第4話 DAY.2 さわやかな朝の珍事

 まぶたに越しに感じるやわらかな光。ゆっくりと目を開け、寝る前に見た天井が同じように広がっていることに安堵し、体を起こす。

「……ん?」

 と、尻のあたりに妙な湿り気を感じた。なんかものすごく嫌な予感がする。

 恐る恐る掛け布団をはぎ、股間のあたりに目を向けた。見るからに湿っている。股間とその周辺のシーツが、ここ十数年見たことのない形に濡れていた。

「……まじで?」

 凄まじい動揺を覚え、思わず股のそれに手をやる。そしてモノに触れた瞬間、俺は目の前の広大な世界地図よりもずっと驚くべき事態に気がついた。

 ――股間の感覚がない。

 手も足も腹も顔も何もかも昔の通り。しかし股間だけ触れても触れられてる実感がないのだ。ベッド上の惨状もそれが原因かもしれない。

 いつからだ? よく考えてみれば確かに昨日は股間に指一本触れてない。とはいえ衣類と触れた感覚とかで気づきそうなものではある。

 しかし久しぶりに起きた上にわけのわからないことが立て続いたから、多少の違和感では気に留まらなくても不思議でない。

 ……まあ、つい昨日まで指の一本も動かなかったわけだしな。体の他のすべての部分が動いてるなら十分も十分だ。トイレとかその辺に気をつけていれば生きていくことになんの支障もないし。多分。

そんなことを考えていると、トントン、と昨日と同じ音で扉が鳴った。

「どうぞ」

 と返事してすぐに入ってきたナズナは、俺と、その股間の周辺の湖を見て固まった。

「あ、ええと、その……いや、いろいろ環境も変われば? そういうこともあるもんじゃないかな……? とにかく、私は見た目も美しければ心も美しいからね! そんなことで人を馬鹿にしたりしないから安心して!」

 なんかそんなに必死にフォローされると、たたでさえ複雑な胸中に寂寥感みたいなのまで湧いてくるからやめてほしい。

 とりあえず、治せるものなのか相談するだけしてみよう。

「ちょっと聞いてくれ」

「え? うん」

「股間の感覚がない」

 俺がそう告げると、ナズナは固まっていた体を一層固くした。そして、その顔がみるみるうちに青ざめていく。

「お、おい? 大丈夫か?」

 見るからに尋常じゃない表情。そして数秒後にはナズナのこわばった顔、その両目からじわじわと涙がせり上がってきていた。

「ううぇ……ひっく、ぐすっ……」

「えっ、ちょっ、何!?」

 とうとう泣きじゃくり始めてしまい、俺はどうしていいかわからなくなる。

「また、駄目だったぁ……。今度は、ひぐっ、完璧だと、うぅ……思ったのに」

「どうしたんだよ、一体」

「ご、ごめんね。ぐすっ……今治すから……」

 と言いつつこちらによってくるナズナ。何をするかと思えば、俺の履いているズボンに手をかけ、脱がせようとし始めた。

「ちょっと待てえ!?」

「ひっく、今度はちゃんと……」

「とりあえず説明してからにしてくれ!」

 ナズナは俺の主張にまったく聞く耳を持たない。必然、脱がせようとするナズナとそれを拒んでなだめようとする俺との格闘が始まった。

「なんで、なんで邪魔するの……?」

「邪魔っていうか順序を考えてだな!」

 そんな問答を繰り返していたそのときだった。

「ナズー? こっちー?」

 と聞き覚えのない声が聞こえたとほぼ同時、不意に部屋のドアが開けられた。

 そして目に飛び込んできたのは燃えるような赤だった。煌々と燃える篝火のように美しい赤髪をなびかせ、凛とした雰囲気の少女が入ってきた。

 虚を突かれた俺はつい、一瞬ナズナに逆らう手の力を緩めてしまう。

「――って、ああああ!」

 大慌てでズボンを引き上げるが一瞬見えてはいけないものが見えかけた気がする。改めて赤髪の少女に目を向けると、今度はそのよく整った顔も赤くなっていた。

「……お、おじゃましました」

 引きつった顔でそれだけ言い残し、後ずさりするように部屋を出て行く。

「いや待って! 待てーい! 助けて! お願い!」

 ナズナを乱暴に引き剥がすわけにも行かないし、かといって抵抗しているだけじゃ埒があかない。なんかナズナの友達っぽいし、なんとか諌めてほしい。

 再びドアがゆっくり開いて隙間から少女が顔を出し、警戒するようにこちらを見つめる。

「……お、お楽しみ中、もとい、お取り込み中なんじゃないの?」

「断じて違う! ナズナの様子がおかしいのわかるだろ!」

「男と一夜をともにしたもののいざ夜が明けたら邪険にされたから必死に肉体で気を引こうとするナズの図?」

「めっちゃ妄想たくましい!」

「よくわかんないけどわかったわよ。でも変なの見せないでよね」

「絶賛努力中じゃい!」

 赤髪の少女は渋々といった体でこちらに歩み寄ってきて、俺に取りすがるナズナの肩を優しく叩いた。

「ナズ? どうしたのよ。大丈夫?」

「……うぇ? ユリ?」

「何があったっていうの?」

「うぅ……また、私……」

「あー、なるほど。はいはい。でもとりあえず落ち着きなよ。そのままだと追い剥ぎか変態だよ?」

「でも……」

「その人も困ってるから一旦離れる。ほら」

「……うん」

 ナズナはしおらしく頷くと、そのままぺたんと床に座り込んだ。それからナズナは促されるまま深呼吸を何度か繰り返し、ようやく落ち着きを取り戻した。

「で? 何があったのよ」

「……昨日ユウトの治療をしたんだけど、その……一部治せてなかったみたいで」

「一部」

「チラ見やめようか」

 感覚なくたって恥ずかしさはなんも変わらないからな。

「ん? あ、もしかして『スタチュー』?」

「そう呼ぶらしいな」

「へえ。いろいろ聞いてみたいけど、それは後よね」

「うん、早くユウト治さないと。ほら、早く脱いで」

 ナズナが立ち上がり、真面目な顔でそう急かしてくる。

「待て待て、昨日なんかの魔術使ったときは服の上からだったよな?」

「だから精度が落ちて見逃したんだと思う。当然障害は少しでも少ない方が魔力は通りやすいし。治療したときも、恥ずかしくってついパンツ履かせたままにしちゃってたから」

「……わかった。そういうことなら」

「じゃあ、私は外で待ってるわね」

 ユリと呼ばれた少女が出て行くと俺はおとなしくパンツを脱ぎ、ナズナの治療が始まった。

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