第33話 DAY.59 常闇の彷徨の果て

 気が付くと、燃え盛りながら同時に急速に凍りついていく体で、森の中のどこかと思しき場所を歩いていた。

 森の中かどうかの判断もつかないのは、見るものの大半が形を失っているためだ。色彩も感覚も一定せず、俺の体を焼く炎だけでも黄緑色になったり、茶色になったりと、随分とにぎやかに変わっている。

 その炎やそれと一緒に体を苛んでいる氷も、そもそも幻覚なのか、魔術の残滓なのか、サラマンダーの炎なのかもよくわからない。

 しばらく前にも意識があったような気もするし、絶対にそんなことはないという確信もある。いや、そもそも今意識があるかどうかも結局はよくわからない。

 まあ、それを言い出すと本当に歩いているのか、とか、そもそも生きているのか、という疑念まで湧いてくるから基本的に全部考えるだけ無駄だ。

 とりあえず、何かやらなくちゃいけないことがあった気がする。

 ……ああ、そうそう。敵を倒すんだ。それで、それで……どうするんだっけな。あれ、そもそもそれって本当の目的か? いや、そうだよ。そうに決まってる。馬鹿なこと言ってるとくびり殺すぞ。

 まあいいや。敵がなんだかもよく覚えてないけど、それっぽいやつはなんとなくわかるし。さっきからそいつらだけずっと黒いままだし形も変わらない。

 唯一確かなことが敵を殺すことで、視界の中で確かなのはそいつらだけ。それならそいつらを殺せばいいに決まってる。決まってなくてもそうする。それ以外のことはできないししたくない。

 ほら早速おでまし。すばやく跳んできたかと思えば左腕に噛み付いてきた。

 ――邪魔くさい。吹き飛べ。

 そう念じると左腕にとりついた黒い塊は爆ぜて散り散りになった。その光景……光景というよりイメージだけど、それを見るとほんの少し心が安らぐ。

 遠くに同じような黒い影を見つけた。腕を一振り。歪んだ景色が一層歪んだあと、影は真っ二つに割れてから消えた。また一抹の心地よさ。

 足が勝手に走り出す。いや、実際は自分の意志で動かしているのかもしれない。どちらも同じようなものだし、そもそも今は意識も無意識もあってないようなものだ。

 黒塊が視界に入る度に斬り殺し、刺し殺し、殴り殺していく。

 黒塊が視界に入らなくても斬り、刺し、殴る。

 そう。そうだ。これでいい。これがいい。

 さあ来い。もっと来い。

 永遠に、無限に、いつまでもどこまでも殺し続けてやる。

 こいつらの死体の山の頂に立てば、きっと何かが見えるのだから。


 

 ……俺はどれくらいこうしているのだろうか。

 たった今、初めてこの場に俺という存在が生み落とされたような気もするし、もう百年くらいここで黒い塊を屠り続けているような気もする。

 心を支配しているのは、まだ一体だって敵を殺していないかのような渇望感。

 体を支配しているのは、もうこれ以上敵を殺す力など残っていないかのような倦怠感。

 その不一致に全身をバラバラに裂かれている気がする。左足を動かしたつもりが右手を伸ばし、右手で敵を刺し殺そうとすれば体が地に倒れ伏す。

 すばやく腕を振り上げることもできなくなった。だから遠くの敵を殺せない。今できるのは体をむしばむ氷のうち、鋭利に尖った部分を振るって泥臭く刺殺することだけ。だというのに、それすらもままならない。

 引きずって歩く足が、やけに重く感じた。下を見てみれば、黒い塊が左のふくらはぎに食らいついているようだった。

 雄叫びを上げながら、いや、上げているつもりで足元の塊に氷を突き刺す。何度も、何度も何度も。いつの間にか黒い塊は足から離れ、地面の上で動かなくなっていた。いつからそうなっていたのかは、やはりわからない。

 さらに重くなった左足を引きずりつつ、ただ前に進む。前とはどちらのことか。そもそも前とはなんなのか。何もわからないまま、ただ前に進まなくてはいけないという焦燥感に駆られて足を動かし続ける。

 もっと、もっと殺さなくちゃいけないんだ。だから来い。かかってこいよ。いくらでも襲いかかってこい。

 ふと、視界に何かが映った。いや、常に何かしらが写ってはいるわけだがだいたいのものは存在があやふやで、はっきり見えているのは黒い塊だけだ。その視界の中、別の何かが見えたのだ。

 ――白い。

 白いやつを見るのは初めてだ。なんで色が違うのかはわからないが、同じように一定の色を持っている以上はあれも殺すべき敵。俺の中にあるのは敵を滅さんとする意志だけなのだから、それ以外のものを確かなものとして映せるはずもない。

 白い塊は、縦に長いが俺よりは小さい気がする。ゆっくりと、一定の速度でこちらに近づいてくるように見える。距離はおそらく……いや、よくわからない。でもそんなことは関係ない。

 なんでもいいからそのまま、そのまま襲ってこい。あまりちょこまかと動くんじゃないぞ。こっちはもう体がめちゃくちゃなんだ。おとなしく殺されろ。

 肩が何かにぶつかった感触で、白い塊が目前にあることを知る。微かに残された力を振り絞り、右手でそれを刺し貫く。

 足がもつれ、そのまま前につんのめる。白い塊は倒れなかった。俺はそれにもたれかかるような状態になっているらしい。

 くそ、なめやがって。攻撃してこない気か? いや、されてるのに俺が気づいてないだけか? どっちでもいい。まだ死んでないならそれでいい。まだ死んでないなら殺しきるだけだ。

 上体を起こし、塊の中に食い込んだ氷を抜こうと腕を引く。しかしその腕が動かない。

 くそ、とうとう右腕にまでガタがきたか。なんだ? どうすれば殺せる。俺のどこに敵を殺すための力が残っている? 他に、俺に何がある?

「――ねえ、ユウト」

「……は?」

 何かが鮮明に聞こえて、体が凍りつく。わけがわからないのに、ずっと体を覆っていた氷よりもずっと、ずっとずっと冷たく凍てつく。何かとんでもないことを忘れている気がする。何かとんでもない過ちを犯している気がする。

 なんだ? なんなんだ、これ。

「聞こえる? わかる? 私――ナズナだよ」

 その響きが鼓膜を震わせると同時、右腕に何か温かいものを感じた。それは腕を通じて俺の体に至り、少しずつ全身へ浸透していった。

 それに伴って、白かったはずの塊が別の色を持っていく。

 暮れ時の陽光を受けて美しくきらめく黄金の輪郭。その内側には、呆れるほど美しく澄んだ青色の湖面が二つ。その少し下には、なぜか気高さを感じさせる半月状に湾曲した紅。

 それは、あの日俺が目を覚まして最初に見た美しい少女そのものだった。

 唯一違うのはその胸に鮮血の大輪が咲いていること。俺の腕がら伸びる氷槍に、体を貫かれていること。

「あ……え、あ?」

「どう? 少しは落ち着いたかな?」

 胸の傷は幻だとでも言うかのように、ナズナが慈愛に満ちた微笑みを向けてくる。

「なんで……」

「ロマルさんにね、ユウトに刻んだ魔術陣を私にも刻んでもらったの。あとは結界の魔術陣と同じ要領。私の魔術陣を通してユウトの体で発動している魔術陣に魔力を供給する。魔術陣がいくつもあったから複雑でね、遠くからじゃうまくいかなかったんだ。でも今はつながってるんじゃないかな。幻覚、緩和されてるよね?」

「そうじゃ、なくて」

 不思議そうに首を傾けるナズナ。

「ああ、この怪我で私が無事なのがおかしいってこと? ふふん、そりゃ並の人間なら即死モノかもしれないけどね。天才メディケスタの私にかかればこの通り。自分の体の傷なんて好きなようにコントロールできちゃうんだから」

 そう言って得意気に笑ってから、ナズナは人差し指で頬をかいた。

「でも痛いものは痛いから、とりあえず抜いちゃうね」

 ナズナは俺の右腕に添えていた手で、氷を俺の右腕ごと自分の胸から引き抜いた。それで初めて、さっき俺の右腕が動かなかった理由がナズナの制止によるものだと気づいた。

 そしてようやく視界もある程度正常に戻り、周りの景色が目に写った。やはり今いるのは森の中。すぐ近くにはユリやカズラ、征伐部隊の隊員たち六人がいる。そのうちの一人が俺とナズナを中心に防壁を張ってくれている。

「ごめん、俺、こんな……」

「別にいいよ。これくらいは覚悟して来たから」

 そう。それだ。俺が聞きたいのは、なんでナズナがこんなところにいるのか、なんで俺なんかのために危険を犯してまでこんなことをしているのか、だ。

「どうして」

 ナズナは胸に空いた赤い空洞を手早く治すと、改めて俺に向き直った。

「それはね、私がそうしたかったから」

 それだけ言って、照れたように笑うナズナ。

「最初はね、戦うユウトを応援して傷ついたら治してあげるっていうのが、私のしたいことだった。今まで誰に対してもそうだったけど、その人が求めるものを提供することが、才能を持って生まれた私の義務で、私自身のやりたいことでもあったの」

 それは一緒にいて痛いほどよくわかった。ときどき心配になるくらい、いつも他人のために頑張っていた。

「でも実際に傷つくユウトを見て、段々そう思えなくなってきた。ユウトが傷つくのを見るのがつらかった。たとえそれがユウトの望みの結果なんだとしても、それがすごく嫌だった。ユウトが望んでいても、戦ってほしくないって思った」

 ナズナは優しい。いつも見栄を張っているけど、その実他人の痛みを感化できるほど強くも鈍感でもない。

「それでも、ユウトがそうするって決めたならそれを助けるのが私の役割で、そうすることが何より正しいことだってことはわかってた。だから我慢して、この前ユウトが倒れたときは我慢しきれなくなりそうだったけど、やっぱり飲み込んで」

 わかっていた。俺の振る舞いがナズナを傷つけていることはよくわかっていた。だけど止まることができなかった。そうしたら、本当に何もなくなってしまうから。

「だけどさっき、くたくたになって帰ってきたユリからユウトの状態を聞かされて、もう限界になっちゃった。そのとき、やっと気づいたんだ」

 ナズナはいつも気張って自信を称えていた口元を緩めて続けた。

「私、ユウトのことが好きなんだって」

 優しげな眼差しを俺に注ぎつつ、ナズナはいつもと違う年相応の可憐な少女の微笑みでそう言った。

「え……?」

「そしたらもう吹っ切れちゃった。自分の責務とか義務とか、役割とか使命とか、そういうの全部どうでもいいんじゃないかって思えたの」

 あっけらかんと言って、楽しげに笑うナズナ。

「だって初恋なんだよ? 初恋。女の子にとって初恋より大事なものなんてないと思うんだよね。だからね、言わせて。メディケスタとしてじゃなくて、一人の人間として。単なるナズナ・ラヴィネンとして」

「……ああ」

「私、ユウトが好き。自分のためとか言いながら、他の人をちゃんと助けちゃうユウトが好き。何に対しても真剣で、全力で前に進もうとするユウトが好き。そういう、力があるとかないとか関係ない、ユウトの優しさとかかっこよさが私は大好きなんだよ」

 ナズナは柔和な表情そのままに、瞳に真剣さを宿した。

「だからお願い。もう無茶はしないで。自分のことを大切にして。戦うな、なんて言わないよ。だけどね――」

 そこまで言うと、ナズナはそっと俺の手を取った。

「特別なことができなくても、無力だとしても、ユウトのことが好きな人間が、少なくともここに一人いるってことだけは覚えていてほしいの」

 そう言ったナズナの笑顔は、太陽のように眩しく見えた。

 胸の内を覆っていた分厚い雲がすーっと晴れていくような心地になる。渇いていた心が満たされたような感じがする。

 追い求めていたものを、与えられた気がする。

 ……そうか。そういうことだったのか。俺がほしかったのは、これなんだ。

 俺は人に認められたいと思ってきた。それ自体は間違いではなかった。だけど根本的なところで思い違いをしていた。

 俺は別に、よく知りもしないたくさんの人に認めてほしかったわけじゃないんだ。

 たった一人でもいい。だけど身近な誰かに、かけがえのない何者かとして、その人にとっての英雄として、愛されたかったんだと思う。

 英雄になる、なんて大言壮語とくらべると笑っちゃうくらい小さな願望だ。

 それは多くの人が生まれてすぐに家族から与えられるものなのかもしれない。でもきっとそれは人として生きるために何より大切なもので、俺とってはものすごく得難いものだったんだ。

「ありがとう」

 胸をいっぱいに満たした温かさがこぼれるように、感謝の言葉が口をついて出る。

 それ以外になんて言っていいかわからない。だから、その言葉にすべての思いを込める。

「うん、どういたしまして」

 そう言っていつものように得意気に胸を張るナズナ。だけどそんな彼女が、いつもより頼もしく、そして愛しく思えた。

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