第26話 DAY.47 唯一の信頼

 見えた。

 防壁魔術の内側の隊員との比較から四メートル近くあると思われる二足で立つ熊。それが防壁を破ろうと繰り返し前足を叩きつけていた。

「カズラ、この人も一緒に姿を隠せないか?」

 ローグを指しつつ、周囲を見渡して尋ねる。

「できる」

 右斜め前から声が帰ってくると同時に姿を見せるカズラ。傍らでローグがぎょっと声を上げる。

「俺がなんとかするまでこの人をかくまってもらっていいか?」

「わかった」

 緑の結晶を見せてくれたときも、シグルズの犯行に協力したときもそうだが、カズラは二つまで同時に幻影魔術を展開できる。本人と誰かもう一人までなら姿を隠せるのだ。

 本来任務に関係ないカズラに協力をお願いするのは申し訳ない限りだが。

「隙をついて一撃で倒せるか試したい。ユリは俺が動いたあとからついてきてくれ」

「了解」

 そのままギリギリまで距離を詰める。ちょうど一歩で届く距離まで来ると、俺は短く息を吸う。そして構えを取り――。

「ふんッ!」

 大地を揺るがさんとする勢いで飛躍する。閃光より疾く木々の間をぬうこと一瞬。最大級の運動エネルギーを出し惜しみなしの風魔術に乗せる。

 熊が反応するより早く、俺の手刀が届き――。

 ――ガキンッ!

 手応えは異様なほど硬質だった。体毛を割いた感触はある。しかしその内側何かによって手刀が、風があっさりと弾かれた。

「《炎魔式正拳型殴打術えんましきせいけんがたおうだじゅつ》――ッ!」

 すれ違い、地面を蹴って切り返す瞬間に唱える。猪を屠った一撃。空を裂いて駆け、こちらへと意識を向けた熊に向けそれを全力で叩き込む。

「ちっ」

 腹部への一撃はまたしても鋼を打ったような手応え。内蔵にまでダメージが届かない。

 ただし今の一撃の目的は別にある。痛打の衝撃で熊は五メートルほど街と反対方向に後退し、隊員たちから離れた。気休めにもならないが、近くていいことはない。

 さらに距離を広げるべく熊に向い軽く地面を蹴る。右の拳を振りかぶり――それより早く熊が動いた。鋭利な爪の光る右前足がすばやく縦に空を切る。

 ――空振り?

 動きに疑問を覚えると同時、直感的にステップを踏んで右にそれる。

 その直後、左腕で鮮血がしぶきをあげていた。

「ぐっ」

 激痛。骨にまで達する裂傷を負った。肘からわずかに前腕にずれた辺りと、手首付近の肉が深々と裂けている。流れ出た血で前腕が熱い。

 もっとも、もっと速く踏み込んでいたら今頃腕はついてないだろうな。

 すばやく足元を見やると、えぐられたような跡が五条。爪がそこまで長いはずはない。どうやら俺の風魔術と同じような真似をしてくるようだ。これでは迂闊に近づけない。

 失血のせいか腱の損傷のせいか、左腕が上手く動かない。いきなりハンデを背負わされた格好になる。だがまだ戦えるし、今回は撤退の選択肢もない。

 問題はどうやって敵の鋼鉄のような防備を破るかだ。おそらく魔力の影響と思われる何かで体表がすさまじく硬質化している。攻略の糸口は、硬質化されていない、もしくは硬質化の程度が低い場所を狙うこと。あるいは硬い体表を貫ける攻撃を放つこと。

 まず前者を模索してみよう。となると狙うべきは……。

 使用する魔術を風魔式に切り替える。今現在、殺傷能力と安定性の観点から言えばこの魔術が最も効果的だ。

 少なくとも二足で立っている限り相手はそれほど速くない。速度では圧倒できる。

 俺が着地した直後、熊の左前足が上がった。

 すでに間合いは見切っている。タイミングを見て左方向へ跳躍。体の右側を烈風が駆け抜ける。

 着地を決めると同時、右腕を振りぬき熊の股間へ風を放つ。

 熊は防御行動を起こさない。急所と思しき場所に風圧が届くも動じず。再び熊の右前足が動く。先ほどと同じ要領で右へ回避。やや上方に角度をつけ腕を振る。

 腕の先には熊の顔面。眼球をめがけ疾風が駆ける。

 今度は左前足をあげて顔面をガードした。さすがに目は無防備か。防備したことも踏まえればまぶたもそれほどの強度ではないと見ていいだろう。目だけでは致命傷にはならないだろうが、潰せれば圧倒的に優位に立てる。

 しかしかわすことのできる間合いからの攻撃では到底有効打は望めない。

 小さく一歩踏み込む。熊がすぐさま腕を振り上げる。鋭く地を蹴って左方へ回避。着地でついた左足でそのまま地面を叩き、通り過ぎた風の背後に滑り込み熊へ詰め寄る。

 滑空しつつ右腕を一閃。風圧は反射的に上がった熊の左前脚をかすめて、顔に届いた。

熊は短く低い唸り声を上げ、両前足を暴れさせる。

「ふっ」

 寸前に着地を決めていた俺は即座に全力右足で地面を蹴って退避する。右肩を風の切れ端がかすめて出血する。つくづく恐ろしい威力だ。

 すぐに熊の状態を確認。熊もこちらをしっかりと捉えていた。

「ちっ」

 さすがにそう簡単にやられてはくれないか。

 とっさだったため加減なしで退避したため十数メートルほど距離ができた。お互いににらみ合うように立つ。

 しかしこれでは埒があかないな。まぶたに当てればダメージになるとしても、風圧だけではかすり傷程度にしかならない。おそらく他の箇所でも同様だろう。

 そうなれば直接手刀を叩きこむくらいしか方法はない。しかしそれくらいの接近のリスクを犯すなら……。

 ちらりと、防壁魔法の中で待つ隊員たちを見やる。時間はない。俺自身の魔力に限界が有ることを考えても消耗戦は避けたい。危険を承知でやるしかないか。

「ユウト」

 声が聞こえたかと思えば、左方向数メートルのところからユリが走り寄って来た。

「その腕……」

「問題ない。それより援護を頼む」

「わかった。どうすればいい?」

「あれをやる」

「あれって……まさか氷魔式ひょうましき?」

 ユリが驚きとともに眉をひそめる。

「そうだ」

「でも……!」

「時間がない。大丈夫だ。ユリならやれる」

 なおも一瞬の逡巡を見せたが、ユリは頷いた。

 この状況を打破できるとすれば氷魔式しかないが、まだ完璧には使いこなせていない。

 問題点は発動までに数秒の集中を要すること、そして発動持続時間が一瞬しかないことだ。つまり数秒の間無防備を晒し、そのあと即座に攻撃に移らなくてはいけないということだ。離れて時間を稼げば途中で魔術が解け、近づきすぎれば発動前にやられる。

 そうなればとるべき方策は限られる。離れてから文字通り一瞬で距離を詰められるようにするか、近づいても攻撃を受けないようにするか。

 使える魔術から考えて、より現実的なのは当然後者だ。

 そう、俺が氷魔式を使うということはユリに防壁魔術を張らせるということになるのだ。

 発動持続時間中に詰められる距離は約五メートル。熊の風圧の射程は七メートルほどある。防壁魔術なしでは八つ裂きになる。だが一撃でも持ちこたえられれば必ず撃てる。

「向こうもこっちの風魔術みたいなのを使ってくる。必ず七メートル以上離れておいてくれ。俺が止まったら防壁を頼む」

 ユリが緊張気味にうなずくのを確認してから、俺は左斜め前方へ跳んだ。距離六メートルほどまで接近。

 反応した熊が着地間際の俺をめがけて爪を振る。かわして同時に残り一メートルを詰める。着地と同時に腰を落とす。すぐに目の前に防壁が展開される。

 指先をまっすぐに伸ばした右手に意識と魔力を集中。同時に手の周囲の大気が氷の粒子で白くけぶっていく。やがて、右手が強烈な冷気を感じ始めた。

「《氷魔式ひょうましき――》」

 唱え始めた直後、熊が右の前足を持ち上げる。その瞬間、防壁が一瞬かすむ。

「――退いてッ!」

 ユリの声を聞くが早いか、俺は右手の集中を解いて左方向へ転がる。間髪入れずに元いた場所を豪風がえぐった。

 そのまま飛び退ってユリのもとまで戻る。ユリは射程のぎりぎり外、七メートル強の距離まで近づいていた。それでも離れたまま防壁を張るのは少し難しいか。

「ごめんなさい」

 かすれた声で言ったユリの唇はわずかに震えていた。

「やっぱり無理よ。別の方法を……」

「いや、できる。ユリの防壁も発動範囲を限れば十分通用することは訓練でわかってる。あとは心の持ちようだ。無理だと思うから無理になる」

「でも……」

「ユリならできる。他のどんな防壁魔術師より、俺はユリを信頼してる。シグルズはもちろん、ユリのお母さんにだってこんな危険な状況で背中を守らせる気はない」

 ユリの眉がぴくりと動く。

「ユリが防壁魔術で一番になるのは難しいのかもしれない。お母さんの期待には応えられないのかもしれない。だけど俺にはユリが必要だ。こういう状況で俺が後ろを任せられるのはユリだけだ。一番じゃないかもしれないけど、ユリは俺の唯一なんだ」

 早口でまくしたてると、ユリは一瞬あっけにとられたような顔をした。それからくすりと小さな笑いを漏らす。

「馬鹿ね。そんなこと言われたらやるしかないじゃない」

「そう、やるしかない。最初からそう言ってる。行くぞ」

 ユリにうなずいて見せてから、再び大地を蹴る。今度は右方向へ。

 さきほどと同じように向かって来る風の刃をかいくぐるように、逆方向へ切り返す。着地と同時に腰を下ろし、右手に魔力を集中させていく。

 右手を中心として刺すような冷気が広がり、伸ばした指先を透明な氷が覆っていく。不思議と心まで澄み渡っていくような感覚になる。

 まだ防壁魔術は張られていない。しかしなんの心配もいらない。なぜなら、俺を守ってくれるのは正義感が強くて、優しくて、仲間思いのユリなんだから。

 熊が前足を上げる。それと同時、俺の背中に誰かの手が触れた。

「馬鹿だな」

「そうね」

 振り下ろされる爪。放たれる烈風。俺の目の前には透き通った壁が広がり――。

「今ッ!」

 狂風を完璧にはねのけて防壁が消える。その瞬間、俺は右腕を引きつつ上に角度をつけて疾駆する。

「――《爆ぜろ》! 《氷魔式貫手型貫穿術ひょうましきぬきてがたかんせんじゅつ》ッ!」

 熊の喉笛へと突き出した右手は研ぎ澄まされた氷の刃。魔術によって練り上げられた氷による、いかな盾をも貫く最強の矛。

 これが通用する根拠はない。しかし確信はある。この一手はあり得ざる無敵の矛。あらゆる盾を、障壁を、不可能を貫き穿ち、未来と勝利をつかみ取る――。

 激突の衝撃は、一瞬に満たなかった。

 肉を裂く感触とともに腕が熊の首にめり込む。吹き出す鮮血。力を失った熊が勢いのまま後方へと倒れこむ。腕を刺した状態のまま、俺も熊の上にひざまずいた。

「ユウトっ!」

 すぐにユリが駆け寄ってきた。俺は熊の喉からべっとりと血のこびりついた腕を抜く。

「悪いな。またきれいに倒せなかった」

「何言ってるのよ、もう」

 俺が軽口を叩くと、ユリは失笑して右手を差し出してきた。俺は一瞬ためらったが、右手でその手に捕まって立ち上がった。

「急いで戻ろう。また襲われたらさすがにやばい」

 うなずくユリを伴い、隊員たちのところに駆け寄った。

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