第13話 DAY.35 涙の味とスープの匂い
この一ヶ月で慣れ親しんだベッドの感触。目を開け、ゆっくりと体を起こした。
窓の外は暗い。天井に下がった暖色の照明だけが照らす部屋の中、ベッド脇に置かれた椅子の上でナズナが本を読んでいた。俺の身じろぎの音に反応して顔を上げると、一瞬軽く目を見開いてからにっこりと笑った。
「おはよう」
「おお、おはよう。……えー、今はいつだ?」
「まだ日付は変わってないよ。夜の九時前」
「意外と早く起きられたんだな。一週間とか経ってたらどうしようかと。それで、最終的な被害は?」
「あのあとは死者はゼロだよ。ユウトのおかげで広場で寝てた人も無事」
「そうか。よかった」
シャツをめくって脇腹の状態を見る。きれいさっぱり、傷の一つも残さずに完治していた。
左腕を上げる。痛みどころか違和感もなし。服の上からぺたぺたと肋骨に触れる。よくわからないが痛くも痒くもないのでやはりこれも完璧に治っている様子。
「どこも問題ないでしょ?」
「ああ、まったく」
「ま、私にかかれば当然だよね。いっそ完璧に治すどころか前より美しくしちゃうくらいじゃないと。あ、男の子ならかっこよく? 脇腹に武器でも詰めとけばよかったかな」
よかった。結構心配かけたかと思ったがいつもの調子だ。俺が思っていたほど深刻な負傷ではなかったのかもしれない。まだまだ修行が足りないってことだな。
「本当にさすがだ。ありがとう」
「この程度感謝には及ばないよ。心臓がほんのちょーっとでも動いてたらたちまち全快。生きてるならお茶の子さいさいだもん。うん、そう……生きていてくれさえ、すれば……」
ナズナの声がかすかに震える。なんとなく視界に入ったナズナの膝の上の本は、上下が逆さまになっていた。
視線を上げてナズナの顔を見る。その瞳には、涙が一杯に溜まっていた。それをこぼすまいと必死に下唇を噛んでいたが、とうとう右の頬が涙の筋に濡れた。
「本当に、本当にどこも悪くないんだよね……?」
「大丈夫、大丈夫だ」
「怖かった。怖かったんだよ。ストラテラさんを、みんなを助けられなくて。ユウトも、私のせいで、私がまた何かドジ踏んだせいで目を覚まさないんじゃないかって、このまま二度と起きないんじゃないかって思ったら、怖くて、怖くて……!」
「ごめん。心配かけた」
「全然早くなんてないよ。何時間も、ずっとずっと胸が痛くて、息が苦しくって、頭がどうにかなっちゃいそうだった。時間が経つのが嘘みたいに遅くて、でも時間が過ぎれば過ぎるほどどんどん不安になって……でも助かってよかった。本当に、よかったよ」
ああ、なんて愚かしい勘違いをしていたんだろう。
ナズナの自信は虚勢だ。であれば必要以上の自賛は、それだけ心の中に不安を抱えているということのあらわれでしかない。
「無神経なこと言ってすまなかった」
「本当だよ、もう」
口をとがらせて不平を言う。
それからナズナは、しばらく黙って涙をこぼしながら小刻みにしゃくりあげていた。俺は無言でナズナが落ち着くのを待った。
ナズナは優しい。だから全然関係のない人の死にも本気で胸を痛める。自分もその例外でないことに気づけなかった。
だからといって、それを理解していたらあの場で戦わなかったかというとそうではない。だから、俺にこれ以上ナズナにかけてやれる言葉はない。
ようやく嗚咽の収まったナズナは、やや充血した目で真剣な眼差しを俺に向けた。
「……私のせいなの?」
「どういう意味だ?」
「私が逃げようとしなかったから、ユウトが……」
そういうことか。俺がナズナのために、ナズナが助けた人を救うために無茶したんじゃないかと思ったと。これは余計な心配と重荷を背負わせてしまったな。
「違う違う。そうじゃない。俺はそんなにできた人間じゃないよ」
「じゃあどうしてあんなことを?」
「しょうもない個人的事情だ。だからナズナが負い目を感じる必要も、感謝する必要もない」
「個人的事情?」
疑うような目で問い詰めてくるナズナ。
「いや、本当にしょうもないから気にしなくていい」
「しょうもない理由で命かけたの?」
「……人から見れば、ってことだ」
「じゃあしょうもなくないよ。ユウトにとってしょうもなくないなら、私にとってもしょうもなくない。嫌じゃないなら聞かせてほしい」
「いや、なんか恥ずかしいし」
英雄になりたい、とか真面目な顔で言えるほどかっこよく生きてきた覚えはない。この前カズラとかいう幻影魔術師の女の子には話したけど、それは赤の他人だからだ。身近な人の前で打ち明けるのはなかなか恥ずかしいものがある。
「私ね、ユウトのこともっとちゃんと知りたい」
そう言ったナズナの目は、まっすぐに俺を捉えていた。きれいに透き通った瞳。そこに俺の姿が映って見えた。純粋で濁りのない、真摯な瞳に吸い込まれそうになる。
「この一ヶ月で、少しはユウトのこと知ったよ。好きな食べ物とか、自分の体いじめて楽しむ変な趣味があることとか」
「筋トレだ! 人を変態みたいに言うんじゃない!」
「あー、うん。キントレって言うんだっけ。まあとにかく、そういう表面的なところは少しずつわかってきた。でも、もっと大事なところはまだ全然知らないからさ」
「大事なところ」
「そっ、そういう意味じゃないからね!?」
「すまん、つい」
むしろそういう意味の方はちょっと知ってるわけだけど。
「つい、じゃないよもう! とにかく、私はユウトの心の中の深いところをもっとよく知りたいな、って思うの。それでユウトに何かどうしてもやりたいことがあって、私にも協力できることなら力になりたい」
「……なんでそこまで親身になってくれる」
頭に浮かんだ素朴な疑問を口にすると、ナズナは思いの外困惑した様子を見せた。
「それは……その、なんだろう。うーん、メディケスタとしての責務……というか魔術適性の最高位である人間の責務? ほら、私ものすごく才能に恵まれてるから、持たざる人にも才能をおすそ分けしないと……っていうのもなんか違うな。なんでだろう」
腕を組んで唸りつつ本格的に悩み始めてしまう。理由はともかく、その姿を見ていれば本気で俺の力になりたいと思ってくれてることはよくわかる。
「ナズナはお人好しだからな。俺の境遇がややこしいせいで、普通よりちょっと余分に同情しちまうのかも」
「お人好しー? そこは普通に優しいって褒めてよー」
「ナズナは優しいからな」
「うんうん。そうでしょう、そうでしょう。……っていうのはおいといて、同情っていうのもちょっと違うような気がするんだよね」
膨らませた頬を上機嫌にしぼませたかと思えば、また難しい顔になる。
「まあいいや。そんな頑なに隠すことでもないしな」
「うん、ユウトはなんのために命をかけてまで戦ったの?」
改めて真面目な顔つきになるナズナに、俺も真剣に答える。
「なんていうかさ、俺は英雄になりたいんだよ」
「英雄? どうしてまた」
「……どうして、か」
今度は俺が考えこむ番だった。俺はどうして英雄になりたいと思ったんだっけ。最近ずっとそれをお題目のように唱えてきたからよくわからなくなってしまった。
「周りのやつらを認めさせたいから、なのかな。価値のある人間になりたい。称賛を浴びたい。多分そういうことなんだと思う」
「そっか。うん、全然しょうもなくなんてないじゃん。立派な夢だと思うよ」
「ああ、ありがとう」
「それなら私にできることも単純だね。ユウトが傷ついたら全力で治す。本当は傷ついてほしくない。戦ってほしくないけど、そういうわけにもいかないんでしょ? それなら出し惜しみなく全力で自分の才能を発揮するのが私の義務。そうだよね?」
呆れ半分に笑って言う。
「ああ、そのつもりだ。俺は戦って英雄になる。その力も手に入れたんだから」
「力って、そうだよ! あの魔術陣は何!? 体のあちこちにあるやつ! あれのおかげで戦えたんでしょ? 一体いつの間にあんなもの……」
「ああ、ロマルさんに刻んでもらったんだよ。黙ってて悪かった」
「で、でも無魔力者が使える魔術陣の研究は失敗したって……」
「俺もそう聞いた。念のため刻んでもらったんだが、なんで発動したのかはわからない。明日ロマルさんに聞いてみるよ」
「わ、わかった」
俺がデマギアルを倒したという噂が漏れ伝わっているのであれば、向こうも気になっているだろう。いずれにせよ話をすることにはなるだろうな。
「あ、そうだ」
「ん?」
突然ナズナがいいことを思いついた、という風に笑って身を乗り出してきた。何をされるかと身構えていると、ナズナは右手をそっと俺の頭に添えた。
「街を、みんなを助けてくれて本当にありがとう。今日はよく頑張ったね。だからこの私が存分に褒めてあげる。ありがたく思ってよね」
いたずらっぽく微笑んで、ナズナは俺の頭を撫でた。
「なっ……」
動揺のあまり思わずナズナの腕を払いのけそうになり、それをすんでのところで思いとどまった結果、遠慮気味に挙手してる人みたいになってしまった。
確かに称賛を浴びたいとは言ったけどさ……。なんだよこれ、死ぬほど恥ずかしいぞ。
ひとしきり撫で終えたナズナはそのまま立ち上がった。
「よし、じゃあ晩ごはんにしようか。起きるの待ってる間手持ち無沙汰すぎてスープ作りすぎちゃったよ。匂いで何スープか当ててみてよ」
「……匂い?」
「うん、おいしそうな匂いがここまで漂ってきてるでしょ?」
鼻を鳴らして匂いを探すが、まったく感じない。もしや、と思って布団を顔の前まで持ってきて再び鼻を利かせるが完全に無臭。
「……ええと」
「え、もしかして……」
どうやら、今回ナズナの失敗の犠牲になったのは鼻のようだ。合掌。
「――うええええええんっ!」
星明かりの彩る夜空に、ナズナの悲鳴がこだました。
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