

 明るい廊下を歩きながら、おれは考えを巡らせた。どうも不自然なことが多すぎる。

 身代金目当ての誘拐なら、目的としては理解はできる。さぞかしふんだくれることだろう。でも、なんで今日この場所でなければならなかったんだ。真珠はしょっちゅう他にはおれたちしかいない旧校舎に詰めてて、一人になる機会だって多かったはずだ。そこでさらった方がずっと確実じゃないか。

 さらった手段はもっと不自然だ。ホールにまいたのは煙幕のようなものか。あのなかで、犯人はどうやって正確に真珠を探し当てたのだろう。犯人はゴーグルをしていたようだが、それで視界が広がるわけじゃない。真珠自身が煙に巻かれていたら犯人にも見えないはずだ。手探りで探し当てたとして、どうやって気絶させたのか。なにかの薬品? クロロホルムとか? あれは人間を失神させられるような代物じゃなかったはずだ。

 真珠はスレンダーだが出るところは出ているし、小柄でもない。その真珠を抱えて、あんな身のこなしができるものだろうか。犯人自身も細身に見えたし。

 考えているうちにだいぶ奥まで来てしまった。廊下の曲がり角だ。引き返そうとUターンしたとき、背後から「雪彦サン?」と声がした。

 振り返った視線の先に、濃紺の服に身を固めた人物が立っていた。ゴーグルとマスクをしているが、知っているぞ、いまの声、独特な発音──!

「きーちゃん・・・・・・?」

「矢島サンでシタか。これは困りまシタね・・・・・・」

 その人物はゴーグルとマスクを外した。さらにニットキャップを外すと長い金髪があらわになり、よく見知ったクラスメイトの顔を形作った。

「なにしてんだ、こんなとこで・・・・・・」

 まだアレキサンドラと真珠の誘拐犯が結びつかず、おれは彼女が歩み寄ってくるのを見つめた。

「ソーリーデスが、しばらくスリーピングしてもらいまショウ」

 腹に激痛が走った。間抜けな音とともに大量の呼気を吐きだし、おれは膝を折った。アレキサンドラがおれの腹にパンチを食らわせたのだった。痛みと猛烈な不快感が脳天を突き抜ける。

「なにすんだよ・・・・・・!」

 呻きながらアレキサンドラを見上げると、斜め前の小部屋の扉の隙間から、倒れている真珠の姿が見えた。アレキサンドラが犯人・・・・・・?

「おかしいデスね。なぜ気絶しないのデス? 真珠サンは一発だったのデスが」

 人間が一発殴ったくらいで簡単に気絶してたまるか。ボクシングがスポーツとして成立しなくなっちまうだろ。それが失神の謎の答えだってのか? 

「仕方ありまセンね。真珠サンのとなりにいてもらいまショウ」

 アレキサンドラはおれの腕をつかみ、立ち上がらせようとした。

「重いデスね・・・・・・」

 アレキサンドラはおれをかつぎあげようとしたようだが果たせず、おれは自力で立てる状態じゃなかったので、ずるずる引きずられていく。おまえ、さっきは真珠を軽々と抱えていただろうが。

 小部屋に押し込まれたとき、「いたぞ!」とおれがこの建物に入るのに使ったドアの方から声がした。

 そして、パン! と乾いた音が廊下を駆け抜けた。

 いまのは、銃声・・・・・・? さっきSPが手にしたのはほんとに拳銃だったのか・・・・・・?

 ここは日本なんだぞ。近くに外部の客だっているのに、いきなり発砲しやがった・・・・・・

 廊下の曲がり角に立っていたアレキサンドラには当たらなかったようだった。小部屋の向かい側、SPの死角になる場所に素早く移動したアレキサンドラは、腰のホルスターに手を伸ばした。

「先に撃ちまシタね・・・・・・?」

 アレキサンドラは凄みを感じる声でつぶやくと、しゃがんだままホルスターから抜いたものを廊下側に突き出した。

 再び銃声。五,六回鳴ったようだった。

 アレキサンドラも発砲した? あっちも本物なのか? おまえ、自称アメリカ人だからってそんなもの使っていいと思ってんのか。銃刀法違反どころじゃないぞ、高校生活だって・・・・・・

「銃を持ってるぞ!」

「応戦しろ!」

 と入り口付近で声が上がると同時に、いまの数十倍の銃声が館内を埋め尽くした。声の数に比べて発砲音が多すぎる。自動小銃まで使用しているのだろうか。

 再び死角に身を隠すアレキサンドラ。しかし銃声は止まない。おれからほんの数メートルのところで着弾音がはじけ、小部屋の壁もびりびり振動している。おれは無意識のうちに頭をかばっていたことに気づいた。

 アレキサンドラも身動きできずにいるかと思ったが、彼女は銃をだらりと下げたまま立ちあがった。

「面白くなってきまシタ」

 そう言葉を残すと、アレキサンドラは信じられない行動に出た。火線で埋め尽くされた廊下に、いきなり飛び出したのだった。一丁の拳銃を構えただけで。

「撃たれる前に撃て! それはワタシたちアメリカ人の専売特許デス! いくらアメリカが長年の対日貿易赤字でも売り渡した覚えはありまセン! あなたがた日本人は永久に隣国のミサイルを人工衛星と信じ込んでいればいいのデス!」

 そういえばきーちゃんの「デス」の音は「death」に聞こえるな、と、おれのはじけ飛ぶ寸前の理性が突っ込んでいた。こんなときに冗談をいえる神経とは何なんだ?

 アレキサンドラは妙なことを口走りながら引き金を引き続け、やがてすべての銃声が途絶えた。

 おれの理解の範疇を超えていたが、彼女はそこに立っていた。怪我らしい怪我もしていないようだった。

「一発も当たんなかったのか・・・・・・?」

 アレキサンドラがこちらに顔を向けると、頬のあたりに赤い擦過傷のようなものがあった。

「かすり傷デス」

 と、その傷を親指で拭う。かすり傷かもしれないが、あと数センチずれてたら死んでたじゃないか。どうしてそんな冷静でいられるんだ。というか、なぜあんなことして生きてるんだ? 相手はどうなったんだ?

「おまえ、まさか殺したのか」

「ノー、峰打ちデス」

 峰打ちって・・・・・・おれはおそるおそる廊下側に顔を出した。数人の黒服が入り口付近で倒れている。やっぱり・・・・・・!

「大丈夫、急所は外してありマス。すぐに目を覚ますでショウ」

 何でこの距離でそれがわかるんだよ。銃を撃ったんだぞ、急所じゃなくても大怪我させたんじゃないか。

「そんなことより、すぐに人が集まってきマス。場所を変えまショウ。ついて来てくだサイ」

 と、真珠をかつぎあげる。どうにか立ち上がれるようになったおれは、アレキサンドラに従うしかなかった。とにかく彼女は、本物らしい銃を持っているのだ。



 アレキサンドラは迷う様子もなく広い邸内を進んでいく。おれはその背中に訊いてみた。

「さっき雪彦さんていったよな。篠宮のことだろ。どういうことだよ」

「雪彦サンを待っていたのデス。そういう指示でシタから」

「指示って・・・・・・」

「イエス、オール雪彦サンの計画なのデス」

 アレキサンドラは計画とやらの内容をおおざっぱに話してくれた。

 真珠が結婚を嫌がっていることを篠宮は知っている。このままでは本当に破談になってしまうかもしれない。だが自分が何かいいところを見せれば真珠も考えを変えるだろう。それも真珠の家族を含めた、できるだけ大勢の前で行えば効果は大きいはずだ。衆人の前で真珠が誘拐され、それを自分が颯爽と助けるというのはどうだ。もちろん誘拐犯は篠宮自身が手配して・・・・・・

 というのが筋書きらしかった。要は自作自演というやつで、筋としてはわかるような、やっぱりわからないような・・・・・・。第一、真珠がそんなことで考えを変えるとは思えない。変えると思いこんでいるところが篠宮らしいとも言えるが。

「いいのかよ、そんなことペラペラしゃべっちまって」

「あ、これはシークレットデシた。黙っていなかったらあなたでも殺しマス」

 そのとき、誰何の声とともに、ひとりの黒服が現れた。だがアレキサンドラの肩にかつがれているのが真珠と分かったのか、銃を向けたまま固まる。真珠は容赦なく引き金を引き、黒服が悲鳴をあげて倒れる。

 あれも急所を外したってのか? 全然動かないじゃないか。やっぱり殺したんだ。クラスメイトが、目の前で人を撃ち殺した・・・・・・

 たぶんおれの顔にはまぎれもない恐怖が浮かんでいたはずだ。「あなたでも殺しマス」というセリフは冗談でも何でもなく──

「いまのはアメリカンジョークデス」

「は?」

「もうどうでもよくなりまシタ。雪彦サンは来ませんでシタし、向こうが先に発砲しまシタ。これはもはや戦争なのデス。あなたがたにはソーリーデスが、ワタシ個人の人質になってもらいマス」

 何を言ってるんだこいつは。そういえばなんで篠宮は来なかったんだ。

「バカなこと言ってないで、おれと真珠を解放してどっかに行ってくれ! おまえのことは黙ってるから! SPは何十人もいるじゃないか、ひとりで戦争も何もないだろ」

「こういうことはいやというほど訓練してきまシタ。SWATで実戦も経験していマス。ピースボケの日本人が何十人集まろうと、ワタシのエネミーではないのデス」

 スワットって、あのSWATか? 高校生がそんなところに入れるわけが・・・・・・

「ここにしまショウ」

 と言ってある部屋のドアノブを回すが、鍵がかかっていたようだった。するとアレキサンドラはおもむろにドアノブのあたりに向けて銃を構えた。

「やめろ──!」

 おれの制止に銃声が重なった。おれは反射的にしゃがみこんだ。

 ガン、とアレキサンドラは扉を蹴って開き、何事もなかったように部屋に入っていく。

 あれ・・・・・・? 何で開いたんだ。まさかさっきの銃撃で鍵を壊したのか? 真鍮か何かの鍵を、たった一発の拳銃の弾で? 

 おれがしゃがんだのは跳弾を恐れてのことだったが、天井や床を見回しても跳弾の痕は見当たらない。

 扉を見ると鍵のシリンダーの部分に二センチ近い穴が開いていた。銃弾が貫通していた。劣化ウラン弾でも装填されてるのか、あの銃は。シリンダーに穴を開けたところでボルト部分は壁に埋まったままなわけで、ドアは開けられないはずなのに。

 おれはもっと基本的なことに思い当った。ここに来るまで何十発か撃っているはずだが、一度も再装填してないんじゃないか? それに薬きょうも落ちていなかったような・・・・・・

 気づかれないようにしながらアレキサンドラの銃に目をやる。妙にシンプルなデザインの拳銃だった。エアガンが流行ったときに有名どころはひととおり覚えたものだったが、こんな銃あったか?

 アレキサンドラは部屋の中にあったロッカーや什器を、開け放ったままの扉の前に積み重ねていった。バリケードを作るつもりなのか。やがて扉の高さの半分ほどが即席の壁で埋まった。

「篠宮の指示ったって、なんでおまえがこんなことやってんだよ。SWATだかなんだか知らないが、あいつはその経歴知ってたのか」

「そうデス。知ってたからワタシを六義園学園にいれたのデス」

 篠宮はそんなに前から計画を練ってたってことか。いや、だからといってアレキサンドラを同じ学校に入れる必然性はまったくない。

「エブリデイ真珠サンを監視していマシた。この家にも何度も侵入して構造を覚えマシた。監視するためには真珠サンの近くにいた方が都合がよかったのデス」

 近すぎだろ! 真珠だけじゃない、クラスメイト全員に思い切り顔も名前も覚えられてるじゃないか。

「毎日って、ノイシュヴァンシュタインでバイトしてたじゃないか」

「あれは生活費を稼ぐためデス。やむをえず始めましたが、珊瑚サンとの出会いもあってハッピーデシた」

 そこだけ現実的なんだな。

「おまえがこんなことしてるって知ったら、珊瑚も悲しむんじゃないか」

「それをいわれるとつらいデス・・・・・・。デスがそれとこれとは別。ワタシの名誉にかけてやりとげなくてはならないのデス」

 情に訴えかけるのも無駄だった。くそ、どうすりゃいいんだ・・・・・・

「ワタシは十三歳でSWATに入隊しマシた」

 ああ、いいよそんなホラの身の上話は。

「それはひとりのガールにあこがれたからデス。そのガールはワタシと同い年でしたが、すでにリビングレジェンドデシた。噂によれば、初めて触った時限爆弾を素手で解体したり、ソノラ砂漠を無補給で横断したり・・・・・・」

 ホラの上にホラを重ねやがった。なんだそのリビングレジェンドって。

「デスがワタシが入隊したときには、彼女はすでにSWATを去っていたのデス。一度も会えず、残念デシた。それでもワタシは彼女に追い付こうと訓練を重ねたのデス」

 アレキサンドラはバリケードの隙間から前方を見据えた。

「そこで教え込まれマシた。銃は撃たないなら持つな、持つなら撃て、そして一発撃ったら必ず全弾撃ち尽くせと!」

 交通安全の標語か。まあ集中砲火の中に飛び出したり至近距離でドアに発砲するくらいだから、そんな適当なことを教えられたのも無理はない。SWATじゃなくてどっかのチンピラ集団なのだろう。

 アレキサンドラが隙間に向けて銃を構えた。すると「チャッ」と金属音がした。何だ、今の音?

「そこにいるのはわかっている、大人しく投降しろ!」

 遠くの方から声がした。様子をうかがうと、前方のT字路の死角に黒服が集まっているのが見えた。距離は十五メートルくらい。死角なので正確に何人いるのかは分からない。

 アレキサンドラはすぐには撃ってこないと判断したのか、銃を戻した。また「チャッ」と音がする。銃が鳴ったのか? 揺らしただけで音がするなんて、どっか壊れてるんじゃないのか、それ。

「要求があれば応じる! だから人質を解放するんだ!」

「要求はみなさんを皆殺しにすることデス! 撃たれた恨みは日本海溝より浅く、マリアナ海溝より深いのデス!」

 黒服が息をのむ気配があった。めちゃくちゃなこと言いやがって、そもそもおまえが最初に手を出したんだろう。

 アレキサンドラは天井を見上げ、考え込む素振りを見せた。

「間違いマシた。マリアナ海溝のほうがディープなので、いまの言葉は矛盾してマス! 取り消してくだサイ!」

 そんなしょうもない間違いより、もっと根本的な間違いを修正してくれ。黒服もそんなたわごとは無視することにしたようだ。

「一人でここにいる全員を相手にするつもりか!」

「そうデス! かかってきなサイ!」

 アレキサンドラが引き金を引いた。一瞬ののち、返礼とばかりに銃弾の雨が降ってきた。バリケードと部屋の壁に着弾する。

 それは雨というより雹を思い起こさせたが、もちろん威力は比べ物にならない。一発当たれば命を奪われるのだ。

 おれはろくに立ち上がることもできないまま部屋の隅まで移動し、頭を抱えて身体を小さくするしかなかった。そばでは真珠が倒れている。何でこの騒ぎで目を覚まさないんだ。

 バリケードを通り抜けた一発の銃弾が、背後の壁に着弾した。壁をえぐった鋭い音に、おれの半身が総毛だった。あと数メートルずれていたら、おれは死んでいたかもしれない・・・・・・

 なんなんだよ、これ・・・・・・。おれはただの高校生だぞ。最近はいろいろ妙なことに遭遇してるが、ごくまっとうに高校に通って、それなりに勉強もして、仲間と遊んで・・・・・・こんなことに巻き込まれるはずがないんだ。

「農耕民族に狩猟民族の恐ろしさを見せてやるのデス!」

 アレキサンドラはあわてる様子もなく応戦している。おまえだって高校生で、おれのクラスメイトだろう。銃なんか持ってちゃいけないんだ。それ撃ったら、また相手を殺しちまうんだぞ。変な仕組みの銃だが、一応本物らしいじゃないか。それにまた適当なこと言いやがって、おまえの民族は農耕に移行しないでずっと狩りをして暮らしてたのか!

 アレキサンドラは腰に下げた丸いものに手を伸ばした。手榴弾らしかった。歯でピンを引き抜き、放り投げる。

 破裂音がして、複数の悲鳴が上がって、かすかに建物が揺れた。

 おかしい。なにもかもおかしい。最初にいきなり撃ってきたSP、応戦するアレキサンドラ。それに銃撃戦が展開できるこんなでかい屋敷が個人の持ちものだなんて。そもそもなんで真珠が旧校舎の取り壊しとか再利用なんてやってんだ? 学園の理事長だから? そこからしてありえねえだろ!

「待って、撃たないでください! 向こうにいるのはおれの友だちなんです! お願いです!」

「来るんじゃない、下がっていなさい!」

 鳴りやまない銃声の中、聞いたことのある声がした。声というよりそのセリフの内容で、おれはマロだと確信した。

 だが銃撃は止まらない。そりゃそうだ。この状況で部外者の高校生の言うことなどきくものか。

「撃つなって言ってんのよこのウスノロども!」

 もうひとつ知っている声がした。今度は翡翠か。直後に男のうめき声がしたのは、あいつが黒服を殴りでもしたのだろうか。

 頭を抱えていては状況はわからないが、銃声が止んだのは確かだった。高校生二人の言うことに従ったのか?

「そっちにいるのはきーちゃんなんだろ! おれだ! 有馬だ! 話を聞いてくれ!」

「有馬サン・・・・・・?」

 アレキサンドラは引き金を引くのをやめた。だが銃口は前を向いたままだ。

「話は篠宮から聞いた。翡翠が口を割らせたんだ。だからもう戦う必要はないんだ!」

「それはもう関係ありまセン! ワタシは殺人マシーンと化したのデス! 皆殺しにするまで止まることはないのデス!」

「なに言ってんだよ! いまそっちに行くからな!」

 やめなさい、とか、マロ、とか声が聞こえた。マロは制止を振り切ってこちらに向かってくるようだ。足音がひとつだけ近づいてくる。

「それ以上近づけばユーでも撃ちマス!」

「撃てるもんなら撃ってみろ! きーちゃんに友だちが撃てるわけがない!」

 マロが怒鳴り返す。こいつはほんとに、こんなときまで・・・・・・

 アレキサンドラは立ち上がって銃を構えなおしたが、引き金を引くことができない。

 マロがバリケードをよじ登り、部屋に入ってきた。おれの姿を見て、もう大丈夫だという風に微笑む。

 アレキサンドラはマロが進むのにあわせて、銃を突き付けたまま一歩二歩と後退し、部屋の壁まで追い詰められた。

「もう終わりにしよう、銃をおれによこすんだ」

 マロが手を伸ばす。その動作に驚いたかのように、アレキサンドラは引き金を引いていた。

 何百回目かの銃声が狭い部屋の中にこだまする。

 マロはぐらりとよろめいたが──すぐに体勢を立て直した。

 その頬から一筋の血が伝っているが、かすめただけらしい。銃を持ったやつはよほど頬をかすめるように撃つのが得意なようだ。

 マロはゆっくり手を伸ばし、銃身をつかんだ。アレキサンドラの指が力なくグリップから外れ、拳銃はマロの手に渡った。連射直後の銃身をつかんでも火傷とかしないのだろうか・・・・・・

「ゲームは終わりだ、きーちゃん」

 歓声が上がった。SPたちのだ。たぶん翡翠も含まれていたのだろう。

「う、うーん・・・・・・」

 今度はおれの後ろで呻き声がした。こっちは真珠だ。

「有馬さん・・・・・・? あたくしはいったい・・・・・・」

 ずいぶんいいタイミングで目を覚ましたな。いままで寝たふりをしてたんじゃないだろうな。おれもアレキサンドラもいるのに、マロしか見てないし。

「真珠、大丈夫か?」

 マロは床に膝をつき、真珠が身体を起こすのに手を貸した。

「ええ、あたくしは何とも」

「心配したんだぜ。怪我がないようでよかった」

「有馬さん・・・・・・」

 真珠は肩を支えるマロの手をしっかりと握ると、うっとりした目で彼を見つめた。

 おれはもううんざりだった。この茶番劇の終幕はいつ訪れるのだろう・・・・・・



「まったくあんたは無茶をして・・・・・・あ、でも心配なんてしなかったわよ!」

 翡翠がマロのほおに絆創膏を貼っている。マロは「いてて・・・・・・」とかいいながら大人しくしていた。

 真珠はと見ると、来ていたドレスの上からSPの上着を羽織っており、気を失っていた間の説明を受けているようだ。

 おれ自身のことは誰も心配してくれない。アレキサンドラに殴られた腹がまだ痛むんだが・・・・・・

 そのアレキサンドラはSPに両脇を挟まれ、どこかに連れていかれようとしている。表情は見えないが、がっくりうなだれた頭からは抵抗の意思は感じられない。

「きーちゃん・・・・・・」

 哲と瑪瑙も合流し、誰もが彼女に声をかけようとしているが、果たせない。それでもマロが声をかけようとしたときだった。

「その女か、パーティーを滅茶苦茶にし、わしの家で好き放題暴れてくれたのは」

 芝居がかった、しかし確かに威厳らしきものを漂わせた中年の男の声がした。

 SPのスーツ姿に囲まれながら、和服のおっさんが歩いてきた。真珠がお父さま、とつぶやく。そういえばパーティーで前の方にあのおっさんがいるのを見た。ひとりだけ和装だから目立っていたのだ。

「警察に引き渡すまでもない、ここで私刑に処してもよいが、さてどうしたものかな?」

 髭に覆われた口元がにやりとゆがむ。

「お父さま!」「待ってください!」と真珠とマロが叫ぶが、真珠父は「おまえたちは黙っていなさい!」と一喝した。

「なにか申し開きがあれば聞こうではないか」

 アレキサンドラはうなだれていた頭をあげると、いきなり両脇のSPをふりほどいた。

 いつのまにか彼女の手に光るものが握られていた。刃渡り二十センチほどの軍用ナイフだった。まだそんなもの持ってたのか。というかなんでさっさと武装解除させなかったんだ。

 SPがあわてて銃を向けるが、真珠父が軽く手をあげて制した。

「言い訳するつもりはありまセン。デスがみなさんに多大なご迷惑をおかけしたのは事実。ワタシはアメリカ人デスが、ここは日本。日本流にお詫びさせていただきマス」

 アレキサンドラは数十対の視線に囲まれる中、ゆっくりした動作でブーツを脱いでその場に正座し、防弾ベストも外すと、ナイフを両手で持ち直してその切っ先を腹に当てた。

「おっと、辞世の句のほうがさきデシた。死んでからでは詠めまセン」

 アレキサンドラはナイフを置いて目を閉じた。少し瞑目すると、咳払いしてから何やら口にした。

「身はたとひ 夕凪の野辺に朽ちぬとも 留めおかましゲルマン魂」

 なんか聞いたことのあるような、ないような・・・・・・

 再びナイフを手にし、柄を持つ手に力が込められた。

「待たれよ!」

 真珠父の鋭い声にアレキサンドラの手が止まる。待たれよって、おっさん・・・・・・真珠の言葉遣いがおかしいのはあんたの影響か。

「わしも事情は聞いておる。そなたは篠宮のこせがれの指示に従っただけというではないか」

 いや、事件の大部分はアレキサンドラが勝手にやったんだけど・・・・・・

 二人の人物が姿を現す。篠宮親子だった。あまり顔は似ていないが、青ざめた顔をしているのは共通している。

「篠宮さん、まさか今回の件、あなたが裏で手を引いていたということはないでしょうな」

 篠宮父はびくりと身を震わせると、自然落下以上のスピードで土下座した。

「めめめ滅相もございません! すべてこのバカ息子が勝手にやったことでございます!」

 と、バカ息子を引きずり倒して頭を床に押し付ける。

「いえ、もはや息子ではありません。いますぐ勘当いたします、親子の縁を切ります、ですからどうかお許しを・・・・・・!」

「ひいっ、それはあんまりだよパパ・・・・・・」

「黙れ! 私はもうきさまの親などではない!」

「では許嫁のお話は・・・・・・」

 真珠が口をはさんだ。

「もちろん解消させていただければと存じます、真珠お嬢さま・・・・・・」

「お父さま! どうか篠宮さんをお許しになってください。このとおりあたくしは無事だったのですから!」

 真珠は笑顔を隠しきれないまま懇願した。結局のところ真珠の作戦は成功したわけか。

「ふむ、まあよいであろう。下がってよろしい」

 真珠父はその一言でほんとうに許してしまったらしく、篠宮父と勘当息子はSPに挟まれて退場していった。

「そういうわけだ、女兵士よ。これでそなたの罪も消えた」

 アレキサンドラにも意外な展開だったらしく、目をしばたかせる。

「それにしても見事な手腕であった。たいした怪我も負わせず、我が家のSPどもを無力化してしまうとは。そしていざとなれば切腹も辞さぬ覚悟もあっぱれ」

 黒服たちが顔をうつむかせる。たいした怪我も負ってない? あれだけ撃ちまくって手榴弾も投げたのに? たしかにアレキサンドラは急所を外したって言ってたけど、それでも大怪我するよな? 手榴弾はスタングレネードだったってことか? でも屋敷が揺れたよな?

 だが、よく見れば倒れている黒服はひとりもいない。みんな自力で立って歩いている。ボロボロなのはスーツだけだ。スーツってそう簡単に破れたりしないと思うが、どうやったら怪我もせずに服だけ破れるのだろう。

「まったく、これほど頼りにならんやつらだとは思わなかった。どうかやつらを鍛えなおしてやってはくれまいか?」

「どういうことでショウ・・・・・・?」

「わからぬか。そなたをスカウトしたいと言っておる」

 アレキサンドラの表情が戸惑いから理解に変わり、彼女は立ち上がると踵を合わせて敬礼した。

「イエッサー!」

「うむ、よい返事だ。期待しておるぞ」

 真珠父が満足げにうなずく。茶番はまだまだ終わっていないようだった。

「それから君、有馬くんといったかな」

 今度はマロの方を向く。

「君には礼を言わなくてはな。単身、武器も持たずに女兵士の元に向かったそうではないか。その勇気にわしは感服したぞ」

 マロの肩に手を置く。なんか猛烈にいやな予感がする。

「どうかね、真珠の許嫁の席が空いてしまったのだが」

「・・・・・・え?」

「お父さま!」

 酔っ払ってんのかこのおっさんは。

「いますぐ結婚というわけではない、ただの許嫁だ。わしが言うのもなんだが、真珠はこの通りの美人だし、器量もよい。いい話だと思うが、どうだね」

「いや、その、おれはまだ高校生のガキですから・・・・・・」

「そうかそうか、問題なのは年齢だけか。もちろん結婚は一八歳まで待とうじゃないか。いや、法律などクソくらえだ、いますぐ結婚してもよいぞ。わしの力でなんとかしてやろう!」

「まあ、マロさんとお父さまがそうおっしゃるならあたくしは・・・・・・」

 もじもじしながらマロに視線を送る真珠。

「だからおれはまだ何も言って・・・・・・」

「ガハハ! よい後継者も見つかったことだし、これにて一件落着!」

 真珠父は、ばっと音を立てて日の丸の描かれた扇子を開いた。

 悪夢の夜は、ようやく終わりを告げた。



 あとで聞いた話だが、篠宮のたくらみに気づいたのは翡翠であるらしかった。

「煙幕が巻かれたとき、さらわれる真珠に真っ先に気付いたのが篠宮だったのよ。あの状況で、あいつが冷静に周囲を確かめたりするはずないって思ったわけ。でもってすぐに真珠を追いかけようとしてたし。それもおかしいでしょ。で、あいつのこと追いかけてとっ捕まえたの」

 だから煙幕が晴れたときに翡翠がいなかったのだ。

 わざわざ追いかける根拠としては薄い気がするが。ではどうして篠宮がたくらみを翡翠に話したのかというと。

「おれは途中からしか見てないんだけどさあ、ひどかったんだぜ、翡翠のやつ。手はあげなかったんだけど、すげえ剣幕で篠宮のやつをおどしたりなじったり。瑠璃ちゃんも真っ青だろうな」

 哲はおおげさに身震いした。

「それで篠宮はすっかりビビっちまって、全部話したんだ。あいつもう、人格歪んじまうんじゃねえか。おれ、翡翠だけは怒らせないようにしよ」

 まあ、アレキサンドラが暴走して、篠宮から聞き出したことは無駄になってしまったわけだが。言葉の暴力にさらされた篠宮は、おれを除いてこの事件の最大の被害者であるのかもしれなかったが、おれにはどうでもよいことだった。

「翡翠がなんて言ってたか、覚えてる限りで再現してやるよ。ええと、そうそう、『このまま黙ってたらあたしがあんたの──を──して──したあげくに──してやるんだからね! そしたらあんたは二度と──も──も──もできないし、まして──なんてもってのほかよ! は? 脅しには屈しない? だったら────

─────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────!!』」



 その週はあと二日残っていたが、おれは学校を休んだ。

 目の前で銃撃戦が展開して、平気な顔で翌日に登校できる高校生がいるなら教えてもらいたいものだ。マロたち? あいつらは最初から普通じゃない。

 親父が出張中なのは幸いだった。休んでも誰にも責められないし、余計なことを訊かれずに済む。いや、親父がいれば相談相手になってくれただろうか?

 ニュースも新聞も、十五日の事件はいっさい報道していなかった。別れ際に真珠父は「事件はすべてもみ消す」と言っていたのを思い出す。もしかしたら世の中にはそうやって消える事件もあるのかもしれない。しかしいくらなんでも町中で銃撃戦を行ったあげく手榴弾まで使ったのに、それがまったく報道されないなんてありえるのか。TVや新聞社の口をふさげたとしても、近所の住民までひとり残らず言うことを聞かせるなんてできるはずがない。あれだけの敷地だから近所には音が届かず、警察も呼ばれなかった可能性はあるかもしれない。それでもパーティーの出席者は銃声を聞いていたはずだし、百人以上いたはずの出席者のひとりくらいは警察を呼んだりマスコミにタレこんだりするはずだ。

 翌週、登校してみると、もう誰もあのときのことを話題にしてなかった。アレキサンドラも逮捕されたりせずいつもどおりに授業を受けている。

 なんでだ。あれだけの事件があったのに、なんで誰も大して気にしてないんだ。おかしいと思っているのはおれだけなのか。

 篠宮も登校していた。ほんとうに勘当されたらしいが、哲の予想に反して性格は大して変っていないようである。ただ、制服がつぎはぎや当て布だらけになっている。パーティーのときはタキシードだったし、制服がボロボロになるはずがない。金持ちから一転、貧乏になったことの演出のつもりか。あいつが狭いアパートの隅で裁縫にいそしんでいるところを想像すると、ちょっと笑えてきた。おまえにしちゃ上出来な冗談だ。とんでもないことに巻き込んでくれたことは許してやってもいい。

 真珠父が言っていた許嫁の話は、少なくとも真珠自身は本気にしているようだった。ことあるごとに「マロさん、籍はいつ入れてくださるんですの」と迫り、そのたびに翡翠とけんかになっている。あいついままで「有馬さん」て呼んでたよな。どうでもいいが。三人で好きにやってくれ。

 今回の騒動には直接関わらず、一歩出遅れた感のある瑪瑙はノイシュヴァンシュタインでバイトを始めたとのことだった。アレキサンドラと哲が大喜びしている。あの事件を起こした張本人と言っていいアレキサンドラと、よく一緒に働けるな。おれなんてできるだけ近寄らないようにしてるのに。ちなみにアレキサンドラは六義園家の訓練教官と掛け持ちしているそうである。

 マロはなんだか毎日ぼんやりしているように見える。真珠に迫られて辟易しているのだろうと思ったが、それだけでもなさそうだ。別の誰かに話しかけられても上の空だ。

 ぼーっとして見えるのは琥珀も同じだった。いつもの穏やかな笑顔があまり見られない。授業中に船をこいでいたらしく、先生に注意されることもしばしばだった。こんな琥珀は初めて見た。委員会も終わったのに、妙に疲れているように見える。

 というわけで、委員会という核を失ったおれたちは、なんとなくバラバラになってしまったように思えた。べつにメンバー同士の仲が悪くなったわけじゃない。休み時間や放課後にマロの席に集まるのも変わらない。

 もしかしたらバラバラになったように感じているのはおれだけなのかもしれなかった。



「矢島くん、ちょっといい?」

 帰りのホームルームが終わり、マロのところに集まる気もしないのでそのまま帰ろうとしたおれを、竹内が呼びとめた。

「いいけど、なに?」

「だんだんひどい顔になってくから、さすがにちょっと心配になって」

 そんなに気にしてくれてたのか。もしかしておれのこと・・・・・・?

「有馬くんたちの話を聞いただけだけど、六義園さんの家ですごい事件があったんだって?」

 おれは手にしたカバンを落としそうになった。大声で宣伝したわけではないにしろ、あの事件のことはクラス中の生徒が一度は耳にしているはずだ。でも話に食いついてきたのは竹内が初めてだった。

「そんな事件があったのに報道もされないなんて、おかしいよね」

「そう・・・・・・だよな? おかしいよな? おれがおかしいわけじゃないよな」

 竹内は、わかってる、という風に二度うなずいた。

「ちょっと矢島くんがかわいそうになってきてさ、そろそろあたしの出番かと思ったわけ」

「出番て何だよ」

「うーん、そうだなあ・・・・・・」

 竹内はおれにしか見えないように小さく教室の窓側を指さした。

 そちらを見ると、マロが誰かと話をしていた。マロは立っていて、相手は座っている。あの席は汀水晶だ。珍しい取り合わせだった。というか、水晶が誰かと一緒の所など初めて見た。なにしろ彼女は非常に無口なのだ。無口どころか、おれは彼女の声を一度として聞いたことがなかった。

 だからおれは、水晶はそういう病気なのだろうと思っていた。そうならそうと、担任も一言ぐらい言ってくれればいいのだ。高校生はそういうことに理解を示せる程度には大人のはずだ。

 いまもマロが何か話しかけるのに対して、うなずくか頭を振るかのどちらかだ。無口のレベルと同等に無表情でもあり、自分からコミュニケーションを取ろうともしないので、彼女とのやりとりは一方通行に近い。

 マロがなにか手渡した。スケッチブックとサインペンだった。それで筆談してほしいということだろうか。

 二つの品をじっとみつめていた水晶が、おれの視線に気づいたのかチラリとこちらを見た。

 おれの身体は物理的に二センチほど引いたと思う。水晶の瞳は左右の色が違う。右は黒だが、左は・・・・・・黄色というか金色というか・・・・・・そう、トパーズだ。

 このクラスには青だの緑だのカラーコンタクトをしたやつが多いが、それはまだ実際に存在する瞳の色だ。しかしトパーズはないだろ。せめて両目に入れてもらわないと、黒と黄色の取り合わせはちょっと怖いぞ。そんなに好きなら水晶から黄玉に改名すればいいんだ。

 それに髪は青空の色をしている。顔面信号機か。──いや、いかん、どうも口が悪くなってるな。

「有馬くん、何か事件に巻き込まれてるらしいよ。汀さんと・・・・・・あと黛さんも一緒かな」

 隣の琥珀がすでに席をはずしているのを確認して、竹内は付け加えた。

「なんだよ事件て。何でそんなこと知ってるんだ」

「知ってるも何も、有馬くんたちけっこういろんなこと教室の中でしゃべってるよ。ちょっと注意して聞いてれば矢島くんも気づいたと思う」

「そうか? マロたちの話なら聞いてると思うけどな。じゃあ事件てのは?」

「うーん、それは実際に見てもらった方が早いと思うよ。というか、いくら口で言ってもわかんないと思う。だからさ、今日の夜にでも、旧校舎に行ってみて」

 なんだそれは。意味がわからん。なんでそんな不気味なところに行かなくちゃならないんだ。

 しかしどんな疑問も、次の竹内の言葉が無理やり押し流していった。

「有馬くんと黛さん、なんだかお疲れだよね。二人は毎晩、旧校舎で会ってるみたいなんだけど、なにしてるのかなあ?」

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