瑪瑙

 おれが参加してから一か月余り、いまだに正式名称を覚えられないなんとかという委員会は、再び新入委員を迎えることになった。

 それは今日転校してきた天羽翡翠。またも転校生をわけのわからないうちに入会させてしまえということらしい。

 とはいえ昼食の時間に彼女の姿はなかった。四時間目の終了直後に呼びとめる間もなくひとりで学食かどこかに行ってしまったようだ。

 というわけで放課後、いつものようにマロの席に委員会のメンバーが集まった。窓際の隅であるマロの席には集まりやすいし、マロの前は真珠の席なのでどうしてもここに集合することになる。マロの席は二席向こうまで女子が座っている。席はくじ引きだったらしいが、なんでいつもこいつだけ女に囲まれてるんだろう。

 帰り支度を済ませた翡翠を、今度は逃がさないようにメンバーがしっかり囲んでいる。一見、集団で吊るしあげているみたいだが、この場合吊るしあげられている方が立場が上だった。

 マロが両手を合わせて拝んだ。

「・・・・・・な、頼むよ、いやになったらやめてもいいから」

 なんかおれのときとはずいぶん態度が違うな。

「いやよ、なんであたしがそんなわけのわからないことしなきゃならないの」

 あっさり拒絶する翡翠。おっしゃるとおりではあるが、ずいぶん横柄だな。彼女は彼女で、おれと同じ転校生とは思えない。

 どうもあまりとっつきやすいタイプではなさそうなので、おれは黙っていることにした。いやがってるなら無理に誘うこともないだろう。

 哲はというと、翡翠の胸元にちらちら目をやっては、にやにや笑いを浮かべている。それはこいつのデフォルトの表情なので、もう何とも思わない。

 琥珀もいつもの笑顔だ。もちろん哲のしまらない笑顔とはまったく別種のものだ。

 真珠が一歩前に進み出た。自分が発起人で委員長なんだから、最初から彼女が勧誘すればいいのだ。

「あたくしの委員会に参加できるという、またとない栄誉ですのよ。この機会を逃すなんて考えられませんわ」

「あんた誰」

「あたくしは六義園真珠。『旧校舎の歴史的価値および発展的利用に関する調査委員会』委員長であると同時に、この学校の理事長ですわ」

「ああ、あんたが六義園の・・・・・・」

 その名前は知っているらしい。知らなかったのはおれだけなのか。

「いいご身分ね。親のカネでやりたいほうだいやってるんでしょ」

「・・・・・・なんですってえ・・・・・・?」

 真珠の顔がみるみる赤くなる。このまえの哲といい、顔色の変りやすい人間がずいぶんいるらしい。というか尋常じゃないぞその赤さは。

「あたくしは自らの力でこの学校を経営しております! お父様のお力など借りておりませんわ!」

「おりませんわって・・・・・・」

 仰々しい言葉遣いに吹き出す翡翠。いちいち正論である。だが世の中には正論を告げると怒りだす者もいる。真珠は「きーっ!」とかわかりやすすぎる怒声を上げた。

 まあまあ、とマロが仲裁に入った。

「そういや自己紹介がまだだったな。こっちが真珠で、こっちが」

「黛琥珀です」

「どうも」

「おれ永野哲。よろしく!」

「あっそ」

「矢島丈弘」

「・・・・・・」

 無視しやがった。哲にさえ返事したのに。もういいよ、入会させなくて・・・・・・と思ったが、次の短いやりとりが状況を変えた。

「で、おれが有馬研磨」

「マロって呼んでくれよな!」

 おれのときと同じことを繰り返す哲。進歩のないやつ。だが翡翠にはなにかしら感じ入るところがあったようだった。

「あんたまだ・・・・・・」

 と言ったきり絶句する。あんたまだ、ってなんだ? そういえば登校のときもホームルームでもマロの顔をじっと見ていたし。

 マロのことを前から知ってたってことか? だがマロの方は知らないと言ってたし、翡翠が不自然に沈黙しても気にしていないように見える。

「わかったわ」

「え?」

「入るって言ったのよ。何か問題が?」

「いや、ないんだけど・・・・・・」

「それとあたしもあんたのことマロって呼ぶから」

「そりゃかまわないけど」

 戸惑うマロ。それはそうだ。少なくともひとり、決定的にそりが合わないのがいることはわかっただろうに。やはりマロになにか因縁があるのか。

「まあどうしてもというなら入れてさしあげてもよろしくてよ。ただし口のきき方にはお気をつけなさい」

 しぶしぶ認めた真珠の顔色は元に戻っている。こいつの顔には素早く顔色を操作する何か特殊な器官でも備わっているのだろうか。

 翡翠はついっと顔をそむけて返事にした。真珠がまたキレかけているが、ともあれ七人目のメンバーの誕生であった。そう、七人目。おれ、マロ、哲、真珠に琥珀に翡翠。残るもうひとりにおれはまだ会ったことがない。



 七月の暑気が旧校舎を包み込んでいる。新校舎の方はカネ余り学校らしく全館冷暖房完備だが、こちらにそんなものがあるはずもない。そもそも電気が通っているのか怪しい。天井から何本かのコードが出ていたり、その先に古い蛍光灯がぶら下がっていたりするので、電気設備そのものはあるようだ。あたりまえか。廃校になったのはそこまで昔のことじゃない。おれたちの親の世代までは使っていたはずなのだから。

 とっくに廃校になっていた当時の夕凪高校を、周囲の広大な土地ごと六義園家が買収したのが六年前。現在の六義園学園が完成したのが三年前。まったく別の学校が建ったわけで、旧校舎の呼び名は正確ではない。あくまで通称だった。

 旧校舎への思い入れもなく、買収直後から旧校舎は取り壊すつもりでいたが、その計画が立ち上がる都度失敗に終わっている。そのため新校舎の建設が優先されたらしい。どうせ土地は余ってるのだから旧校舎を避けて建ててしまえ、というわけか。

 問題は取り壊しが数回にわたって頓挫していることだ。重機の故障だったり、作業員が大怪我をしたり、細かい点は違うものの作業中の事故であることが多いそうだ。これだけ続くと偶然では済まないという話も理解できるし、心霊的なものが原因じゃないかと推測するのもわからないではない。都市伝説とかではよく聞く話だし。

 だが、こんなことをして何になるというのだろう。

 おれたちはいま、旧校舎のある教室で探し物をしている。ただし何を探しているのかおれたち自身にもわからない。

「きっとこの学校内で不遇の死を遂げた生徒がいるのですわ。その霊は成仏できず、今も校内をさまよっているのです。だとすれば想いを残した原因を探し、きちんと供養してさしあげれば、不可解な事故も収まるにちがいありませんわ」

 というのが真珠の論理であり、委員会の活動骨子であった。

 推測に推測を重ねて道を進んだあげく、迷子になっているのにそのことに気づいてさえいない。そんな風に思えてならない。

 真珠は「心ない落書きにショックを受けて屋上から飛び降りてしまった」だの「大事にしていた消しゴムを隠されてしまいトイレで首をつった」だのと予想している。消しゴムって、ここに通ってたのは同じ高校生だぞ。

 どうしても生徒が自殺したことにしたいらしく、おれたちにその落書きなり大事にしていた品なりを探しだすように命じている。町立図書館で学校の歴史を調べたり、卒業生に聞き込みをしてもそんな話はまったくなかったのだが。

 だいたい、実際にそんなことが起きていて何かしらの証拠が残っていたとしても、どうやってそれがその生徒のものだと判断するんだ?

 というわけで、おれ自身の活動はふまじめ極まりない。真珠に怒鳴られない程度にやっているだけだ。他の三人は基本的に人がいいのでおれよりは真剣に真珠に付き合っているが、だれも彼女の話を信じているわけではないだろう。

 とはいえ、委員会をやめるつもりもなかった。家に帰っても暇なだけだし、活動時間の大半はくだらないおしゃべりをしていて問題ないし、それに、まあ、琥珀もいるし。

 琥珀といえば、しばらく前の委員会活動中におれは彼女にあることを訊いてみた。

「気になってたんだけど、それさ、カラーコンタクトなんでしょ?」

 おれが自分の目を指さしながら言うと、彼女は怪訝な顔をした。

「いいえ、違いますよ。どうしてですか?」

 口調が丁寧なのはおれが転校生だからだと思っていたが、そうではなかった。彼女は誰に対してもこの口調で、一言に五秒以上かけるのも同じだ。

「どうしてって・・・・・・青い、よね」

 光の加減などではなく、明らかに青い。白人の灰色がかった青い瞳よりも、もっと鮮やかに青い気がする。

「これは生まれつきですけど、変ですか?」

「いや、変ではないんだけど」

 生まれつき? 日本人なのに? 青、というか色の薄い瞳は遺伝的に劣性で、両親が青くても子どもがそうなるとは限らないくらいなのに? まあ、日本人でもまれに青い瞳が生まれるというし、ありえないことじゃないんだけど、「変ですか?」はないだろう。いままでさんざん話題にされてきたに違いないのに。

 あまり触れてほしくないのかもしれない。そのことでからかわれたりしたことがあるのかもしれない。これ以上訊くのはやめておこう。でも彼女以外のことならいいか。

「このクラスって、ピンクの髪してたり緑の目をしてたりするのがいるけど、あっちは染めたりコンタクトだよね。あ、いや、あたりまえなんだけどさ」

「そうなんですか? 気にしたことはありませんでしたけど」

「え・・・・・・?」

 おれは一瞬呼吸を忘れた。

「矢島くん、面白い顔・・・・・・」

 笑っていただけるのは光栄ですが。気にしてないって・・・・・・あの教室の目を疑うような異様な光景を? 中学かそれ以前からああいうのがいて、見慣れているということなのか。

「変なことを気にするんですね」

 あれを変だと思わない方がよほど変だと思う・・・・・・のだが、そのときおれの思考を占有したのは笑う琥珀はやっぱりかわいいな、ということだった。どうも真珠と顔は似ている気がするが、性格は大違いだった。ゆっくりなのは口調だけでなく、動作もそうだ。一・二倍のスロー再生そのものだ。まばたきの速度まで遅い気がする。

 でも彼女はそれでよかった。テキパキ動いて機関銃のように喋る琥珀はあまり見たくない。ただ、ロングヘアを飾る白いリボンは大きすぎる気がするが。

 今日もそのリボンをゆらしている。彼女のお気に入りなら、まあいいか。

 そこは一階の隅の教室だった。旧校舎内で活動する日は、一日ひと部屋ずつ探索している。二階建ての校舎の一階から順に進み、ようやく全体の半分ほど終わったことになる。

 放置されたままの木製の机やロッカーの中身、壁や床の落書き、この学校の最後の生徒が置いていったものらしい教科書やら筆記用具・・・・・・そこには当時の高校生の授業風景が浮かんでくるものもあったが、「自殺した生徒」に結びつくものなど何も出てこない。

 いつものことだが、おれたちはなにをやってるんだろう。

「委員長ぉ・・・・・・今日も収穫なしです・・・・・・」

 哲は役目を終えた水ぶき雑巾のように机に突っ伏している。ぐったりしているのはまじめに探索して疲れたからではなく、暑いからだ。おれを含め、誰もが似たり寄ったりだ。

 例外は初参加の翡翠で、ひとり涼しい顔をしている。そりゃぼんやり外を眺めていただけだからな。

 ただ、最初は積極的に行動するつもりなのかと思った。旧校舎に入るなり勝手にひとりで二階に上がり、しばらくして戻ってきたのだ。木造校舎が珍しくて見物していたのかもしれない。

 おれは冗談半分で「何か見つかったのか?」と訊いてみた。彼女の返答はこうだった。

「見つかるわけないでしょ。ずっと昔のことなんだから」

 そのときの愛想のなさといったらなかった。おれなりに気を使ったつもりだったのに。やっぱりあまり話しかけないことにしよう。それにしても「見つかるわけない」とはずいぶん断定的だな。

「そうですわね、今日はこれで切り上げるとしましょう」

 さすがに疲れた様子で真珠は言い、哲を手招きした。

「お飲み物を買って来てください。人数分」

 哲は何か言いかけたが、とぼとぼ部屋を出ていく。自販機はもちろん旧校舎にはないので、新校舎まで買いに行かなくてはならない。真珠の中では、哲の委員会内の席次はおれより下らしい。哲は一番の下っ端、すなわちパシリであった。真珠がたまに作ってくる弁当を、おれだけが喜んで(と真珠は思っているらしい)食べるのが、おれの地位が上がった原因であるようだった。

「あんたたち、いつもこんなことやってんの?」

 翡翠が訊いたのはおれたちに、というよりはマロ個人に対してであるようだった。

「たまに校外に出たりしてるけど、まあだいたいはな」

「ふーん、暇なのね。もっと有意義な時間の使い方はないの?」

 なんだよこいつ。いや、暇なのは事実だし大いに疑問のある活動だけど、初対面の相手に言われる筋合いはない。案の定、真珠が翡翠に詰め寄った。

「ちょっとあなた! 今日は初めてだからなにも言いませんでしたけど、入会した以上はあなたにも作業してもらいますからね!」

「あー、はいはい」

 手を振って真珠をあしらうと、机の上に座って長い足を組んだ。それが標準であるのかどうか知らないし、それを女子に尋ねるのもはばかられるのだが、この学校の制服である真っ白なスカートは非常に短いので、おれは礼儀正しく視線をそらした。

「でもさ、なんであんた自らこんなことしてんの? 手下どもに任せとけばいいじゃん」

 いちいち癇に障る言い方するやつだな。

「関係者の方々が頼りにならないからこうしているのですわ。あたくしは一日も早くここを取り壊したいのです」

「なんで?」

「あたくしはまだ結婚などするつもりはないのです」

 いきなり結論から語りはじめる真珠。おれはすでに聞いたことがあるから、そのウソ臭い話にも驚くことはなかったが。

 要するに早くここを壊して新しい建物を建て、それを自分の手柄として真珠の親父に認めさせたいという話だった。真珠には許嫁がいるのだそうだが、彼女は結婚するつもりなどない。社会で立派に働けるのだから、家庭に入る必要などない、だがそれにはなにか実績を示さなければならない──というわけで長年に渡って取り壊すことができずにいたこのオンボロ校舎が真珠の目にとまったというわけだ。

 許嫁、社会で働く・・・・・・遠い言葉の数々だったが、どうやら本当にそういうことになっているらしかった。

「へえ、金持ちもそれなりに大変なのね」

 足だけでなく腕も組んでうなずく翡翠。それだけかよ。まず疑うだろ、こんな話。

「でも幽霊の仕業って言われてもね・・・・・・ただの勘でしょ、あんたの」

「勘だけではありませんわ。しばらく前から感じるのです。あたくしのことをじっと見つめる視線を。亡くなった方の霊が早く見つけてもらいたがっているのですわ」

「だからそれも勘だろ」

 おれは思わず口をはさんだ。真珠の話に突っ込みだすときりがないのだが、ときどき我慢できなくなる。

「目立つんだから誰か他の生徒に見られててもおかしくないし。生きてる生徒に、だからな」

「ああら矢島さん、あたくしの美しさに視線が集まるのは当然だと、そうおっしゃるのね?」

 真珠は故意に曲解したわけじゃなく、本気でおれがそう言いたかったと思い込んでいるらしいので頭が痛い。おれは六義園の名前とその奇抜な髪形が目立つと言いたかっただけだ。いやでも視線を向けざるをえまい。

「正直でよろしくてよ! おーっほほほほほほほ! おーほ!」

 窓ガラスがビリビリ音を立てた。もちろん真珠の高笑いで揺れたわけではなく、風が吹いただけだろう。

 高笑いが終わるまでわざとらしく耳をふさいでいた翡翠は、他のメンバーを見まわした。

「男どもはどうでもいいとして・・・・・・琥珀ちゃんだっけ? なんでこんなことやってんの?」

 ちゃん付けになった。最低限の礼儀はあるらしい。

「わたしはべつに・・・・・・ただ面白そうだなって思っただけです。家の仕事だけでは飽きてしまいますので」

「家の仕事?」

「琥珀ちゃんは巫女さんなんだぜ!」

 哲の声がした。妙にタイミングよく話に入ってきたな。

 哲が抱えた缶ジュースを渡していく。見たことのないラベルだった。この学校、というかこの町には知らないメーカーの食料品ばかり並んでいる。母親がいないので自分と親父の食べ物はおれが用意しなければならず、知らないメーカーの食品はちょっと不安ではあるのだが、ないものは仕方ない。

「巫女さんて何だ?」それは初めて聞く話だった。

「すぐそこに夕凪神社ってあるだろ。琥珀ちゃんはそこの娘さんで、休みの日は巫女さん姿で手伝ってるんだ。ねー?」

 気色悪い声で哲が同意を求めると、琥珀はにこやかにうなずいた。

「すっげえかわいいんだ、今度見に行こうな。琥珀ちゃんの巫女姿!」

 いやに巫女にこだわるな。ニュース番組で初詣の話題になったときに働いている姿くらいしか見たことがないが、巫女装束がそんなにいいものだったか? まあ制服以外の琥珀を見たことがないし、行くのはやぶさかでないが。

「そういや委員会にもうひとりいるんだったよな。ずっと休んでる。名前が・・・・・・」

 名前だけは何度か聞いたことがある。難しい名前だったけど、なんだっけ。

「瑪瑙だろ。春瀬瑪瑙はるせめのう

 そう、それだ。瑪瑙。彼女と付き合ったりしない限り、一生書くことがなさそうな漢字だ。

「矢島が来る前には委員会の活動もしてたんだけど、急に入院しちまってさ・・・・・・。もともと身体が丈夫じゃないらしくて」

「おれなんて瑪瑙ちゃん目当てで入ったのにさあ。学校一、いやゆうなぎ町一、いやR県一の超美少女なんだぜ」

 おまえはだれでもいいんだろうが。ん? 琥珀より上だというのか。

「心配ですねえ」と琥珀。比べられたことはまったく気にしていないようだ。

「確かにそうですわね。入院もだいぶ長くなっていますし。では御見舞いにまいりましょうか」

「さんせーい! じゃ、明日の帰りな!」

 勝手に決める哲。だがここにいるのは委員会さえなければ放課後は暇な連中だけだ。委員会自体もどうでもいいようなことしかやってないし。

「そうだな。そうしようか」

 マロの一言で明日の予定が決まった。真珠は委員長を自任しているくせに、マロが決めるとたいてい従うのだ。



 女子三人と別れたおれたちは、ようやく陽の沈み始めた通学路を歩いていた。

 全員町内から通っており、お互いの家も徒歩で行き来できる距離だった。ずいぶん狭い学区もあったものだ。

「瑪瑙ちゃん久しぶりだなー、元気してるかな?」

「元気なら一か月以上も入院しないだろ。でもまあ、大したことなければいいけど」

 冗談とも本気ともつかない哲のたわ言に、生真面目に答えるマロ。おれにとってはまだ顔も知らない相手だけど、一か月も入院しているとなればやはり心配ではある。

 最後の会員か、どんな人なんだろう・・・・・・と思ったところで哲が大声を上げた。

「忘れてた! 矢島に最後の会員を教えてなかったよな」

「今も話したじゃないか、瑪瑙のこと」

 マロが哲に首をかしげる。

「正式会員じゃなくて、おれの心の会員! 瑠璃ちゃんだよ!」

「おまえな・・・・・・」

「ルリって誰だ?」

鷹司瑠璃たかつかさるり。おれの同居人」

「同居人って、名字が違うのに?」

「まあ、いろいろあってだな・・・・・・」

 哲の茶々を含んだマロの説明に、おれは久しぶりに打ちのめされる思いを味わった。マロはそれなりに常識的なやつだと思ってたのに、おまえもだったのか。

 曰く、マロの両親は冒険家である。めったに家に帰らず、ひとりっ子であるマロを残して世界中を飛び回っている。

 この町に住む鷹司の姓を持つ別の夫婦も冒険家仲間であり、有馬夫妻と行動を共にしている。

 鷹司には中学生の娘がいるが、学校もあるし連れてはいけない。とはいえ女の子をひとりで残していくのは不安だ。

 どうせ親同士が一緒に行動しているのだから、子ども同士も一緒にしよう。つまり同居させよう。

 ということらしい。

「待て待て・・・・・・!」

 おれはどうにか頭を整理し、言葉を並べた。

「冒険家って職業が実在するのか? どうやって稼いでるんだ? 同じ町にその冒険家が二組もいるのか? 中高生の男女が二人で暮らしてるのか? それはいろいろまずくないのか?」

 二人は茫然とおれを見ている。それはこっちのセリフ──いや、それはこっちの顔だ。

「哲、おまえこんな話聞いて何とも思わなかったのか?」

「思ったよ。女の子と二人暮らしなんてうらやましいなって」

 訊くんじゃなかった。

「実在するのかって言われても、確かにそうだしなあ。一応仕送りももらってるから収入もあるんだろうし。それに女の子って言っても幼馴染で、妹みたいなもんだよ」

「そう、こいつお兄ちゃんて呼ばれてんだぜ。いーよなー」

 血のつながりもない相手にお兄ちゃんと呼ばれることの、なにがいいんだ。

「それとな・・・・・・ルリって、もしかして宝石の瑠璃って書くんじゃないだろうな」

「そうだけど。よくわかったな」

 やっぱりか。マロの家の話になったことだし、打ちのめされついでに言っておきたいことがあった。

「前から思ってたんだけどな。マロの名前って磨くって意味の研磨って書くだろ。で、このクラスってやたら宝石の名前の女子が多いよな。特に委員会のメンバーなんて、琥珀に真珠に瑪瑙に、今日入った翡翠・・・・・・それに瑠璃も。なんかお前の名前に合わせてるみたいだよな。宝石を研磨するっていうだろ」

「ああ」と顔を見合わせるマロと哲。つづく「そういやそうだな」も見事にハモった。

「今まで気づかなかったのか・・・・・・?」

「ああ。ていうか、おれたちよりこのクラスに入って日が浅いのに、よく気づいたな」

 そりゃ気づくだろ。クラス名簿を見て、ケンマの漢字が研磨で、宝石の名前がずらりと並んでいることに、おれはぞっとするものを覚えたのだった。

「まあ冒険家なんてやってる両親だからな。冒険先で宝石見つけて喜んで、それに由来する名前を付けたのかもな」

 そんな適当な。宝石って冒険先で見つかるものなのか。喜んだということは持ち帰ったわけで、それは盗掘とは言わないのか。

「女の子の名前はほら、おれたちの親の世代で、そういう名前を付けるのが流行ったんじゃないのか」

「それはおれも考えたけど、おれの中学や小学校でそんな名前いたかな・・・・・・」

「この地域だけで流行ったとか」

 それはいかにも苦しい。確かに一応の説明はつくが・・・・・・

「矢島ってツッコミ激しいよな」

 あはは、と笑う二人。突っ込みたくて突っ込んでるわけじゃないんだよ。おまえたちを含むあのクラスの連中がそうさせてるんだ。

 ちょっと興味もあったので、おれは哲と一緒にマロの家に行ってみることにした。哲は何度か来ているらしい。瑠璃をおれに紹介したいとか言っているが、自分が会いたいだけのようだ。

 有馬の表札がかかっているのは、豪邸とまではいかなくても結構な大きさの家であった。借家で平屋のおれの家とは、雲泥の差だ。家の広さだけで、おれの家の敷地の倍以上あるだろう。さらに同じ広さの庭がある。

 冒険家って儲かるのか。やっぱり盗掘でもしてるのか、あるいは半ばタレントで、旅番組のようなものをやっているのかもしれない。

「研磨おにいちゃん、おかえりなさーい!」

 玄関を開けるなり、飛び出してきた小さな人影があった。

 マロに抱きつき、頭をぐりぐり押し付ける。頭の上で二つのお団子を作っているその髪は見事なすみれ色をしている。またか、と思った。

 ほんとに中学生か。身長も低いが、なによりやることが幼すぎるだろ。幼児が親に対してやるような行動だ。まして血のつながりもないのに。いや、妹ならなおさらこんなことしないか。

「ただいま、瑠璃」

「あれー? お友だちー? あ、永野くんだー」

「ちわっす、瑠璃ちゃん」

 マロに抱きついたままおれに目を向ける。

「おれ、矢島。おじゃまします」

「こんにちわー」

 頭を下げる瑠璃。いろいろ突っ込みたいところはあるが、とりあえず悪い子ではなさそうだった。

「ほら、いつまでもくっつくなって。上がれないだろ」

 タコのように吸いついて離れない瑠璃をひきはがし、マロはおれたちにも上がるよう促した。

 通されたリビングは、別にシャンデリアがぶら下がってたりはしないものの、二人暮らしには充分すぎる広さだった。十人くらいの大家族が暮らしてもまだ余裕があるだろう。

 ほんとにどうやって稼いでいるんだか。

 テーブルに着いたおれと哲に、マロが麦茶を出してくれた。瑠璃はマロの左手にぶら下がったままでなにもしようとしない。

「で、おまえたち何しに来たんだっけ?」

「おれが瑠璃ちゃんに会いたかっただけでーす」

 おれを瑠璃に紹介したいとか言ってただろうが。一応目的は果たしたのでもう帰ってもいいのだが、哲が瑠璃相手になにか話し始めた。

「ねえねえ、そろそろおれのこともおにいちゃんて呼んでよ」

 こいつはほんとに・・・・・・正真正銘のクズだな。そんなことのために来たのか。

「いーやー! 瑠璃のおにいちゃんは研磨おにいちゃんだけだもん!」

 瑠璃はテーブルについても隣のマロの腕にしがみついたままだ。くそ、ちょっとうらやましいかも。ほんのちょっとだけだ。

「いいじゃん一回くらい。ね? ね?」

 おまえそのうち通報されるぞ。瑠璃はプイと横を向いたまま応えようとはしない。

「チェッ、猫かぶってるときくらい呼んでくれたって・・・・・・」

「猫かぶってるってなんだ?」

 座っていた椅子を蹴倒すような勢いで瑠璃が立ち上がった。

「あー、研磨おにいちゃーん、瑠璃、期間限定・練乳と生クリームとカスタードの極甘シャルロットケーキが食べたい!」

「はあ? なんだよいきなり」

 いぶかしむマロ。いま、あからさまに話題を変えたよな。

「それ、ついこの前も買って来てやっただろ」

「もう食べちゃったの! 瑠璃の大好物なの! 食―べーたーいー!」

 両手でつかんだマロの腕を振り回す瑠璃。幼児以下だな。この子の精神状態が、冗談も皮肉も抜きで本気で心配になってきた。

「しょうがないな・・・・・・。わかった、買って来てやるから。おまえたちの分まで買ってくるから、ちょっと待っててくれるか」

 と、席を立つマロ。なんて過保護な、ほんとに買いに行くつもりなのか。おまえが瑠璃の病状を悪化させてるんじゃないのか。まあおごってくれるというならいいけど、なんなんだその名前を聞いただけで胸やけしそうなやつは。

 いってらっしゃーい、と手だけじゃなく身体ごと振ってマロを見送った瑠璃の背中から、聞きなれない低い声がした。

「てめえ、さっきなんつった」

 なんだ、誰の声だ? いまこの家には三人しかいないはず。TVもついてないし。

 隣で哲が椅子ごと後ずさりして、呻くように言った。

「てめえって、誰のことかな・・・・・・?」

「てめえといったらてめえだろうが!!」

 振り返った瑠璃の顔に修羅の形相が浮かんでいた。これが瑠璃の顔? 無駄に抑揚の激しいこれが瑠璃の声?

 つかつかと歩み寄り、哲の襟元をつかんで椅子から引っ張り上げる。瑠璃のすみれ色の頭はお団子を足しても哲の肩のあたりまでしかないのに、そのまま宙吊りにしてしまいそうだ。

「なんつったか聞いてんだよ」

「ええと、猫かぶってるときって・・・・・・」

「余計なこと言ってんじゃねえよこのクサレ──がっ!」

 瑠璃は一瞬背中を向けたかと思うと、反回転しつつ足を振り上げた。その足が空中で弧を描き、素足のかかとが哲の右ほおにめり込んだ。

 吹き飛んだ哲は、そばにあったマガジンラックやら観葉植物やらをなぎ倒して床にたたきつけられた。

「な・・・・・・」

 それ以上の言葉が出ない。なんてことしたんだ。脳震盪どころじゃ済まないぞ。急に性格が変わりやがって、二重人格ってやつなのか? クサレ、のあとに妙な間があったけど、何が言いたかったんだ? いや、そんなことはいいから早く救急車を・・・・・・

 とりあえず哲を助け起こそうとすると、彼は自力で身を起した。「いてて・・・・・・」と言いながら頬をさすっている。

「いててって、おまえ・・・・・・大丈夫なのか・・・・・・?」

「今度言ったらてめえの臭っせえ──文字どおりに握りつぶすからなっ!」

 今度は「──」の部分が分かった。瑠璃はその部分だけ口パクしていたのだ。前後の文脈から察するに、口パクで隠したのは限りなくお下品な言葉であるはずだが、なんでそんな器用なことをするんだ。と思ったら、哲がまた余計なことを言った。

「それは一度お願いしたいかも・・・・・・」

 瑠璃の足がまっすぐ天井を指し、ギロチンの刃のごとく振り下ろされた踵が、立ち上がりかけた哲の脳天にヒットした。

 鈍い音が三つ鳴った。後頭部に瑠璃の踵が埋まった音がひとつ、額を床に打ちすえられた音がふたつ。床の音が二回したのは、哲の頭がわずかにバウンドしたからだ。

 床は畳じゃなくてフローリングだ。ここでバウンドするなんて、下手したら頭がい骨骨折してるかもしれない。いや、それどころか・・・・・・

 おれの恐怖に近い心配をよそに、哲はまたしてもムクリと起き上った。

「ほら、そんな短いスカートで足を振り上げるから、いまちらっと・・・・・・」

 てんめえ・・・・・・と瑠璃が唸る。

「この瑠璃様が研磨おにいちゃんの気を引こうとどんだけ苦労してると思ってやがる! その苦労を無駄にしやがったら、夕凪神社に遺骨として奉納してやっからな! てめえも、てめえもだ!」

 哲とおれを指さす。おれもかよ。

「それとも余計な芽は早めに摘み取っちまうか・・・・・・?」

 ゆらりと片足を上げ、足首をぶらぶらさせる。そのとき、玄関の扉が開く音がしてマロの「ただいまー」の声が聞こえた。

「あ、研磨おにいちゃん、おかえりなさーい!」

 瞬時に声を入れ替えた瑠璃は、ほとんど固体化したかのような荒い鼻息をついてギロリとおれたちをねめつける。喋るんじゃねえぞという声は読心術がなくても伝わってきた。

「ほら、これでいいんだろ・・・・・・って、なんだよこれ」

 リビングに入ってきたマロが部屋の惨状に眉をひそめる。雑誌やら観葉植物の土が散乱している。

「あのね、永野くんがつまずいてころんじゃったのー。瑠璃、いたいのいたいのとんでけーってしてあげたよ?」

「そうか、瑠璃はえらいな」

 マロが瑠璃の頭をなでる。この不自然な状況を何とも思わんのかおまえは!

「まったく、勘弁してくれよな。掃除するのおれなんだぜ」

 そこのバイオレンス娘にやらせろって──と喉まで出かかった言葉を、おれはどうにか呑み込んだ。



 その後、マロの買ってきたなんとやらいうケーキを四人で食べたのだが、よく覚えていない。やたら甘かった気がするだけだ。たぶんそれしか取り絵のないケーキだったのだろうが。

 マロ邸からの帰り道、おれはへらへらした顔で隣を歩く哲の顔を観察した。額と頬が軽く腫れているが、血も出ていないようだった。

「ほんとに大丈夫かよ。病院行った方がいいんじゃないか」

「大丈夫だって。男に心配されてもうれしくないっつーの」

 あれで何ともなかったのか。真珠の弁当のときといい、こいつの身体は人体実験に供した方がいいレベルの特異体質なのか。

 そういえば、とおれは考え直した。そういえばおれはいままで本気で人が殴られたり蹴られたり、気を失って痙攣するところを見たことがなかった。いままで経験がないからおおげさに考えてしまうだけで、ほんとは人間の身体って思っていたより頑丈にできているのだろうか。いや、しかし、いくらなんでも・・・・・・

 ちがう、もっと現実的な視点というものがあった。哲は蹴られた瞬間に自分から吹き飛んで見せたのだ。キック自体はそこまで効いていない。でもそれが瑠璃にわかればいっそうムキにさせるだろう。哲はそれを避けたかったのだ。そうだ、そうに決まってる。

「なあ、あの子やっぱり二重人格なのか。でもあれって医学的にちゃんと証明されてないんじゃなかったっけ」

「いや、あれが地だろ。本人も言ってたじゃないか、マロには隠してるって。ま、おれはどっちの瑠璃ちゃんも好きだけどな。好きな男のために一生懸命演技してるなんてかわいいじゃん。その男がおれだったら言うことないけど」

 あの裏表を意図して切り替えてる? ほんとだったとしても、ちっともかわいくなどない。

「あーあ、今日もおにいちゃんて呼んでくれなかったなあ・・・・・・」

「まだそんなこと言ってるのか」

 おれはあきれるのを通り越して感銘すら覚えた。まあ好きにしてくれ。おれがあの家に行くことは二度とないだろうから。奉納されるのはごめんだしな。



 翌日、遅刻ギリギリで教室に滑り込むと、一番後ろの席で人だかりができていた。マロの席ではなく、その二つ隣の席だ。

「来いよ矢島! 今年最大の奇跡が起こった!」

 哲が手招きしている。人だかりは委員会のメンバーがほとんどで、その中心にいるのは見覚えのない女子だった。

「あ、矢島君? わたし春瀬瑪瑙。はじめまして、になっちゃうね」

 ああ、彼女がそうなのか。ゆるやかに波打つ彼女のロングヘアの色は春というより今の季節にぴったりだ。ほら、造成林の青葉が彼女の髪と同じ色に輝いている。おれは半ば自棄になってそう考えた。

「どうも。もしかして退院したの?」

「ほんとはたいしたことなかったんだけど、大事を取って入院してたんだって」

 おまえには訊いてないぞ哲。

「へえ、よかったね」

 いまいち声に熱がこもらなかったのも仕方ない。だって、おれにとっては彼女の話をちゃんとしたのは昨日が初めてだったはずだ。誰かが退院の話を聞いたから瑪瑙の話題になったわけでもない。現に今日の放課後に御見舞いに行くはずだったのに。なんだこのタイミングの良さは。

「委員会に入ったんでしょ? よろしくね。わたし、一応矢島くんの先輩だから」

 おれに笑いかける瑪瑙。とりあえず翡翠みたいなやつじゃなくてよかった。

 R県一の美少女、ね。おれには琥珀たちとあまり変わらないように見える──というか、琥珀や真珠と似てないか? 翡翠は表情がきついのであまりそう感じなかったが、いま見比べてみると翡翠とも似ているような気がする。まあ整った顔というのは特徴のない顔だというし、そういう顔が集まれば似るのかもしれないが。あるいは狭い町のこと、本人たちも知らないような遠い親せき同士かもしれない。でも転校してきた翡翠は関係ないか・・・・・・

 ともかく退院できたのはめでたいことだった。タイミングのよさなんて偶然以外の何物でもないのだから。



 四時間目が終わり、いつものように屋上に昼飯を食いに行こうとしたおれたちを、哲が引き止めた。そういえばこいつ、昨日の顔の腫れがすっかり引いてるような。

「なあなあ、今日の放課後は瑪瑙ちゃんの皆勤祝いにしないか?」

「快気祝いな・・・・・・。ほとんど逆の意味だろ、それじゃ」

「どっちでもいいって。な、そうしよう、な?」

 メンバーを見まわす哲。瑪瑙が遠慮がちに言った。

「うれしいけど、でも今日も委員会の活動があるんでしょ」

「今日は瑪瑙の御見舞いに行くつもりだったんだ。だから快気祝いに切り替えるのはいいかもな。な、委員長?」

「もちろんよろしくてよ。あたくしから提案するつもりでしたの」

 マロにうなずく真珠。いま気づいたような顔したくせに。

「よろしければあたくしの家のダンスホールを──」

「そんなのよりいい場所があるんだって。おーい、珊瑚ちゃん、きーちゃん!」

 真珠の家にはダンスホールなんてあるのか。そんなの呼ばわりされているが。

 哲に呼ばれてこっちに来た二人を見て、おれは内心で少しばかり身構えた。

 二人のうち、小柄なほうが志摩珊瑚しまさんご。ショートヘアの髪の先端があちこちに飛び跳ねている。くせっ毛ならいいが、セットしてるなら相当な手間がかかるだろう。でも髪を染める手間に比べたらたいしたことはないはずだ。彼女の髪は桜の花のような見事なピンク色。染髪でいいんだよな、これ・・・・・・おれがこのクラスに入って一番最初に目が行った頭は珊瑚のものだった。

 もうひとりは逆に大柄で、名前はアレキサンドラ・クルーガー。通称きーちゃん。アメリカ人、らしい。らしいというのは金髪碧眼と長身のほかに、外国人らしい特徴がないからだ。まともに英語をしゃべってるのも聞いたことがないし、日本の生活習慣に完全に馴染んでるし。まあうちのクラスの女子は大きな目に小さな鼻と口と、何人ナニジンだかよくわからない顔をしているのが多いのだが。

「ハーイ、哲サン。どうしたのデスか?」

 アレキサンドラは文法は完ぺきなくせに妙なアクセントをつけて話すのだった。クルーガーというのはドイツの姓のはずで、ドイツ系アメリカ人なのかもしれないが、もちろんこの変な発音とは関係あるまい。

「二人がバイトしてるゴスロリ喫茶でさ、今日七人ばかり席を予約できないかなあ。瑪瑙ちゃんの快気祝いをやるんだ」

 なんだゴスロリ喫茶って。二人がバイトしている? 珊瑚とアレキサンドラの凹凸コンビが仲がいいような気がしていたのはそのせいか。

 おれはこの二人とちゃんと喋ったことがないのだが、哲はずいぶん詳しいらしい。

「じゃあお店に確認してみるね」

 明るいブラウンの瞳を輝かせて珊瑚がスマホを取り出す。何がそんなに楽しいのか、いつも満面の笑顔である。

 画面をタップしようとして手が滑ったのか、ピンク色のスマホが珊瑚の手を離れる。逆の手で受け止めようとしたものの果たせず、何度かお手玉をしたあげく──

悲鳴とともに珊瑚の姿がおれの視界から消えた。視線を落とすとピンクの頭が床に突っ伏している。彼女のこの姿は一日一回は見ている気がする。

 アレキサンドラに支えられ、額をさすりながら立ち上がる珊瑚。頭から倒れた? 彼女には運動神経、いやそれ以前に動物の本能はないのか。

 珊瑚の目の端に涙がたまっている。いかに派手に転んだとはいえ高校生がそれくらいで泣くなよ・・・・・・

「うう・・・・・・痛いよきーちゃん・・・・・・」

「しっかりしてくだサイ。ヤマトナデシコがこれくらいのことでクライしてはいけないのデス」

 それは金髪がピンク髪に言うセリフではないだろう。

 半べそのまま、どうにか無事だったらしいスマホでお店とやらに電話する。二、三の会話の後に電話を切ると、哲に頷いてみせた。

「ほんと? じゃあそこでいいよな」

 勝手に話を進めるな。同意を求められても、珊瑚とアレキサンドラに話してしまった以上、いまさらノーとは言えないだろうが。

「ゴスロリ喫茶か・・・・・・おれ、あそこ行ったことないんだよな。みんなどうだ? 翡翠は?」

「あたしは、あ──みんなが行くっていうならいいけど」

 なんだ、何を言いかけたんだ。「あんた」か? やっぱりマロを意識しているようだ。というか、マロは昨日の今日で翡翠まで呼び捨てか。

 じゃ、決まりだな、とマロがまとめた。こういうときは真珠を差し置いてたいていマロが方針を決めることになる。何となくみんなそれに従ってしまうのだった。

「でも瑪瑙、身体は大丈夫なのか? 無理しなくていいんだぜ」

「うん、大丈夫。だから退院したんだし」

 小さくガッツポーズする瑪瑙。うん、いい子だ・・・・・・が、そのポーズはちょっと恥ずかしいぞ。

「でさあ、珊瑚ちゃん、初めてのやつもいるからまた訊かせてほしいんだけど、珊瑚ちゃんはどこから来たんだっけ?」

「んーと、地球の言い方だと、エリダヌス座のイプシロン星!」

 昼食を迎えたクラス中の会話が、一瞬途切れたような気がした。

 さっきおれが身構えた理由がそれだった。珊瑚には虚言癖というか妄想癖というか、とにかくそういうものがあるのだった。おれもちゃんと聞いたことはなかったが。もう少し綿密に設定してほしい。よく知らんがそれは恒星の名前だろう。太陽に住んでいたというなら話は別だが、せめてイプシロン星系と言ってくれ。

「何のためにバイトしてるんだっけ?」

「壊れた宇宙船を修理してるの!」

 そういやそんなこと言ってたな。地球に来るために乗ってきた宇宙船が壊れてしまい、仲間のところに帰れなくなってしまったとかなんとか。

 哲は明らかにからかっているのだが、珊瑚は裏表のない笑顔で朗らかに対応している。

 なんだかかわいそうになってきたので話題を変えたかったのだが、つい余計なことを言ってしまった。

「宇宙船の修理って、その店で二百年くらいバイトしてるの?」

 二百年の数字に根拠はない。恒星間宇宙船の修理費など知るものか。

「まっさかー。開店したときから働いてるけど、ノイシュヴァンシュタインができたの二年前だもん。」

 それはゴスロリ喫茶とやらの名前か。ワーグナーでも流れてるのか。二年前って、中学生から働いてたのか?

「でも惜しい! 地球で働き始めたのは二百六年と五十九日だから」

「・・・・・・へえ、ずいぶん長生きしてるんだ」

「うん、地球人とはちょっと寿命が違うみたいなんだ。ていうか、地球人の寿命が短すぎなんだよ。そのおかげでいっぱい寂しい思いしてきたんだ・・・・・・」

 珊瑚は肩を落とすが、またすぐに笑顔になって、

「でもね、もうすぐ宇宙船の修理が終わるんだあ。仲間のところに帰れるの!」

「そっかー。そりゃよかったなあ」

 嘆息と皮肉をまぶしたおれのセリフに、珊瑚は「うん!」と素直にうなずき、「にへへ」としか表記しようのない笑い方をした。ちょっと胸が痛む。ただの冗談にしろ、心を病んでいるにしろ、もう少し付き合うべきだったかもしれない。

「珊瑚サンが帰ってしまわれるなんて、ワタシとてもミスユーなのデス・・・・・・」

「ごめんねきーちゃん。故郷に着いたら絶対手紙書くからね。新しいバイトの子も早く見つけないとね」

「珊瑚サンの代わりなんていまセン! ワタシよりずーっとずーっとファラウェイなカントリーから来て頑張っている珊瑚サンを見て、どれだけ励まされたコトカ!」

「きーちゃん!」

 アレキサンドラに抱きつく珊瑚。その背中に優しく手を回すアレキサンドラ。

 なんだこの寸劇・・・・・・



 このとき珊瑚ともっとよく話しておけばよかったと、おれは後になってけっこう深刻に後悔することになる。アレキサンドラには思い切りぶんなぐられたっけ。そちらは珊瑚のこととは関係のない、もう少し後の話だったが。



 ようやく勢ぞろいした何とか委員会の活動第一回は、ゴスロリ喫茶とやらで瑪瑙の快気祝いをすることになった。

 準備して待ってるからゆっくり来てくれればいいよ、との珊瑚の言葉に従い、おれたちは店のある駅前の商店街までぶらぶら歩いていた。

 珊瑚に言われるまでもない。琥珀に合わせるとこのペースになってしまうのだ。琥珀は体育の時間とかもこの調子なのだろうか。ナマケモノじゃあるまいし、そんなはずはないか。意識すれば人並みの動きになるのだろう。あまり運動は得意ではなさそうだが。

 商店街が見えてきた。駅前には六義園印の大きなデパートがあるのに、個人商店が並ぶここもそれなりに賑わっている。奇妙な人の流れがある町だった。

 そこはやや古い四階建ての雑居ビルだった。ビルに入ること自体、ひとりでは躊躇してしまう雰囲気を漂わせている。入口にはフロアごとの案内板があり、二階の「ゴスロリ喫茶 ノイシュヴァンシュタイン」だけが白鳥をあしらった派手なプレートになっていて、異彩を放っている。

 だが店内は異彩どころの話ではなかった。

「おかえりなさいマセ、お館様~」

 アレキサンドラに挨拶された。ああ、あれかとおれはようやく思い出した。そういえばメイド喫茶とやらが流行ってたんだっけ。興味もないし行ったこともなかったが、あれの変型判か。

 しかしこのウェイトレス(?)の衣裳は・・・・・・レースのフリルがいっぱいついた、黒いミニのワンピースは肩も胸元も背中もむき出しだ。ええと、ニーソックスっていうんだっけ。あれで脚の大半は隠れているものの、短いスカートとの隙間から太ももが覗いている。白いエプロンもしてるけど、小さすぎて露出を押さえる役には立っていない。

 アレキサンドラは同じ高一だぞ。あんな衣装で働かせて問題にならないのか。いまここで警察に踏み込まれてもなんの言い訳もできんぞ。客まで一緒につかまったりしないだろうな。

 ただ、まあ・・・・・・目を奪われるのは間違いない。哲はあからさまに鼻の下を伸ばしてるし、挙動不審なマロの顔はたぶん今のおれと同じなのだろう。琥珀はいつものスマイル、瑪瑙はおれやマロの表情に近い。翡翠と真珠はどちらもなにやら憮然としている。

 案内されたテーブル席に着く。奥のソファの真ん中が瑪瑙で、おれはその向かいの椅子だ。おれたちが座ったことでほぼ満席になった。結構流行っているらしい。

「なあ、ジーンズにチェックのシャツかプリントTシャツ、メタボで眼鏡の客しかいないように見えるけど、そういうドレスコードでもあるのか」

 おれは唯一の経験者らしい哲に訊いてみた。

「客層がごく限られてるからな。服装も似たようなものになるんだろ」

 そういうものなのか。

 ここの名物はドイツ料理風の軽食であるらしい。一応、店名通りというわけだ。オーダーは珊瑚にお任せしたが、その珊瑚は・・・・・・

「わあっ」

 本日二度目の悲鳴が上がった。ついでガラスの割れる音が連鎖した。

 振り向いた先で、珊瑚が尻もちをついていた。おれの頭に即座に三つのツッコミが浮かんだ。

 ひとつ。カーペットの床でどうすれば尻もちをついて転べるんだ。誰かが食べ終えたバナナの皮でも投げ捨てていったのか。

 ふたつ。運んでいたのであろう料理を頭からかぶっているのはまあいいが、さかさまの皿が頭に乗ったままなのはなぜだ。なにか曲芸の最中だったのか。

 みっつ。あんなに短いスカートで尻もちをついているのに、重要な部分がうまい具合にトレイに隠れて見えない。くそ、もう少し・・・・・・

「いったあ・・・・・・あーあ、お料理グチャグチャ・・・・・・」

「あぁらやだ珊瑚ちゃん、またやっちゃったのぉ?」

 急に野太い声がして、店の奥から巨大な人影が現れた。

 店内の空気が凍りついたのは冷房がきついからではない。むしろその人物の登場で実際の店内の温度が上がっていてもおかしくない。

「まったくあなたはいっつもいっつも・・・・・・ほら、可愛いお顔がだいなしじゃない、ここはいいから、頭を洗って着替えてらっしゃい」

「ふぇ、店長、ごめんなさーい」

 またもや泣き出しそうな珊瑚の頭の料理の残骸をふき取るさまは、厳しくも優しい母の姿そのものだった。

「でも困ったわねえ。お客さんがたくさんいらしてて子猫ちゃんのおてても借りたいのに」

 珊瑚の姿が「STAFF ONLY」と書かれた扉の向こうに消えると、その人物はおれたちに目をとめた。

「あら、あなたたち珊瑚ちゃんの言ってたお客さんね。わたしは城主のルートヴィヒです。よろしくね」

 とウィンク。その人物──熊のような巨体のおっさんには、およそ似つかわしくない行為だった。

 年齢は三十代後半くらいか。身長はおれより頭一つ分は確実に大きく、店内の照明が遮られておれたちに影を落としている。その影は身体をくねらせる「彼」の動きに従ってテーブルの上を蠢いていた。

 ネームプレートには「店長 ルートヴィヒ」と書いてある。自分では城主と言ってるが、どう違うんだ。

 ただ、城主だろうが店長だろうが、ゲイだろうが中世最後の王様だろうが、そんなことはどうでもよかった。問題はおっさんが珊瑚たちと同じ衣装を着ていることだった。

「お料理はすぐに作り直しますからね。でも人手が足りなくて、しばらくお待たせ・・・・・・」

 ルートヴィヒは委員会の女子メンバーの顔を順番に見つめた。

「あら、あら! あら!? なぁんてかわいい子たちなのかしら! 珊瑚ちゃんも人が悪いわ、きーちゃんの他にもこんなかわいいお友だちがいたなんて! ねえお願い、ちょっとだけお店を手伝ってくれないかしら」

「はあ? あたしたち客なのよ。なんでそんなことしなきゃならないのよ」

 翡翠が真っ先に提案を拒否する。ごもっともである。

「もちろんバイト代は出すわ。うちはお給料いいわよ。珊瑚ちゃんを助けると思って、お願い!」

 結構ずるいこと言うな、この人。いやだと言ったら珊瑚を助けたくないみたいじゃないか。

「ワタシからもお願いしマス!」

 合掌した手をすり合わせるアレキサンドラ。「ナンマンダブナンマンダブ・・・・・・」とか言ってる。おまえわかっててやってるだろ。

「いいんじゃないでしょうか。なんだか楽しそう」

 のんびり言ったのは琥珀だった。委員会に入った動機もそんな風に言ってたな。意外に物事をノリで判断しているのかもしれない。

「そうだな、友だちが困ってるのに放っておけないよな」

「おまえよく真顔でそういう臭いこと言えるな。ご指名があったのは女子だけだろ」

 おれはいささかうんざりしつつマロに言うと、ルートヴィヒがぬっと顔を寄せた。

「いいえ、ぼくたちの仕事もあるわよ。もちろんお給料も出すから、一緒に働いてくれたら助かるわ」

 ぼくたちときたか。なんと言われてもありえないだろ、と思ったが、マロが「わかりました、おれたちでよかったら」と席を立った。

 勝手に決めるなというに。おまえがいうとなぜかみんな従おうとするんだ・・・・・・



 約十分後、珊瑚の退場と店長の入場によって沈みがちだった店内が歓声に包まれた。

 真珠、琥珀、翡翠、瑪瑙の四人がゴスロリ服(哲によるとそう呼ぶそうだ)に身を包んで姿を現したのだった。

「素敵! なんて素敵なのかしら! 今日はノイシュヴァンシュタイン築城以来、最良の日として後世に記録されることになるわ!」

「みんなごめんね。せっかくきてくれたのに・・・・・・」

 興奮するルートヴィヒの隣で珊瑚が肩を落とす。彼女は学校の制服を着ている。ゴスロリ服はクリーニング行きになってしまい、店長の方針であの服を着ない限り店に立たせることはできないのだそうだ。

 ちょっと待て。琥珀たち四人にぴったり合うサイズの服があったのに、多少サイズが小さいとはいえ珊瑚の分はなかったのか。どう考えても不自然だろ。まさか最初から仕組まれていたんじゃないだろうな。

 しかしこれは・・・・・・四人ともモデル並みのスタイルなので、ルートヴィヒが興奮するのはよくわかる。おれとあの人の興奮とはちょっとちがうだろうが。とくに琥珀ときたら・・・・・・カメラ、カメラはどこだ。だが店中にある「撮っちゃイヤ」の貼り紙が目につき、おれはスマホを探す手をとめた。

「いいのよ、珊瑚ちゃん。わたし一度こういうのやってみたかったから」

 瑪瑙が珊瑚を慰めている。

「やっぱり瑪瑙は休んでた方がいいんじゃないか。おれたちだけでやるからさ」

 マロが声をかけると、瑪瑙は首を振った。くそ、そのセリフは今おれが言おうとしたのに。もうちょっとさりげなく言うつもりだったが。

「ううん、ほんとにいいの。ずっと寝てばかりいたから少し身体を動かさないと。それにすごくかわいい衣装」

 かわいいというよりはエロいという表現しか頭に浮かばないが、着ている本人が言うのなら外野がとやかくいうのは無粋というものである。

「まあ、たまには庶民の仕事を経験してみるのもいいかもしれませんね」

「はあ? このカッコのどこが庶民の仕事なのよ。さすがお嬢様は感覚がずれてらっしゃるのね」

「あたくしはずれてなどおりませんわ!」

「ずれてる人はみんなそう言うのよ。自分だけは大丈夫だって」

 真珠と翡翠は言い合いながらも、マロにちらちら視線を送っている。なんか言ってもらいたいらしいが、マロは気づいていない。気づいていないふりをしてるのか。おれを見てくれたら一言くらい褒めてもいいのに。琥珀と瑪瑙は、とくに琥珀はそんなそぶりはしてない。断じてしてない。

 琥珀がおれの視線に気づいた。あわてて視線をそらすおれに彼女は「一緒に頑張りましょうね」と言ってくれた。風営法絡みで店に警察がなだれ込んできても、彼女だけはどうにか逃がそうと思った。

 女子は全員ホール担当。おれは厨房で皿洗い。哲は外で呼び込み。そしてマロは店内の清掃。

 マロだけが女子と同じ空間にいられるわけだ。なんなんだこの不公平な配置は。ルートヴィヒが適当に割り振っただけなのに、なんでマロだけいい思いしてるんだ。それに厨房にはおれと店長しかいないなんて、バランス悪すぎだろ。

「あの、一人か二人こっちにまわしてもらえませんか?」

 うずたかく積まれた皿をまえに、おれはルートヴィヒに頼んでみた。客の数に比べて明らかに食器の数が多い気がする。それにこの店には食洗機もないらしい。

「駄目よ、厨房は男の戦場なの。わたしと二人きりじゃいや?」

「そういうわけじゃ・・・・・・」

 マロだけでも、とも言いづらくなってしまった。そうか、仕事量よりもこの人と二人きりになることの方が問題じゃないか。

「初対面なのにとても失礼なんですけど、店長さんて・・・・・・」

 右の手の甲を、左の頬に当てて見せる。

「ほんとに失礼ねえ。ぼくちゃんじゃなかったらぶん殴ってるわよ? それはナ・イ・ショ・なんだから。心配しないで、珊瑚ちゃんのお友だちを取って食べたりしないから」

 首からでかい看板を下げて宣伝しているようなものなのに、内緒にする必要があるのか。って、珊瑚の友だちじゃなかったらおれはどうなってたんだ。

 おれは仕方なく皿洗いを始めた。お袋が離婚して長いし、我ながら慣れたものである。ちなみに男は学校の制服の上にエプロンをつけただけだ。たとえいくら金を積まれてもあんな格好するものか。

「ぶん殴るなんてお下品なこと言っちゃってごめんなさいね。つい昔の癖が出ちゃって」

「昔ってなんです?」

「このお店ができたのは二年前なの。その前は全然違うお仕事をしててね」

「そうなんですか」

 それ以上の興味はないので黙っていたが、先を促せ、という無言の圧力に耐え切れず、おれは言葉をつないだ。

「なんの仕事なんですか」

「そうねえ、殿方を相手にぶったりぶたれたりするお仕事、かしら。これでも昔はちょっとしたものだったのよ」

 誤解を招く言い方をしないでほしい。ルートヴィヒのむき出しの腕は筋肉がくっきり浮き出ている。プロレスとかボクシングだろうか。引退した力士がちゃんこ鍋屋をやるようなものかもしれない。

「だけどね、三年ばかり前、アラスカで武者修行中にひとりの女の子と闘ってこてんぱんにされちゃったの」

「女の子って、メスのグリズリーか何かですか」

「やだもぉう、マンガじゃあるまいし、熊さんと戦ったりするわけないじゃない。熊さんはこう、ギュッてして、モフモフッてするものなの。殴ったりしたらかわいそうじゃない」

「・・・・・・」

「そうじゃなくて、中学生くらいの女の子よ。しかもとぉってもかわいい子。それでわたしは才能の限界を感じて、武道を捨てたの。まったく、あんな女の子に負けるなんてね。所詮わたしは井の中のゲイだったんだわ」

 まあ、ムエタイのジュニアチャンプとかだったら女子中学生でも勝てるかもしれん。よく見ればあんなムキムキの筋肉は素人目にもあまり実戦的じゃない。格闘技じゃなくてボディビルをやっていたのだろう。

「それで、自分を偽るのをやめたの。わたしが一番好きなことは何かしらって考えて。そうして作ったのがこのお店。筋肉が落ちてお髭も剃って、だいぶ外見が変わったから、誰もわたしとは気づかないでしょうね」

 世の中には冗談のような経歴の人がいるものだ。いや、信じたのはこの人がゲイだということだけだが。

 店長はいくつかの料理を同時進行で作っている。器用さには感心するものの、料理しながらペラペラしゃべらないでほしい。まあおれが食べるわけじゃないからいいけど。



 結局閉店時間まで働かされ、おれたちはけっこうな額の臨時収入を得た。なんかいろいろ法律に引っ掛かりそうな気がするが、いいのかほんとに。

 女子メンバーはなんだかんだいいながら楽しくやっていたようだし、瑪瑙も元気そうだ。ほんとに彼女は病み上がりなのか。

 割りを食ったのはおれと哲だ。冷房が利いていた分だけおれの方がましだったか。マロのやつは・・・・・・どうも女子メンバーと同じ空間にいられただけではなかったらしい。

「まったく・・・・・・やっぱりあんたはド下劣男子だったのね」

 翡翠がマロに氷結寸前の視線を向けている。

「有馬さん、いくら校外での出来事とはいえ、理事長としても一友人としてもあのようなハレンチ行為は認められませんわ」

 真珠も同様。

「いやだから、さっきのはただの偶然なんだって!」

 なにやら必死に弁解しているマロの隣で、瑪瑙が頬を染めている。

「瑪瑙、ほんとにごめん。でもわざとあんなことしないって、絶対!」

「・・・・・・うん、わかったから、もういいよ。ふたりとも有馬くんを責めないであげて」

「甘い! こういう救い難いアホは優しくしたらつけあがるだけよ! 右の頬に『変』、左の頬に『態』ってタトゥーを彫り込んでやるべきだわ!」

「そ、それはさすがに・・・・・・」

 翡翠の剣幕に鼻白む真珠。すると翡翠はマロに瑪瑙と真珠も加えて説教を始めた。なにがあったのか知らんが、どうやらまたマロがおいしい目にあったらしい。マロは偶然と言い張ってるけど、ほんとかよ。

 閉店後、珊瑚とアレキサンドラをまじえてあらためて瑪瑙の快気祝いをすることになった。

 そのときのことはあまり思い出したくない。琥珀が門限のためなのか途中退席したのは残念だったものの、料理はうまかったし、珊瑚とアレキサンドラのショーも楽しかった。なぜ喫茶店にそんなものがあるのか知らないが、店内には小さなステージがあり、そこで歌ったり踊ったりするのが恒例になっているらしい。「恋愛金星」「交響曲 ハ長調 合唱のみ」「さまよえる地底人」など頭の痛くなるタイトルのオリジナル曲だったが、二人ともなかなかうまい。ダンスもMCも堂に入ってるし、それだけでお金を取れそうだ。

 ショーの締めとして、ルートヴィヒがあの衣装のままポールダンスを繰り広げたことが思い出したくない唯一にして最大の原因である。

 ポールに悲鳴を挙げさせながら汗だくで舞い踊るルートヴィヒ。網膜に焼きつけておいた琥珀たちの姿は、すべてあの大男に上書きされてしまったのだった。



 それからの一週間ばかりは期末試験に費やされた。この学校は試験の個人別総合得点を一位から最下位まで廊下に貼りだすという信じがたい暴挙を行っているのだが、委員会のメンバーの明暗はくっきり分かれた。女子は全員二十位以内、一位が翡翠だった。転校して十日くらいしかたってないのに・・・・・・何なんだあいつは。

 男子は哲が下から三番目、マロがちょうど真ん中あたり。おれはその少し上。男子メンバーで最高位なのはちょっと誇らしい。テストの点自体はたいしたことなかったけど、意外と平均点が低かったので順位を押し上げられた形だ。それにしても極端に頭の良し悪し普通が分かれたな。

 あとは夏休みを待つのみ。学校中が浮ついた雰囲気に包まれるなか、おれたちは今日も薄暗い旧校舎で意味不明な活動にいそしんでいた。

 それにしても暑い。造成林に囲まれた旧校舎には蝉の鳴き声が容赦なく飛び込んで来て、暑さを増幅させる。

 瑪瑙は平気だろうか。そんなことを思ったのは久しぶりだった。これまで彼女の様子は健康そのものに見えたからだ。

 瑪瑙はちょっと疲れた様子で、窓際の椅子に座って風に当たっている。新緑の色の髪が揺れている。翡翠や真珠よりずっと話しやすいし、今度ちゃんと聞いてみよう。染めてるんだよね、と。

 なんの成果も上がらないまま──上がるはずもないまま、今日は解散しようという話になったときだった。

「瑪瑙!」

 マロの叫び声がして、おれは振り返った。

 マロの腕が瑪瑙の頭を支えている。全体重がその腕にかかっているようだった。気を失っている?

 瑪瑙の名を呼びながら、ゆっくり彼女を床に寝かせるマロ。瑪瑙の顔は蒼白だった。貧血かな、と思ったが、いくら呼びかけても目を覚ます様子はない。

 メンバーに動揺が広がっていく。哲ですら硬い表情になっている。冷静なのはおれだけなのかもしれなかった。

 確かに疲れていたように見えたが、それは全員同じだ。昨日まで、というかついさっきまで健康そうに見えたのだが。

「瑪瑙、しっかりしろ、瑪瑙!」

 耳元でそんなに怒鳴られても困るだろう。無理やり目を覚まさせるのがいいこととは思えないし。

「真珠、救急車を!」

 まずは保健室が先ではと思ったが、真珠ははっとした表情になるとスマホを取りだした。

 やがてサイレンの音が聞こえてきた。



 救急車には真珠が同乗した。なぜか教師はひとりも付き添わなかったのだが、理事長である真珠が同行しているから必要ないということなのだろうか。

 おれたちは徒歩で病院に向かった。いやに救急車の到着が早いと思ったら、六義園の名のついた病院は学校のすぐ近くにあるのだった。ほんとに施設が充実した町である。

 到着したおれたちを真珠が迎え、瑪瑙の担当医師という人物の元に案内した。医師? なんで部外者であるおれたちが医師に会う必要があるんだ?

 空いている病室のひとつに通されたおれたちは、ひとりの白衣の人物と対面した。ずいぶん若い。三十前後だろうか。医師というよりスポーツマン風である。

「あたくしは一足先にこの卜部うらべ先生から事情を伺いましたわ。ですがあたくしより先生から直接お話しを聞いた方がいいかと思います。卜部さん、これで全員ですわ。改めて春瀬さんの病状を教えてくださいませ」

 と、真珠が卜部という医師を促した。この二人は以前からお互いのことを知っているようだ。

「実は瑪瑙の友だちである君たちに折り入って頼みがあってな・・・・・・」

 卜部医師はいやになれなれしく切り出した。

 医師によれば、瑪瑙の病気は治ってなどいなかった。たいした病気じゃなかったという瑪瑙の言葉も、おれたちに心配かけまいとする瑪瑙のウソだった。

 それは命にかかわる重篤な病気で、一刻も早く手術する必要がある。だが手術の成功率は低く、もし失敗すれば必ず患者は死亡する。瑪瑙は成功するはずがないと諦めており、どうせ死ぬのなら最期の時間を友人たちと過ごしたいと、卜部医師の制止を振り切って学校に行ってしまった・・・・・・

「瑪瑙は今も手術を拒んでいる。そこで君らにも説得してほしいんだ。瑪瑙が無理をしてでも会いに行った君らが説得すれば、きっと聞き入れてくれると思ってな」

「それはもちろんですけど、先生、瑪瑙はどんな病気なんですか」

 おれが思っていた疑問をマロが口にした。

「彼女は生まれつき心臓に持病を抱えててな。小さいころから入退院を繰り返していたんだ」

 なんだそのざっくりした説明は。患者のプライバシーだから教えられないってことか? 

「それで、その手術の成功率はどれくらいなんです」

 再びマロが問うと、卜部医師は日焼けした顔に沈鬱な色を浮かべた。

「〇・〇二パーセント」

 誰もが息をのみ、室内が重い空気に包まれた。おれをのぞいて。

 ちょっと待て、なんだこの話は? 瑪瑙は健康そうだったじゃないか。少なくともそんな重病を抱えてるようには見えなかった。無理をしていた? 病気って無理すれば隠せるのか? 〇・〇二パーセントって、最低五千件の手術例があるってことだよな。健康と重体、プラス百とマイナス百を行ったり来たりする奇病が五千件もあったってことか?

「〇・〇二パーセントって、それじゃ・・・・・・」というマロの声が震えている。

「ああ、極めて難しい手術になる」

「あんた医者だろ、なんとかしろよ!」

 マロは突然医師につかみかかった。普段は穏やかなマロが急変したことに驚きつつ、おれはマロを羽交い絞めにしてひきはがそうとした。

「あたりまえだ! おれが必ず治してやる! あとは瑪瑙の覚悟次第なんだ!」

「卜部さんは以前にこの手術を成功させたことがあるのですわ!」

 卜部医師と真珠が言い、マロの身体から力が抜けた。は・・・・・・? そうなの? この若い医師が自ら執刀するの? 〇・〇二パーセントしか成功しない手術を?

 まてよ、〇・〇二パーセントの成功ってことは、99.98パーセント失敗するってことだよな。それって・・・・・・

「なあ、なんか成功しそうな気がしないか?」

「適当なこと言うなよ! おまえそれでも友だちか!」

 おれが思いついたことを口にすると、マロに肩を突き飛ばされた。

「ほんとうなんですね、先生。必ず成功させてくれるんですね」

「ああ、おれを信じろ! 瑪瑙はおれの命に代えても救ってみせる。だから君らは手術の了解を取り付けてくれ!」

 信じろって言われても、問題なのはこの人の技量だけであって、信じるかどうかは関係ないような気がするんだが。

「はい・・・・・・すみませんでした、バカなことを言ってしまって」

 マロが深々と頭を下げると、卜部医師はまぶしいほど白く輝く歯をのぞかせた。

「いいってことよ! おまえの友だちへの思い、確かに受け取ったぜ!」

 おれは吹き出すことをこらえるのに全精力を費やした。いいってことよ、なんて実際に言う人、初めて見た。



 瑪瑙の病室は個室だった。友だちや親せきの御見舞いで何度か病院には来たが、個室に入るのは初めてだ。瑪瑙の家も裕福なのだろうか。お嬢様っぽい雰囲気はあるが。

 そういえば瑪瑙の家族は来ていないのか。まだ到着していないだけなのだろうが、重病の娘を放って両親は仕事にでも行っているのか? 

「瑪瑙・・・・・・話は聞いたよ」

 マロを先頭にぞろぞろ病室に入っていったおれたちを、瑪瑙は弱々しい笑顔で迎えた。意識は戻っているが、一時間ばかりの間にずいぶんやつれてしまったように見える。

 夕日が差し込んで白い病室を赤く浮き立たせている。雰囲気は出ているな。瑪瑙に申し訳ないと思いつつもまだ現実感のわかないおれはそんなことを考えた。

「ごめんね、今まで黙っていて」

「そんなことはいいんだ。・・・・・・いや、正直に言ってほしかったかな」

「先生から話、聞いたのよね。だったらわかるよね、病気のこと話したってどうにもならないって。どうせ死ぬんだし、みんなに気を使ってほしくなかったの」

「バカなこと言うな!」

 マロが身を乗り出した。こいつこんなに熱くなるやつだったっけ。

「どうせ死ぬなんて、そんなの勝手に決めるな! ちゃんと手術が成功する可能性があるじゃないか!」

「そうですわ。せっかく集めた委員会のメンバー、ひとりでもかけては困りますの」と真珠。

「委員会なんてどうでもいいけどさ、瑪瑙ちゃんにもしものことがあったら、おれ絶対あとを追っちゃうからね!」と哲。

「あの卜部って医者の名前、あたし知ってるわよ。医学界じゃ有名らしいわね。まかせてみていいと思うわよ」と翡翠。

「もうすぐ夏休みですから、一緒に遊びましょうね」と琥珀。

 ・・・・・・ん? おれの番なのか? えーとえーと・・・・・・

「あのゴスロリ喫茶の服着たところ、また見たいな」

 とっさに出た言葉におれは頭を抱えたくなった。これじゃ哲のセリフじゃないか。まあ誰も気にしてないようだが。

「瑪瑙がいなくなっちまったら、おれ・・・・・・」

 マロの声に嗚咽が混じった。おいおい・・・・・・

「マロくん・・・・・・」

 瑪瑙の目にも涙が浮かんでいる。その視線はマロに固定されているが、おれたちもいろいろ言ったんだけど?

「・・・・・・わかったわ」

 え?

「怖いけど、手術、受けてみる」

 そりゃまたあっさりと・・・・・・というおれのつぶやきは、歓声の中にかき消された。



 あわただしく手術の準備が始まった。いまから、いきなり手術を始めるのかというおれのツッコミは誰の耳にも届かないまま、おれたちは病院を追いだされた。

 手術は長時間かかるし、明日は学校があるだろうというのが卜部医師の言葉だった。真珠が最後までそばにいると食い下がったが、「おれが親父さんに叱られちまう」と言われ、肩を落として帰って行った。瑪瑙の家族は最後まで姿を見せなかった。

 翌朝の教室、委員会のメンバーは暗い顔を見合わせていた。

 おれも同じ顔をしていたはずだ。あまりにも慌ただしく事態が推移したので現実味がなく、病院ではどうも真剣になれずにいたが、家に帰って考えてみればクラスメイトが死ぬかもしれないというとんでもなく深刻な事態じゃないか。ゴスロリ服が見たいだなんて、瑪瑙にもしものことがあればおれはなんて彼女に謝ればいいのだ。言ったことも考えていたことも最低だ。哲のセリフじゃないが、後を追って死んだほうがいいレベルだ。

 どうか手術が成功してほしい。おれは生まれて初めて本気で神様とやらに祈っていた。

 その瞬間までは。

「おはよう」

 ありえないはずの声がした。

「瑪瑙!」

「手術は成功したのですね!?」

 いまのセリフは誰のだったのだろう。マロと、真珠かな。気が遠くなりかけたおれの頭がぼんやりとそんなことを考えた。

「また快気祝いやろう!」

「あの熱血医師、なかなかやるじゃない」

「よかったですねえ」

 こんどは哲、翡翠、琥珀だったような気がする。

 あ、またおれの番・・・・・・? 頭の中真っ白なんだけど・・・・・・? ああ、でもこれだけは言ったほうがいいのかな・・・・・・。

 オメデトウ、メノウ。デモナンデココニイルノ?

 おれが呆けている間に、会話が進んでいたようだった。

「いやー、昨日なんて心配で眠れなくてさあ。見てよこの目の周りのクマ!」

「永野くん、なんだかわたしより不健康そうね。ごめんね、心配かけて」

「心配したのは永野さんだけではありませんわ。今度委員会の活動中に倒れたりしたら承知しませんことよ」

「はい、委員長。もうしません」

 会話を聞いているうちに、すこしずつ正気が戻ってきた。

 あの新緑の色の髪を見間違えるはずがない。そこに立っているのは間違いなく瑪瑙本人だった。血色もいいし、とても大手術を乗り越えた後には見えない。どんなに術後の経過が良くても、少なくても数日は入院するはずだ。手術の成功の可否は電話で報告を受けた真珠を経由して聞くことになりそうだと思っていた。翌日に瑪瑙自身の口から聞くなんて想像もしていない。しかも遅刻もせずに定時に登校して、だ。

 やっぱり成功率〇・〇二パーセントの手術なんてウソだったんだよな。瑪瑙はせいぜい盲腸とかそれくらいの病気で、瑪瑙がその手術すらこわがってたもんだから、卜部医師が一芝居打ったんだ。一日で退院したのは、ほら、あれだ、いまは内視鏡手術とかで日帰りの手術も可能だって聞いたことがある。

 そうでもなきゃ説明がつくか。

 でも大喜びしている一同の中で、とてもそんなことは口に出せなかった。

 まあプライベートなことだし、病気はあまり人に言いふらすものでもないだろう。なんにせよ手術が成功したのならめでたいことだ。おれはそう思うことにした。



 わかってはいたんだ、おかしいってことは。でもそのときのおれは、不可思議な現象に自分が納得いく理屈をこじつけ、すべて現実に起こりうることなんだと思い込もうとしていた。

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