農協おくりびと (30)新生活と言う、不思議な習慣
開式まであと10分。会葬者の大半が席に着く。
200人収容の会場に、急きょ、300人分の椅子が並べられた。
だが入りきれずにはみ出た会葬者が通路に添って、長い列をロビーまで作る。
最後尾は受付の前まで達している。
これだけの数に膨れ上がったのには、理由がある。
群馬県や関東北部の一部地域にいまも残っている「新生活」運動の影響が、
濃密にかかわっているからだ。
参列者の多い葬式の場合、「会社関係」「親戚」「一般」の札が掲げられる。
だがこのあたりではそれとは別にもうひとつ、「新生活」の札が立つ。
「新生活」は、香典の金額を少なくして(おおむね1,000~2,000円)
香典返しを辞退するという、参列の方法だ。
今年から一人暮らしを始めた大学生や、新社会人になったばかりの人は
こちらで香典を!、という意味ではないので、間違えないように。
起源は、第二次世界大戦が終った直後。
昭和20年代から30年代にかけて、「新生活運動」という自発的な運動が、
日本の各地域で広まっていった。
社会全体がいちじるしく疲弊していたことに、発生の原因が有る。
葬儀の際の香典や、香典返しは負担が大きい。
負担を軽減させようとして始まったのが、戦後にうまれた「新生活運動」だ。
時代が変り、経済が成長するとともに新生活運動は下火になった。
昔の面影を残すのは、いまや、群馬県と北関東の限られた一部のみになってしまった。
新生活ならではの、ルールが有る。
一般の香典袋に1000円~2000円を包み、表書き(御霊前)の脇に 「新生活」と記入する。
香典返しを辞退する場合は、「お返しはご辞退申し上げます」と きちんと書く。
香典袋に記入が無い場合、少額の品物を返すのが「新生活」のしきたりだ。
相場は500円程度で、ハンカチや靴下、タオル、洗剤などが返礼の品として用意される。
今日の葬儀に会葬者が詰めかけた原因は、もうひとつある。
通夜を廃止したことが、本葬に大人数を集める原因を生んだ。
喪主役の奥さんが、近親者のみで通夜をおこなったからだ。
大半の会葬者が夕刻からおこなわれる通夜か、翌日におこなわれる本葬にわかれて参加する。
勤め人の場合。休まなくても済む、通夜に顔を出すほうが楽になる。
しかし今回に限り、通夜は、近親者のみで執り行われた。
通夜の場を閉鎖してしまったことが、必然的に、本葬に大人数を集める要因になった。
定刻5分前。遺族、親族が参列者の前に顔をそろえる。
丁寧に頭を下げた後、それぞれが指定された親族の席に腰を下ろす。
いよいよ、ちひろの出番がやってくる。
定刻3分前。参列者の視線が、一斉に司会者の席に立つ、ちひろのもとへ集まって来る。
マイクの前に立ったちひろが、ごくりと生唾を飲み下す。
「会葬の皆様に、お願いを申し上げます。まもなく会式の時刻となります。
携帯電話をお持ちの方は、葬儀進行中は音が鳴りませんよう、
ご配慮をお願いいたします」
ちひろの最初の発声だ。手元に置いたメモが小刻みに揺れている。
(大丈夫、大丈夫。これなら、なんとか今日の初仕事を、乗り切れそうです・・・)
ほっとひと安心したのもつかの間。ちひろの手元に、次から次へメモが届く。
不具合な位置におかれた車の移動。指名焼香の順番の変更。
あらたに届いた弔電の束。受付を通過した本日の会葬者の数、現在、531名。
雑多な情報がいちどきに、進行役のちひろのもとへ届く。
「必要なものだけをいま読み上げる。あとは、臨機応変に式の途中で紹介して」
と書かれたメモが、一番上に乗せられる。
顔をあげるとマネージャ格の先輩が、ゆっくりちひろから離れていくのが見える。
振り返った口元が「が・ん・ば・っ・て」と小さく動く。
泣いても笑っても予定されている葬儀の時間は、ちひろの覚悟を待ってくれない。
531人を前に、いよいよちひろの最初の仕事がはじまる・・・
(31)へつづく
農協おくりびと 26話から30話 落合順平 @vkd58788
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