第92話:久方 ~怖い金など使えない~
数日後、三嶋は久しぶりに情報課に顔を見せた。上から苦労をねぎらわれて与えられた休暇だったが、ほとんどを三嶋は睡眠に費やした。あるいは現世に戻ってきた雑務に追われていた。
だが、最後の一日だけ、出産のために実家に戻っていた妻に会ってきた。生まれたばかりの息子の顔と優しい妻の顔に思わず涙がこぼれ、家をずっと空けたことにカンカンの妻に色々暴言を吐かれ、別の意味で涙がこぼれたというのは、情報課の面々には秘密である。
はじめは潜入で家を十ヶ月空けると言って出てきたのに、半年弱で帰ってきたら怒るとはなんとも理不尽だが、愛されている証として耐える。大変な時期を一人で耐え、非常に忙しい時期に夫が帰ってきたとなると怒る気持ちもちょっとわかる。だがその話をすると、伊勢兄弟に嫉妬されるので内緒だ。
「生きていたか」
「お疲れさま」
普段、憎まれ口の絶えない伊勢兄弟ですら、その言葉は暖かい。
「もっと休まなくていいんすか」
休むどころか、帰って来た翌日からでも出勤できそうな諏訪に心配されて三嶋は思わず吹き出しかけたが、とりあえず三嶋は彼の気持ちをありがたく受け取っておく。
「それより、事件はどうなりました?」
「それなら、多賀が一番詳しいっすよ」
諏訪が多賀を指差す。多賀が察しよく資料の山をかき分け、てくてくとやってきた。
「私の情報は使われたんですね」
「もちろんです。今日逮捕状が執行されます。強制捜査の令状も同様です」
「罪状はどうなっていますか」
訊かれて、多賀はぱらぱらと資料をめくる。その資料の厚さは、三嶋の働きの証である。三嶋はホッとした。
「とりあえず、幹部は過労死信者の業務上過失致死、薬理部は麻薬及び向精神薬取締法違反ですね。あとの出家信者は、詐欺を始め、いろいろ理由をつけて逮捕状をもぎ取りました。住吉志穂さんの遺体が発見され次第、死体遺棄と殺人に切り替えます」
多賀の報告は完璧だった。三嶋の情報は最大限に生かされていた。
「ありがとうございます。私はそれさえ聞ければいい」
三嶋は椅子に座って大きく伸びをした。途中、全てを失うかと思った。彼を救ったのは彼自身の努力ではない。妻子への愛でもない。生きて帰ってこられたのは偶然だ。
運が良かったな、と三嶋は思う。志穂が関わった案件に飛び込めたのは完全に運だ。彼女がいなければ、三嶋は今この世にいない。
まあ、今まで苦労してきたし、これくらいの幸運があってもいいのかもしれない。
三嶋は会議室の奥にあるポットの元へ向かう。普段はインスタントコーヒーばかり飲んでいるが、おや、誰かがココアを持ち込んでいるらしい。三嶋はココアの粉をマグカップにあけ、お湯を注いでその暖かさに大きく息をつく。
「あのう、三嶋さん。もしかして潜入捜査中に僕に百万円入金しました……?」
多賀がこっそり後ろからついてきていた。三嶋はココアを一口飲んで振り返る。
「……そういえばそんなこともありましたね」
かなり前のことなので、多賀に言われるまで三嶋はすっかり忘れていた。金の隠し場所に困り、とりあえず多賀の口座に隠したのだったっけ。
「それが何か?」
「いえ、あんな怪しいお金、怖いじゃないですか」
「あれ、私のお金じゃなくて教団のなので、多賀くんが自由に使っていいですよ」
「使えませんよ!」
多賀が情報課の会議室で吠える。実際使ってはならないし、ど直球の横領だが、今更どうすることもできぬ金である。
「どうせ、所有権は微妙とはいえ私にありますし、浮ついたお金なんですよ。いいじゃないですか。君にあげます」
「犯罪ですよ」
「君はスリなんだから元から犯罪者でしょ」
ここで、自分の技術を犯罪に利用したことはありません、と噛みつけばいいのに、それができずに黙り込む多賀はまだ若い。
「じゃあ私に下さい。私が適当に使いますから」
「……僕が自分で使いますッ」
使ってみたい気持ちは少なからずあったらしい。三嶋は笑った。心の底から安心して笑える場所に、ようやく戻ってきた。
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