瑠璃
「おーい、やっじっまー!」
呼ばなくてもとっくに気づいている。大声を出すな、恥ずかしい。
まだ朝の八時を過ぎたばかりなのに、真夏の太陽はじりじりと肌を焼く。目的地に着くまでにおれの身体が半ばまで溶けていてもおかしくない。
哲が立っている場所までの数十メートルが果てしなく長く感じられた。
「なんだよ浮かない顔してさあ」
「この暑さで元気が出るかよ。何でおまえはそんな笑顔なんだよ」
「なーに言ってんだよ、おれたちこれからパラダイスに向かうんだぜ、笑顔以外の表情でいられるか!」
おれが抱えているトートバッグの中には、海パンやらタオルやらが詰まっている。夏休みも半ばを過ぎた今日、委員会のメンバーで海に行くことになったのだった。もっとも哲の言うパラダイスは海そのものを指しているのではないだろう。水着の女子がいる場所、それがこいつの楽園なのだ。
その考えには同意してもいいが、今日のパラダイスには重要なピースが欠落している。琥珀が欠席なのだった。
今日だけではない、夏休みの間は家の手伝いで忙しいらしく、委員会活動は休みがちだった。特に今はお盆やら八月のおわりにある夏祭りの準備やらがあるとのことだ。浮かない顔をしてるのは暑さのせいばかりではないのだった。
おれは哲と合流した後マロの家に行き、それから駅へ。女子三人とは駅で待ち合わせだ。真珠に車くらい用意してくれよと頼んだが、「たまには庶民に合わせるのもいいでしょう」論法により却下された。
近くの海岸まではゆうなぎ町駅から電車で十分ほど、乗り換えもなし。この町、観光スポットとしてもっと栄えていてもいいんじゃないか。
張り切っておれの前を歩く哲を見ると、おれと似たようなバッグのほかにビニールの袋を持っている。
「その小さい袋、なに入ってんだ?」
「これか? ふふーん、秘密兵器だよ」
なんだそりゃ。ちょっとお高い菓子を入れるような平たい袋である。
ようやくマロの家に到着する。少し中に入って涼みたいところだったが、最初からそのつもりはなかった。ここにはよくわからない事情でマロと同居しているあのバイオレンス娘がいるのだ。
少し離れたところで待っていようとしたが、哲に手首をつかまれ、無理やり連れて行かれる。
「離せって、おれはこの家に入りたくないの!」
「大丈夫だって、今日は瑠璃ちゃんブチ切れたりしないよ」
おれの抵抗むなしく、哲がマロの家のチャイムを押した。「はーい」と高い声がして、なぜかインターフォンには出ずにいきなり玄関の扉が開いた。
すみれ色の頭が現れる。出やがったな・・・・・・。
瑠璃はおれたちの顔を見るなり、顔をゆがめて盛大な舌打ちをした。
「なんだ、てめえらかよ」
「はーい、てめえらでーす。いやー、瑠璃ちゃんは今日もかわいいねー」
「キャンキャンわめくんじゃねえ。頭に響くだろうが。んなこと言われなくてもわかってんだよ」
「素直じゃないなー。ほんとはうれしいんでしょ?」
おもむろに手を伸ばした瑠璃は、哲のオレンジ色の髪をわしづかみにした。哲の立っている場所は瑠璃より一段低いのでそのまま引っ張り上げられる。
「要件を言え。きっかり八文字で。多くても少なくてもこのドブ臭え髪を引っこ抜く」
「マ、マロいます・・・・・・かしら?」
「てめえごときが研磨おにいちゃんになんの用だよ」
「その、ちょっと約束をさせていただいていまして」
「あ゛ー、そういやそんなこと言ってたな・・・・・・。このクソあちぃのに手間かけさせやがって」
哲の髪を放すと、瑠璃はバリバリ頭を掻きながら何度か咳払いして三秒で声をつくりかえた。
「研磨おにいちゃーん、永野くんと──」お前誰だっけ? という視線を向ける瑠璃。
「矢島」
「矢島くんきたよー」
「あー、悪い! すぐ行くから上がって待っててくれるかー!」
二階からマロの声がした。瑠璃はボリボリ尻を掻きながら、顎でおれたちに上がるよう促した。上がりたくねえ・・・・・・
リビングに通されると、哲は持っていたビニール袋を瑠璃に差し出した。
「はい、これ瑠璃ちゃんにおみやげ」
「おう、シワなし脳ミソの分際で気がきくじゃねえか。なに入ってんだ」
「じゃーん! 瑠璃ちゃんの大好きな期間限定・練乳と生クリームとカスタードの極甘シャルロットケーキ!」
このまえのあれか。今日はブチ切れないといったのはこういうことか。しかしそれまで煙がかかっていたような瑠璃の両眼がカッと見開かれた。
「あぁあん!? 誰がこんな甘ったるいもん食うかっ!」
「だって、このまえ大好きって・・・・・・」
「研磨おにいちゃんの前で猫かぶったに決まってんだろうが! こないだ全部食うのにどんだけ苦労したと思ってんだ! ほんとに好きなのはイカのトマト煮なんだよ! てめえは若くてピッチピチなこの瑠璃さまを糖尿にしようってのか! ああ!?」
瑠璃は「こいつはてめえが食いな!」と叫びつつケーキを手でつかみ、哲の顔に押し当てた。瑠璃の手と哲の顔の間でケーキがはじけ飛ぶ。哲は練乳と生クリームとカスタードまみれになりながら、モゴモゴと減らず口をたたいた。
「あ、いま『おにいちゃん、あーん』っていう瑠璃ちゃんの心の声が聞こえたよ・・・・・・」
「ぬかしてんじゃねえぞこの進行性妄想症患者がっ!」
左手でもうひとつのケーキをつかみ、哲の口に押し込む。いいかげんな病名の患者に仕立て上げられた哲はなんだか嬉しそうに見える。喜んでいるのならいい、今回は警察を呼ぶほどの事態にはならなそうだ。
「そこで待ってろ、いま耳かき持ってくっかんな!」
「え、まさか膝枕で耳かきを? いやあ、それはさすがに照れるなあ。でもせっかくだからやってもらおっかな。ちゃんと奥の方まできれいにしてね」
「言われなくてもそのつもりなんだよ! そのシワなし脳ミソを残らず掻き出してやっからな! てめえの──並みにしぼんだ脳ミソなら十秒もかかるめえよ!」
「──並みなら、ちゃんとシワがあると思うけどなあ」
哲までおかしな口パクを始めた。こうやって下ネタを口にするのを避けるのが流行っているらしい。
階段を下りてくる足音がして、耳かきを探していた瑠璃は瞬時に声と表情を入れ替えた。いざとなれば三秒も必要ないようだ。
「うわ、どうしたんだよ哲、その顔」
「ひっく・・・・・・ひどいんだよ永野くん、期間限定・練乳と生クリームとカスタードの極甘シャルロットケーキ、瑠璃の好物って知ってて、ひっく・・・・・・目の前で全部食べちゃったんだ」
クリームまみれの両手を後ろに隠しながら肩を震わせる瑠璃。いや、食べただけならあの顔にはならんだろ。
「おまえ最低だな・・・・・・。なんか瑠璃に恨みでもあるのかよ。わかった、また買って来てやるから泣くなって」
瑠璃の肩が別の理由で揺れた。
「・・・・・・ほんとに? 約束だからね!」
器用なまねをするやつだと思っていたが、墓穴を掘ることもあるようだった。助けてなどやらんが。
「いいから顔洗ってこいよ。顔中ベチャベチャじゃないか」
哲は顔についたクリームを指ですくい取っては舐めている。猫かおまえは。
「いいって別に。どうせすぐに海に入るんだし」
「あっ、バカ!」
「うぅーみぃー?」
哲の言う「本来の瑠璃」を二パーセントほどにじませて、瑠璃はマロを見上げた。
「遊びにいくとは聞いたけど、海に行くんだ。瑠璃を置いて」
「あ、ああ、そうだよ。男三人で行くからさ、瑠璃が一緒に来てもつまらないだろ?」
マロが狼狽したりあからさまなウソをつくのも珍しい。女子と一緒なのを知られたくないようだった。
「悪いけど今日は留守番しててくれ、また今度一緒にどっか行こうな」
「そんなこと言って、いっつも瑠璃を置いて行っちゃうんだもん!」
ん・・・・・・六パーセントくらいになったか。演技じゃないものも混じったような気がする。
「夏休みになったのに毎日学校に行って! それって女の子と一緒なんでしょ!?」
委員会のことか。毎日は言いすぎだが、たしかにいつもの活動とか、真珠の思いつきにいろいろ付き合わされている。
「そうだけど、いつもこいつらと一緒だし、今日はこの三人だけだって。ほら、そろそろ行こうぜ。遅刻しちまう」
おれと哲を引っ張るマロ。おまえ、遅刻しちまうって言ったら、待ち合わせしてるみたいに聞こえるじゃないか。ばれてなければいいのだが。
おれたちは瑠璃の疑念に塗り固められた視線を浴びつつマロ邸をあとにした。
駅で真珠、翡翠、瑪瑙と合流し、おれたちは海を目指した。
移動中にマロに聞いたところによると、瑠璃はマロが女子と行動することを知ると、しつこく詮索してくるので辟易しているのだそうだ。
「くっそ、うらやましいなあ。そりゃ嫉妬だよ嫉妬」
「そんなわけないだろ、瑠璃は妹みたいなもんだぞ」
哲の言う通りなのだろうが、マロには信じられないらしい。まあバイオレンス娘が誰に惚れていようと、おれには関係ないが。
最寄駅で電車を降り、徒歩五分。白い砂浜が姿を現した。
「もしかしてここ、六義園のプライベートビーチとかいうんじゃないだろうな」
「いいえ、あたくしの家のプライベートビーチはこの程度ではなくてよ。たまには庶民の・・・・・・」
「ああ、わかったから」
いつもの真珠のセリフを遮る。ほんとにこいつの家は金持ちなのだろうか。日本にプライベートビーチの名に値する場所がほんとにあるのか。
訊いてみたのはわけがある。妙に客の姿が少ないのだ。絶好の海水浴日和、海も凪いでいて、これ以上はないロケーションなのだが。凪いでいる、というか極めて波が小さい。湖のようだ。
サメが出るとか工業排水が流れ込んでるとか、とにかく遊泳禁止区域なんじゃないだろうな。
そんなことを考えつつ着替えて砂浜で待っていると、ずいぶん経ってから女子チームがやってきた。
哲の奇声が耳に突き刺さった。
真珠は黒、翡翠は赤系のストライプ、瑪瑙はフリルつきの白。いずれもビキニ。
衝撃の深さはゴスロリ服の比じゃなかった。しかしおれは最大限の努力を払って彼女らから視線を引きはがした。見ていたら何を言われるかわかったもんじゃない。
「ジロジロ見てんじゃないわよ」
おそかったか。というより、おれの視線は方位磁石の針のように勝手に元の位置に戻ろうとするので、一度目を離しただけでは意味がないのだ。
真珠は翡翠とは違う意見のようで、逆におれたちの方に一歩近づいた。
「あたくしは見られても構いませんわ。誰かさんと違って、あたくしの身体は人類の宝、隠しておくなんてもったいないわ」
「はあ? だったら全部脱げばいいじゃない、変態成金!」
「へ、変態成・・・・・・!?」
「脱ぎたくても脱げないか。整形手術の跡がいっぱいだもんね。お金の力でも完璧な整形はできないのねえ。残念残念」
「なあんですってえ? あたくしは整形などしたことはありませんわ! ごらんなさい!」
と、真珠はビキニのトップに手をかけた。瑪瑙があわてて止めに入らなければ、おれの目には想像を絶する光景が飛び込んでいただろう。単純にもほどがあるぞ、真珠。
「あなたとは一度勝負をつけた方がいいようですわね!」
「ボロ負けさせたら可哀想だから、あたしから言うつもりはなかったけどね。でもあんたが勝負したいっていうなら受けて立つわ」
真珠と翡翠は口では言い合いながら、視線はちらちらとマロに送っている。またそれか。
二人だけじゃない。今回は瑪瑙まで同じそぶりを見せていた。
瑪瑙よ、おまえもか・・・・・・
さすがに今回はマロも気づいたらしく、「いや・・・・・・はは・・・・・・似合ってるんじゃないかな、三人とも」とかボソボソ言っている。
おれはなにもかもが急にアホらしくなり、敷いておいたビニールシートに寝転んだ。今日はもう、このまま寝ていようか。
目を閉じていても日差しがまぶしい。ビーチパラソルを借りてくるのだった。いまから行くのもめんどくさいし。こんなとき琥珀だったら気を利かせてくれるだろうに。琥珀、いまどうしてるかな・・・・・・
突然、顔に痛みが走った。
「なにしてんのよ、三対三にならないでしょ」
翡翠だった。ビーチボールをおれに投げつけたのだ。真珠との勝負に巻き込むつもりらしい。なにもいきなり顔面に当てることはないだろうに。
夕方になるころには足腰が悲鳴を上げていた。いまいち気分が乗りきらなかったせいか、いっそう疲れを感じる。
翡翠、マロ、瑪瑙チームと真珠、おれ、哲チームに分かれたビーチバレーは翡翠チームの、というよりリーダー個人の圧勝だった。ほとんど全得点を翡翠が獲得していた。おれたちは当たるとビーチボールとは思えないほど痛い殺人アタックから逃げ回るのに精一杯であった。
なんで海に来てこんなに痛い思いをせねばならんのか。というかろくに海に入ってもいないし、女子メンバーの水着姿に視線を送る余裕もなかった。翡翠は期末試験もトップだったが、運動神経も並はずれたものがあるらしい。
一方、翡翠は終始笑顔だった。真珠をこてんぱんにしたのがそんなにうれしいのか、それとも・・・・・・。とにかくあいつもあんな顔をすることがあるようだ。いつもそうしていればいいのに。
ただ、試合中に一度だけその笑顔が曇った。哲がアタックしてマロの方に飛んだビーチボールを、翡翠が無理に拾おうとしたため二人が衝突したのだ。二人は砂を巻き上げて派手に転び、起き上がろうとしたマロの手が翡翠のあらぬ場所に触れ・・・・・・マロは思い切りビンタを食らった。ほとんど何もしていないマロも疲れ果てた様子なのは、そのダメージのせいもあるのだろう。それくらい当然の報いだ。
翡翠以外は全員ぐったり座りこんでいたが、そろそろ帰ろう、という無言の同意が固まり、それぞれよろよろと立ちあがった。
だが、瑪瑙だけがタオルを頭からかぶったまま立ち上がろうとしない。
「瑪瑙? どうした?」
「ううん、なんでもない。ちょっと疲れちゃって」
瑪瑙は立ち上がったものの立ちくらみしたようによろめいて、たまたま隣にいたマロにしがみついた。翡翠にぶつかったときもそうだが、なんでおまえはそうやって都合のいい場所に立ってるんだ。
「瑪瑙!」
「大丈夫だってば、ほんとに疲れただけで・・・・・・」
ゆっくり瑪瑙を座らせるマロ。元気そうだったのでつい忘れていたが、瑪瑙は一か月前まで重い病を患っていたのだ。あれが重病・・・・・・? いや、その話はもういい。
「休めば良くなるから、心配しないで。ちょっとはしゃぎすぎちゃったみたいね」
顔色も悪くないし、その言葉にウソはないように思える。そりゃ、おれたちだってくたくただ。翡翠チームだったとはいえ疲れもするだろう。
「とはいってもな・・・・・・そうだ、タクシー呼ぼうか」
「いいわよ、お金もかかるから」
「ではあたくしの家の者を寄こしましょう。車で瑪瑙さんのご自宅まで送って差し上げますわ。ああ、これは委員長命令、拒否は許しませんことよ」
なお遠慮していた瑪瑙だったが、ありがとう、とうなずいた。まあ妥当なところに落ち着いたのだろう。
着替えを済ませるころには、真珠が手配した車が到着していた。重々しいエンジン音をたてるのは海辺の道路にはそぐわない黒塗りの高級車。車と同じ色のスーツを着た運転手が乗っている。この暑いのにご苦労なことだ。
マロに手をひかれた瑪瑙が乗り込む。と、マロもそのまま後部座席に乗ってしまった。
「ちょっと! なんてあんたが一緒に乗るのよ!」
翡翠がマロを指さす。
「だって、真珠が付き添いが必要だって言うから・・・・・・」
真珠に視線が集まる。
「あたくしひとりでは対応しかねることもあるかもしれませんわ。もうひとりくらい付き添っていただきたいのです」
「運ちゃんがいるじゃない!」
「彼は運転しかできないのです!」
おいおい・・・・・・。運転席をうかがったが、「運ちゃん」の鉄面皮は微動だにしていない。この礼儀知らずのお嬢さまに何とか言ってやったらどうなんだ。
わかった、これはビーチバレーで惨敗した腹いせだな。マロと一緒に帰ろうというわけか。ガキみたいなまねしやがって。
真珠、マロ、瑪瑙を乗せて車は走り去った。車だったら楽ができたのだろうが、それはどうでもいい。問題は──翡翠と哲とおれの三人で帰らなければならないことだった。
「まったく・・・・・・信じらんない。女の言うことホイホイ聞いて。また引っ叩いてやればよかった」
さっきまで上機嫌だったのに、いつもの翡翠に戻ってしまった。いや、いつも以下だ。そう長い道のりではないが、間が持たないこと必至である。どうしても一緒に帰らないとならんのか・・・・・・
だがおれの心配は杞憂に終わった。哲がひっきりなしに翡翠に話しかけてくれたのだ。
翡翠は「ふーん」「あっそ」「・・・・・・」のいずれかでしか相手をしなかったものの、哲には懲りた様子はない。おかげで気まずい沈黙だけは回避することができた。
気をまわして話をつづけたのか、あるいは何も考えていないのか。たぶん後者だと思うが、いずれにしろこいつは意外と大人物かもしれない。
日没が迫るゆうなぎ町駅に着いたとき、おれは心底ほっとしたものだった。だが、駅で別れるものと思ったのに翡翠は同じ方向に歩きだす。
「あれ、家こっちだったっけ?」
哲が問うと、翡翠は長い指である建物を示した。
「そうよ、あたしんち、あそこ」
駅にほど近い一棟のマンション。ずいぶん場違いなものが建ってるなと前から思っていた。いわゆる高級マンションである。
「へー、すげえとこ住んでんだな。親父さんいい稼ぎしてるんだ」
他のメンバーならともかく、よく翡翠にそういう立ち入ったこと訊けるな。
「ちがうわよ。あたしんちって、あたし名義の家ってこと。ひとり暮らししてんの。親からは一銭ももらってない」
「は?」
それまで哲に会話は任せていたが、思わず声が漏れた。
「一銭もって、家賃とか生活費はどうしてんの」
「収入があるのよ。株とか債権とか、一番大きいのは仕事の給料だけど」
「仕事って・・・・・・?」
「アメリカの宇宙開発機関で働いてるの。在宅勤務だし、学校と掛け持ちだから時間も限られてるけど」
「宇宙・・・・・・?」
「大学でロケット工学を学んでたの。研究室で新型エンジンの基礎理論を組んだら、あちらの目に止まったらしくてね。そのときはもうこっちに転入するつもりだったけど、どうしてもっていうから」
「大学・・・・・・?」
まともな会話が成立しない。翡翠の言葉を繰り返しているだけじゃないか。
「言ってなかったっけ、あたし外国の大学二つ出てんの。今の話は三つ目の大学。勉強したいこともなくなってきたからやめてこっちに来たの」
聞いてない。聞いたところで信じられるか、そんな話。
「ほんとは二十歳すぎてたのか・・・・・・?」
「バカ、あんたたちと同い年よ」
翡翠は笑顔を浮かべた。笑みというより苦笑だったが。さんざん哲にバカ話を振られたせいもあってか、ほんの少しだけ態度が軟化したようにも見える。
「あちこち転校して天才とかおだてられて大学に入れられて・・・・・・友だちもできなくて、けっこう大変だったんだから。まあ、半分は自分で望んだことだから仕方ないんだけど」
おれは内心で二,三歩よろめいた。いかれた経歴のやつが多すぎる。この話、ほんとうなのか? この淡々とした口調で嘘がつけるのか? たしかに飛び級を認める国もあるが、一五、六歳で二つ大学を出るなんてことが可能なのか。
そのとき、高くて甘ったるい声がして、おれは前方に目を向けた。
「あー、いたー! 永野くーん、矢島くーん!」
今度は内心ではなく、実際によろめいた。瑠璃であった。猫かぶりの方の。
「あれー? 研磨おにいちゃんはー?」
「ああ、一緒に行った子が気分悪くなっちゃってさ、あいつはその付き添いで・・・・・・」
哲が言った。さっきちょっと見なおしたのは早くも取り消しだ。どうしてそう余計なことを言うんだ。
笑顔から無表情へ、そして修羅へ。瑠璃の表情が切り替わった。
「ほーう、やっぱり女と一緒だったんじゃねえか」
瑠璃は翡翠に目を向けた。
「そのスケベなカラダの女も研磨おにいちゃんといっしょだったんだろ。あん!?」
いまさらにも程があるが、その言葉遣いはなんとかならんのか。返答に迷っていると、翡翠がおれに耳打ちした。「あの子、鷹司瑠璃?」と。
何で知ってるんだ。マロから聞いていたのか。驚いたおれの顔が答だったのだろう、翡翠は「やっぱりね」と言うと不敵な笑みを見せた。
「そうよ。今日はマロとずーっと一緒だった。あいつ、あたしから離れてくれないんだもん」
何を言い出すんだ。まずいことになってきた──が、いくらなんでもここは人の往来がある。いますぐ殴り合いが始まることはあるまい。
そう思っておれは周囲を見回したが、人の姿はまったくない。どうなってんだ。駅からまださほど離れていない。背の低いビルや駐車場が点在するこのあたりの人通りが絶えることなんてまずないのに。
「いい度胸してんじゃねえか・・・・・・」
瑠璃が鼻をひくつかせている。
「野郎が研磨おにいちゃんに夏場の蚊みてえにブンブン付きまとうのは、ホモでもねえ限り許してやる。だが女はぜってえ許さねえ」
「へえ、許さないからどうするっていうの?」
人を煽るのが好きなやつだ。本格的にまずい。哲、どうする・・・・・・と思って振り向くと、やつの視線は二人のミニスカートから伸びた素足に固定されている。駄目だこいつは。
「決まってんだろ・・・・・・? 二度と研磨おにいちゃんに近づけなくしてやんだよ、ババア!!」
「ババア・・・・・・?」
翡翠が唸る。おまえが乗せられてどうする。翡翠は持っていたバッグをおれに押しつけ、前に進み出た。二人はゆっくり距離を縮めると、三メートルほどの距離を置いて相対した。
「瑠璃さまの蹴りは
誰だそりゃ。哲に尋ねると、目を見開いて答えてくれた。二人の脚から視線を外したのは、よほど驚いたためらしい。
「カー・アイン、
哲も哲で、そのセリフくさいしゃべり方をどうにかしてくれ。
「なんだよそのあからさまなパクリの大会は。ヒビノなんて知らん」
どうせ深夜バラエティ番組の企画で話題になったタレントだろう。この地方のローカル番組かもしれない。ローカル番組の有名人が、全国的には無名ってことはよくあるみたいだし。
「あたしも知らないわ。その程度の人ってことでしょ。ほんとに直伝だったとしてもたいしたことなさそうね」
「はっ! そいつはなあ、ジェネレーションギャップっつうんだよ、このクソババア!!」
二,三歳しか変わらんだろうが。本当に翡翠が海外で暮らしてたのなら、日本のローカル番組のことなど知らないだろう。あるいはTVなど見ないのかもしれない。
「あんたね・・・・・・感謝しなさいよ、あたしが自ら口のきき方を教えてあげる。中学生になったのに無限の平野が広がってるその胸の奥に刻んでおきなさい!」
瑠璃のそれと大差ないレベルの誹謗は、ただでさえいまにも襲いかかろうとしている虎の尾を、さらに踏みつけるに似た効果があったようだ。
瑠璃は子どもが見たら泣き出しそうな顔に無理やり笑みを浮かべると、軽くステップを踏んだ。
「往生せいやあっ!!」
反回転し、右脚を跳ね上げる。哲のときと同じ技。黄色のファンシーなスニーカーが翡翠の顔を捕らえるかと思われた。
だが瑠璃の踵は空を切った。おれの目には誇張抜きで翡翠の赤いセミロングの髪の残像が残ったような気がしたのだが、とにかく翡翠は身を沈めてかわすと同時に、瑠璃の懐に入っていた。
「大技ばかり決めようとする素人が多くて困るわ」
瑠璃の腹部に手のひらを当て、「はっ!」と気合の声をあげる。
瑠璃の細い身体は、走り幅跳びの世界記録並みの距離を弾き飛ばされ、アスファルトの上に転がった。
なんだいまの・・・・・・何が起きたんだ・・・・・・?
走り幅跳びならともかく、立っている人間があんな風に宙を飛ぶなんて、時速四〇キロで突っ込んできた車と正面衝突でもしない限りありえないんじゃないのか?
それに今、翡翠が「大技ばかり・・・・・・」と言ってる間に充分よけられたよな。なぜ瑠璃は棒立ちだったのだろう。何をしたのか知らんが、翡翠の方がはるかに大技じゃないか。
いまはそんなことはいい。瑠璃は到底無事とは思えない。救急車を呼ぶか、いやここからなら六義園病院までかついだ方が早いか?
「・・・・・・ババア、なにしやがった・・・・・・」
瑠璃が腹を押さえながら半身を起した。とりあえず命があったことにほっとする。
待ってろ、いま救急車を呼ぶからな──とスマホを探すうちに、翡翠が瑠璃に近づいていった。まさかあいつ、とどめを刺そうと・・・・・・! おれは勇気を振り絞って翡翠の腕をつかんだ。
「もうやめろって! いま救急車と警察を呼ぶからな。おまえだって傷害の現行犯なんだからな!」
翡翠は心底呆れかえったという顔でおれを見た。
「はあ? このバカ、何言ってんのよ。あれくらいで怪我するわけないでしょ。半分の力も出さなかったんだから」
「マッポなんて呼ぶんじゃねえ、末代までの恥だ・・・・・・」
瑠璃はよろめきながらも自力で立ち上がった。あれ・・・・・・?
翡翠はおれの手を払いのけると、瑠璃の前で仁王立ちになった。
「何モンだ・・・・・・この瑠璃さまを一撃で・・・・・・」
「まったくあんたたちは・・・・・・揃いも揃ってあたしのこと忘れちゃったの?」
瑠璃の顔にクエスチョンマークが浮かぶ。おれと哲の顔にも同じものが浮かんでいたはずだ。
「あたしよ、翡翠。天羽翡翠」
また瑠璃の表情が入れ替わった。さっきの逆回転で。
「翡翠・・・・・・おねえちゃん・・・・・・?」
「そうよ。ひさしぶりね、瑠璃」
瑠璃の瞳にみるみる涙があふれる。翡翠に飛びつくと、両手で掻き抱いた。
「うあーん、翡翠おねえちゃん、会いたかったよーう!」
「その割には完全に忘れてたじゃない。失礼しちゃうわ」
「だってだって、すっごい美人さんになってたからー!」
「さっきはババ──」
「ごめんなさあい、乱暴なことばっかり言ってごめんなさーいっ!」
翡翠は瑠璃のすみれ色の頭をぽんぽん叩いた。
「わかったわよ、あんたのああいうところよく知ってるから、許してあげる。あたしのこと忘れてたのもね。瑠璃はまだ小さかったし」
二人は前から知り合いだったってことか。そういや翡翠はマロのことも知ってたようなそぶりだったな。マロと瑠璃は幼馴染だというから、翡翠が瑠璃を知っててもおかしくないのか。でもマロは翡翠と初めて会ったと言っていたし、翡翠が名乗っても気づいていない・・・・・・
「許せないのはマロの方よ。あたしがこっちにきて一か月たつのに、いまだに気づかないのよ。腹が立ったからあたしからは何も言わないことにしてるの」
「それは──違うの。研磨おにいちゃんを責めないであげて。翡翠おねえちゃんを忘れたわけじゃないから・・・・・・」
「どう違うのよ。ほんとは気づいてるのに忘れたふりをしてるってこと?」
「・・・・・・そうじゃなくて、忘れたことには変わりないんだけど・・・・・・」
「なによ、はっきりしないわね」
「ごめんなさい! どうしても話せないの! 言えないわけがあって・・・・・・お願い、これ以上は訊かないで。瑠璃と会ったことも研磨おにいちゃんには言わないでほしいの。でないと、瑠璃・・・・・・」
瑠璃は一度鼻をすすると、盛大に声をあげて泣き始めた。これも演技──か?
「なんだかわかんないけど──わかった、なにも訊かないし言わないから、泣きやみなさい」
「・・・・・・ほんとに? ありがとう!」
瑠璃はあっさり泣き止むとおれたちの方を向き、
「おにいちゃんたちも言わないでね。もし言ったら──」
瑠璃は立てた親指を地面に向けて振り下ろした。翡翠に抱きついたままなので彼女は気づいていまい。
「おにいちゃんだって・・・・・・」
哲はなにやら感動している。こいつもあの動作には気づいていないか。一応後で忠告しておこう。
それにしても、瑠璃はもう回復したようだ。あんな勢いで吹っ飛ばされたのに? そもそもどうすりゃあんな芸当ができるんだ。
瑠璃が自ら後方に思い切りジャンプして、翡翠がタイミングよく腹を押してその勢いを増してやる。瑠璃は小柄で、翡翠は怪力だから、そんなサーカスみたいなことができれば、あるいは・・・・・・
・・・・・・。
・・・・・・何のためにそんなことするんだ?
「ねえねえ瑠璃ちゃん、おなか大丈夫だった?」
「・・・・・・」
「さっきおにいちゃんたちっていったよね。今度はおれひとりだけ呼んでくれないかなあ。哲おにいちゃんて」
「・・・・・・」
翡翠と別れ、おれたちは三人で家路をたどっていた。おれはとっとと別れたかったが、途中までは同じ道なので仕方ない。
瑠璃はおれたちの前を歩いている。表情は見えないが、両手をポケットに突っ込み、猫背の肩を揺らしてガニ股で歩くのは明らかにあちら側の瑠璃だ。哲、もう話しかけんなって・・・・・・
なにも訊くな話すなというさっきの話は、気にならないと言えばウソになる。でもそれはマロたち三人の問題であって、瑠璃を刺激してまで聞き出すつもりもなかった。
ちなみに、ほんとにどうでもいいことではあるが、瑠璃は火々野豪とかいう格闘家の一ファンでしかなく、実際に教えを受けたことなんてないそうだ。あたりまえだろ、と哲があきれ果てながら教えてくれた。いかに瑠璃ちゃんがかわいくても、一中学生が教えを請えるような存在じゃないんだと。
哲がいろいろ話しかけるが、瑠璃は反応しない。そろそろブチ切れてもおかしくないが、と思っていると、瑠璃は黙っているのではなくさっきからなにか呟いているようだった。
またひとつ不可解な事件に遭遇したせいでおれの聴覚が不調をきたしているのでなければ、瑠璃はこう言っていた。
「ババアブッコロスババアブッコロスババアブッコロス・・・・・・」
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