諏訪慎太郎、大学二年生
厳密に言うと、諏訪はオリンピック後の交通事故をきっかけに引退したわけではない。そのことを知る人はほとんどいないので、情報課の面々は交通事故をきっかけに引退したのだと思っている。だが事実は違う。
諏訪が全日本選手権を優勝し、オリンピックの代表選手となったのは大学二年生の時だった。あの時、諏訪は確かに日本で一番速い選手だった。一般人には名前など知られていなくとも、スキー界の星であることは確かだった。
緊張など知らない諏訪は、ただいつも通り練習し、海外に遠征し、忙しいが充実した日々を送っていた。
オリンピックの熱風を諏訪は忘れることができなかった。一年で一番寒い時期に外国で開かれる極寒の地には確かに熱い風が吹いていた。
一方で、コースの下見の時点から、荒れる試合になるだろうと予想はついていた。高難易度のコースがセットされたうえ、下見の途中から天候が崩れてきたからである。
「慎太郎、一本目、五位だって」
一本目の滑走を終えた後、諏訪はコーチにそう言われた。世界の頂点を争う大会で、こんな成績が出たのは生まれて初めてのことである。
「五位?」
二十位を切れば万々歳だと思っていた。今までに諏訪が出た世界大会で、最も成績が良かった試合で十八位だ。それが五位とは。
「結構な数の選手が転んでるんだ」
「大丈夫なコースだって言ってたじゃないすか……」
諏訪が滑る直前、コーチは確かにそう言った。見た目より優しいコースのようだ、と。だがそれは方便だったらしい。緊張知らずの諏訪も、もしかしたらオリンピックの魔物に呑まれるかもしれないと思ったのだろう。
次は二本目だ。この競技は、二本滑った合計タイムで競われる。つまり、諏訪は五位時点から更に上を目指すことになる。
更に上。それは未知の感覚である。想像もしていなかった順位から更に上を目指すという感覚が諏訪にはつかめない。
「……こういうところが俺の変なところなんだよなぁ」
他の選手なら、喜んだり緊張したりするのだろう。だが自分は違う。
自分は果たして勝ちたいのだろうか?
そういう気持ちがふつふつと湧いてきた。自分が緊張しない理由がわかったような気がした。
速くなりたい。それは確かだ。そのためには人と比べるしかない。そういうスポーツだ。だからずっと人と比べて自分の速さを確認してきた。だが今は一本目にして自分の速さが自分の予想を大きく超えてしまっている。夢にしか見たことのない順位に、今自分は立っている。
満を持して迎えた二本目、余裕はなかった。細かいミスが出た。さすがにヤバいかと思ったが、ゴールした瞬間に会場が湧いた。滑っている最中の感触とは異なり、自分の滑りは良かったらしい。諏訪の後に一人がミスをし、順位はさらに二つ上がった。表彰台である。立てるとは思わなかった場所に、今諏訪は立っている。
嬉しかった。数々の有名選手を蹴落とし、トップ選手の中に無名の自分がいる、何度願った夢だろうか。まさか叶うとは思わなかった。自分の中にすっぽりと納まるメダルはとても重かった。
二日ほどして、自分の手にした栄冠にようやく実感が湧いた頃だった。
乗っていたバスが事故を起こした。このあたりは自分でも記憶があいまいだが、あれよあれよという間に日本に帰ってきて手術を受けて、気が付けばリハビリだった。家族に心配されるのがつらかった。それだけの怪我だと自覚させられるからである。
いつの間にか自分は悲劇の主人公になっているらしいことも知った。放っておいてほしかった。いや、見てほしいのはそこではないのに悲劇の方にだけ目を向けられるのが嫌だった。
自分のどこが悲劇の主人公なんだろう。自分にはもったいない栄冠を得たのに。誰もそちらは見てくれない。
悶々とした日々を過ごすうちに大学三年の夏になった。交通事故でシーズン半分を失った諏訪は焦っていた。他の選手では怪我でシーズン丸ごと失ったケースを見たことはあるものの、健康体の諏訪はシーズン半分が消えるなど経験したことがない。それだけ滑れなければ、自分の感覚がきっと狂ってしまう。諏訪はそれが怖かった。
しばらく考えた結果、夏休みを利用して南半球に滑りに行った。
高速種目の練習中に、諏訪は転んだ。安定した滑りが持ち味である彼が転ぶというのは一大事だ。それでも今までは特に怪我らしい怪我をすることなく過ごしてきた。しかし今回は違った。
左足の靭帯が断裂していた。競技人生の致命傷ともいえる怪我である。
珍しく焦ったせいだろうか。こんな大怪我をするとは。
治療に半年以上かかるのは知っていたが、頼みに頼み込んでシーズンインと同時に練習を始めた。違和感にはすぐに気が付いた。それは怪我をした膝に対してではなく、自分自身に対してだった。
恐怖心が湧いている。今まで、スピードに恐怖したことなどなかった。どう対処すればいいのかわからない。今まで経験してきたスランプとはわけが違う。
いや、自分が怖いのはスピードではない。怪我をすること、そしてスキーそのものだ。スキーが怖い? この自分が?
そんなわけはない。自分が得意なのは技術系の種目なのだからスピードの問題ではないはずだ。それに、怪我の多い競技だということは分かっていたつもりでもある。だが自分への暗示は全く効かない。
自分で自分に衝撃だった。自分に芽生えた不信感は全くぬぐえなかった。落ちたタイムを見たくなくて大会へのエントリーも減った。
その恐怖心は、交通事故と膝の怪我の両方によるものだ。自分が悲劇の男だと呼ばれたのは実は正しかったのではないかとちらりと思ったところで、自分が嫌いになった。
諏訪が競技を辞めると言い出したのはシーズンも半ばに入ったころだった。オリンピックから一年、諏訪の心は荒みきっていた。
コーチも、スポンサーも、家族も、文明も、皆が諏訪を止めた。だが諏訪の意志は固かった。いや、頑なという方が正しい。いつか後悔することになるだろうと分かっていても、直視することがどうしてもできない。今まで現実を受け入れるのは得意だったのに、これだけはどうしても耐えられなかった。
大学三年生、二十二歳のシーズン終わりとともに、諏訪はスキーを辞めた。
奇しくも、それは文明が大学卒業とともにスキーを引退したのと同時だった。
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