第三章
オオカミ少年たちの独白
『狼が来るぞ』
母親から再婚するとの便りが届いたのは先日のことだ。幼い頃に父親を亡くしたウィルはいわゆる母子家庭に育ち、父との約束を支えに生きてきた。
『母さんをよろしく頼む』
その一言が、蜘蛛の糸であり鎖だった。
”お母さんを守らなきゃ。二人で幸せにならなきゃ。”
とある漫画の主人公の台詞が、自分の声となって胸に落ちる。鎖であり、碇であり、楔でもあったその言葉が今ではすっぽり抜けてしまって。穴が開いたままの心を抱えたままでいるのだ……。
目を開ける。しんと静まり返った室内に一瞬寝坊したのかと混乱したが、枕元の携帯の液晶を見て時刻を確認して一安心する。時刻は五時前。いつもの起床時刻よりもずっと早い。
二度寝は性に合わないから、と身を起こそうとして、自分の体に絡み付いている存在に気がついた。
「……ッ、おい!」
ひやりとした肌のため夏の朝にしてはそこまで不快じゃなかったのが救いだ。ウィルは自分にしがみついている吸血鬼を無遠慮に揺さぶる。
「お前のベッド、ソファに用意してやったろ!」
この吸血鬼、レインと出会ったのは五月くらいだっけ、と思い出す。
なんやかんやで仲良くなり、彼の住まう旧校舎に通っていたのだが。蝉の声がうるさいこの夏、水の出ない旧校舎での自堕落生活。たまには着ているシャツを洗え、ついでに風呂に入れと引きずってきたのは昨日のことだ。
「……あー、く」
無意味な言葉を呟きながら、レインの手が伸びてくる。その目はぼんやりと開かれていてどこまでも夢見心地だ。ウィルの寝巻きの首元からひやりとした手のひらが進入してきて、何度も何度も首筋を撫でられる。
吸血鬼といえば、と考えてウィルは青くなった。レインは元人間だから血を欲しがるまねはしないだろうと考えていたが、寝ぼけていれば別なのかもしれない……?
しかし、レインの口から続いて転がり出てきた言葉は全く予想をしていないものだった。
「……傷が」
「き、きず……?」
「お前バカだろ、ごめん、ごめんな──ウィル……」
──傷って、何のことだ? ウィルの首には傷跡なんてない。
それに自分の名前を呼ばれたはずなのに、全く別の響きが込められていた気がする。
誰だよ、ウィルって。オレもウィルだけど、オレじゃないウィルのことだ。
不思議と確信があった。
そろそろとしたレインの動きは止まらない。ゆらゆらと揺れる赤い瞳は、どちらかというと温かい朱色に近い。
ウィルじゃないウィルに語りかけているのは、レインではないレインなのかもしれない。平常時ならあほらしいと吐き捨てる答えにたどり着き、ウィルの背筋を冷たいものが伝った。
「お、起きろよレイン。寝ぼけるのもいい加減にしろって」
そう、寝ぼけているだけだ。そう思いこみたかった。少々乱暴にレインを揺さぶってやると、徐々に瞳にはっきりとした光が宿ってくる。同時に、朱色の影も消えた。安堵の息を隠しつつ、不機嫌を装うウィルに対してレインはやはりマイペースだ。ぴったりくっついた状況に対して驚きも感嘆もないらしい。
「ウィルくん……今、何時」
「五時前だよ。それより何でこっちにきてんだよ」
「……あぁ、やだ、えっち」
「誰がえっちだ! お前だろお前!」
「ふあ。誰かと寝るのは久しぶりだな」
「……お、お?」
「あっちで寝てたらしいぞ、最初は」
レインがソファを指差す。確かにそこにはレインが寝る前に読み散らかしていた少女マンガが散らばっている。このコレクションはウィルの人には言えない趣味であり、男子たるもの、という生き方を志すウィルが墓まで持っていくと息巻いていた秘密だった。が、オタク文化を愛する吸血鬼には隠し通せるわけもなく、気がついたら本棚の裏から引っ張り出してきて勝手に読まれていたのだ。本人はエロ本を探していたらしいが、どちらにせよ恥ずかしいことこの上ない。一応内緒にするとは言ってくれているものの、つるりとしゃべりそうで怖い。
「偉そうにするなよ! あと片付けろよな」
「ふぁーい」
「はいだろ返事は」
「んん……」
そういって言葉を濁すところはルミナスとよく似ている。お互いに少なからず影響されているのだろう。
「……なあ、返事したろ? 何で離れないんだよ」
「ウィルくんの傍、あったけぇ」
そういいながら柔らかな金髪がこすり付けられる。……くすぐったい。
「そ、その……レインはこういうこと平気なのか」
「どういうこと?」
「や、その。他人とくっつくの」
「別に。寒かったらこうやって暖を取るのって基本だろ」
「え、寒くないだろ?」
「かもな」
「……え、えっと、前はよく誰かと寝てたのか」
“死人ってのは寒いもんなんだよ”、と。
その目が訴えてきている気がして、苦肉の策の話題転換だった。セクハラじゃないよな、寝るってそのままだからなとかフォローを心の中で入れる。レインはじっとウィルを見つめ、それからくくっと笑った。
「弟」
「兄弟がいたのか?」
「そう。オレの家は両親がいなくて、家も村も貧乏で……食うことにも事欠く有様だった。冬でも暖炉にくべる薪がなくて」
151年前のことを語るレインは、赤い瞳を懐かしげに細める。
「病弱で、泣き虫で、愚図でのろまな弟だったけど家族だった。守るものがあったからオレは戦えたんだ」
「……助けてくれる人はいなかったのか?」
「だって考えてみろよ、てめぇの飯に困ってる村だぞ、そんな余裕ないって。でも領主の息子がいい奴でこっそりパンとか燃料とかくれたんだ。あいつがいなかったらオレも弟も餓死してただろう」
「苦労してたんだな……、てっきり最強のハンターって言うからいいとこの出かと思ってたぞ」
「んなことない。誰だってハンターになれる時代で、その中でも運が良かっただけだ。ウィルくんみたいに勉強してるわけじゃない、学がなくて金が欲しいやつがやる仕事だったんだ。戦えないくらいガキの頃は農作業とかもやってたぜ」
「ええ!? 信じられない、お前みたいな──」
──キレイな奴が。
思わず転がりでそうだった一言にぎょっとする。何だ。自分まで寝ぼけているのか?
「オレみたいな?」
「な、怠け者が?」
「はは、ウィルくんひでえー」
笑いながらもレインは引っ付いて離れない。
「……あぁ、そうか。レインはもう十分苦労してきたから、この時代での生活をエンディングだとか言ったのか。……でも違うぞ、お前はまだ生きてるんだ。ちょっとくらいだらだらしたってバチは当たらないけど、あんまり自堕落な生活するなよ」
「はいはい」
「はいは一回だ」
「……ところで、朝飯は何?」
「引っ付いてたら作れないって!」
はは、と笑うレインはまだまだ離れそうにない。むぎゅむぎゅ遣りながら、ウィルはふと思いついた疑問を口に出そうとして……戸惑った。どこまで踏み込んでいいかがわからない。けれども近づきたいと思うのだ。
「あの、さ……」
「なに?」
「その眼帯、寝るときも外さないのか?」
「んあ?」レインは目を丸くして、すぐに頷いた。「傷があるだけだし、見て気分のいいものじゃない。──見たいか?」
「あ、その……」
「あれ。即答でお断りしますじゃねえの?」
「えっと……ルミナスから聞いたんだけどさ。その下の目ってもう協会に捧げてるんだよな」
「そうだけど」
「──傷も目もどっちも見たいって言ったら変か」
「変だよ。どうしたウィルくん」
「知りたいんだ。レインのこと、もっと。151年前どんなことをしてたのかとか、今、何を考えてるのか、とか。オレは部外者だけど、もっと知りたいんだ」
ウィルの言葉が理解できていないのか、レインは目を瞬いて首を傾げている。あぁもう、そんな顔しないで欲しい。
今やっと自覚してしまった。母親を守るという目標をなくし、道を見失っていたウィル。そんな自分の前に現れたレインに、持っている興味、関心、情。全てぶつけて、全てを注ぎたい。
知りたいのだ、この人のことが。旧校舎で出会ってから逐一世話を焼いていたのはレインともっと歩み寄りたいからだった……エゴでしかない、とトトに笑われそうな青臭い感情だ。
「友達とかそんな枠以上だ。お前のことを気にするのってそんなにおかしいか!?」
「……ん」
ウィルにしがみついたままだったレインはそろそろと身を離し、ベッドの上に正座した。ウィルもそれを追って飛び起きて倣う。
「それって……プロポーズかなにか……?」
「そうとってもらっても構わない」
「……はあ、誤魔化さないのかよ」
「何だよそのため息」
「やめろ、そんなに見てくるな。どんな顔したらいいかわからない」
詰め寄るウィルの前に白い手がストップをかけてくる。あぁ、ごめんと姿勢を正すウィルを見て、レインは眉を寄せて困ったような表情を浮かべ、それから少し笑ってくれた。
「照れる」
「素直だな」
「嘘言ったってお前が逃がしてくれないだろ。わかった、どうぞ。気にしてくれよ好きなだけ。自由研究のテーマに選んでくれてありがとう」
「研究していいんだな。何でも教えてくれるのか?」
「スリーサイズから言おうか」
「いい、あっちにメジャーあるから」
「よせよぉ」
間延びした弱気な口調は珍しい。おお、早速新たな一面か、と思っているとウィルの脇に手が伸びてきた。
「オレより優位に立つな、体に教えてやる」
「ちょ、ははは、あっはは! やめろって!」
「お前からサイズ測ってやるからな」
……後日、階下の住人から朝からうるさいと騒音の苦情がくることになる。
「……何でも教えるって言ったって、ハンターの機密に関することは言わないぜ」
朝食の味噌汁を啜りながらレインが呟く。
「それは分かってるよ。オレが知りたいのはあくまでお前のことだから、そっちじゃない」
「……照れるな」
「おいやめろ、頬染めんな! ご、誤解されるだろ!」
慌てるウィルが面白いのか、レインはくっくくと笑い出した。からかわれたのかと歯噛みするも、髪の隙間から覗く尖った耳が赤くなっているのが見えてはこちらも変な気分になってしまう。レインはオタクだから、多少はマイナーな会話をしてやったほうがやりやすいとの確信はあった。だから先ほどプロポーズか、と言われたときは否定をしなかった……はずだったが。あくまで友だち、のスタンスが早くも揺らいできた。
思春期真っ只中でも不純異性交遊なんてもってのほか。部活と勉強、生徒会活動に打ち込んできたウィルの目の前にいるレインは、同性ながら見目麗しい。……そこが問題なんだよな。
「で? 結局ウィルくんは何が聞きたいんだよ」
ウィルの気持ちなんてなんのその。もうけろりとしたレインの問いに、ウィルははっとする。危ない、味噌汁を零すところだった。
「だからレインのことだよ。お前の弟のこととか、どんな暮らしをしてたのとか……でも封印される前に別れた人たちのことだし」
……辛かったらいいけど、とごにょごにょ呟くウィル。が、レインはなんでもないように返答を寄越してきた。
「あぁ、弟ね。どうなったか知らねぇんだ」
「え……し、知らない?」
「村も弟も、その後のことは全く聞いてない。一応人並みに暮らせるようにって協会に願っといたけど」
「そ、それでいいのか?」
「良くないな。ウィルくん、いいことを言ったぜ。ちょっと調べてみることにする」
お代わり、と差し出された器に味噌汁を足し、ついでに焼き魚の横の大根おろしを足してやってウィルは目を瞬いた。
「お前って適当だなー」
「いや、しっかりしてるだろ」
「どこをどう見ればしっかりしてんだよ。ほら、この魚だって身を食う前に大根おろしだけ食いやがって」
「辛かった」
「そりゃあな! おろしだけで食えば辛いよな!」
ぱしりと頭を叩いてやるとあいたと反応するところが面白い。
──ふと考えた。レインにとって、もう自分の人生は終わったものだと考えていたから。今日まで役目としてのルミナスを鍛えることしかせずに、過去をほじくるマネをしなかったのかもしれない。
自分が余計なことをしてしまったのかとも思ったけれど、良いことを言ったと言ってくれたから。……よかったのだろう、これで。
「あとウィルくん、お願いがあるんだけど」
「なんだよ?」
「現代人が物を調べるときに使う機械が欲しい」
オレンジジュースとブランデー
“新芽の揺れる、五月の始め。あぁ、今夜は暖かい。”
カランコロン、ベルが歌う。
連れ立って入ってきた男女にいらっしゃいませと声を掛ける。二人はまだまばらな客席の中から端のカウンターに腰掛けた。
「常連のお客さんじゃ。ほい、これ持ってけ」
マスターから渡されたのはオレンジジュースとブランデーだ。新人のバイトは緊張する自分を叱咤してグラスを受け取ると、二人の前向かう。そして男の前にブランデー、女性の前にオレンジジュースを置いた。
よし、一仕事できたぞと息と吐き出すアルバイトだったが、マスターが苦笑していることに気付く。なんだ? そう思っているうちにマスター自ら客のほうへと向かっていった。ガムシロップを置いて、失礼しましたと零す。
すると女性がにっこりと笑ってガムシロップをジュースに垂らし──男の前のグラスと交換したのだ。
──しまった、逆だった!
肩を揺らすバイトの元に戻ってきたマスターが、次は女性にブランデーなと耳打ちして笑う。まあ仕方ないのう、普通は男が酒じゃからなあ。そういいながら皿に盛っているのはナッツ、とドーナッツ。マスターの旦那が揚げたものだ。最近の大人はこんなものをつまみにするのか、とバイトは感心する。二人の間に置かれた皿から、男がドーナッツをばくばくと食べ始めた。あの人甘党なんだなぁ。あ、ほっぺたに食べかすついてる。
男は二十代後半、女性は二十代前くらいだろうか。何故そこまで観察していたかといえば、その二人はとても興味の引く対象だったからだ。だからグラスを磨きながらも、ついつい耳を欹ててしまった──……。
「このまま行けば順調だろねえ、うん。君のおかげだよ」
こげ茶色の髪を後ろに撫でつけた男は今更ながらコートを脱ぐ。その下には薄汚れた白衣を着ていた。
「先生。ドーナッツを咥えたまましゃべるのはお行儀が悪いです」
「あぁ、これは失礼」
ぼろぼろ零す粉に眉一つ潜めずに笑っている女性はなんとおおらかなのか。金色に近い、栗色の巻髪にランプの光をきらきらと反射させる彼女はまるで天使のように美しい。いや、菩薩か。自分より年上であろう男の顔をおしぼりでぐいぐい拭いてやる仕草はいささか乱暴だが、男は抵抗しなかった。
「我がゼミに君が来てくれてから……なんていうのかな。今まで僕の目を塞いでいた問題がぱーっと開けたっていうのかなぁ。僕はわかったんだよ」
「何がです?」
「僕は君に会うために生きてきたってことさ」
男の目が女性をじっと見つめる。熱の篭った目だ。情熱的なアプローチにも関わらず、女性はくすくすと笑い出した。
「またそのお話ですか?」
「そうだよ。僕は何度でも君に言う、君に誓うんだ」
うん、と先を促すように彼女が頷き、男は破顔した。
「君を幸せにしたい」
「あら、ありがとうございます」
「今は幸せかい? レイン君」
「レイ、ネです。幸せですよ」
「じゃあその幸せがずーっと続くようにしないとね。僕はそれだけが望みなんだよ、レイネ君」
「レイ、ネ……っと。今度は間違えないでくれましたね。先生はいっつも私の名前をわざと言い違えるんですから。真剣に私のことを考えてるんですか?」
「考えてる、考えているとも! この通りだよ」
へこへこと頭を下げる男に、女性は優しげに目を細めた。男はのろのろと顔を上げ、眉を下げる。
「パパに対するコンプレックスで潰れそうだった僕を救ってくれたのは君なんだよ、レイネ君。……いやそれだけじゃない。僕はずっとずっと、君に会いたくて。君を守りたくて……」
「ええ、知ってますよ。たくさん良くして貰ってますから」
「違うんだよ、あぁ、何故伝わらないのかなぁ。科学者としてあるまじき発言だけど、僕は君に対して深い縁を感じているんだ。そう、まるでね、異なる世界、パラレルワールドで繋がりがあったかのような──」
ジュースにも関わらず酔っているのか。演説を始めた男にうんざりなんて顔は見せずに頷いている女性はとても健気だ。
なんだか変なお客さんだな、面白い。カウンターの影でにんまりしていると、マスターに背中をつつかれた。
「あの二人、十六夜大学の教授と学生じゃよ。男の方が脳神経のなんちゃらで、この間も賞を取ってたじゃろ」
「ええ? あの人あんなに若いけど教授なんですか?」
「そうじゃ。でも親の七光り説もある。あの教授さんの親父さんがすごい学者らしくての、“でも僕はパパのおかげで偉くなったんじゃない”って泣いて騒いでたことがあったんじゃ……あの女の子を連れてくるようになって、ハクアス先生もだいぶ落ち着いたのう」
へえ。バイトはもう一度二人を見る。
「……でも、真剣に口説いてるけど交わされちゃってて可哀想ですね」
「いやぁ。ありゃ口説いてるわけじゃない」
「ええ!?」
「しー、声が大きいぞ」
「ご、ごめんなさい……」
「わしも話に加わったことがあるがのう、あれ、教授は真剣に彼女の幸せを願っているようじゃよ。あの女の子には彼氏がおって、その仲を裂くでもなく応援しておるし、困ったことがないか親身に聞いているだけじゃ。下心が一切ない、むしろ崇拝に近い感情を持っているようじゃよ」
「ええー! 逆に怖いんですけど」
「ううむ……彼女もまあ、それを拒絶するわけでもなく受け入れておるからのう……お互いWINWINという奴かのう」
「へええ……最近の大人って変わってますね」
「そう言うな。ほれ、新しいお客さんがきたぞ」
「あ、はい。いらっしゃいませ!」
ブランデーとオレンジジュース
“焦げ付く太陽が沈んだ、八月の終わり。あぁ、今夜も暑い。”
「もうお主がバイトを始めてから三ヶ月以上経ったのう」
マスターは黒髪を掻き分けて笑った。バイトは慣れた手つきでグラスを磨き、微笑む。
「ここでの仕事はとても楽しいですよ。正直お給料も良いですし」
「まぁのう! ところでお主、アレは買えたのか」
「ええ、買えました。おかげさまで次の文化祭にはアレでいけます。憧れのブランドギターですから張り切っちゃいますよ」
「実際、腕前はどうなんじゃ?」
「ばっちりですよ。バイトは夜からですし、昼はしっかり練習してました」
「ほほう。実はわしもアルにゃんのステージが見たくてのう。娘の保護者枠ってことでぜひ行かせてもらおう」
「マスターがくるんなら緊張しますね~」
「それらしい顔をしてみぃ、うりうり」
マスターの細い腕につつかれてバイトは笑う。
「あはは、あ、人が来たみたいですよ」
カランコロン。ベルが歌う。
「いらっしゃいま──あっ」
笑顔のまま客を向かい入れたバイトは一瞬で顔を引きつらせた。なんじゃ、とマスターが首をかしげていると、今しがた入店した客が大またにカウンターへ近づいてくる。
「ご、ご注文は……?」
「……ミルク」
「ほうほう、このご時勢にまさか本当にミルクのオーダーをいただけるとは! お坊ちゃんに満足できる特濃ミルクを用意しようぞ!」
マスターが笑いながら奥に引っ込んだ。客は鼻を鳴らしつつカウンターに腰掛けて懐をごそごとやったかと思うと、生徒会だけが使えるタブレットを取り出した。
「我が校ではアルバイトは原則禁止されてる。でも申請されれば話は別だったな。確かにお前の申請用紙には、“飲食店”としか書かれていない、嘘は書いてない」
客が向けてきたタブレットには、イメージ化された申請用紙が映っている。確かにバイト本人が書いたものだ。
「でも、今の時間は23時。許可された時間は22時までだし、高校生が出歩いて良い時間じゃない」
「君だって出歩いてるじゃないか」
「オレは許可取ってるから。無許可のお前と違うんだよ、──アルライド・ジオ」
客からの鋭い切り替えしにバイト──アルライドはぐぐっと言葉を詰まらせた。
「多目に見てよぉ」
「他の生徒ならまだしも、直々に校則違反はいただけないだろ。なあ生徒会長?」
「ウィルって本当に厳しいよね」
「オレは副会長としてちゃんと仕事をしてるまでだよ、頼りない会長と違ってさ」
「んんんん……可愛くない後輩だこと」
ふうとため息をつくアルライドとウィルの前に、マスターがミルクを持ってやってくる。アルライドは大人しくグラスとつまみを受け取り、仰々しくウィルの前に置いた。
「ねえ、俺はこのバイト続けたいんだよ。報告だけは止めてほしいな、良心があるなら」
「その件なんだけどさ。お前、このタブレット使ってる?」
「へ? いや、全然」
「そうだよな、生徒会の仕事してないもんな。体育祭で全裸で走り回った人気で会長に当選したんだもんな」
「意地悪しないでってば」
子犬のような目でウィルに訴えるアルライドだが、ウィルは淡々とグラスに口を付けた。そして告げる。
「使ってないならいらないだろ。ちょっと貸して欲しいんだけど」
「え……無理だよ。あれ、通信制限掛けられてないんだよ? えっちなサイトも見れるんだよ?──あぁ、そっか」
「オレは見ないぞ! ただちょっと調べたいことがあるんだ。学園のパソコンで調べられる範囲外のことでさ」
「……それ、交換条件ってやつ?」
「そう取ってくれて構わない」
「……じゃいいよ」
「ほ、本当か?」
「うん。ただ君の好きな子の好みとかはわからないよ」
「そんなの興味ないってば!」
「多分チョコレートかなにかじゃない?」
「聞いてないって!」
真っ赤になって騒ぎ立てるウィルが可笑しくて可笑しくて、アルライドはけらけらと笑い転げた。それから胸ポケットの中からロッカーの鍵を差し出してウィンクする。
「内緒にしてね、お互いに」
ウィルはというと、むっつりと黙り込んだまま鍵を受け取った。……少し前の彼はこんな不正は絶対に許さなかったはずなのに。
「危機はさったかの?」
いつの間にか背後に来ていたマスターが笑いかけてくる。
「あ……ごめんなさい。お客さん来ちゃってますね」
「いい、いい。アルにゃんが辞めなくていいなら全く問題ないのう。わしもアルにゃんの勤務時間を娘に知られたら困るしのう」
「スピカちゃんはクラス委員でしたっけ。そのうち生徒会のくるんですかね」
「さあ、どうじゃろう。そのときはアルにゃんは卒業しとるし、よろしく頼むぞ、ミルクくん」
マスターがサービスといって置いたドーナッツを、ウィルが困ったように食べ始めるのが面白くて再び笑う。それからカウンター端に座っている常連の下へドリンクを届けに行った。女性の前にはブランデー、男の前にはオレンジジュースとガムシロップを一つ。いつの日か以来間違えることのないオーダーだ。いつも同じ注文からだから、一々伺いを立ててから運ぶことはなく、こちらから進んで提供していた……ところが、今日は勝手が違った。
「あのう……今日は私もオレンジジュースにしていただけますか」
いつものような輝きが少し翳ったようにも見える女性の一言に、アルライドは慌てて反転させていた体をまた戻した。
かしこまりました、と一声かけて、置いてしまったブランデーを下げようと手を伸ばしたとき。白衣に包まれた手がそれより先にグラスを掴んだ。
「いい、これで十分だ。今晩は僕が飲もう」
「でも先生、お酒は……」
「飲みたいときもあるんだ。いいだろうたまには」
男、ハクアスはアルライドに手を振って大丈夫だと意思表示をする。……なんだろう、珍しいこともあるもんだな。再びウィルの前に戻ってきたものの、アルライドの右耳はキャベツの葉のように大きくなって常連二人の会話を追っていた。趣味が悪いぞと咎めるようなウィルの視線も気にならない。おお、結構ぐいぐい飲んでいるようだ。
「……で、レイネ君。ボリス君は知っているのかい」
「何のことです?」
「今日、君の顔を曇らせている問題のことさ」
「先生には……何も隠し事はできませんね」
「……。必要もないだろうに」
「え?」
「生むべきか、生まざるべきか。そのことも君が自由に考えれば良い。もしも望まないのならば、君さえよければ父親の名前に僕の名を書けば良いし、生みたいけれど弊害があるなら僕がサポートしよう。もちろんお金のことなら心配しなくていいよ。なあに、二人とも学生なんだ。とりあえず卒業するまで僕が育てても良い、それからのことはおいおい考えればいいんだよ」
「ハクアス先生、それは……それはダメです! 私はそんなところまで甘えるつもりはありません」
「甘えればいい、利用すればいいじゃないか。君にはその権利があるんだ、レイネトワール」
「何故そこまでしてくれるんです?」
「僕は君に救われたからさ」
ハクアスは残りのブランデーを一気に煽り、唇を乱暴に拭った。
「……僕は失敗した。レイン君との関係に失敗し、すべてを赦してくれたレイネ君との関係も失敗してしまったんだ。僕は君のことを守れず、自分の失敗から目をそむけ、君の結果を見届ける勇気がなかった。……ずっと後悔していたよ」
「先生……? 酔ってらっしゃるの?」
「いや酔ってない。僕は真剣だよ。今度こそ、今度こそなんだ。君を守る、幸せにしてみせる。伝わらなくても分からなくてもいい。赦さなくたっていいんだ。だからお願いだ、僕に罪滅ぼしをさせて欲しい──……」
「帰る」
正面から聞こえたウィルの声に、アルライドははっとして視線を戻した。いけないいけない、夢中になりすぎてしまった。思った以上に深刻な話だった。ウィルのうんざり顔を見ても自分の好奇心が出すぎたのがわかる。
「会計はここでいいか」
「あ、うん。そうだね、良い子はもう寝ないとだね」
「なんだよそれ、からかうな」
「彼女でも待ってるの?」
「……オレはお前と違って仕事熱心だから」
「ふうん、でも香りが違うよ、ウィル」
カウンターに頬杖をついて後輩を見ると、ウィルの顔がかっと赤に染まった。
「か、からかうなって言ってるだろ!」
「君は香水なんてつけないよね? それなのにいいニオイがするんだ」
「気のせいだろ! お前は客につられて酒飲むなよ!」
じゃ、鍵ありがとな、と言い残して店を出て行くウィルを目で追って、アルライドはふっとため息をついた。入れ違いに入ってきた客もまた馴染みの顔だったので、いつものドリンクを作りに掛かる。
──最近、変な夢を見る。夢って普通、香りなんて覚えてないでしょう? それなのにわかるんだよ、鉄と薔薇の混ざった不思議な香り。誰かが泣いていたような気もする。……不思議な、でも不快じゃない香りをウィルからも感じたって話をしたかったんだけど。まあいっかな。
アルライドはちらりとカウンターを眺め、新たな客へのドリンクとブランデーのお代わりを用意すると顔を上げた。
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