第12話 DAY.35 弱さを焼き尽くして
「……ユウト。この人をそっちに」
苦しげに指示を出すナズナに頷いて応えて、俺は冷たくなった男性を抱え上げた。
俺たちは東部周縁から少し離れた広場で、怪我人の治療を行っていた。周辺住民の協力もあって、怪我人の収容は一段落しつつある。しかし中にはすでに手遅れとなっている人もいて、俺たち、特にナズナは再び残酷な現実と向き合うことになった。
これで六人目。広場の東側の端に安置されている遺体の横に並べて、遺体を覆い隠すための大きな白いシートをかけ直す。
もっと早く収容できていたら、助けられたのだろうか。
こうして救護に関わってみてナズナの気持ちが少しだけ分かった。考えても仕方がない「もしも」を、止めどなく考えては悔しさに歯噛みすることをやめられない。
遺体の想像以上の重さが腕に残っているのを感じながら、ナズナの下に戻る。
「ごめんね、嫌な役回り押し付けちゃって」
目の前の人の治療をし終え一息ついたナズナが言う。
「そんなことで謝られたら俺たちはお前に何回謝っても足りなくなる」
「あはは、それもそうだね。この人は向こうに」
空元気で笑って見せて指示を出す。今度の人は軽傷だったようだ。
また抱え上げて西側の負傷者用のスペースへ運んでいく。もちろん意識のある人はそのまま帰ってもらっている。ここには意識のない人や、処置の都合で眠らせる必要があった人を一か所に集めて寝かせているのだ。この人を入れて二一人目。
静かにシートの上に横たえてからまた戻っていく。
「お疲れ様。とりあえず一段落したよ」
「そうか。よかった」
俺とナズナがそろってホッと息をついたそのとき、広場に鋭い声が響いた。
「――全員、早く逃げろッ!!」
声の主は広場の東方向、つまり戦線が展開されている方面からやってきた男。肩で息をしながら必死の形相を浮かべていた。
「防衛線が破られた! 中型だ! 猪種の中型が侵入してやがる!!」
中型。その言葉が響いた瞬間、広場の緊張感が一瞬で限界まで高まった。以前のナズナの話によれば、現状の戦力では撃破できるかわからない相手ということだ。つまり、最悪の場合街の壊滅に繋がる恐れもあるということ。
一瞬の完全な静寂。信じがたい、信じたくないというような空気が広場を包み、皆が唖然として動けないでいる。
その静寂を破ったのは、爆発音のような地鳴りだった。
直後に小枝がへし折れる音を何十倍にも大きくしたような音が聞こえる。
それらの音がした方角、東を向いた瞬間に吹き抜けた風が届けるのは野生の匂い。
危機を知らせた男の姿がいつの間にか消えていた。その代わり、男が立っていた場所のすぐ近くに巨大な猪の姿があった。
嘘みたいな存在感。体長四、五メートルほどで、真っ黒な毛並みが禍々しさを放っていた。
そして、その脇に何かが降ってきた。肉の塊。俺たちに危機を知らせた、つい先ほどまで人だったもの。
それが立てたドサッという音が合図だった。見ていた者が一斉に現実感を取り戻す。
耳をつんざくような悲鳴を残し、人々は蜘蛛の子を散らすように駈け出した。
その間に猪は傍らに落ちた遺骸に近寄っていく。そしてその顔を近づけると、凶悪な牙をもって骨ごと男を噛み砕いた。
息を呑むのが聞こえた。それで俺はようやく隣にナズナがいたことを思い出した。
ナズナは恐怖に引きつった顔を猪に向けたまま固まっている。そして、操り人形のようなおぼつかない足取りで一歩前に歩み出る。
その腕をつかんでナズナを止める。
「逃げるぞ!」
俺の言葉で我に返ったナズナが振り返る。
「でも……!」
「あの人は助からない!」
悔しげに唇を噛むナズナ。そんなことはナズナだってわかっている。
「だけど、このままじゃ……」
そう言ってナズナが向けた視線の先には意識のない負傷者の寝かされたスペース。
一人や二人なら助けられるかもしれない。逃げ遅れるリスク、しかもメディケスタのナズナを危険にさらすリスクを背負えば、の話だが。
「行こう」
ギリッと、俺の耳にも届くくらい強く歯ぎしりする音。ナズナの肩が震えだす。噛み締められた唇には血が滲んでいた。
「なんで……こんな……!!」
絞りだすように震える声で言うナズナ。怒り、悲しみ、悔しさ。理不尽に耐えかねた彼女の混沌とした感情がつまった、小さいながらも何より心に響く悲鳴だった。
助けられなかった人がいる。ナズナにとってその事実は一番心に重くのしかかるもの。一方で救うことのできた命はナズナにとっての希望でもある。ナズナにとってここから逃げることは、単に彼らを見殺しにする以上の意味を持つ。
救ったはずの命が掌からこぼれ落ちる。その絶望感は、俺には到底計り知れない。
ナズナの腕をとった手が力を失って離れた。視線の先では、猪が広場の東部に安置された遺体を貪り始めていた。
――どうして、俺は逃げようとしたのか。
そんなことはわかりきっている。生きるためだ。戦って勝てる相手じゃない。では勝てないのはなぜか。それもわかりきっている。俺が、弱いからだ。
そう。圧倒的な力を前にした俺は、また自分の弱さにひざまずいたのだ。こっちに来てからも人並みの努力はしてきた。トレーニングは欠かさなかった。人と素手で喧嘩したら大抵の相手には勝てると思う。だけどそれだけだ。
また、それなりの努力に満足していたのだ。やれることはやったがどうしようもないとあきらめて、やれないことをやろうとしなかった。望むべくもない望みに手を伸ばすだけの、意地汚さと蛮勇を振るうことができなかった。
それが自分の手の届く範囲にないと知るや、眼前の命を、英雄となる機会を、そして恩人の笑顔をいともたやすくあきらめたのだ。
「――ああ、ちくしょうめ。やってやろうじゃねえか」
手を伸ばす。届かないと知ってなお、伸ばし続けるんだ。腕がちぎれることを恐れるな。決死の覚悟もなく覆せる運命は運命にあらず。世界を渡ってなおつきまとう運命に引導を渡せ。奇跡を望むな。己を信じろ。俺は弱くない。
「……ユウト?」
「下がってろ」
それだけ言い残し、俺は猪へ向かって駈け出した。
心臓が大きく跳ねる。
俺は弱くない。俺は弱くない。俺は強い。あんな化物より俺は強い。俺は絶対に強い。
――だけど、もっともっと強くなれる。
もっと強く。もっともっと強く。
もっともっともっともっともっとくもっともっともっともっともっともっと!
強く強く強く強く強く強く強く強く強く強く強く強く強く強く強く強く――!
もっと《強く》ッ!
その思いが頭を、体を埋め尽くし、それでもなお止まずに湧き上がり続け、そして世界に溢れだしたとき、その瞬間は訪れた。
端緒は背を焼く地獄の炎熱。背に刻まれた強化の魔術陣によるものと本能が知る。次いで魔炎は全身へと延焼する。血、肉、骨の一切を焼き尽くした果てに焼成せしは晩成の大器。
――もはや、かつて弱さに屈した男は灰燼に帰した。
「はあああああああああッ!!」
理屈はまったくわからない。どんなに強く望んだとて、この魔術陣が起動するに足るだけの魔力は供給し得ないはず。しかしそれでも起動した。強化魔術が発動した。
俺は、戦うための力を手に入れた。
俺の魔力に反応したのか、猪が食事を止めてこちらを向き、唸り声を上げた。地獄の底から響いてくるような音。これまでに幾多の命を屠ってきたであろう獣による宣戦布告。
――機先を制す。今の俺なら届く――一歩で!
石畳をえぐり削る勢いで大地を蹴った。景色が溶ける矢の如き速度で駆ける。間合いの半分を詰め振りかぶるは右の拳。瞬間、猪の姿が消える。
顔の防備に両腕を上げるのと、激突とはほぼ同時だった。
吹き飛ばされる空中で姿勢を立て直しなんとか着地。わずかに膝をついたがすぐに臨戦態勢を回復。
くそ、動きがまったく見えなかった。
慌てて反転。激突した際の勢いのまま俺の背後に回っていた猪が一瞬で消える。ノータイムで返す刀での突進。左方向へ二メートルほど跳躍してかわす。
あわよくばすれ違いざまに一撃を――。
「なッ――」
直感で体をひねる。直後、再び左半身に衝撃。左腕が思い切りもっていかれる。肩の脱臼は確実、粉砕骨折もあるかもしれない。
「っつぁ……」
さすがに痛い。魔術使っても痛覚の方は全然変わらないらしい。もっとも、強化魔術がなければ十中八九ちぎれていたんだろうけど。
……しかしどうなってやがる。避けたはずなのに正面に来やがった。あの速度で、途中で進路を変えたっていうのか? 反則だろ、そんなの。
再び即座に反転。一瞬だけ視界に猪の姿。
「これならッ」
左へ五メートルの跳躍。さすがにそこまで鋭角には――。
「――ちいッ」
目の前をかすかに影が走る。着地に使った左足でそのまま地を蹴る。受け身の要領で右前方へ転がりかろうじて身をかわす。
やっぱり無茶苦茶だ。なんらかの擬似的な魔術の力ってことなのか。
ただ、今度はかろうじてその姿をとらえることができた。ということは……。
立ち上がり再度反転。先程と同様、一瞬で消える猪。現在地は向かって左の広場の中心点から三十メートルほど。その左方向へ五〇メートル超の大跳躍。
着地と同時に右拳を脇の下まで引く――が、今度は猪の迫る気配はない。
「さすがに曲がれない、か」
さきほど俺のいた場所の後方数メートルの地点に猪をやはり一瞬だけ視認。
オーバーランが短い。追尾できないと見るや速度を殺して離れすぎないようにしたか。大きく跳んでとった分の距離が相殺されている。
……くそ、あまり長く持ちそうにないな。
よくわからないが、感覚として使える魔力がそう多くないことはわかる。これだと跳躍距離を徐々に縮めてやつの変針の限界角度を絞っていくのは、難しいかもしれない。
ピンポイントで予測していくしかないか。
「――ここッ」
二十五メートルの跳躍。着地。拳を引いて構え。先程よりもはっきりした猪の影が視界の端をかすめる。
「見えたッ」
――が、間に合わない。突きを繰りだそうとした瞬間、俺の体は無防備な状態で猪の突撃を受ける。
右の脇腹に熱い感覚。空中できりもみして地面にたたきつけられる。
脇腹にねっとりとした不快な生ぬるさ。牙に肉をえぐり取られたらしい。ほとんど感覚がない。
突進と落下のダメージであばらがほぼ全滅、背骨もかなり損傷してそうだ。大腿骨あたりにもかなりガタが来ている。
それでも、立ち上がる。恐怖に突き動かされて立つ。死の恐怖ではない。何者にもなれぬまま果てることへの恐怖。それが立とうという意識に先んじて、体を奮い起こす。
何も与えられなかった。何も持たずに生まれた。それどころか、やがてはすべてを奪われかけた。生まれてこの方、まだ何一つとして手にしていない。まだ何一つ勝ち取っていない。まだ誰も認めさせてない。
このままじゃ、終われない。
瞼の裏を駆け巡るかつて見た光景。ボロアパートの誰もいない部屋。教室の隅から眺める喧騒。二番目に高い表彰台から見た顔のない観客。
そして、最後に脳裏をよぎったのは誰かの泣き顔。
「ふっざけんなああああああ!」
もはや猪の動きなど見えてはいない。タイミングは感覚で、今の体にできる最大限の跳躍を行う。体感で三〇メートル強。
かろうじて着地。正拳を繰り出す構えは体に染み付いている。空洞の脇腹の横に右の拳を置く。
やり場のない怒り、正体のわからない悲しみ、無力な己への悔しさ。あらゆる感情をその拳に握りこむ。
――目があった気がした。
さっき変針させた際、かろうじて影が見えるようになった。つまり変針させれば速度が落ちるということ。
やつが限界角度で変針したとき、速度が最も遅くなるということだ。
「らああああああああッ」
その到達速度を、俺が正拳を繰り出す速度が上回りさえすれば――。
「《爆ぜろ》ッ」
無意識に叫んだ呪詛。爆発的に加速した拳が何かをとらえる。瞬間、周囲に立つものすべてをなぎ倒すかのような重厚な衝撃音が轟いた。
拳を振りぬいた姿勢のまま静止すること数秒。俺は力尽きるように膝をついた。
かすんでいく景色の中、広場の端に転がって動かなくなった巨大な猪を見る。
俺は思わず口の端を吊り上げながら、自分の勝利を確信してようやく倒れこんだ。
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