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@fsme
研磨
七月の日差しはまだ朝だというのに夏の熱気をむりやり押しつけてきて、おれは学校指定シャツの襟を持ちあげて胸元に風を送った。
いい天気だ。暑さにさえ我慢できれば、学校など行かずにこのままどこかに遊びに行きたい気分だった。
通学路になっている道は広く、周りの建物の背は低い。緑が多い代わりに人通りは少なくて、歩いているのは同じ制服を着た生徒ばかりだ。要するにここは片田舎なのだが、けっこう遊ぶ場所も多くて、学校をサボっても時間つぶしに困ることはない。
軽やかとはいえない速度で両足を交互に前に出しつつ、サボったときのメリットとデメリットをけっこう真剣に比較していると、前の方に知っているやつの背中を見つけた。そいつ自身にたいした思い入れはないのだが、一緒に参加しているあるグループのことを思い出し、おれは今日のところはおとなしく学校に行くことにした。
あいつの名前は
追いつこうと少し足を速めると、マロまで五メートルくらいのところで、あいつはいきなり転んで尻もちをついた。わき道から飛び出してきた誰かにぶつかられたようだった。
ブロック塀に阻まれてどんな相手か見えなかったが、不注意──だったのか?
平均的な高校一年生の体格のマロを転ばせるなんて、よほどの勢いで故意に体当たりしなければならないはずで、不注意でぶつかっただけとはちょっと考えにくい。それとも稽古場へ向かう力士がよそ見しながら歩いてきたのか。
「大丈夫かよ」
マロに声をかけつつわき道の方を見ると、ぶつかってきたらしい人物がやはり尻もちをついていた。
力士じゃなくて、同じ高校の女子だった。えんじ色のベストに真っ白なスカートと、特徴的な制服なのですぐにわかる。ちなみに男子の制服にはベストはなく、夏服は全身真っ白なのでかなり恥ずかしい制服でもある。
「どこ見て歩いてんのよ!」
女子が叫んだ。やはりマロと衝突したのは彼女らしい。特に大柄でもないのに、どうすればマロを転ばせられるんだろう。
「そっちがぶつかってきたんじゃないか!」
マロも言い返すが、チラリと視線を動かし、すぐに逸らせた。視線に気づいた女子はあわててスカートを押さえた。真っ先に気にするだろ、普通。立っているおれからは角度が悪くて何も見えなかったが。
「見たわね?」
「いや、なにも・・・・・・」
「信じらんない、人のスカート覗き込んだあげくしらばっくれるの?」
「覗き込んだんじゃない、不可抗力だ!」
「やっぱり見たんじゃない、この色欲高校生!」
その女子はカバンを振り上げた。おいおい、革のカバンで本気で殴ったらタンコブじゃ済まないだろ。だが途中でその動きが止まった。
「あら、あんた・・・・・・」と、マロの顔を覗き込む。正面から見つめられたマロは怪訝な顔だ。女子は、はっとした様子で腕時計を見た。
「まずいわ、今日だけは遅刻できないのに!」
あわてた様子で立ち上がると、マロを無視して駆け出した。学校はもうすぐそこだ。そんなに急がなくても遅刻しないと思うが?
「知り合いか?」と、まだ呆然としているマロに話しかける。マロはそのときようやくおれに気づいたようだ。
「いや、ちがう。このあたりじゃ見かけない子だったような」
「このあたりじゃって、おまえはこの地域全員の顔を覚えてるのかよ」
「そりゃそうだけど・・・・・・」
どっかで会ったかなあ、とかつぶやいているマロと一緒に登校する。「公式な」部活や委員会には所属していないし、特に目立つやつではないのだが交友範囲は広くて誰とでも親しげに話す。そのマロが見たことがないというならほんとうに初対面なのだろう。知り合いの多さを証明するように他のクラスのやつや教師から挨拶され、その都度マロは律儀に返答する。その様子を横目で眺めながらおれは教室の席に着いた。
しばらくすると、朝のホームルームのチャイムときっかり同時に担任が入ってきた。いつもながら表情に乏しいな、この人。せめて銀ぶちじゃなくて、もう少しシャレた眼鏡でもかければいいのに。
「今日は転校生を紹介する」
と担任は無表情のままのたまった。どよめく教室。おれもそのどよめきに加担している。昨日は何も言わなかったよな。こんな急な転校があるのか?
「またですかあ? 今度女子じゃなかったらそいつ虐めちゃいますよ」
後ろから
でも確かにそうだ。こんな中途半端な時期に転校生が続くなんて。一クラスに二人転入したら各クラスの人数にも差が出るだろうに。
「安心しろ、待望の女子だ」と担任。「入ってきなさい」と続ける。
その生徒が教室に入ってくると、一瞬の沈黙の後に哲の歓声が上がり、クラスの何人かが唱和した。
「あ、ヒステリー女!」
今度はマロの声がした。マロは哲のように大声を張り上げるようなタイプじゃないから、思わず出てしまった声だろう。まあおれも似たようなセリフを口にしそうになった。目の前に立っているのは確かにさっきマロにぶつかった女子だ。
クラスのみんなも担任も驚いてマロと女子を見比べる。女子もはっとした表情をしたようだが、ついっと後ろを向き、黒板に文字を書きはじめる。
やたらと画数の多い名前を、流麗な文字で書きあげる。黒板にこんな字が書けるものなのか。そこには「天羽翡翠」と書いてあった。よほど羽が好きな両親から生まれたらしい。
「
笑顔のかけらもない、ぶっきらぼうなあいさつ。頬にかかるセミロングの髪をかきあげ、何か文句あるの、とばかりに教室を見渡す。すると歓声も収まり、なんとなくクラス中が気圧されてしまった。
「まあ、みんな仲良くしなさい」と担任はやや強引に取りなしつつ、彼女が座る席を探した。
「ああ、有馬の隣が空いてたな。知り合いみたいだし、あそこに座りなさい」
有馬の名を聞いた途端、翡翠の顔色が変わった。驚きから納得、それに怒りに。どう見ても不自然な変化だった。なんだあいつ?
というか、やはりあの特等席は空席だったのか。マロの席は窓際の一番後ろ、つまりあの席を獲得できるならウェブサービスのオプション料金分くらいは毎月払ってもいい教室内のベストポジションだ。その隣の席が空いていたのなら、なぜおれに与えてくれなかった。
おれも同じ転校生だったのに。
落ち込んでいると、隣の女子が声をかけてきた。
「転校して来られる方が多くて、楽しいですね」
一・二倍速でスロー再生したような、ゆっくりした口調だった。話すスピードなんて人それぞれだろうけどさすがにこれは遅い。彼女は
それにしても、と思う。琥珀の顔には非常に大きな特徴がある。なかなかお目にかかれないようなきれいな顔なのだが、たぶんそれ以上に大きな特徴だ。
彼女の瞳は、どう見ても青い。生まれつきだというが、あんな鮮やかな青さがありえるのか。やっぱりカラーコンタクトじゃないのか。
が、転校から一か月たった今では青い瞳くらいでは驚かなくなっていた。このクラスにはピンクや金や青の髪の毛をしたやつがごろごろしているのだから。今日また一色増えた。転校生の天羽翡翠の髪は赤い。いわゆる赤毛などというものではなく、深紅だ。イタリアのスポーツカーのような色だ。
いまのおれなら深紅程度では驚かないが、はじめてこのクラスに入った時のショックといったら・・・・・・
一か月前、おれはやっとの思いで入学した中堅の都立校から、たった二か月で転校する羽目になった。親父の急な転勤のせいだった。いままで一度も転勤なんてしなかったくせに、なんでよりによってこのタイミングなんだ。せっかくの思いで受験して、ようやくなじんできた学校を、なぜ去らなければならんのか。もちろん強硬に反対したが、おふくろが離婚して父子家庭のひとり息子であるおれに、選択肢はあまりなかった。不況の中、ひとりで都内に下宿させる余裕などあるはずもない。嫌なら自活しろと言われたが、三年間バイトに明け暮れるような高校生活は勘弁してほしかった。
そうしてやってきたのは太平洋に面したR県にある、ゆうなぎ町という小さな町だった。親父の会社はこんな小さな町にまで支社があるようなところだったっけ。これはやっぱり「飛ばされちゃった」ということなのか。
十五年間都内で過ごしたおれにはずいぶんな田舎に来てしまった──と思ったのだが、このゆうなぎ町は意外に快適だった。歩いていける場所に店や施設もそろっているし、町全体も清潔だ。人や車も少ないし東京よりずっと過ごしやすい。
もうひとつ意外だったのが、転校先の高校が私立だったことだ。近くに他に高校はないし、私立としては学費が格安だったらしい。この地域の大財閥が運営しているとかで、将来有望な高校生を育てるためなら金は惜しくはないとかなんとか、とにかく金が余って仕方がないようだ。学費の安さに魅かれて集まった高校生に、裏で人体実験でもしてるんじゃないかと思ったが、まあうちの財政で私立に入れるなら文句は言えない。
引越しやら入学手続きやらが終わった六月某日、おれは私立六義園学園の門をくぐった。語呂がいいのか悪いのか分からない校名である。
二か月だけ通った都内の公立校など比較にならない規模だった。生徒数はこの町の総人口を超えるんじゃないか? かなりの人数がほかの市や町から来ているわけだが、電車も一路線しか走ってないこの町に通うのは大変だろうに。
それにまだ校舎やその他施設が新しい。創立三年と聞いたからそれも当然か。今年になってようやく三年生が誕生したわけだ。
が、校舎のことなど驚くに値しなかった。表情の乏しい担任に案内されて入った教室で、本来ありえないはずのいくつかの色彩が、おれの目を奪った。
金、ピンク、水色、オレンジ。金は三つか。教室に貼ってある掲示物やら生徒の所持品やらの色ではない。何人かの生徒の髪の色である。
染めてるんだよな。それが最初に頭に浮かんだ言葉だった。それとも転校生を驚かせるためにカツラでもかぶってるのか。染めてるんだとすればずいぶん発色のいいカラーリング剤があるらしい。
私立とはいえずいぶん身だしなみに寛容な学校だ。前の学校では軽度の茶髪が黙認されている程度だったのに。
この学校で流行っているのだろうか。どちらにしろあまりいい趣味とは思えなかった。
担任に促され、おれは用意しておいた挨拶を口に・・・・・・あれ、なんて言おうとしたんだっけ。不意打ちを食らったおれの頭からは挨拶の言葉がきれいさっぱり消え去っていた。
「・・・・・・東京から来ました、
とっさに思いついたことだけを口にする。なんの面白みもないけど、かまずに言えたから上出来か。くそ、一晩かけてもうちょっと気のきいたこと考えておいたのに。
「あっ、都会モンだ!」
オレンジ頭の男子が大声を発して、教室が笑いに包まれる。男で派手な髪の毛をしてるのはあいつだけか。クラスのムードメーカーというやつだろうか? とりあえず曖昧な笑顔を浮かべておく。
「じゃあ、矢島はどの席に座ってもらうかな・・・・・・」
担任が教室を見まわす。いや、転校生の席くらいあらかじめ用意しておかなかったのか?
よくみればいくつか空席がある。欠席者がいるのか。窓際から二列目の最後列も空いている。教室内の席の価値はコンサート会場のそれとは逆で、隅っこであるほど価値が高い。満点に近い席じゃないか。
空いてるならあそこにしてくれ! という願いむなしく、担任は前から二列目の空席を指さした。
「ああ、ここが空いてた。先生の近くだし、わからないこともききやすいだろ」
そんな気遣いは結構です。ともいえず、おれは黙って教壇からほんの数歩しか離れていない席に腰を下ろした。席順としては最悪に近い。なんのためにこんな真ん中の席を空けてたんだ?
担任がホームルームを始めると、隣の席の女子が声をひそめて話しかけてきた。
「わたし、黛琥珀といいます。よろしくおねがいしますね」
子守唄でも歌ってるかのようなゆっくりした口調だった。たっぷり五秒はかかったはずだ。マユズミコハク? なんだか難しい名前だ。どういう字を書くんだろう?
「あ、どうも・・・・・・」
芸のない返事を返す。かわいいな、と思った。この女子は黒いストレートのロングヘアをしている。派手に染めてるやつはちょっと怖いので安心する。小さな顔にふさわしい小ぶりで整った鼻と口、反比例するように幅も高さもある大きな目。この目の大きさはちょっと整形っぽいかな、と失礼なことを思ったのも束の間、あることに気づいた。瞳が青い・・・・・・?
初対面の相手をまじまじ覗き込むわけにもいかず、おれは視線を担任に戻した。
午前の授業は大過なく過ぎていった。学習内容が全然違うけど、一学期の成績なんて転校した時点であきらめている。先生も大目に見てくれるだろう。
さて、メシだ。友達のひとりもいない身を持て余すとするか。学食があると聞いていたので、おれは最初からそこに行くつもりだった。弁当も持ってこなかったし、どうせ一人で過ごすなら広くて人の多い学食のほうがマシだ。
とはいえ、誰か気を利かせて声をかけてくれたらありがたいな、などと都合のいいことを考えていると、計ったようなタイミングでひとりの男が声をかけてきた。
「よかったらおれたちと一緒に食わないか?」
妙にさわやかなセリフを口にしたのは、黒髪を坊っちゃん刈りにした、一見目立たない感じのやつだった。その後ろでおれを都会モン呼ばわりしたオレンジ頭がにやにや笑っている。
「おれ、有馬研磨。よろしく」
「マロってよんでくれよな!」
オレンジ頭が付け加える。
「おまえが言うな。こいつは永野哲。哲でいい」
哲はともかく、マロってなんだよ。アリマケンマのどこからそのあだ名になるんだ。まあ本名も韻を踏んだ特徴的な名前だが。
「おれたちと、女子三人──今日はひとり休みだけど──で、なんというか、あるグループを作っててさ。いつも屋上で一緒にメシ食ってるんだ」
「屋上か・・・・・・行きたいけど、おれ、弁当持ってないし、学食行こうかと思って」
「でしたら心配はいりませんわ!」
女の声とともに、なにか巨大なものがおれの机に置かれた。
「ちょっと作りすぎてしまいましたの。あなたに差し上げてもよろしくてよ」
何なんだよそのしゃべり方は。相手は長い金髪の女子だった。教室に入ってきたとき目に付いたうちの一人だ。腰まである金髪がいくつかの房に分かれて、半分から下がDNAのらせん構造のように渦を巻いている。
「矢島さんとおっしゃいましたね。あたくしはこの学校の理事長、
「は・・・・・・?」
「な、驚くだろ? こいつ学長よりえらいんだぜ」
哲が言った。まってくれ、どこから突っ込んだらいいのかわからん。
そのしゃべり方はおれをからかってるのか? 極端にTVの影響を受けやすい人で、いま放送中のなにかのドラマにでもはまってるのか?
その金髪はやっぱり染めてるのか? そのDNA構造はどうやってセットしてるんだ? クラシックの作曲家みたいにカツラかぶってるのか?
リクギエンて本名か? 学園の関係者か? まあ私立だし創業者の娘とか孫が通っててもおかしくはないが、理事長は言いすぎだろ?
それだけのツッコミが一瞬で頭に浮かんだ。この時点ですでに精神的に息切れしそうだった。
机の上に置かれたものを見ると、高価そうな風呂敷に包まれた五段くらいの重箱であるらしかった。弁当を作りすぎたから分けてくれるということなのだろう。
以下、ツッコミの追加だ。
こんな「作りすぎ」があってたまるか。
どうやって家から持ってきたんだ。いままでどこに置いてあったんだ。
おれはもはや酸欠寸前だったが、三人は勝手に話を進めていく。
「今日はあたくしの手作りですのよ?」
「へえ、珍しいな。いつもは自宅の料理人がつくってたんだろ?」
「ええそうですわ。和洋中で世界トップレベルの料理人たちに作っていただいていましたの。彼らから教えを受けたあたくしの料理もまた、世界トップですの。よおく味わってお食べなさい」
彼女は左手の甲を腰に、右手の甲を口元に当て、高らかに笑った。それ、笑い声でいいんだよな。
「おーほ! おーほ! おーっほほほほほほほほほほ!」
酸素吸入器はどこにあるんだ・・・・・・。
「よかったですねえ。じゃあ、お昼もお隣ですね」
振り返るまでもない、この遅いしゃべり方は間違いなくお隣の黛琥珀さんだった。お昼も、ということは。
「ああ、琥珀もグループのメンバーなんだ。今日のところはこれで全員だな」
マロが言った。なんだこいつ、下の名前で呼び捨てか?
まゆ──いや、おれも下の名前で呼ばせていただこう、心の中でだが──琥珀もおれが行くものと決め付けてるし。まあ、実際に行くしかないんだが。
屋上に向かう途中、おれは隣を歩く哲に話しかけてみた。オレンジ色の頭をしてるし、いわゆる不良なのかと警戒したが、それはほんとに第一印象でしかなかったようだ。
「あの金髪の子の話、どこまでほんとなんだ? 理事長とかって」
「ほんとに理事長だよ。学校のサイトにも書いてあるし、先生とかも頭上がんないし」
「ウソだろ・・・・・・。それ、全然教育的じゃないな。この学園の関係者なの?」
「そう、六義園財閥のひとり娘。口説き落とせたら超逆玉」
「それにしても高校生で理事長はないだろ。親はなに考えてんだよ。そもそも六義園財閥なんてこの学校に来て初めて聞いたし」
おれがそう言うと、哲はいきなり声を張り上げた。
「はあ? おまえ知らないの? 世界の富の五パーセントを占めるという六義園財閥を!」
五パーセントって、三兆ドルくらいか? 個人がそんな資産を持っててたまるか。それにおまえまでセリフくさいしゃべり方をするな。
「いまや六義園がなければ世界経済は成り立たないんだぞ!」
ああ、おれを担いでるんだな。ちょっと話しただけでも軽薄そうなやつだとわかったし。あるいはそういうデマとか都市伝説を本気にしてるだけなのかもしれない。しかし転校初日からつまらないやつと思われるのもなんだし、適当に話を合わせておこう。
「あの六義園か。そういや政経の授業で習った気がする」
「だろ? これから世話になるんだから、忘れんなよ」
あれ、冗談のつもりだったのに乗ってこない。少なくとも哲は本気で五パーセントの話を信じているようだ。それともこの学校ではほんとに授業で取り上げるのだろうか。
階段を上りきり、マロが防火扉を開けた。そこが屋上だった。むき出しのコンクリートが広がっているというおれの予想は覆された。全面に芝生が敷き詰められ、花壇もあればベンチもある。
屋上は略称で、屋上庭園が正式名称であるらしかった。どうでもいいところにまで金がかかっている。五パーセント云々はともかく、金が余ってるのは間違いない。
メシを食うには絶好の場所だったが、おれたちのほかに人の姿はなかった。天気もいいのに。
長方形のテーブルに、ベンチが向い合せに設置されている。そこにおれたちは腰を下ろした。片方に琥珀、マロ、真珠。反対側におれと哲──とくに席を決めずに座ったが、なんでマロだけ女子に挟まれてるんだ。おれと哲の間にでも座るところだろう。
「矢島を誘ったのは、よければこのグループに参加してもらえないかと思ったからなんだ」
と、当然のように女子の間に挟まったマロが言った。
「グループって、部活とか委員会じゃないのか?」
「うーん、そういうのとはちょっとちがうんだけど・・・・・・。じゃ、メシの前にまずこのグループについて話そうか。委員長?」
マロが真珠に話を向けた。真珠は咳払いして、
「わかりましたわ。あたくしたちは『旧校舎の歴史的価値および発展的利用に関する調査委員会』という会に所属しています。発起人はあたくし。委員長ももちろんあたくし」
また怪しげなことを言い始めた。とりあえずの疑問を口にする。
「旧校舎?」
「ええ、あれですわ」
真珠の指が、学園の広大な敷地のすみっこを指している。造成林に埋もれるように建っているのは、古びた二階建ての木造の建築物だった。正門とは反対側なので、入ってきたときには気づかなかった。
旧校舎と言うからには以前は学校として使われていたのだろうが、木造校舎なんて初めて見た。築百年くらいたっていそうだ。人の姿はないし、ちょっと大きな地震があれば倒壊しそうなほど老朽化しているのが、遠目にもわかる。
「あんな古そうなの、なんでいつまでもとってあるんだ?」
「そこですわっ!」
旧校舎に向けていた指をおれの目の前に持ってくる。眉間を刺されそうな勢いだった。
「跡地の利用計画もすでにできていますし、何度も取り壊そうとしています。ですが、そのたびに失敗しているのですわ」
「なんで?」
「それを調べるのが我が委員会の目的なのです!」
急に大きな声を出されても、わけがわからん。工事業者に任せることじゃないのか。
「その失敗する理由がいつも違うらしくて、原因が何なのか見当もつかないんだ。で、まあ、真珠は・・・・・・心霊的なものじゃないかって疑ってるんだ」
マロが言った。真珠も呼び捨てか。どういう仲なんだろう。それはともかく、いっそう怪しい話になった。マロの口ぶりだと、彼自身はそう信じているわけでもなさそうだが。
「で、実際に何を調べてるんだ?」
「それはいろいろだ。ま、委員会に入ってみればわかるよ」
それだけの説明で入れと言われても。
「なんでおれを誘ったんだ?」
「我が委員会は慢性的な人手不足なのですわ。かたっぱしから声を掛けまくっておりますの」
誰でもよかったってことか。どうでもいいけど、それは敬語でも何でもないぞ。
「こんな怪しげな団体に好んで入るやつなんてそういるかよ! だいたい部活でもサークルでもないし、真珠が理事長権限で勝手に作っただけだし」
真珠がぎろりと哲をにらむ。
「で、でもまあ琥珀ちゃんもいるし、あともうひとりの子もすっげえかわいいんだ。それだけで入る価値あるって!」
前に座る琥珀に目を向ける。彼女は小首をかしげて微笑んだ。並の人間がやれば逆にこちらの表情が固まるようなしぐさだが、あいにく彼女は並ではなかった。
「よくわかんないけど、まあ、他にやりたいこともないしせっかく誘ってくれたんだし・・・・・・」
女目当てじゃないぞ、という最低限の主張をしつつうなずくと、歓声が上がった。
怪しげな団体だが、そんなに喜んでくれるならいいか。取り壊しが失敗する原因なんて高校生に調べられるとは思えない。もっともらしい看板をつけただけのお遊びサークルなんじゃないか。同じ一年しかいないなら途中で辞めるのも簡単だし、友達を見つけるきっかけくらいにはなるだろう。断ったら弁当ももらえなさそうだし。
おれがこの委員会に入ったのは、たったそれだけの些細な理由だった。
話が落ち着いたところで、各自が昼食を広げ始めた。マロと琥珀が弁当、哲はパンか。真珠はと見ると、彼女はおれに向かって例の重箱を指さした。
おれが準備するらしい。まあそれくらいやるけど、せめてお願いの一言くらい言ってくれ。
「みなさんもよろしければどうぞ」
「って、ほんとはマロのために作ってきたんだろ」
哲が茶化す。ほんとかそりゃ。
「ち、ちがいますわ! 作りすぎただけと言ったでしょう!」
「そうだよ、真珠がおれのために作ったりするわけないだろ」
マロが言うと、真珠が彼を睨んだ。
・・・・・・なんだこのやりとりは。真珠はマロにわかりやすく好意を向けているようだが、マロの返事は自然だったから彼がそれに気づかないふりをしているわけでもなさそうだ。その割には下の名前で呼んでるし、二人の関係はよくわからない。
重箱は安っぽいプラスチックではなかった。輪島だか会津だか越前だか知らんが、とにかく漆器のようだった。こういうのって何十万円もするんじゃなかったっけ。
テーブルの上に広げた弁当は、とにかく量だけはいっぱいだった。和風にはちがいないのだが、家庭料理をはじめ懐石とかおせちとかが一緒くたに詰め込まれている印象である。
「ま、くれるっていうならもらうわ。いっただっきまーす」
と、哲が卵焼きらしきものを手に取り、口に運んだ。
次の瞬間に起こったことは、おれの想像を絶していた。
卵焼きを口に入れた哲が両手で口元を抑えたかと思うと、ベンチから滑り落ちて芝生の上に倒れこんだのだ。
おいおい、冗談にしてはおおげさすぎるし、いくらなんでも真珠に失礼だろ、と思ったが、そうではなかった。
倒れこんだ哲の顔は真っ青だった。人間の顔って、こんなに急に青くなるものなのか?
オレンジの頭と青い顔は葉っぱの付いたニンジンを思わせた。配色が逆だが──いや、くだらない連想をしている場合ではなかった。手足の痙攣が始まったし、口からぶくぶくと白い物があふれだしている。
何だ? 何が起こってるんだ? やっぱりあの卵焼きが原因か?
だとすれば青酸カリやトリカブトなんて目じゃない。こんなに急激に症状が出るなんて、化学兵器級の毒物か? 警察、いや中央特殊武器防護隊に連絡した方がいいのか。
「哲はおおげさだなあ」
「ほんとうに。真珠さんに失礼ですよ」
「いや、そんなこと言ってる場合じゃないって・・・・・・!」
のんびりとしたマロと琥珀の言葉に、おれはぞっとした。まさかこれは真珠が故意にやったことで、二人も共犯なのか。
やれやれとマロ、くすくす笑う琥珀、憮然とする真珠。誰も哲を助けようともしない。なんだかわからないが、おれが行動するしかなかった。自衛隊はともかく、まずは・・・・・・
「おれ、保健の先生呼んでくる」
「大丈夫だって、すぐよくなるよ」
「なるわけないだろ、泡吹いてんだぞ!」
おれは駆け出した。防火扉を開け、階段を下り──いや、おれはアホか。保健室の場所なんて知らないじゃないか。保健室の場所はどこの学校も似たようなもので、たいていは一階の昇降口近くにあるはずだ。だがこの学校は規模が大きすぎる。探し回っている余裕はない。誰かひとり付き合ってもらった方が早い。
そう思い、来た道を引き返すと──哲がベンチに座っていた。
「おい・・・・・・」
おれは幽霊を見る目で哲を見ていたと思う。
「ああ、保健室行かなかったのか? 大丈夫だって、あのくらい」
哲の顔色は完全に元に戻っている。ウソだろ。また担がれたのか。いや、さっきのが演技なんてありえるのか?
「しっかしひでえ味だったな・・・・・・」
「そんなはずはありませんわ。ほら、こんなにおいしいじゃありませんの。あなたの味覚がおかしいだけですわ」
渦巻き金髪を揺らしながら、いくつかの料理を口にする真珠。
「いやおかしいのはおまえの味覚だって!」
「あなたです!」
テーブルをはさんで哲と真珠がにらみ合う。どう考えても味覚の問題じゃねえだろ・・・・・・
「ほら、皆さんも召し上がって、正しいのはあたくしだと証明してください!」
「いや、おれは自前の弁当で腹いっぱいだし・・・・・・」
「わたしもです。また今度いただきますね」
マロは恐れおののき、琥珀はやんわりと拒否し、真珠の目がおれに向いた。
「おれも腹いっぱいで」
「嘘おっしゃい」
ついノリで言ってしまったが、冷静になれ。おれは担がれただけだ。調理の過程で人間が痙攣を起こすほどの毒物が混入するわけがない。故意に入れたなら別だが、どこの世界にクラスメイトを弁当で毒殺しようとする高校生がいるんだ。それに真珠自身が食べているじゃないか。
それでもおそるおそる昆布巻きらしきものを取り(先に真珠が食べていたのは確認済みだ)、口に入れた。
「まず・・・・・・くはないな」
真珠以外の三人が意外そうな顔をする。確かにおいしくはない。何の味付けもないのでおいしいはずがない。ただ、素材の味が生きてるといえなくもない。まして痙攣など起きない。
「ほらごらんなさい。矢島さん、あなたとはいいお友達になれそうですわね」
真珠がおれの顔を覗き込む。髪型は奇抜すぎるが、よく見ればかわいい顔をしている。小さな顔にふさわしい小ぶりで整った鼻と口、反比例するように大きな目。この目の大きさはちょっと整形っぽいかな──て、琥珀を見たときと同じ感想だ。髪の毛の印象が違いすぎて気づかなかったが、二人は似ているような。それだけじゃない、なんだこの違和感は。真珠の顔は妙に色素が薄い。髪の色が薄いだけじゃなくて──瞳が緑色をしている。
カラーコンタクトか? さっきは琥珀の瞳が青かったように見えたし。髪を染めてるのといい、この学校で流行っているのか。
なにかおかしい。初めての転校だし、いろいろ勝手が違うことや戸惑うこともあるだろうと覚悟はしていたが、そんな次元の話じゃなかった。まあ転校生を歓迎するサプライズと思えば説明は・・・・・・うーん・・・・・・。
おれのこの学園における生活はこうして始まった。初日からいろいろあったが、一応の事情を知った後から思い出せばこんなものは牧歌的とすら言える出来事でしかなかった。
後になってこうも思った。おれがこのとき委員会に入るのを断っていたら、その後の事件になにか影響があったのだろうかと。いや、たぶん何も変わらなかっただろう。おれだけじゃなく、哲もお呼びじゃない。この委員会にはマロだけがいればよかったのだ。「彼女たち」以外には。
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