外伝 レインの授業参観

「おれはね、歳上のお姉さんが好みだよ。でもねぇ、この年齢は色々と興味深くなるでしょう? それなのにこの学園ったら、まったくこの学園ったら!」

 シオンが手をばたつかせる。濡れた手が背中にべちょりと張り付いて、シヴァーの眉間には皺がよりっ放しだ。しかし気分がハイになりっぱなしのシオンはまったく気づいていない、……あぁ、もう。こちとらプールの悲しき見学者なんだぞ。貴様のようにザブンと飛び込んで心地よくなった後じゃないんだ。濡れたシャツは汗なのか水なのかわかんなくなっちゃって、気持ち悪いじゃないか。


 シオンの水着から垂れた水滴が、コンクリートの溝を伝ってズボンを濡らした。……もう怒る気力もない。あぁ、オイラ様プール入りたいなぁ。父上から運動禁止って言われたのを守り続けてるけど、いつまで守れば良いんだろうなぁ……。

 ざばり、と心地よい水音を立てて、ルミナスが水面から上半身を覗かせた。両肘をプールとプールサイドの境目の排水溝がある白い部分(名称不明)に付いてこちらを見上げる彼女は、あぁなんと罪深いのか。見事な谷間である。うむ。

「プールは気持ちいいんだけど、あなたが暑そうで見るのが辛い」

「う、羨ましくないんだからね!」

「ふふ、嘘は良くないぜ」

 犬歯を唇から覗かせて、イタズラっぽく笑うと水を掛けてきた。ルミナスもはしゃいでいるのが良くわかる。昼間はぼんやりしているが、夜は魔物退治にぴんと張り詰める彼女にこんなにも簡単安らぎを与えられる50メートルの水槽が憎らしい。

 煌めく屋外プールの中で笑うクラスメイトたちとは対象的に、蝉の声と太陽に背中を焼かれるシヴァーはもぞもぞと体制を変えた。

「地黒なのに、さらに日に焼けたら困りますからな」

「わたしのタオル、日除けに使ってていいぜ。こっちにあるから」

「だっ、ダメ! なっちゃん出てきちゃダメ!」

「どうして」

「どうしても!」

「……むぅ」

「お前の水着姿がいたいけな目に刺さるからだろ、ルミ」

 突如混ざった気怠い声にシヴァーは座ったまま飛び上がる。慌てて振り返ると外界とプールを仕切る境界、金網の向こうで日傘をさしたレインが突っ立っていた。どこから調達したのか学園の制服に身を包んでいるが、この炎天下、汗一つかいていない彼の纏う気配は冷たい。が。

「ちょ、ちょ、ちょっと! 何してるんですかなニート殿!」

「娘の成長を見守って何が悪い」

「つまり覗きにきたってことですかなこの変態! 貴様は旧校舎から出れないはずでは?!」

「気合でどうにかなったんだよ」

「なるかよ! 帰ってくだされ!」

「お断りします」

 ミステリアスなのは雰囲気だけで、中身は清々しいまでに平常運転だ。金網を挟んで言い合うシヴァーたちの後ろでは、シオンがあれ誰? とプールに浸かったままのルミナスに問いかけている。その答えは、むぅ。彼女も答えにくいようだ。

「自分の限界に挑戦するのは良いことだろ? この前ウィルくんの家に行った時も一泊しても平気だったし」

「何かっこいいこと言ってるんですかな! 貴様はあくまで学園の部外者! 通報されたら一発ですぞ!」

「それには及ばねえよ」

「及びまくるから!」

「……チッ、わけがわからねえよ」

「わかれよ!」

「もう。遊びにきたんじゃなくて、娘の水着姿に熱視線を送る奴を見張りにきたんだよ。なぁヴァッくん」

「何故オイラ様に言うんですかな! いくらなっちゃんがセクシーガールズキッスでも、そんな不躾な……」

「もっとグラマラスソウルの方がいいのか? ルミ、水泳って言ったらドーナツだよな。食ってでかくなれ」

「……むぅ?」

 ルミナスが面倒くさそうにはぐらかした。それでもスタイルに対するセクハラは恥ずかしかったようで、顎までプールに沈んでしまった。見守っていたシオンがケラケラと笑い出したところで、スピカがこらーと怒鳴りながら走らずに寄ってくる。あぁ、見つかった。シヴァーはそっとルミナスと目を合わせて肩を竦める。

「おお、見事なまな板娘。スレンダーズボルケーノ~」

「ま……ま、まな板……? 実に失礼な男だな! その制服を見るに上級生かね? 授業に戻りたまえよ」

「いや、授業参観に来たんだ」



 レインの授業参観




「参観日は来週だろう?」

「……ほんとにあったのか。ルミ、オレは聞いてないぞ」

「呼べるはずがないんだけど」

「オレはお前の親なんだ。娘の授業を見たって授業参観で給食を食べたっていいはずだろ。何で黙ってんだよ」

「……むぅ」

「むーじゃねえ」

「……んん」

「ルミナス、この男とは本当に知り合いなのかね?」

 レインの刺すような視線に困り果てるルミナスに、追い打ちをかけるようにスピカが詰め寄った。うーん、どうにかして助けたい。

「ニート殿」

「お父様だろ?」

「……お父様殿。本当は何の用事ですかな?」

「暇だから来た」

「帰れ!! すぐ帰れ今帰れ!!」

「給食を食わせてくれたら帰ろう」

「……今日はお弁当の日ですぞ」

「帰る」

 くるりと背を向けたレイン。その細い背中に、シヴァーの目は一瞬きらりと光るものを目に捉えた。

「待って!」

 プールから飛び出してスピカの脇を抜けルミナスが叫ぶ。勢い余って金網にその体がぶつかり、派手な音が鳴った。

 しかし子供たちで賑わうプールでは掻き消され、その場にいたシヴァー達以外の興味を拾うことはなかったようだ。その分、シヴァーは驚いたのだが。

「……待って。何を探しているの」

 レインは何故か図書室の方向を見上げ、それからゆるゆると首を振った。

「そんなに金網に胸押し付けんなよ、ヴァッくんが悶え死ぬぞ」

「えっ」

「いやいやいや! オイラ様はそんなに見てませんからな!」

「見てんじゃん」

「静かに! シオン殿ビークワ! ビークワでお願いします!」

 賑やかなやり取りにルミナスが困ったように振り返った。揺れる胸元に目を奪われたのはほんの一瞬。しかし、その一瞬でレインの姿は消える。夏の日差しの下、どこまでも異質な存在のくせに。あれー? お兄さんは? とシオンが呑気に呟き、スピカは先生に報告してくると踵を返した。

「シヴァーが騒ぐから逃げられたぜ」

「何故オイラ様のせいですかな!」

「……。」

「なっちゃん?」

「レインさん、銃を持ってた」

 なにを、と言いかけて思い出す。きらりと太陽に反射したもの。……小型の、片手で扱える銃だ。いつもど派手にぶっ放す大砲ではなく、何故わざわざそんなものを持ってウロウロしているのだろう。

「オイラ様も見ましたぞ。……あぁ、だからなっちゃんは何を探しているかって言ったんですな?」

「わたしはあの人を信頼してる。けれど、あんまりにも予想外の行動に出られると困るぜ。旧校舎から出られるなんて考えてなかった」

「どっちがおやなんだか。ほうっておいてあげれば良いのでは」

「……誰かの血を吸われたら困るんだけど。そんなことされたら、協会が黙ってない。いくら人狼に対抗するためだって言ってもだぜ」

「あぁ、そういえば吸血鬼なんですよなぁ。血が欲しい~と呻いているところは見たことがありませんぞ」

「それでも……」

 日差しの下にいるくせに、ルミナスはまるで寒さから逃れるように自分の体を抱きしめる。

「……怖いの。大切な人が、居なくなるのが」

 ……その姿には見覚えがある。あぁ、両親を亡くした時の彼女だ。思わず細い肩に手を添える。プールのせいか震えのせいか、ひやりとした肌だった。彼女の現在のおやのように。

「なっちゃんは、学園の人もニート殿も大切なんですな」

 こくりと頷かれた。言葉に出して答えないのは、口を開いたら泣いてしまうからじゃないだろうか。……そういえば昔、ルミナスはとても泣き虫だった。いつの間にかクールな子になってしまっていたのだけれど。

「あんまりにも目に余るのなら、副会長殿に手綱を付けてもらうのはどうでしょう?」

「それはそれで怒られそう」

「んっふっふー。ニート殿の人間性を信じましょうぞ。第一、コンビニ飯大好きなニート殿が血液なんて鉄くさいものを欲しがるとは思えませんからな」

 シヴァーの慰めに、そっとルミナスは笑顔になった。心配しすぎたぜ、と背伸びする彼女から慌てて手を離した時、妙なタイミングでスピカと先生がやってきて、ほらベタベタ遊んでるなと怒られてしまった。元気ならお前もプールに入れよと小言まで貰ってしまう。

 もうすぐ夏休みだ。その前に、授業参観がある。……久しぶりに父上にあえる。少しならプールに入っていいか聞いてみよう。



 *


「放し飼いでも問題ないだろ」


 夜の旧校舎の中、一室だけぬくもりを持つ部屋がある。視聴覚室に集まった面々の中、プルートがきっぱりと言い放った。その目はごろりと転がっただらしない格好でゲームをするレインに向けられている。唐突に訪問してきた彼に驚いたシヴァーとルミナスだったが、プルートは別に深い意味を持たずにやってきたようだ。この時代にテンプレートと化したツンデレ台詞を吐きまくる彼は、つまりは平常運転だった。

「……言っておくけどな。僕は別に、あいつの心配をしてきたわけじゃねえぞ。一応封印を解くのにも協力したし、僕の血で魔物になったやつだし、つまり僕の専属だから僕の僕であって、理性ない下品な魔物に成り果ててたら困るから様子を見にきたんだ」

「えーっと、つまり心配してきたってことですかな」

「う、うるさいな! お前は相変わらずうまそうな癖に!」

「ちょ、ちょっと! 血はあげませんぞ!」

「いらねえよ」

「涎出てますから! オイラ様に何かしたら、それこそなっちゃんに狩られますぞ!」

「ふん、女に隠れやがって、どうしようもないやつめ」

「ガチでどうしようもない男に言われたくないですな。何ですかなその首輪。どうせあの人間のクズ殿に絶対服従の証とかそのへんの、アブノーマルな象徴でしょうが」

「え? 誰がクズだって?」

「ギャーッ!」

 ガラリと扉を開けて登場したのは笑顔のトトだ。あぁ怖い、絶対今の聞かれてた。それでもルミナスを守るように前に出たシヴァーにひらひらと手を振って、その後ろに声を掛ける。

「こんばんはルミナス。遊びに来たよ」

 ルミナスが身を固くしたのが伝わってくる。それを見てトトは柔らかな苦笑を浮かべた。

「そんなに緊張しないでよ。別に、意地悪をしに来たわけじゃない。今夜は君じゃなくて、会いたい人がいてね」

「……誰?」

「うん、そこにいるね。プルートの力で魔物になったっていうハンターさん。ねえ話しかけてもいい? 差し入れのお菓子も持ってきたんだけど」

 掲げる右手にはコンビニの袋。……まるで動物に餌をやりにでもきたようだ口ぶりだ。

「あの。あなたは本来部外者だから、あんまり……」

「そうなの? ねえ、どうしてもダメ?」

「レインさんも見世物じゃないから」

「じゃ、本人が許可すればいいかな」

「……むぅ」

 なんと強引な男なのか。笑顔で押し切り、意気揚々とレインの隣に腰掛ける。レインは迷惑そうにルミナスとトトを見比べ、ため息をついている。

「こんばんは、レインさん」

「……さっきから聞いてりゃ、人を何だと思ってんだよ」

「はは、人じゃないでしょう、もう魔物なんでしょ?」

「そうだよ。お前の血も吸ってやろうか」

「あはは、いいですよ」

「んな!」

 シヴァーとルミナスではない。誰よりも慌てているのはプルートだ。が、トトはプルートの動揺を無視してにこにこ笑っている。……これ、あれだ。またプルートをいじめるためにやってんだなぁ。全てを察したシヴァーは床にマントを引いて、その上にルミナスと座り込む。

「ほら、どうぞ。俺、貴方になら吸われても構いませんよ」

「やっぱりいい。お前のはドロドロしてそうだし、オレの心はまだ人間だから。血なんていらねえよ」

「そうなんですね。不思議ですねえ、プルートも吸血鬼ってわりにはあんまりガツガツしてないんですよ」

「……そうだろうな。プーが半分で、オレが四分の一だから」

「何です?」

「いや。それよりお前、さっきから近いんだけど? 何?」

「あ、ごめんなさい。なんだか俺、貴方のことすごく好きなんです。……どうしてでしょうね、初めて会った気がしないんですよ」

 トトのきらきらした顔に、見守っていたシヴァーは驚いた。爽やかなのに胡散臭い感じを貼り付けていたかと思いきや、トトの目は子供のように輝いているのだ。レインも邪険にすることはなく、ぽんとその頭を撫でてやっている。……なんだ? どうしたんだ? プルートに見せ付けるためだけかと思いきや、普通に自然に仲良しに見える。

 嫉妬で目から火が出そうなプルートはさておき、ルミナスと顔を見合わせて首を傾げた。……案外、レインとトトは相性がいいのだろうか。

 トトはレインにぴったりくっついて楽しそうに笑っている。

「このゲーム、俺も昔やりましたよ。あぁ、今花嫁選びのところでとまってるんですね」

「お前はどっちを選んだんだ?」

「俺ですか? 俺はフローラですね」

「何で?」

「お嬢様っていいじゃないですか。それにゲームの後半でもう一人の幼馴染だった花嫁候補に会いにいってみて、色々想像すると楽しいんですよ。『私は夫も子供もいて若く美しいまま幸せな家庭を築いているのに、貴女は何をしているの?』みたいな」

「ゲスだなお前……」

「ええ? でもほら、そうして傷心の幼馴染まで、『俺は変わってないよ』って頂くのが一連の流れでしょう?」

「お前の想像力が一番面白いな、なるほど」

 ふむふむと頷くレインに、黙っていられなくてシヴァーは声を張り上げる。全国の男がこんなゲスかと思われたら困る。仲良くくっついている二人の間に割り込んだ。

「いやいやいや! そんなんで嫁を選ぶなんて言語道断!」

「ヴァッくんはどっち?」

「オイラ様は断然ビアンカ! 一緒に冒険した思い出は色あせませんからな! 多分あの夜、将来の結婚を誓い合ったのでしょう。それをきっちり守って結ばれることこそロマン!」

「なにそれ」

 ふふ、と優しい笑顔で切り捨てるトトが憎らしい。

「そんなの守ってたら、お嫁さんは何人になるのかな」

「何人と約束したんですかなスケコマシ殿! 見損ないましたぞ!」

「いいもん、どうせ人間のクズだもん。見損なっていいもん」

「くそ拗ねやがっただと……!」

「シヴァー、君の夢見る童貞思考には本当にがっかりしたよ……ぷ」

「きーむかつく! レイン殿! レイン殿はオイラ様の気持ちをわかってくれますよなあ」

「うーん……まあ、それもロマンか」

「ずるいよレインさん、俺の味方でいてくださいよ」

「結局どっちにすりゃいいんだ。おい、ルミ」

「はい?」

「お前はどっちを選んだんだ?」

「それはこの場ではちょっと……でも、わたしはベラが良かったんだぜ」

「お前もガキのころの思い出を重視するタイプか。プー、お前は?」

「……僕はヘンリーかな」

「真顔で男を指名すんなよ。……どうすんだよ、決まんないと進まないぞ。このままじゃオレは魔物のブラウンと結婚することになっちまうな」

「レイン殿! 絶対にオイラ様の意見を聞いてくだされ!」

「だめだよレインさん、俺の味方をして」

「えー、ゲレゲレと結婚すればいいのかよ?」

 ぎゃあぎゃあと会話のドッヂボールが白熱していく。と、がらりと戸を開けてウィルが顔をだした。今晩も見回りをやってきたのか、若干疲れているように見える。いつもより人口密度が多いこと、そしてトトを見た瞬間に彼の顔がいささか苦いものに変わったことにシヴァーは気付いた。……もしかしなくても。

「あれ副会長さん、こんばんは。副会長さんは幼馴染とお嬢様、どっち派ですか?」

「……あ、あぁゲームの話か。いきなりなんだよ。えーっと、オレは本当はマリアが良かったなぁ」

「なるほど、親友と好きな相手の結婚を祝福すると見せかけて、生まれてきた子供は実は自分の子で、郭公として楽しむってことですね」

「はぁ!? 誰もそんなこと言ってないじゃんか! しかも疑問系じゃなくて言い切るなよ!」

「じゃああれですか。普通に三角関係で一人あぶれるってことですか? 金髪の可愛い初恋の相手をあっさり親友に譲るって顔してますもんね」

「どういう意味だよ!……トト。どうしてお前がここにいるんだ?」

 ずかずかと足音荒く詰め寄るウィルに、今晩何度目かわからない驚きをシヴァーは感じた。……先ほどの直感は正しかった。

 ──やはりこの二人、犬猿の仲のようだ……!

 人間だれしも合う合わないという相手はいるものだ。毎朝校門で遅刻をチェックする真っ直ぐの堅物男のウィルが、爽やかに見えて強かなトトの一面をどこかで見てしまえば気に食わないと感じるのも当然だろう。

 ……それを、トトが避けずに真っ向からぶつかっていることが少し意外だ。ひらりへらりと交わしそうなものを。……つまりトトにとっても、ウィルの真っ直ぐな性格が腹立たしいものであることがわかる。

「いちゃいけないんですか?」

「部外者だ、当たり前だろ」

「そうですか。でもそれをどうして副会長さんが指摘できるんですか? 貴方も部外者でしょう」

「……それはっ、その」

「それに俺、プルートの飼い主ですから。そこまで部外者じゃありませんよ」

「飼い主ってなんだよ。友だちだろ。ルームメイトだろ?」

「あれ、お説教ですか。ねえ副会長さん、どうして口を挟む権利があると思ってるんですか? 副会長ってそんなに偉いんですか?」

 ぐぐ、と言葉に詰まったウィルに、どうにかして助け舟を出してやりたい……が、何も言葉が見つからない。シヴァーとルミナスは互いに目を合わせる。あぁ、魔物でも出てくれればこの空気が変わるのに。と物騒なお願いをしてみる。まあそんな都合よくはいかないのが現実だ。

「……トト、お前はオレのこと嫌いなんだよな」

「お互い様でしょう。貴方は俺を嫌ってる」

「そうだよ、オレはお前みたいな不真面目な奴が大嫌いだ」

「おーい、いい加減にしてくれ。結局嫁はルドマンでいいんだな?」

 レインのぼんやりした声が張り詰めた空気をびよんと緩めた。

「お前らケンカはよそでやれよ。それにウィルくんはオレにおにぎりを持ってくる係りだから部外者じゃない」

「い、いつ決めたんだよ、そんな係り」

「でも持ってきてるだろ? ほら、立ってないで座れって」

 ……あのレインが気を使っている、のか。レインを挟んで反対側に座ったトトとウィルは今だに口をへの字にしている。ようやく落ち着いたらしい。

「おにぎり? 何ですかそれ」

 ……と思ったらまだまだ元気そうだ。トトが笑顔のまま鼻を鳴らす。

「いいだろ、オレのだから」

「そんなもの食べるんですか」

「何食おうと勝手だろ」

「俺も何か作ってきましょうか」

「うーん、それより攻略本捲って欲しい」

 そうですか、と素直になったトトを見るウィルの顔はまだ曇っているが、あえて噛み付かないあたり空気を読んでくれているようだ。シヴァーはそろそろと離れ、ルミナスにそっと耳打ちしてみる。

「副会長殿のほうが大人なんですなあ」

「そう思ったんだけど」

「けど?」

「あの人も結構なやきもち焼きだと思うぜ」

 彼女は心から安堵したような穏やかな顔でそんな風に呟くもんだから、シヴァーの心も意味などわからずに温かくなる。

「ところでなっちゃんは本当はどっちをお嫁さんに選んだんですかな?」

「ふふ、内緒だぜ」



「……俺、このゲームが羨ましかった」

 攻略本をぺらりと捲りつつ、ふいにトトが呟いた。レインが画面を見つめたまま問う。

「なんでだよ」

「レインさん、この後の話を知ってますか?」

「ネタバレか? まあ先に四コマを散々読んだから、知ってるっちゃあ知ってるぜ」

「この後、お嫁さんとの間に子供ができますよね。そして主人公たちと引き離される」

 レインの目が、画面から動いた。トトではなく、ウィルを見ている。ウィルはその視線に戸惑ったように眉を下げた。そんな彼をしばらく見つめてから、レインはようやくトトを見る。

「……俺も同じなんです。家族がいなくなってしまって。このゲームの子供たちと家族は離れ離れになっても、ちゃんと再会できるじゃないですか。それなのに、俺の家族は帰ってきてくれないから……。」

 しんと、深い海の底に落ちていくような声だった。トトは一度二度と瞬きして、それからあはっと笑い出す。

「ごめんなさい、暗い話題になっちゃいましたね」

「僕がいるだろトト」

 たまらず声を上げるプルートに、君じゃあねーと笑うトトの笑顔はどこかぎこちない。その横でもうゲーム画面を見ているレインと、どこか沈痛な顔でシャツを握り締めるウィルの表情が対照的だった。……まじめな彼のことだ、先程のやり取りについてトトの複雑な事情を加味し、言い過ぎた、もっと優しくしてやれば、とでも思っているのかもしれない。

 トトの性格が真っ直ぐにひねくれているのは、どうやら複雑な家庭事情があるようだ。

「……トト、お前の授業参観に行ってやろうか?」

 再び画面から目を離したレインの言葉に、トトがえっと目を丸くした。

「遠慮すんな」

「あはは、それはかなり嬉しいです。でももう、高等部だとそういうのはないんですよ。ねえプルート?」

「そうだよ。大体なんて名乗ってくるつもりだったんだ」

「“トトくんの父ですが”」

「即効でばれる嘘つくなよ! そんな若作りの親父がどこにいるんだ!」

「お母さんの……まあ……そういう……」

「公言できないような間柄を匂わせんなよ!」

「うるせえぞプー。お前の三者面談にも行ってやろうか」

「蝋人形にしてやろうか? みたいな脅し文句風に言うなよ。生意気だぞ僕の血で魔物になったくせに」

「マモノー四分の一なんてマヨネーズよりも低いだろ」

「カロリーみたいに言うなっ」

「おっと、戦おうとするなら狩るぞ」

「脅すな! もういやだ! お前みたいな奴に関わった僕がバカだったぜ!」

「帰るのか? ピュアセレクトくん」

 帰ったるわ、飛び出していったプルートを一瞥し、困ったように笑いながらトトも立ち上がった。

「さて、あっちは放し飼いにはできませんからね。俺も帰ります」

「……また来るか?」

「ええ、きますよ。副会長がいないときにでも、ゆっくりと話しましょう」

「最後の最後にケンカを売るなよ。明日は遅刻ギリギリにくるんじゃないぞ」

「最後の最後にお説教ありがとうございます。それでは。……シヴァー、ルミナスもおやすみ」

 

 トトが出て行って、ようやくシヴァーは深呼吸をした。なんとなく怖いイメージは拭いきれていないのだ。ルミナスと一緒にレインの傍に座ると、彼はウィルの作ってきたおにぎりをほおばりながらご機嫌なご様子だった。

「この時代は楽しい」

「はあ?」

 水筒から出した味噌汁をシヴァーたちにも勧めていたウィルが唖然とする。

「ゲームとかのことか?」

「それもあるけどな。飯もうまいし、色々食えるし、面白い奴がたくさんいる。オレがいた時代とは大違いだ」

「今もいるだろ、レインは。今生きてるだろう?」

「生きてるか?」

「……生きてるよ。確かに肌は冷たいし、そうやって物を食べてるのも趣味の範囲かもしれないけどさ。お前は今ここにいて、考えて、笑って、立派に生きてるだろ」

「豪華なエンディングじゃねえのかこれ」

「まだプレイ中だ」

「じゃ、まだまだ泣けないな。エンディングまで泣くんじゃない、だからさ」


 *


 一週間はあっと言う間に過ぎ去った。シヴァーは図書室の幽霊の謎を追いつつルミナスの狩りを見守りつつ忙しい毎日を過ごしていたため、参観日はあまりにも早い訪れとなった。

 夏休み前、実家に帰る生徒も帰らない生徒も、その学園での生活っぷりを保護者に見ていただく一大イベントとなっている。親元を離れて久しい中等部一年生たちは、懐かしい家族との再会を心待ちにしていた。あまりそのことについて考えていなかったといえど、シヴァーにとっても楽しみなことだ。廊下のガラスの向こう、保護者たちの中から父親を探す。

「シヴァーのお父さん、どんな人ぉ?」

 シオンがのんびりと笑う。

「イケメンですぞ」

「お……おう、そうなんだ。あんたファザコンなんだねえ」

「放って置いてくだされ。母上も美人ですからな」

「ふーん。マザコンでもあるんだ」

 シオン殿、ビークワ。適当な注意をしつつ、窓際のルミナスを盗み見た。彼女は沸き立つクラスメイトと楽しげに談笑している。……彼女の両親は他界している。寂しくないなんてことはないのに、そんなこと微塵も見せない。寮で生活するため、ルミナスの親のことなんて知らない友人がほとんどだろう。ちょっとした優越感と、とても大きな……あぁ、胸が重い。


「よお、元気だったかシヴァー」


 伸びてきた大きな手が頭を撫でた。

 彼女のために、彼女の前ではあんまり喜ばないようにと思っていたのだけれど。……大好きな父の声を聞いた途端、シヴァーは年相応に、ぱっと顔を輝かせてしまった。見上げれば、灰色のスーツをパリッと着こなした父が立っている。その後ろではクラスメイトの父兄が久しぶりの我が子との再開を喜んでいた。教室に笑い声と、幸せが満ちた。

「テストの結果、届いてたぞ。頑張ってるみたいだな」

「そ、それしき当たり前ですぞ! なにせ探偵にとって解答を得ることなんて朝飯前ですからなぁ!」

「寮暮らしはどうだ? 友だちはできたか」

 うおっほん、とシオンが咳払いで乱入してくる。わかったよ、わかってる。

「父上、友人のシオン殿です」

「どーも、お父さん」

「いつもシヴァーがお世話になってます」

「いえいえ! おれの方こそ助けてもらってますから!」

 猫かぶりはうまいんだよなあ。シオンの笑みに父もにこにこと笑っている。それどころか談笑に花が咲き出した。父を取られたシヴァーは教室を見渡し、窓際のルミナスを盗み見た。先ほどまで談笑していたクラスメイトは皆親の元だ。……ルミナスは、一人ぼっちだった。長い黒髪を風に揺らしながら、いつもより少しだけ微笑んで頬杖を付いている。その笑みは、寂しさを覆い隠そうとした必死なものに見えた。

「……なっちゃん!」

 咄嗟に声を上げる。教室の端っこと端っこ、ガヤガヤとにぎやかな中でもシヴァーの声を拾い上げてルミナスが振り向いた。こっちこっちと手招きすると、おずおずと席を立って緩慢な動作で歩いてくる。……遠慮なんてしなくていいのに。いや、そうさせたのは自分かもしれない。ルミナスに妙な気を遣うよりも、こうしてさっさと呼ぶべきだった。

 シオンもそれに気付き、空気を読んでくれたようだ。にんまりとチェシャ猫のように微笑んで、ご紹介頑張ってねと席を外してくれた。

「おお、なんだよシヴァー。お前も隅に置けないなぁ。もうガールフレンドができたのか。(仮)じゃないガールフレンドだろ?」

「ちょ、ちょっと父上。余計な詮索する前に、なっちゃんですぞ、なっちゃん」

 ぐい、とルミナスの両肩を掴んで前に立たせる。父は目を丸くして、うん? と首を傾げた。

「あの、お久しぶりです。ルミナス、です」

「ルミナスちゃん……?」

「ほらほら、お隣の」

「あ、あぁ、あぁー! 大きくなったね」

「はい。あの頃はお世話になりました。今はシヴァーとルームメイトで、また仲良くさせていただいてます」

 ぺこり。一礼と共にスカートと黒髪が揺れる。父はというと、おおよそ普段はしないぽかんとした顔をして、上から下までルミナスを眺めた。

「びっくりしたのよ」

「……“のよ”?」

「──んんっ! おっと失礼、喉の調子が悪いな。ルミナスちゃん、久しぶりだ。随分可愛くなったなぁ、おじさん驚いちゃって」

「おんやぁ。父上もなっちゃんが女の子って分かってたんですかな?」

「もちろん。……え? 何。シヴァーはルミナスちゃんを男の子だと思ってたわけ。こんな可愛い子を」

「……オイラ様の灰色の脳細胞の調子が悪かったようで」

「ええー、だって一緒にお昼寝もしてたし、一緒にお風呂も入ってただろ」

「お風呂? そそそそそそ、そんなことまでしましたかな!?」

「たぶん」

「父上! テキトーなこと言わないでくだされ!」

「言いたくもなるだろー。しかも今ルームメイト? すげえな、まるで少年漫画の主人公じゃね-か。ルミナスちゃん、身の危険を感じたらおじさんに言うんだぞ」

「父上! んもー変なこと言わないでくだされ!」

 ぽかぽかと父を叩くと、ごめんごめんと笑顔が返って来る。……優しくて頼りがいのある父のことを、シヴァーはとても尊敬しているし大好きだ。久しぶりに会えてとても嬉しい。

 だから、隣でルミナスが首を傾げていることに気が付かなかった。


 ──シアングさん、感じ、変わった?


「おやお若いお父さん。さぞかし遊んできたようで」

 ぽんやりした声が割り込んでくる。腕を組んだレインがいつの間にか後ろに立っていて、シヴァーの父を挑発していた。

「うちの娘にちょっかいかけないでくださる?」

「ちょ……えーっと、どちら様? ルミナスちゃんが、娘?」

「そうだよ、悪いか」

「何この人怖い、ルミナスちゃんの親戚の方……? いや、でも……」

「レインさん、来てくれたの?」

 無礼な口をきく男に無礼に頭を撫で回されながらルミナスが問う。

「もちのロンだろ」

「さっきからその変な言葉はどこで覚えてきたんですかな……父上、この方はなっちゃんの後見人みたいな感じですぞ」

「後見人って、え? 若すぎるだろ?」

「吸血鬼舐めんな、若く美しいってのが取り柄の生き物だぞ」

 その程度しか取り柄がないんかい、とツッコミをいれるより、クエスチョンマークを浮かべまくっている父親をうまく誤魔化す方が優先順位では高い。シヴァーはすぐさまその結論を導き、こそこそと耳打ちした。

「ちょっと頭が中学二年生な方なので、気にしないでくだされ」

「聞こえてるぜヴァッくん」

「無視無視、細かいことは無視に限りますぞ」

「えええ、でもルミナスちゃんの後見人なんだろ? 大丈夫なのかぁ? やっぱうちで面倒みるべきだったんじゃないか……」

 オロオロする父とは対照的に、ふんはと鼻を鳴らすレイン。確かになぁ、うちで引き取ったほうがよかったんじゃないかなぁ。

 ……でもどうして、あの時父上はなっちゃんを引き取ってくれなかったんだろう? オイラ様、何度も何度も泣きながら頼んだのにな。人の子だから大変なのかなぁ。

 シヴァーの憂いは、その後の散々な授業参観によってきれいに忘れ去られることになる。大暴れし挙句、無粋な野次を飛ばすレインに対して真っ赤になるルミナスが見れたのは、少しだけ貴重だったのでよかったけれど。


 *


 授業参観後。放課後の部活に励む子供たちを見る親たちもまばらな校舎内。中庭を散策していたシヴァーの父は、ふと足をとめた。

「さっきから何の用だ?」

 振り返らずに問う。ザ、と風が木を揺らしたかと思うと、その影が大きく震えた。ぬるりと這い出てきた存在は、銀色の銃を握っているのが気配で分かった。

「ハンターの武器を持った吸血鬼は初めてだな」

「目ェ見て話せよ。さっき担任の先生も言ってただろ?」

「オレはここの生徒じゃない」

「そうだよな。お前がこの学園の生徒であるわけがない」

「振り返っていいのか?」

「もちのロンだ」

 アホみたいな言葉を大真面目で言うのが面白くて、振り返ってみたところ何笑ってんだと睨まれた。誰のせいで笑ってると思ってんだ?

「ルミナスちゃんの保護者さん。あんたとは仲良くやりたいんだけどな」

「そいつはどうも。安心しろ、保護者会では隣の席に座ってやるよ」

 そういいつつも、レインの持つ銃口は真っ直ぐにシアングの眉間に向けられている。

「腐ってもハンターか。残念だ、いい加減に肩の荷が降りてる頃かと思ってたのに。あんたはどう足掻いても人間でいたいわけだな。……可哀想に」

「何が?」

「あんたの親友がさ」

 レインの眉間に皺が寄った。

「おっと、撃たないでくれよ?」

「そうだな、先に問うべきだった。……“汝は人狼なりや?”」



 *



「あぁ~やっぱり父上のドーナッツは最高ですなぁ」

 目じりを緩め、久々に戻った狭い探偵部内で父のお土産に舌鼓をうつシヴァーに、ルミナスがこっくりと同意を示した。彼女の手もドーナッツが握られている。

「……なっちゃん、今日はお疲れ様でしたな」

「どうして?」

「ほらぁ、レイン殿が指せ指せってうるさかったり、よそのお母さんと有名ホテルのビュッフェの話に大盛り上がりしすぎてたり……あのニート、どっかから完全に間違った授業参観のイロハを覚えてきてましたぞ」

「ふふ、それだけわたしのためにしてくれたんだぜ?」

「んん、そうですかなぁ~」

「そう。あの人、わたしが寂しくないようにって色々してくれてる。……疑ってしまったのが申し訳ないんだけど

「あのやり方でいいんですか?」

「……両親が亡くなって、わたしの日常は終わってしまった。誰かが授業参観に来てくれることなんてもうありえないと思ってた。……協会での生活でもなおさら。だから、とても嬉しかったぜ」

 そう言って微笑むルミナスの笑顔は、透明でとても尊いものに見えた。

 ──協会での生活。

 シヴァーの穏やかな日常とはかけ離れた、ハンターになるための暮らし。それがどれほど辛いものだったのか、聞かなくてもわかっていた。……それでも聞きたかった。けれど、どうしても問うことができなかった。

「シヴァーもお父さんに会えて嬉しかったでしょう」

「は、はい。そりゃもちろん」

「数学苦手なのに、すごく頑張ってたぜ?」

「証明問題だけは得意なんです。探偵だけに」

 そうやって胸を張ると、ルミナスはにこにこと笑ってくれた。自分もにんまりしてからシヴァーはドーナッツに目を落とす。チョコレートの上にシナモンがぱーっとかかった、一番好きな味。


 ……ふと、考えた。


 ルミナスの日常。途切れてしまった平和だった日々。

 両親を生き返らせることはできない。けれども今だって、一応平和な地上じゃないか。……いや違うだろ、そんなんじゃないだろ。第一夜になればまた彼女は戦わなくてはいけないのだ。人狼がいる限り。

 ならば、自分のすべきことは。復活するという人狼の正体を誰よりも早く突き止めて、彼女を完全な平和の中に押し入れることじゃあないだろうか。


 ──そうだ。そうしてみせる。

 手始めに何かな、図書室の幽霊でも謎解きしてみるかな?

 調度夏休みだし、時間はたくさんあるし。


「シヴァー、ぼうっとしてどうしたの

「あぁ、ドーナッツの穴について考えてましたぞ。穴だけ切り取るのってどうすればいいのかなって」

「むぅ、周りのドーナッツがあるからこの穴があるわけだから……不可能だぜ」


 ドーナッツがあるからこその穴。

 そして危険があるからの日常。

 ……そんなのってない。日常は日常であるべきだ。


「ふむ。……こうすればッ! 可能ですぞ! 穴は我が手の中にあり!」

「あ、ずるい、全部食べる気だぜ!」

「そして大気と同化──! QED、証明完了!」

「何も証明できてないんだけど」

「とにもかく! オイラ様頑張りますからなぁ! 明日っから図書室に通います! 必ず全ての謎を解いて見せますぞ!」

「む、むぅ? 頑張れだぜ」


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