第30話 DAY.57 すれ違う意志

「――はあッ!」

 右腕を一閃。鋭利な風が五メートルほど先の熊種中型へ向け虚空を駆ける。届いた閃風は掻き消えず、熊の胴体を真っ二つに割って抜けていった。

「はあ、はあ……。こんなところか」

 たった今、先日新たに獲得した地区の掃討作戦が完了した。

 要した時間は昨日と今日の二日間。前回で五日ほどかかったので二倍以上のペースで進んだことになる。特に今日は一日ぶっ通してフル回転で討伐していた。

 でもまだ遅い。戦闘の所要時間をもっと短くして一日で終わらせられるようにしたい。

「この前倒したときはあんなに苦戦したのに……」

 後ろからユリの感嘆の声が聞こえる。俺は振り返りつつ肩をすくめた。

「ま、これだけ使い込めば技量も上がるだろうさ」

 実際のところ、経験の問題なのか使う魔力量を無意識に増やした結果なのかはわからない。とにかく俺は、文字通りできる限り敵を倒すだけだ。

「……ユウト?」

 その声で、俺の視線がややユリからずれていたことに気づく。

「すまん、ちょっとボーッとしてた」

 案の定というべきか幻覚は慢性化していた。目の前の景色は絶えず炎熱でゆらぎ、冷気で白くかすんでいる。

 ときには部分的に赤や白で完全に塗りつぶされることもある。今まさにそれが起き、振り向いたところでユリの姿が視界に入っていなかったのだ。

 しかしそんな中でも、敵の姿だけはどす黒い何かとしてはっきり捉えられている。実際に見えているというよりは、それすらも俺を駆りたて、責め立てる幻の一部として組み込まれた結果そうなっているような気がする。

 肌を切る幻影も程度を増していた。時折走る鋭い痛みに耐え切れず声を上げてしまうこともあり、ナズナとユリに余計な心配をかけてしまっている。

「戻ろう」

「うん」

 答えたユリの表情がどうなっているかはわからないが、また心配をかけていることだろう。情けないことこの上ない。

 敵のいなくなった森の中を街へ戻っていく。幻覚さえなければさぞ穏やかな心地の散歩になるだろう。しかし今の俺にとっては山火事と猛吹雪とかまいたちが同時に襲いかかってきているような状況だ。とてもピクニックを楽しめる気分ではない。

 いいかげん疲れが出てきたか、まっすぐ歩いてるかどうかも判然としなくなってきた。ただユリが何も言わないということは、見るからにおかしな動きにはなっていないと見てもいいだろう。

 夢の中にいるときと同様に、幻覚の責め苦を味わっている間も時間感覚が曖昧になる。一瞬だったような気もする一方で何年も歩き続けたような気もするが、とにかく街まで戻ってきた。

 いくら安全を確保したあととはいえ、万が一の狩り残しがいないとも限らない。だから森を出るまでは強化魔術を解かないようにしている。だからいつも、外壁を抜けて街中に入ると一気に緊張感がほぐれる感じがする。

 そしていつものように強化魔術を解いた瞬間に、それはやってきた。

「あ、があっ……ああああああっ!!」

 気づいたときには地面に膝を屈していた。

 ――熱い熱い熱い熱い熱い熱い。

 ――冷たい冷たい冷たい冷たい。

 ――痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

 突如として、夢のそれと同様の苦痛が現実のものとして襲いかかってきた。さすがに今日は無茶がすぎたか。空腹の限界を越えた獣に、節操なく全身を貪られる感覚。

 舌が覚えた土の味で、自分が地面の上をのたうち回っていることを知る。

 しかしその味もすぐに消える。全身が焼けただれ、凍てつき、切り刻まれる。もはや体のどこを探しても感覚などない。あるのは、ただ痛みと苦しみの塊となった己だけ。

「――ユウトっ」

 それでも、その声だけはかすかに聞こえた。

 あるいは、それも幻聴だったのかもしれない。

 この世界では俺が元の世界で十何年間積み上げてきた時間も無に等しい。英雄になるという夢も幻影かもしれない。そして、確かにここにあるはずの体すら幻覚に蝕まれている。

 一体俺に、何が残っている? 俺の中に、「本当」なんてものがあるのか?

 何もかもすべて、幻なんじゃないのか――?



 再び意識を取り戻したとき、もう夜はすっかり更けていた。

相変わらず暑いし寒いし肌はひりつくけど、さっきのような地獄は過ぎ去っていた。

 ゆっくりと体を起こすと、ベッド脇の椅子に腰掛けるナズナと、壁にもたれるユリの姿が見えた。

 目が合うと、ナズナは大きく安堵の息をついた。それでも顔に浮かんだ不安や困惑、緊張の色は薄らがない。充血した目でまっすぐにこちらを見据える。

「……大丈夫?」

「申し訳ない。もう落ち着いた」

「何が、何がどうなってるの? なんであんな……」

 ナズナは半ばパニックになっているような様子で、思い出すだけで気がおかしくなりそうだとでも言うように首を横に振りながら尋ねてきた。

「ちょっと張り切りすぎたみたいだ。次からは気をつける。二度とこんなことはないようにするから」

 ナズナは沈痛な面持ちのまま、答えることもうなずくこともせずうつむいている。少しの間そのままでいたが、やがて顔を上げて口を開いた。

「お願い。お願いだからユウトが今どういう状態なのか教えて。夢を見ているとき、戦ってるとき、日常生活を送ってるとき。どれくらいつらくて、何を我慢してるのか教えてほしい」

 ……あんな醜態を晒したあとでは、話さない方が余計に心配を呼ぶか。

「わかった」

 こうなったらもう納得いくように説明するしかない。中途半端にごまかしても疑念は残るだろうし。

 かといって、いざ言葉で伝えようとするとなかなか難しいものなんだが。

「今日を除けば夢を見てるとき以外は、基本的にたいした問題はないんだ。ただ、その夢の中では火炙りやら氷漬けやらかまいたちやらを延々と味わわされる。前に、夢で十分な魔力が生成できるのは夢の中だと効率がいいからじゃないか、って話になったけど、多分そういうわけじゃなくて普通にそれ相応の苦痛があるからだと思う」

 それを聞いたナズナの顔がひきつった。

「この前ロマルさんに聞いたの。ギリギリS級くらいの適性があったとしても、強化魔術を一分持続させるだけの魔術を得るには、腕を一万回切り落とすくらいの苦痛が必要だって。もし、もし本当にユウトが使ってる膨大な魔力が、現実と同じ効率で生成されてるとしたら……」

「正直なところそれくらいの苦痛ではあるな」

 ナズナは力なく首を振って下を向いた。そんなナズナに代わって、ユリが口を開く。

「今日はどういう状態だったの? 普段とくらべてもずっとひどかったってこと?」

「そうだな。普段はせいぜい暑さと寒さとそれなりの痛みを感じるくらいなんだ。でも今日討伐から戻ってきたときはほとんど夢と同じような状態だった。まあ、今回は無茶がたたっただけだと思う」

 ユリも難しい顔で腕を組んだ。それからしばらく、重苦しい沈黙が続く。

 どうすればいいんだろうか。二人とも優しすぎる。人の痛みに敏感すぎるんだ。これくらい平気だと言っても、放っておいてはくれない。どう言えば心配をかけずに済むのか。

「私に、何ができるのかな?」

 沈黙を破ったのは、静かに顔を上げたナズナだった。

「今まで通りで十分だよ。俺が戦うのを支えてほしい。俺が死なないように、ナズナのずば抜けた医療魔術の才能で助けてほしい」

「でも、でも……今日のユウト、本当に苦しそうだった。体をかきむしりながら転げまわって。それこそ、そのまま死んじゃうんじゃないかってくらいだった」

 そのときのことを思い出してか、ナズナは強く唇を噛んで眉根を寄せた

「なのに、助けられなかった。ただ見てることしかできなかった。私には、ユウトのその苦しみをどうすることもできなかったんだよ」

 目の前で苦しんでいる人がいるのに自分には何もできない。ナズナにとっては、目の前で人に死なれるのと同じくらいつらいことだろう。

 いや、手をつくして救えなかったときより、むしろ歯がゆさが強くなる分もっとつらいのかもしれない。

「すまん」

 ただ、それしか言うことができなかった。

「ねえ、私がユウトの苦痛を癒やせないとしたらユウトはどうするの? そんなひどい痛みに毎晩毎晩晒されて、いつまでも耐えられるはずない。もし限界がきたら、心がも保たなくなったら、ユウトはどうなっちゃうの?」

 ナズナは悲痛に震えた声で、すがるように問いかけてくる。

「そのときは……」

 俺にはそれしかない。その力に頼って戦う以外、道は残されていないんだ。それにすがった果てに何も得られないのであれば、破局しか待っていないのであれば――。

「もう、それまでだ」

 はっきりとそう言い切った。

「どうして――」

 ナズナが吐息を漏らすようにつぶやく。

「どうして、そんなに簡単に、そんなに平然と言えるの?」

 その声色は、悲哀と憐憫が、あるいは軽蔑もないまぜになったような痛々しさを帯びていた。

 どうして、か。どうしてなんだろうな。それはもう、そういう風に生まれて、そういう風に生きてきたからとしか言えない気がする。

「何もないから、なんだろうな」

 ため息をついてゆっくりと首を横に振る。

「俺には何もない。人が羨むような才能も、人を癒やす優しさも、自分の夢をかなえる力も、なんにもないんだ。それどころか、自由に動く体すら失った」

 しかし、それを言い訳にはしないと決めた。血反吐を吐いてでも何かを成すと決めた。

「でも、ここに来て目標と、それを叶える手段をもらった。まあその目標っていうのもなんかあやふやになってるけど、力を手に入れたことだけは確かだ。その唯一残った力で何かを成し遂げようとして、その結果が破滅ってことなら受け入れざるを得ない」

「そんなの……」

 俺の言葉を否定しようとしたナズナの言葉は途中で途切れた。そして、しばらく黙ってから次にナズナが見せたのは、悲しげな微笑みだった。

「……おかしい、なんて言えないね。なんていうか、しばらく一緒にいたからユウトのことわかったつもりになっちゃってたかも。今までユウトが、どんな思いをしてきて、どんな覚悟で戦ってるのか。何も知らないのに、余計なお世話焼きそうになっちゃった」

 そう言ってうつむき、わずかに肩を震わせた。

「それがユウトの選択なんだよね。余計なこと言って――ごめん」

 ナズナが勢いよく椅子から立ち上がる。そのまま顔をこちらに向けず、すばやくきびすを返して足早に部屋から出ていく。

 ナズナのいなくなった虚空には、大粒の涙が光っていた。

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