第138話:計略 ~山にWi-Fiなんてない~

「はじめまして。伊沢文明です」

 南雲にすっと右手が差し出される。

「南雲駿介です。今日から一週間、宜しくお願いします」

 南雲は文明の右手を取り、しっかりと握手する。


 諏訪が用意した罠は文明だった。文明と諏訪の仲も、南雲が調べればどのみちわかる。いや、捜査のためにどんな人間を用意しようが、南雲はその関係を看破してくるだろう。逆に言えば、文明は諏訪が警察に就職してからというもの、諏訪と一度も連絡を取ったことがない(ことになっている)以上、信頼できる相手でこの話を受けてくれる人間としては、むしろふさわしい方だ。


 一つ心配があるとすれば、飯田と文明の関係を見破られないかというところだが、そもそもスキー界は狭い世界だ。誰も彼もが知り合いでもおかしくないし、諏訪と飯田が直接知り合いでも不自然ではない。文明と諏訪と飯田の関係は悟られてはいないはずだと諏訪自身は思っている。そしてそれは事実だった。


「いや、ほんと助かります。英語と中国語が同時にできる人って少なくて」

 文明のその言葉は本心だった。文明がコーチするチームには、数多くの有力なジュニア選手が在籍している。そしてその選手たちは、海外の大会に参加することも多く、中には中国で開催される大会もある。英語圏ならともかく、中国の遠征と大会に通訳なしに参加するというのはなかなか難しい。

 文明のチームは通訳を欲していた。諏訪は文明の求める人材を紹介しただけだ。


「スポーツ関係での仕事は初めてなのですが、お力になれますように頑張ります」

 南雲は丁寧に頭を下げる。元から慇懃な男だが、今回は南雲にとっても重要な仕事だ。


 文明には、あらかじめ幾らかの金を渡してある。そして、察しのいい文明はそれを黙って受け取り、「インターネットで偶然見つけた通訳」としてオファーした。チームが用意した金と、諏訪が用意した金、合わせればそれなりの額になる。いくら諏訪と関わりある人間からのオファーといっても、賢い南雲がこのおいしい仕事を逃すわけはない。諏訪による捜査を警戒している以上、南雲は短期間で割の良い通訳の仕事をこなしてカジノの方に時間を割きたいはずだ。


 いや、そもそも南雲に断るすべはない。諏訪たちは、玉村えなをはじめ、スタッフたちの本名を押さえている。もしこの話を断ったら、すぐに捜査に入ってやればいい。という話を諏訪は二課の人間にして、わざとその情報を南雲に掴ませている。間接的な脅迫だ。


 南雲の取るであろう最良の手段は、「文明と諏訪の仲は多少気になるが、大学卒業後は全く連絡を取っていないはずだし、オファーを受けるだけ受けて諏訪にしっかり気を配る」これだ。

 そしてその目論見は当たった。南雲は文明の手を取った。


 諏訪たち警察にとって都合のいいことに、中国国内はネット環境があまり良くない。おまけに、スキーの大会となると会場もホテルもど田舎もど田舎、山奥だ。このご時世にインターネットがろくに使えなければ、南雲ご自慢の情報網もさすがに機能が落ちるはず。不知火貴金属商会に捜査が入るという日本からの情報は南雲に伝わるまい。


 世界各地のスキー場をめぐり、大会に明け暮れていた諏訪は、スキー場の辺鄙さを知っている。その恐ろしさは、実際に行ったものでないとわからない。

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