第二章
第3話 【旧校舎の怪人】
「ルミナス君だなんてもう言えないよねー」
「早く言ってくれれば力になれたのにぃ」
「むぅ」
女子たちに囲まれてきゃいきゃい騒がれている当の本人は、どことなく状況を把握できていないようだ。困ったようにあっちにこっちに視線をやって、口ごもってしまう。
「しかしルミナス。シヴァーと同室なのはどうにかならないのかね?」
独特のしゃべり方をするクラス委員、スピカの問いにも答えられないルミナスを見て、スピカははああとため息をついてみせた。
「君も君だぞ。自分の性別が間違われているというのにそれに甘んじていただなんて」
「学園の決定に逆らう理由はないんだぜ」
「あるだろう、大有りだろう! ましてや思春期の男女が同室なんて……! 私は断固として反対なのだよ」
「……別段困ったことははないんだけど」
「うーむ、やはり君のというべきか。問題が大きいようだね」
腕を組みながらスピカがシヴァーに視線を寄越してきた。そのとげとげしさといったら。……シヴァーは膝の上で手を握り締めて耐える。いくらルミナスと席が離れているといっても、同じ教室内でのやり取りはここまで響く。破れてしまった男の制服の代わりに女子のセーラー服を身に着けて、長い髪を流したルミナスの姿にクラスメイトたちは最初こそ戸惑ったものの、美少年が美少女に代わっただけだ。女子たちの羨望はそのままに、男子たちのやっかみは好奇心になりあっという間に受け入れられと言えるだろう。……シヴァー一人を除いて。
「ねえシヴァー」
つん、と背中をつつかれて振り返れば、シオンが笑っていた。
「いまどきありえないよね、同世代の女の子と一つ屋根の下って。寮自体分かれてるのにさ? ねえどんな気持ち?」
「オイラ様の顔で察してくだされ……」
「ありゃりゃ、相当参ってるね?」
シヴァーは机の上に上体を倒す。案外勢いがついてしまって、がんと大きな音が立った。
人狼騒ぎから一週間後、大型連休を間近に控えた四月の終わり。
ウサギの死体はぱったりと途絶え、事件は犯人不在のままゆったりと風化していった。高等部の生徒が三人ほど行方不明になっただのと今だ尾ひれが千切れて流れているものの、シヴァーはそれどころではなかった。
ルミナスが、男ではなく女だったこと。
幼馴染でありながら異性であることに気付かず、ましてやルミナスから打ち明けられたわけでもない。偶然にも知ってしまった事実はシヴァーの心を大きく揺さぶった。……自分勝手だと理解しているが、その衝撃の正体は“裏切られた”という感情に近い。ただでさえ、女子への興味が強い年代だ。しかし現実、手の届く範囲目の届く範囲にその女子が存在してしまうと、途端に混乱してしまって一週間避け続けてきた。なにしろ雑誌もビデオもすべて平坦だったのに、立体で、しかも無碍にできない関係性を築いている。格好をつけたい、大人ぶりたい、それでもどろどろとした自分も存在する。
「……うらやましいと思うけどなぁおれは」
「シオン殿、オイラ様の立場になってみればわかりますぞ」
「え、代わってくれるの?」
「あ、ダメ! 絶対ダメですからな!」
「ふーん。いいなー、ねえねえ、具体的にどんな感じなの? 三日も一緒にいれば色々あるでしょ」
「どんな感じでもこんな感じでもありませんぞ」
「えー、何もしてないの? 意気地なしィ。ルミナスって結構キレイな顔してるのに。髪もつやつやだし、すらっとしてるし、魅力的だと思うけどなぁ」
「……魅力的でも。それが女の子だからそう思うのか、なっちゃんだからそう思うのか、それが判断付かないうちは……」
シヴァーの一言に、ぶ、っと噴出したシオンがばしりと背中を叩いてきた。
「あんたって意外に紳士なんだね。何? 体目当てかそうじゃないかってこと?」
「しーっ! 滅多なことを言わないでくだされ!」
「そう言われてもね。またおれの家に転がり込まれてもねえ。まああんたとしてもショックだったってのは分かるけど……ん? まさかホモじゃないよね。何故女なんだってことじゃないよね?」
「当たり前ですぞ。オイラ様のその辺の事情はシオン殿だってよく分かっているのでは」
「そうだよね。ボイン好きだもんねー」
「ぎえー、そういうこと言っちゃダメ!」
けらけら笑い出したシオンの口止めは困難だ。シヴァーは赤くなって青くなって、それから襟首を掴んで謝らせた。人狼騒ぎのあの日こそ家に帰ったものの、それから三日間はシオンの部屋に世話になっていたのだ。その間にあらかた覚悟は決めていたものの、三日前からルミナスと同室に戻ってみると……やはり戸惑うことが多かった。今まではなんともなかったことに対するその感情はシヴァーの体に疲労となってのしかかり、夜なんてまともに眠れないことが多かったので、この数日の授業態度は最悪なものとなっているのは仕方がない。
「シヴァー」
いつの間にか、ふわり、と花の香りをまとったルミナスが立っていた。長い黒髪が白い肌に映える。スカートから伸びるしなやかな足に目のやり場に困り、咄嗟に顔を背けた。
「な、なっちゃん。何ですかな」
「話があるんだけど」
……どきりと心臓が跳ねる。十中八苦、ここ数日の態度のせいだろう。見れば、シオンがにやにやと笑っている。
「えーっと、後でもいいですかな? 放課後家に戻ったときでも」
「後回しにすると貴方は部屋から出てこないから」
「え、えーっと、えっと、そのぉ……」
「ねえルミナス」
口ごもるシヴァーに代わって、シオンがにこやかに話を変える。
「目の色、帽子のツバに隠れて左の赤しか見えなかったけど。右は紫なんだね、おれと同じ色だ」
「……そうかも」
「ついでに同じ色の目同士、部屋一緒にしない?」
「シオン殿、何を!」
「いーから黙ってろって」
「わたしは、シヴァーと同室で困らないぜ」
ルミナスのきょとんとした声にシオンがほくそ笑んだ。
「どうしてさ。男と同じ部屋だよ? それともシヴァーにこだわる理由があるのかな?」
「シ、シオン殿!」
「うるさいなあへたれ虫は黙ってろって。で、どうなの?」
「学園が決めたことだから」
「何それ。だってこの学園が、あんたの性別を間違えてたんだよ? もう間違いは正されたじゃないか」
「……むぅ」
……あぁ、ルミナスの癖がでた。どうやら答えたくないようだ。……それがシヴァーに対する感情なのか、単なるものぐさが、それとも何か別の事情があるのか、ルミナスは全てを“むぅ”で包み込んでしまう。
シオンは肩を竦め、椅子をぎいこぎいこやって傍観する体制に入った。ルミナスの視線はシヴァーに向けられる。
「シヴァー」
「なっちゃん、ごめんですぞ。オイラ様ちょっと、お腹の調子が~……」
明らかな言い訳だ。シオンが呆れているのが分かる。それでもルミナスは少しだけ目を丸くして、それならまた後でと席に戻って言った。……やあっと緊張が解けた。ふうとため息をついたところで、シオンがぐりぐりと拳を押し付けてくる。
「あんたって」
「言われなくとも! わかってます、ええオイラ様はバカ者ですよ!」
「騒ぐなよ~、ほらトイレ行ってこいって」
シオンに見送られて廊下に出る。教室の中はルミナスへの意識で一杯だが、一歩外に出ればマンモス校特有のなんともいえない空気に代わる。分かりやすく言えば、他のクラスへの興味がないということ。
だからシヴァーもほっと一息つける。ざわめきの中にミニテストの範囲だとか恋の話だとか、いろんなものが転がっている。
「……でさ、旧校舎に黒い影がいるんだって」
「えー嘘だろ」
「まじだよまじ。見に行っていなくなった生徒もいるらしいし」
「それどこのクラスの誰だよ」
「まじだってば! 一枚足りないって声がしてさ!」
「図書室にも幽霊が出るらしいぜ」
「うは、嘘くさ!」
あぁ、怪奇の噂は絶えない。しぼんでしまっていたシヴァーの好奇心がむくむくと大きくなる。何々旧校舎? 自分たちの頑張りが評価されなかった(その道を選んだのも自分たちだが)悔しさをバネに、今度こそ探偵部の大いなる栄光の架け橋にしようじゃないか。
──少し前までは、迷いなくルミナスの手をとったのだけれど。今のシヴァーには戸惑いがある。
女の子を荒事に巻き込んでいいものか。……ハンターとは、何なのか?
もしかして。ルミナスは最初からシヴァーを守るために探偵部に付き合ってくれていたのではないか。いつもクールに歯止めを掛けてくれたルミナスの数々の行動は、幼馴染である自分を危険な目にあわせないように気遣っていてくれたものかもしれない。
……もし、万が一。本当に危険な相手と対峙してしまったら、あの拳銃を抜いて。──考えなくてもわかる。実際に危ない目にあったじゃないか。その時ルミナスは、守ろうとしてくれた。敬愛する父上によく言われた言葉がある。女の子を守れる男になれと。
(それなのに……オイラ様って、格好悪いかも)
*
「へー、案外片付いてるもんだねえ」
放課後。シヴァーが自宅で宿題をしているとシオンが遊びに来た。どうもこうも、微妙な空気になってしまう二人きりの沈黙をほぐしてやるためと言っているものの、目当てはどうみても別にあるようだ。さきほどからちらちらと浴室を気にしてる彼の笑顔に、ぼきりぼきりとシャープペンの芯が折れていく。
「ねえねえ、そういや料理とか洗濯はどうしてんの? 見てんの触ってんの?」
「ご期待に添えないようですが、なっちゃんが洗濯、オイラ様がお料理です」
「あー、シヴァー料理うまいんだっけ」
「父上がね、料理のプロですからね、味には自信がありますぞ……」
「ふーんつまんないの。あーあ、ルミナスはまだかなあ」
「シオン殿、そろそろ戻られてはどうです。宿題をやらないといけないのでは?」
「おれはそんなのちょちょいのちょいだもん。わかんないとこはチェリカ先輩に教えてもらえるし」
あぁ、彼はそういうところがうまいんだよな。用もないのに写真部の部室に入り浸って、あっという間に目当ての先輩と仲良くなってしまったという話を聞いたことがある。
「その先輩って、いつぞやのむちむちの?」
「いーや、チェリカちゃんは先輩っていうかパイセンっていうかナイセンっていうか……それよりボリっさんの彼女とか見てみたいなー、女子大生っていいよね、しかも医学系で白衣きてるんでしょ」
「はあ、そうですか」
「なんだよ、アンタ。自分には関係ない下世話な話題~みたいな顔しちゃって。あーやだやだ、紳士ぶっちゃってさぁ」
「紳士ですぞ」
「嘘付け、変態じゃん」
「失敬な、そんなことありませんぞ! たとえ変態だとしても変態という名の紳士ですからな!」
「うるさいよ、もう本貸さないよ?」
シオンに鼻を摘まれ、シヴァーはぐぬぬと唸る。健全な男子としてそれはなあ。
「と、とにかく。なっちゃんの耳にそんな話入れるわけにはいけませんからな」
「ふーん? うーん、どうしようかなー」
「いいからだまらっしゃい!」
きいいと怒鳴ったときだった。浴室のドアが乱暴に開け放たれる。どたどたと近づいてきた足音と、体への衝撃で机に顔をぶつけたシヴァーは何事かと驚いた。
背中に伝わる熱い体温と、しっとりとした水滴。シオンの目がまん丸になっているのを見て、ようやくルミナスにしがみつかれていると知る。自分とは違うシャンプーの甘い香りに心臓が跳ね上がり、思わず宿題のプリントを握り締めて皺を作ってしまった。
「な、な、なっちゃん? 何事ですかな!?」
「上擦りすぎだよ」
「シオン殿はちょっと黙って欲しいですぞ!」
反応はない。……ワーワー騒ぐのを止めて背中に意識を集中する。……柔らかい。いいや違うって!
「シヴァー……」
ルミナスの声は弱弱しい。それどころか少しだけ震えている。……叫ぶこともできずに飛び出してきたのだ、それほどまでに驚くことがあったのだろう。シヴァーは深呼吸をして、それから改めてどうしたのかと問いかけた。
「お風呂場に、あ、あれが……」
「あれと言いますと、下水道でエンカウントしたりメタルのあのあれになったり、メスのカブトムシに似てるほうですかな?」
「それより嫌なやつなんだけど」
……あぁ分かった、ルミナスは昔から『あれ』が嫌いだったっけ。
「ねえねえ、あれってなにさ?」
「なっちゃんはクモが大の苦手なんですぞ」
「クモ? そんなでかい奴が出たの?」
「こ、このくらい……」
シヴァーの視界に、ルミナスの白い腕がにゅっと突き出される。親指と人差し指の隙間は一センチ、といったところか。
「そんだけ? えー、普通じゃん」
「か、体の大きさはこれ。足はもっと長くて、いっぱいあったぜ」
「そりゃあるでしょ。あー、この辺緑が多いからね。そういうきもいのもいるかもねえ」
うんうん、とシオンは頷いてから立ち上がる。
「ちょっとシオン殿。オイラ様がやりますぞ」
「もちろんでしょ。おれもきもいのやだし。ほら、先歩いてやるからとっとと片付けて」
気遣っているようだ。シヴァーはちらりとルミナスの様子を窺う。
「……安心してよ、さっき見たけどバスタオルは巻いてたよ」
「うー……それはそれで……。なっちゃん、立てますかな。そんな格好でいたら風邪を引きますぞ。オイラ様がぱぱっとやっつけますから、今度はゆっくりはいってくだされ」
「……うん」
立ち上がると、一瞬遅れて背中の体温もくっついてきた。……シオンがにやにや笑っているのが見える。笑えよ、ああ笑えよ。くそう、オイラ様だってちょっとは見たかった! でも振り返ったりはしないんだ!
もうもうと湯気が立ち上る浴室には未だお湯が出たままのシャワーが転がっていた。ルミナスのシャンプーの甘いにおいが一層強くなる。首を振って集中しなおしてから、白い壁についた黒点を見つけたひょいと摘んで、シオンが開けてくれた窓の外へ放り投げる。殺生はよくない。
「さ。なっちゃん。もう追い払いましたからに」
背中に向かって問いかけると、少しだけ困惑した声が返ってきた。
「シヴァー。ごめんなさい、あなたまで濡れてしまった」
「そ、そんなのはいいですから」
「……入る? シャワー」
──なんだよ、それどういう意味だ?
背中にバスタオル一枚らしい女子をひっつけたまま聞くには耐えがたい一言だ。シヴァーはぎゅっと両手を握り締め、何度も何度も深呼吸をする。シオンがまたにやにやと笑っているのが見える。……くそ!
「あ、あのあのあの! オイラ様、夕食前にちょっぴり運動をしようかなって思ってて! いってきますぞー!」
返事を待たずに一気にまくし立てるとシヴァーは浴室から飛び出した。が、玄関前で足とめてUターン。
「シオン殿ご一緒にー!」
「はぁ? え、ちょっと嫌──……」
……。慌しく少年二人が出て行ってしまうと、ルミナスは一人きりになってしまった。
「シヴァー……」
名前を呼んでも返事はない。……避けられていることには気付いていた。
「やっぱり、わたしがハンターで……怖がらせてしまったからかな。前みたいに、仲良くしたいんだけど……」
どうすればいいのだろう? ため息だけが大きく響いた。
*
マンションの周りをぐるぐる何週もして、シオンが降参と喚いたところで二人のジョギングは終了した。
「はあ、はあ、もう付き合ってらんないよ! あんたって本当にバカ! なんでおれまでこんな目に合うわけ!」
「だって! 男と二人にしとくわけにはいかないですぞ!」
「知らないよ! あー疲れた! じゃあね! 無駄に足速いね!」
引っ張っていた手が乱暴に振りほどかれ、シオンはそのまま帰ってしまった。……彼が自室の方面に歩いていったのを確認したので、シヴァーも戻ってきたのだった。
「ただいまですぞーって、あり? なっちゃん?」
しんと静まり返った室内は暗い。時計を確認するに、三十分ほど走っていたようだ。
*
「で、うちに来たとねえ」
ぺペロンチーノの芳しい香りの向こうで少年が微笑んだ。……夕食時にお邪魔することになってしまったが、彼らは気にしていないようだ。青い皿に映えるパスタを見て彼の隣、もう一人の少年が青ざめているのが理解できた。
「嬉しいな。頼りにされてるって感じだね! ここは先輩としてきっちりアドバイスさせてもらおうかな。あ、ルミナスも食べる?」
「いや、遠慮しておくぜ」
「そう。じゃあちょっと余るね。食べるよね? プルート」
有無を言わさぬ笑みを向けられ、青ざめていた少年はもはや蒼白の顔つきになり、それでもおずおずと皿を差し出す。その様子にルミナスはため息をついた。
「その件についても話をしよう」
「どの件?」
「……あなた、初めてわたしたちがお邪魔したときは餃子を焼いていた。夜食にしては妙だと思っていたけれど……あまりにもいじめが過ぎると、協会のほうに掛け合わないといけなくなる」
「ええ? いじめじゃないよ。そうだよね」
「……大丈夫だ。問題ない。一番いいにんにくを頼む」
「……プルートさんは吸血鬼なんだから、にんにくの摂取はもう少し控えさせてあげて欲しいんだけど」
虐げられることに悦びを感じているようなので、虐げている本人──トトに言ってみる。が、トトはどこ吹く風だ。
「にんにく、体にいいんだよ?」
「でも吸血鬼には合わないもの」
「それよりルミナス。髪の毛がまだ乾いてないよ、カーディガンが濡れちゃう──へえ、女の子らしい格好をしてればますます可愛いね」
無遠慮に手を伸ばしてくるトトから逃げるように身を捩る。が、彼はそれにもどこ吹く風なのだ。
「締め付けすぎると痛かったでしょ? 成長期なんだから、胸に無理な負担をかけないほうがいいよ。ルミナスって結構育ってるし、これから大きくなるだろうし……」
「それ以上はセクハラで訴えられるからやめろ!」
「ほら、プルートは元気だよ」
身を乗り出していたトトはプルートに抱きかかえられるように引っ張り戻される。エメラルド色の瞳が敵意を持ってルミナスを見つめてくるので、いよいよもって困ってしまった。
プルートは学生の皮を被った魔物、吸血鬼。トトはただの人間でありながら魔物に心酔し、使役する学生である。彼らは先日に騒ぎを起こしているものの、その処分は保護観察という形で落ち着いた。特にプルートはトトに逆らわないので、トトが一応の身元引受人になっているのだ。
それなのにトトときたら毎食毎食にんにく料理を作ってみたりぞんざいに扱ったりと酷い待遇をしている。……プルートはそれがいいみたいなので、とりあえずは口を挟んだがもう余計なちょっかいは止めておいたほうがいいかもしれない。ただでさえ、ルミナスはトトが苦手なのだから。プルートが反抗し、人間を食らう様子を見せなければいいのだ。今夜のやりとりを見る限りまだまだ当分は大丈夫そうだ。
「それで、シヴァーと仲直りしたいんだよね? でも避けられてる余所余所しいって只事じゃないよね。具体的にはどんな風なの?」
「……なんというか、わたしと一緒にいるのを避ける。前まではゲームしたり話したり、とにかく傍にいてくれたのに。たまに会話をしたと思ったら、すぐに目を逸らしたりする」
「ふーん、他には? あと他には気になることとかないかな? 前と違ったことがあれば何でも教えて」
「うーん……あ、そういえば」
トトに促されて考え込んでいたルミナスだが、思い当たる節を見つけた。あの夜以降、確かに増えた相違点。
「妙に優しい」
「へえ、どんな風に?」
「暫く友達の家に泊まっていたんだけど、帰ってくるなりご飯を作ってくれた。そしたら、何故かわたしにデザートが一品多かった」
「ほうほう、他には?」
「ゴミ出しとか、掃除とかまでやってくれるようになった」
「なるほど」
「そしたら今度は、お花とぬいぐるみを飾ったりして、部屋を可愛らしくしてくれてる。えっちな本も捨てたり、お風呂に長い時間入っていても文句を言わなくなったり、小言が減った」
「……ふふ」
ルミナスの証言を聞き遂げると、トトは何故か笑い出した。逆にルミナスは悲しくなって目を伏せる。
「……やっぱり、怖がられていると思うんだけど。前みたいに仲良くするのは難しい……?」
「あはは、そうだねえ。前みたいには無理だろうね。ルミナスはともかく、シヴァーの方は……」
「お、おいトト」
無神経な一言にルミナスが落ち込んだのがわかったのだろう、プルートがトトを諌めてくれた。しかしトトは笑いを隠さない。
「大丈夫、きっと時間が解決してくれて、別の形に落ち着けるよ」
「お前テキトーだな! そもそもお前がこいつを脱がしたりしなけりゃ良かったのに!」
「あれ事故だって」
「事件だよッ!」
「そういうならプルート、君が尻尾を掴まれたのが原因だよ」
黙って残さず食べてねと皿を近づけられて、プルートは大人しくなってしまった。
「……あの」
「ああ、ルミナス。いいんだよ、君はそのままでね。そういうのは男がどうにかするものだから」
「むぅ……」
「今日はこの辺にしておくといいよ。もう八時になるよ、王子様をあんまり一人きりにしちゃ可哀想でしょ?」
「ありがとう、帰ります」
「うーん、君は本当に素直だねえ。何の収穫もなかったって怒ってもいいのにねえ……」
……あなたたち二人が、とりあえずは仲良しに見えるから、それだけでも十分。
ルミナスはその言葉をそっと胸にしまうと部屋を後にした。……トトの言うことを信じてみよう。時間に任せてみよう。
*
次の日の朝、沈黙の降りた朝食を終え、どこかぎこちないまま二人は学校へと向かった。今日はいつもより時間に余裕がある。……しかしシヴァーは寝不足だった。
昨夜、ルミナスはどこかに出かけていた。今までだったらどこへ行くの一緒だったのに。戻ってきたのは夜の十一時。いよいよ持って、こんなやっかいな自分なんか見限って、もっとデキのいい男でも見つけたのだろうかと悶々と悩んでいたのだ。
……いいや、なっちゃんはそんなことしない。
それでも顔が見れない。視線を落としていると、ルミナスの足が目に入る。すらりと伸びた白い足に紺色の靴下のコントラストが眩しい。スカートがいたずらに揺れるたび、程よい肉付きの太ももがちらちらと見えた。
「おい、シヴァー」
「ひ、ひえええ!」
唐突に掛けられた不機嫌な声に飛び上がる。……目を丸くしているルミナスじゃない。声の主は朝の門番、ウィルだった。
「あぁなあんだ、副会長殿ですかな。何をそんなにいらいらしているのです、乳酸菌とってますかな」
「何回も呼んだのに返事しないからだろ」
「はあ、それは失礼を……」
「ったく、女の尻ばっかり見て、お前って本当に不純だな。その精神を叩きなおしてやるから剣道部にこい」
「み、みみみみみ見てないですぞ! やっだなーもう!」
「シヴァー?」
「なっちゃんも気にしないで! 世迷言ですからな! まったく副会長殿ってば、寝不足のあまり幻覚を見ていらっしゃるようで」
シヴァーの必死な自分へのフォローを聞き流し、寝不足? とルミナスが問う。聞き返されてシヴァーもはっとする。適当に言ったつもりだったが、ウィルは確かに眠そうだ。
「また見回りでもしているのですかな?」
「そうだよ。今度は旧校舎。夜な夜な忍び込んでる奴がいるらしくて」
「ほえー、そいつは大変ですな」
「お前探偵部の部長だろ、とっとと捕まえてくれ。外をうろうろしてもどうしようもないんだよ、でも旧校舎の中までは入れなくて」
「鍵が閉まっているとか」
「旧校舎に鍵なんて掛かってない」
ぽつり、と呟いたルミナスの声に、ウィルが顔を強張らせた。シヴァーはぴんと閃いた推理を口にしてみる。
「ふっふー、副会長殿。怖いのですかな?」
「はあ? そ、そんな訳ないだろ。学校の秩序を守るのが生徒会の役目なんだから……」
「鍵は掛かっていないのなら、乗り込めばいいと思いますぞ。それなのにそうしなかったのは……」
「ばからしい! 何が旧校舎の怪人だよ、ただの不審者か生徒のいたずらだ!」
「ならば何故踏み込まないのです?」
「ばからしいって言ってるだろ!……それよりルミナス! お前、女だったんだな? なんで早く言わないんだよ」
明らかに矛先を変えたウィルに、ルミナスは目を瞬いた。
「わたし? 別に困ってないぜ」
「そういう問題じゃないだろ!」
言うなり突き出された竹刀に、ルミナスが身を固くした。咄嗟に伸ばしたシヴァーの手が剣先を掴む。
「……またセクハラですかな、副会長殿」
「不祥事にしてくれるな。今のは冗談だよ、この前は悪かった」
「ふん、わかればいいんですぞ」
「お前なぁ!」
わぁわぁと喚く副会長を見下ろすことのなんと愉快なことか。……あぁまずい、これではあの人間のクズと同じじゃないか?
自分が危険な遊びにハマる前にシヴァーは回れ右。
「……オレはあのとき、帽子に注意しようとしただけなんだ、本当だ……!」
「わたしは制服のことかと」
「普通! 女が! 男のもんの制服着るわけないだろ!」
「その常識をぶち壊すだぜ」
「ルミナス! お前っ!」
「……わかってる。痛かったんだけど、もう別に気にしてないぜ」
痛かった、という言葉を聞けば気遣ってしまうのが人の性。シヴァーとウィルは同時に視線を動かし、同時に逸らした。口元に手を当て、その肘をもう片方の手で引っ張るようにして考えるルミナスの癖によりきゅっと盛り上がった膨らみがピュアな心臓をぎゅっと握りつぶすのだ。
「……二人とも? 何か?」
いえ、何も。
*
「……あり?」
昼休み。教室の中をぐるりと見渡してもルミナスの姿が見つからなかった。
「嫁さんをお探し?」
「何をいいますかなシオン殿」
「ルミナスでしょ? どっかいっちゃったよ」
椅子に寄りかかったままシオンはパンの袋を咥えた。手と口で器用に行儀悪く開封すると中のカレーパンをかじる。
「それでカレーの妖精殿、どこかとは?」
「失礼だね。ていうかあんた、お弁当は? 作ってきてるんでしょ?」
「……なっちゃんの分しか用意してませんな」
「だーかーら、そのなっちゃんはいないんだって」
だからおれにちょっとちょうだいよ、という甘えをさっくり交わす。
「いない?」
「そうだよ。あんたばっかり逃げ回ってて気付かなかったと思うけど、最近ルミナスも休み時間ごとにどっかいってるんだよ。離婚かな? 別居かな? 裁判かな?」
にやにやと茶化すような笑みがぐさりと刺さった。シヴァーの顔が曇ったのをみて、シオンがのんびりとフォローをいれる。
「食べ物持ってったから、ご飯はちゃんと食べてるみたいだよ」
「……それが、何のフォローになるんですかな」
「栄養面かな! でもさぁ、誰だって避けられたら悲しいじゃん。理由もわからなかったら余計にじゃない?」
「理由もなんて、その」
「おれはあんたが戸惑う理由もわかるんだけどさ。ルミナスにとって、それは理由たりえなかったってことだね」
……朝の登校は普通だったのに。いよいよ持って、本当に愛想を尽かされてしまったのか。
シヴァーは悲しくなって俯いた。シオンがにやにや笑いを消して気遣うように見上げてくるのが余計に現場をリアルにしているような気がする。
「……仲直り、できそ? おれもなんか手伝おうか?」
「いや……そのぉ……」
「分かってるよ、喧嘩でも何でもないことくらい。ただね、あんたは自分の戸惑いを正直に伝えた方がいいよ? さっきも言ったけど、理由もなく避けられのって辛いから」
「でも……そしたらなっちゃんは、出て行ってしまうのではありませんか?」
「あぁ、それは嫌なんだね。そんでその通りだね」
「だったらどうすればいいのです?」
「謝って、ちょっと時間がほしいって言えば?」
何だか愛の告白を受けたときみたいだ。自意識過剰みたいでちょっと気恥ずかしい。
「あんた自身迷ってるんだもの。無理に動かそうとすると、ゲームオーバーになっちゃうよ」
*
さて。太陽は一際明るく輝きながら沈んでいった。空は墨を垂らしたように黒に染まり、冷たい風がシヴァーの耳を撫でる。マントの襟を締めなおして、思わず身震いをした。
シヴァーの目の前に聳え立つ旧校舎は、夜よりも深い闇を窓ガラスの奥にはらんでいる。裏山へと続く洞窟のような外観の校舎は、誰がどうみたって恐ろしいものだ。好き好んで近づくものは皆無だろう。
……今のシヴァーはルミナスの変化に戸惑うばかりで簡単に受け入れられない。けれどもさこのまま距離を空けて離れることは嫌。時間を稼ぐためにも、ルミナスを惹きつけるだけの力が欲しい。その自信をつけるためにも、彼女の手助けなしに探偵として花火を打ち明ける──という段取りをシオンにずばり教えて頂いた。そのまんま丸呑みするのはちょっと格好悪いけど、自分で思いつかない以上仕方がない。
さて、とシヴァーは旧校舎のガラス戸を開ける。音もなく、抵抗も無かった。途端にまとわりつく生ぬるい風空気──なんだなんだ、このおぞましい感じ。尖った耳にまで鳥肌が。外よりも濃い闇がカサカサと逃げ出したような、そんな錯覚だった。真っ暗な廊下は、まるで巨人が口を開けて待ち構えているようにも見える。生臭くて、臭いような……。
(オイラ様……一人で本当に、旧校舎の怪人とやらの謎が解けますかなぁ)
心にざわざわと影が落ちた時だった。ひゅっと廊下に光が走る。声も出ないほど驚いたが……あれはどうやら懐中電灯の丸い光だ。よくよくみれば、下駄箱の影で誰かがしゃがみこんでいる。おやおや?
「……副会長殿?」
「ギャアアアアアア!」
「ギエエエエエエ!!」
「おおお、脅かすなよ! 何だよ、シヴァーかよ!」
「驚いたのはこっちの台詞ですぞ! プンプン!」
わざとらしくむくれながら暴れる心臓を宥める。大声を出されて驚いたが、突如背後から声を掛けられたウィルはその比ではすまされなかったようだ。しゃがんだまま睨んでくるところをみるに、腰が抜けたのか?
「遊びに来る場所じゃねえぞ、ここは!」
「違いますぞ、オイラ様は謎解きにきたんですからな! 探偵を舐めるなよ!」
「……そうか」
おや、意外にも殊勝なことだ。相変わらずしゃがんだまま、いつもは規則規則とやかましい口をへの字に結んでウィルは黙りこんでしまった。しばらくの沈黙を味わった後、ようやくぽそりと呟く。
「……オレも不審者を捕まえにきたんだ」
「おやまあ。で、その不審者はどこに?
「まだ見つけてないよ」
「あれれ~? では何故こんなところにしゃがみこんでいるのですかな?」
「お前意外に嫌な奴だな! オレはその、えっと、ここで様子を伺ってだな!」
「なるほどう。いざ飛び込んでみたら怖くて動けなかったということですか。異議なし!」
ぐう、とウィルの喉が鳴った。そのままじっとこちらを睨みつけつつ、竹刀の先でつついてくる。
「ちょ、ちょっと止めてくだされ」
「結局お前は遊びにきたんだろ? 帰れ」
「何を言いますかな!」
「まあどうしてもって言うなら、一緒に行ってやってもいいけど。オレは生徒の安全を守らなきゃいけないから、危なくなったら帰るんだぞ」
清清しいまでの偽りの優しい笑みと差し出された手に、シヴァーはぽかんとしつつもその手を取った。まあいいか、自分も心細かったし。人間不思議なもので、自分よりも怯えている人間がいるとその分だけ冷静になれるというものだ。そのままウィルを引っ張って立たせてやると、今度はウィルが驚いた顔をした。
「シヴァー。お前チビの癖に力あるんだなあ」
「一言余計ですぞ」
背の低い下駄箱を抜けると、今にも抜けそうな木の廊下が長く長く続いている。その壁にはいつのものか分からないほど色合わせた掲示物やら、旧校舎にありがちな似顔絵の絵やクラスごとの習字が張り出されているがどれもこれも不気味だ、非常に見たくない。隣を歩くウィルの懐中電灯が床しか照らさないところを見るに、この副会長も相当びびっているようだ。
……こんなときに、なっちゃんがいてくれればなぁ。なっちゃんならクモとか足の多い虫以外怖がらないから、ずんずん進んでくれるだろうに。
──ダメだ。何を頼ろうとしてるんだ。なっちゃんの力を借りないで解決するって決めたじゃないか。
「怪人の一人や二人、ぶっちんぶっちん言わしてやりますぞ!」
「な……なんだよ、急に大声出すな」
「あ、これは失礼……。おやおや、副会長殿。あちらに今明かりが……」
「やめろって、お前が驚かしたから懐中電灯が揺れてスリガラスに反射しただけだからな! というか、大声出すなよ! 不審者に気付かれたらどうするんだ」
「ふむう……怒鳴っているのはウィル殿ですぞ。うむ、理科室とかいてありますが、見ていきますかな?」
「よくない模型があるからお断りだ」
「いや、あのフィギュアは造形いいぜ」
「模型だろ、フィギュアじゃない! って……え?」
「人に注意しといて何を騒いでいるのですかなぁ」
「あ……いや。シヴァー、お前今、フィギュアがどーのって言ったか?」
足を止めたウィルにつられ、シヴァーも立ち止まる。……何を言うのか。模型だフィギュアだって、ウィルが一人で騒いでいたのではないか?
シヴァーの沈黙を察したらしい。ウィルの顔がさっと青ざめる。
「……まあ、なんだよ。そういう時もあるよな」
「は、ははは、そうですな! まったく持ってありふれた日常! ささ、さっさと怪人の謎を解き明かしましょうぞ」
無理やりにも気分を切り替え、理科室の前を通り過ぎる。……埃のにおいの合間を縫って、空の胃袋を揺さぶる香りがしたのは気のせいだろう。おなかが減ってるから、くだらない勘違いを起こすんだ。……ここからでたらおいしいカレーでも作ろうか。
懐中電灯の明かりを頼りに、クモの巣が好き放題している廊下を進む。けれども歩けど歩けど、不審者の気配はどこにもない。
「シヴァー。お前、どこまで知ってる? どこにいるとかは聞いてないよな」
「居場所を知っていたらとっとと突き止めておりますぞ。噂によると、一枚二枚と数を数えているとか」
「それ別の怖い話だろ。今必要ないじゃん」
「でもぉ、確かにそう聞いたんですがなぁ。……というか、副会長殿はやはり怖い話が苦手でいらっしゃる」
「違うよ!」
「見栄張らなくてもいいんですぞ、オイラ様、学年一口が堅い男ってことで有名で……」
「口は堅くても頭は緩いだろお前」
「うわーん酷い! 訴える、そして勝つ!」
シヴァーの声が廊下に響く。……すると。若干緊張の糸が緩んだのか、ウィルがくすりと笑った。
「お前変なやつだなぁ」
「明日の遅刻は目をつぶってくだされ」
「何でもう前提になってんだよ、ちゃんとこいって」
年上ながら、笑った顔は子犬のようにあどけない男だ。堅物かと思いきや面白いところもあるじゃないか……とシヴァーがしたり顔で感心したときだった。右足が何かに引っかかった。
何だ、と目線を下にし──凍りついた。右足にぐるりと巻きついた黒い髪。一本や二本ではない、女一人の頭分はある量だ。その黒い髪の隙間から、真っ赤に血走った目がシヴァーを睨んでいる。
「ひ、ひ、ひょええええええええええ!」
悲鳴を搾り出した瞬間、シヴァーの体は恐ろしい力で暗闇に引きずりこまれていく。シヴァー、と真っ青な顔のウィルが手を伸ばしてくれたものの、その指先は掠りもしなかった。廊下の角へ、階段へ。旧校舎の奥へ、奥へ。理解できないおぞましい力に蹂躙されるまま、シヴァーの体は引っ張られていく。床板に捕まろうとがむしゃらにもがいたものの、シヴァーの力は何の抵抗すら許されなかった。
「……、……」
耳元でもぞもぞと髪の毛が揺れる。……何か言っている。
「………と…、……た」
「ば、化け物……離してくだされ!」
気色悪さとおぞましさに、シヴァーは一際大きく暴れた。すると何の前触れもなく突如目の前で光と音が炸裂し──薄暗い廊下を煌々と照らしたのだ。
「むぉ!? な、何事……?」
薄暗い環境に目が慣れてしまったからだろう。シヴァーの目も耳も突然のことに塞がって、何の情報も取り入れることができない。ただ闇雲に手を動かしたとき、ひやりとした物体に触れた。
ぞっとするような感触だった。まるで──初めて触れたはずが、不思議と直感したそれは──死体の腕だった。
*
かちかち、ピコピコピコ。
かちかちかち、ピコピコピコ。
ピピピピ……パララパッパッパー。
懐かしい音。どこか心を揺さぶられる音。シヴァーの鼻先に、何かが触れている。それだけではなく……どうやら柔らかなクッションの上に頭を預けているようだ。甘い香りがふんわりと漂う、まるで桃源郷に寝転んでいるかのような寝心地……。
シヴァーは薄目を開け、一瞬だけぎょっとした。眼前に垂れる黒いものが、あの不気味な髪の毛に見えたからだ。けれどもそれは本当に一瞬だけ。一房の黒髪の向こうに見える、御椀のような柔らかな山。身じろぎが伝わったのか、赤と紫の瞳がついとこちらを見つめてきた。
「……シヴァー。おはよう」
「おはようなっちゃん……今何時ですかな?」
「むぅ、大体夜の九時半くらいだと思うんだけど」
「おはようって全然夜ではないですか」
「うん」
「まぁったくぅ、なっちゃんったらうっかりやさ……んんんんんん!!!」
まるで焼けどをしたかのようにシヴァーはルミナスからぱっと離れた。ルミナスはきょとんとした顔でこちらを見返している。薄手のカーディガンの下にはキャミソール一枚、短パンというあっさりとしたルームウェアの彼女が座っているのは、埃っぽい床の上だ。周囲を見れば、何とまあ。厚手の射光カーテンがぼろぼろの姿で窓をすっかり覆い、小さな机は乱雑に室内──教室の隅へと追いやられている。光源はぼんやりとした室内用ランプと、青い光を出す質量のある四角いテレビだ。あまり大きくなく、まったく薄くない古びたテレビには、どこかで見たゲームの画面が写っている。その前に一人、真っ黒な服を着た人物が座り込んで一生懸命プレイしているようだ。
「ここはどこ? あの人は誰ですかな?」
膝枕も気まずさも、この際忘れることにしてルミナスに尋ねる。ルミナスは姿勢を直し、膝を抱えて答えてくれた。
「ここは視聴覚室で、あの人はわたしの“おや”」
無論、ルミナスがふざけていないのはわかる。けれども理解できない言葉。
「なっちゃん……あの、視聴覚室って……ここは旧校舎では?」
「だから、旧校舎の視聴覚室」
「何故電気が……いやそれよりも、なっちゃんのご両親はもう……」
「両親じゃない。“おや”なんだけど」
「だーもー! 全ッ然わかりませんぞ! というよりさっきのあの化け物は一体、オイラ様はどうして、あー! ちょっと、間男殿! 説明してくだされわかるように! それからいたいけな女子中学生に何を吹き込んでいるんですかな!」
ルミナスでは埒が明かない。シヴァーは背を向けたままの不審者の肩に手を置く。……思ったよりも骨ばった薄い肩だ。けれどもその人物は、食い入るように画面を見つめているままだ。これまた薄い唇から、ぽつりと声が漏れる。
「一枚……二枚足りない……石版、右下のやつ……」
「右下って、さっきの町のツボの中だぜ。ほら攻略本です」
「ルミ、さっさと言え。ツボ、ツボ……あった、で? あともう一枚は? 左下の黄色い奴」
「それはここ」
肩を掴んだままのシヴァーを無視して、男とルミナスは攻略本を見てふむふむと相談を始める。仲間に入れないシヴァーはしばらく二人を見つめていたが、やがて悲しそうに立ち去るでもなく、強引に二人の間に割り込んだ。
「貴様は誰で、ここで何をしてるんですかなッ! 答えないとリセット押しますからな、本気ですぞ!」
「よせやめろ、お前誰だよ」
「貴様が名乗るべきなのですぞ!」騒いで騒いで、それからシヴァーはマントをばさりとやってみせた。そう、クールになれ。「……まあいいです、オイラ様は闇の名探偵シヴァー! そこのなっちゃんはオイラ様の相棒で、旧校舎の怪人の謎を解きにきたんですぞ!」
「がんば」
「きいいー! 済ました顔がむかつく!」
掴みかかろうとした手をすり抜け、ようやく男はシヴァーを見た。色素の薄い肌はプルートのように青白い。眼帯に隠された左目と、ガラス球のような赤い右目。淡いクリーム色の髪の毛が月光のように揺れる。
真っ黒い服、だと思っていたのは身に待っといた闇だった。さっと霧散してしまうと、その下の白いシャツとマッチ棒のようなやせっぽっちな体が露になった。……改めてみて、若い男だ。大学生のボリスよりも少し幼い気がする。
「シヴァー、この人は確かに旧校舎の怪人
ルミナスが伸ばしたままのシヴァーの手を下げさせ、落ち着き払った声で告げた。
「そして、わたしの“おや”」
「おやじゃない。オレはその話をのんでない」
「ゲーム持ってきてあげたのに。じゃあ、もう持ってこない。ご飯も」
「悪魔だなお前。オレがここから出られねえの知ってるくせに」
男は目を細め、ため息を付いた。さらりと零れた髪の隙間から尖った耳が確認できる。
「なっちゃん、この人って……プルート殿と同じように魔物ですかな」
「ううん。……むぅ、いや。かつて人間だった」
風もないのにカーテンが揺れ、その隙間から月光が舞い込んだ。その光の下で、男の目がちらりと煌く。
「151年前、人狼と戦った最強のハンター。それがこの人、レインさん」
「……そもそも、こいつはハンターが何なのかとかわかってないんだろ」
男、いやレインはカップ麺の容器を開けるのに四苦八苦しながら言った。
「ルミ。何の説明もしてないんだな」
「……知る必要がないから」
「あっただろ。実際こいつ、一人でのこのこぱたぱた、こんなところにきて食われかけてただろ? お前が傍についてれば……いや、それでも同じか。とにかくなんらかの対策は打てただろ」
「……必要、あった」
「だよな」
ふふん、と得意気にうっすら笑いながら、手には開けられないままゆがんでしまったカップ麺の容器。……変な男だ。対してルミナスはカーディガンの裾を掴んでうなだれてしまった。
「えーっとぉ、話が見えないんですが……」
シヴァーの催促に、ルミナスはようやく覚悟を決めたようだ。きゅっと手に力を込めてから、後ろめたさからか上目遣いで切り出した。彼女のほうが背が高いので、猫背にさせてしまっているのだが。
「驚かないで聞いて欲しいんだけど」
「聞きましょう。さあ話してくだされ!」
「……シヴァーは、魔物に好かれる。それも、食べ物の意味でだぜ。そういう人間が、たまにいるの」
「それは一体……? あぁそういえば、あの変態マゾヒスト殿にもうまそうだのなんだの言われたことがありましたなぁ。てっきり、そういう意味かと思ってスルーしてたんですが」
「わたしの両親は魔物を狩るハンターだった。……シヴァーの家の隣に住んでたのは、シヴァーを狙った獲物が来るからだって、言ってた」
「ひええ、オイラ様は囮ということに!?……あれ、でも守ってもらってたってことですかな?」
「好きにとってくれて構わない」
「アリシア殿もキーク殿も優しい人でしたからなぁ。守ってもらってたと思いましょうぞ」
半ばやけくそに言ったことだが、ルミナスは目に見えて安堵していた。……そりゃあそうか。誰だって両親の悪口は聞きたくないだろうから。
それから少辛そうに目を伏せ、ルミナスは続ける。
「知っての通り、わたしの両親は死んだぜ。……それからのことはシヴァーも覚えているでしょう」
──それは、今でも思い出すたびに心が不安定に揺れる記憶だった。
その日は雨が降っていた。起床時間だというのに、やけに暗く、どこか赤い景色はとても不気味だった。
ベッドの中でぼうっとしていたところに、シヴァーの父か血相を変えて部屋に飛び込んできて言った。
『お隣さんが死んだ』
すぐに飛び起きたシヴァーの顔をみて、父親は子供心に理解できない表情をして見せた。それは安心をさせるような、悼むような。ルミナスは無事だよ、という言葉はそんな顔から聞かされたのだ。
『なっちゃん! 探しましたぞ!』
ひっそりとした葬式が終わってからも、雨は降り続いた。びしょぬれの世界を駆け回り、シヴァーはルミナスの腕を掴む。冷たい、冷えた体だ。
『さ、帰りましょう』
両親が突然死んで、独りぼっちになってしまったルミナス。ルミナスの行く末を巡って周囲の大人たちは不穏な空気を漂わせていたものの、そんなもの子供のシヴァーにはまったく関係がないことだ。今朝もどうにかしてルミナスをうちに引き取れないかと父に駄々を捏ねてきたところだった。
『帰るって、どこへ? わたしには、もう』
膝を抱えたまま、腕をとられたまま。ルミナスは呟く。
『うちに来るんですぞ。なあに、にぎやかな男所帯。男が一人や二人、増えたところで全く問題はありませんからな!』
『……わたし』
『なっちゃん?』
『わたし、お父さんとお母さんに会いたい。二人のところに行きたい』
座りこんでいたルミナスが立ち上がり、右手を繋がれたまま一歩前に踏み出す。シヴァーは反射的に手を引いて、ルミナスの体を抱きしめた。細い、しなやかな体だ。とくりとくりと聞こえる心音は、生きている証。
小さな二人の前を、列車が轟音を立てて通り過ぎていく。……二人はその音に押されるように、線路脇の草原に倒れこんだ。
『……はなして』
『なっちゃん、いかないで』
『わたし、もう、嫌なんだぜ』
『──ダメですぞ! 絶対ダメ! なっちゃんは──オイラ様は、オイラ様の──』
何を思ったのか、シヴァーの口から出てきた言葉には本人が一番驚いた。
『オイラ様は名探偵なんだから! 依頼を守るのがお仕事なんだから、なっちゃんを無事に連れ帰らないといけないんですぞ!』
ルミナスはぼんやりとした目をシヴァーに向けた。
『名探偵……?』
『そうですぞ! だから、何度いなくなったって探しますからな! 必ず無事に連れ帰らないと、オイラ様は探偵失格になっちゃうんですから! なっちゃんはオイラ様を探偵失格にしたいんですかなッ!?』
……それは、二人で見ていた夕方の番組の話。華々しく活躍する探偵に憧れるシヴァーは、ルミナスと一緒に何度もごっこ遊びに励んだのだった。
涙を零しながら告げるシヴァーの目をルミナスはじいっと見つめていた。濡れた黒髪の間からこちらを覗く瞳は、透明な色だ。……そっか。そういってルミナスは笑った。
『じゃあ、仕方がないぜ……』
ルミナスは何度もいなくなって、そしてシヴァーは何度も迎えにいった。それは、何度も何度も繰り返されたこと。
「その……当時はなっちゃんのこと男の子だと思ってて、大事な友達で……放っておけなかったんですぞ」
「感謝してるんだぜ」
「て、照れますな、それではその、続きをどうぞ」
「しばらくしたらハンター協会から連絡があった。わたしの両親の代わりのハンターがあの家の傍にくるってことと、わたしを次の世代のハンターとして教育したいって。わたしはその話を拒む理由がかなったから、あの地区を後任の人に任せて協会へ行って……。今年、魔物の長である人狼の封印が解けるから、封印場所であるこの学園へ行けって命令がきて、ここに来た。そうしたら貴方にと再会できたの。人狼復活に向けて魔物の動きも活発化するから、狙われやすい貴方を守ろうと決心したんだけど……」
──先日の騒動がフラッシュバックする。
「わたしは役立たずだぜ」
「で、でも。オイラ様をプルート殿から逃がそうとしてくれましたぞ」
「でも、撃てなかった。あの距離で狙いを外すことなんてないのに……手が震えて。……今度ああいうことがあったら、貴方を守れないから、それじゃあダメだから……。レインさんの封印を説いて、戦い方を教えてもらおうと思って
「ハンター間じゃ、師匠のことを“おや”と呼ぶんだ。六人まで弟子を取ることができて、ジムリーダーと戦ってバッヂを八個集めるのが目的だ」
「真顔でボケないでくだされ! 今なっちゃんと話をしているんですぞ!」
割り込んできたレインの手からカップ麺の容器を奪い、開封して付き返す。レインは大人しくしゃがみこんで、電気ケトルのスイッチを入れている。
シヴァーはルミナスに向き直り、顔をしかめる。」
「この引きこもりがなっちゃんの役に立つんですかな?」
「この人はもともとすごい人。……人間の英雄だったけど、人狼と戦って何とか封印はしたけれども傷が深くて死にかけたの。それを見ていた一人の吸血鬼の力で魔物になったけど、ハンター協会への服従の証として右目を差し出して、次の人狼復活のときまで自分から封印されたんだぜ」
……なんともまあうそ臭い。シヴァーはじろじろとレインを観察する。
「その時の吸血鬼が、プルートさん」
「えええ!? あのド変態が!?」
「……むぅ」
「そもそも人狼って何ですかな。あのゲームとは無関係なのですか」
「……わからない。魔物の王で、絶対的な力があるってことしか」
「ん、待ってなっちゃん。なっちゃんは自分が強くなるために無理やりこのニートを起こしたってことになるんですかな」
「そうだぜ」
あっさりきっぱり言ってみるルミナスは、やはりどこか切羽詰っていたのだろう。
「ひょっとしたらすごーく危険だったのでは!? こいつがどんな人間か分からない状態でそんなことするなんて!」
「プルートさんが一緒にいてくれたから……」
「どこに安心できる要素があるんですかな!」
「あの人、トトさんの傍にいたいがために、わたしや協会には逆らわないかんだけど」
「だー、そういう問題じゃなくてぇ! どうしてオイラ様に一声掛けてくれなかったのですか! そりゃー足手まといになったかも知れないですが、本当に囮くらいには、」
「わたし、ハンターのことも、魔物のことも、あなたに言うつもりはなかった」
「どうして!?」
「……だって、シヴァーと前のように仲良くしたかった。それこそ男の子だって思われて時みたいに。それなのに、こんなこと言って怖がらせるなんて……。この前だって目の前であんなことがあって怖かったと思うんだけど」
「え、いや、それは……」
「シヴァーを救いたい。できばシヴァーの知らないところで、知らないうちに解決できる力が欲しい。でも今のわたしにはないんだぜ」
「なっちゃん、それは誤解で……! オイラ様、怖がってたわけじゃないんですぞ! 決して、決して!」
「嘘」
「嘘じゃありませんぞ! ただ……その、女の子だって全然気付いてなくて、びっくりしたというか、オイラ様も男というか、ええっとなんというか……とにかくごめんですぞ。もっと早く素直になれればよかったのに。オイラ様が格好つけたいばっかりに、そんな心配させてしまって」
不思議なくらいに気持ちがぽんぽんと飛び出してきた。そういえば、まともに話ができたのも酷く懐かしい感じがする。……たった数日ギクシャクしていただけで。
ルミナスは驚いたかのように目を丸くしてから、それから口をへの字に結んで顔を伏せた。前髪の間から見えるオッドアイに、ゆらゆらと月光が揺れている。
「決して怖がっていたわけではありませんからな。そこのところ、お願いしますぞ」
「……うん、信じよう。嬉しい」
ぱちぱち、控えめな拍手が聞こえた。何事かと首を回して絶句する。闇を固めたような大きな黒い手のひらががちゃがちゃと両手を合わせていたのだ。元を辿ると、レインの背中から伸びているようだった。
「ぎえええ気持ち悪い! 何ですかなこれは!」
「拍手」
「どうしてわざわざこんな不気味な祝福を送るのですか!」
「手が塞がってるから」
なるほど、レインの両手にはカップ麺。腹が減っているのだろうか、離す様子は全くない。
「ルミ、割り箸どこ」
「まだ三分経ってないぜ。でもそっちの袋に入ってると思うんだけど」
「……なっちゃん。最近帰りが遅かったのは、この引きこもりに餌を与えていたからでは」
「うん、そう」
「ダメですぞこういうのは甘やかしちゃ! ウサギ小屋にでも放り込んでおくべきです! いくら強くても、その経歴すら疑わしいですからな
「でもシヴァーを助けてくれたの」
……先ほどの化け物のことを言っていることはさすがに理解できた。あのおぞましいものを払ってくれたのは、この男らしい。シヴァーの目を受けて、レインはにやりと笑って見せた。それから闇を粘土細工のようにこねこねやって、大砲でもぶっ放せそうな巨大な銃を作り上げてみせる。
「あの光は……その銃で?」
「ティロ・フィナーレな」
「もしかして技名ですかな。全く必要ないタイミングで聞いちまったよ! 心の底からどうでもいいよ! なっちゃん! 本当にこんなやつを師匠──“おや”にしていいんですかな!?」
「うん。わたしの代わりに戦ってくれたし、学ぶものは大きい」
「代わりじゃねえよ、そもそもお前が撃てないからだろ」蓋を少し開けて中身を確認するレインである。まだまだ三分経ってないぞ。彼はじっと中身を見つめながら、どうでもいいような適当な口ぶりのわりにはぐさりとする言葉を吐いた。「……本当にハンターやれんのか? どう考えても向いてない」
「や、やれるぜ」
「討伐数ゼロだろ?」
「もちろんこれから……増えると思うんだけど」
「……。協会も妙なことを考える。お前みたいなド素人の小娘たちで人狼の討伐部隊を作り上げるだなんて。ロリコン趣味に走ったのか」
「……バカにしてもらっても、仕方がないんだけど……わたしは、戦う。戦えるようになりたい」
きゅっと両手を握り締めて告げるルミナスを見るレインの目は、どこまでも冷たいものだ。親だなんて優しく愛情あふれるものとは全く違う。
「あの、いいですかな。なっちゃんはどうしてそこまでハンターにこだわるのです? 本当のご両親の後を継ぎたいとか……正直、オイラ様は危ない目にあってほしくないのですが……」
シヴァーがルミナスの手を掴もうと伸ばしたときだった。割れるような悲鳴が旧校舎を揺らした。窓ガラスがびりびりと震え、遠くでは驚いた鳥が飛び立っていったようだ。身を竦ませるシヴァーだったが、直後にはっとする。
「あ! やばい、副会長殿のことすっかり忘れてましたぞ!」
「……ウィルさんもきているの? あの人、一人じゃ旧校舎に入れないと思うんだけど」
「そう、実はビビリーなところを隠すため、頑張ってもらっちゃって……今の悲鳴、一体全体」
「もう一人のほうか。茶色の。理科室の前で見たな」
「助けないと。……レインさん、一緒にきて。お願いします」
「何でだよ。もう三分経つから無理だぜ」
「実はこの前言ってた新作のプリンも買ってきてるんだぜ」
「手を打ってやるぜ」
「ありがとうだぜ」
「ちょ、だぜだぜ言ってないで早く助けてあげてくだされ!」
*
その戦いを、シヴァーは見つめることしかできなかった。
プルートやレインといった人型の魔物とは違う。自分に絡みついた化け物のような、青い炎を纏ったいかにもな外見のもの。炎の中心の骸骨が、耳障りな笑い声を上げていた。
レインの対応は手早かった。ウィルの喉に絡み付いてたロープ状の手を引きちぎり、大砲のような銃で骸骨を一気に打ち抜く。同じような姿の魔物がついで三体出てきたものの、生者に触れることはなく瞬殺された。
恐ろしいながらも、血が滾ると物陰に隠れて手を握るシヴァーの横で、ルミナスは引き金に指をかけたまま真っ青な顔で震えていた。
「だめ、わたしが、やらなきゃ……やらなきゃ……」
自分を責める言葉を止めさせるすべを持たないシヴァーは、ただそっと寄り添うことしかできない。動けないままのルミナスを一瞥してから、泡を吹いているウィルを闇で一つつみにしたレインは帰るぞ、と言った。
「お前、本当に無理だろ。向いてない」
すっかり麺が伸びてしまったカップ麺ではなく、プリンを一口食べてレインが言う。その正面で正座するルミナスは、頭を垂れたままだ。埃っぽい床に放り出されたウィルの横で、どうにかして話に割り込みたいシヴァーだったが、タイミングを見計らうばかりでいまいち口を出せそうにない。
「あんなの雑魚、スライム以下の下級魔物じゃねえか。取り込める体を捜して、よくよく墓場にうろついてる奴だろ。それすらダメなのか」
「ご、ごめんなさい」
「そんなのでよくプーに向けて撃てたな。外したらしいけど」
「あの時は……シヴァーを助けなきゃって」
「フクカイチョーとやらは助けなくていいのか? プーは問題がなかったってことは、相手が人型のほうがいいのか? それはそれで問題だぞ」
「……ごめん、なさい……」
──完全に説教になっている。プーってプルート殿のことか?
あまりにもいたたまれないので、どうにかしてこの状況を変えるべくシヴァーは気絶したままのウィルを見た。つついてみる。ダメだ、起きない。
「じゃあもういっそ、その大事なシヴァーってのを餌にして、それを助ける為に経験地稼げって」
「そんなの……!」
「ダメとは言わせねえぞ。レベル1でラスボスに挑むってバカだろ。低レベルクリアも初心者には無理だろ」
「……むぅ。」
「決まりだな。餌撒いてきてやる、一匹殺せばトントン拍子かもしれねえだろ」
「だ、ダメだぜ! シヴァーを危ないことに巻き込むのは!」
「生意気言うなよクソガキ」
レインの目が冷たく細められる。対してルミナスは泣きそうに顔を歪めた。だめだ、だめだ、一先ず落ち着かせないと。悠長なことは言ってられない。
「ちょっとちょっと、とにかく落ち着いてくだされ!」
必殺、子供の特権涙目のうるうる攻撃。正直期待はしていなかったが、わーっと叫んで割り込んだシヴァーに対してレインは口を噤んだ。
お? このニート。案外情にもろいと見える。
そりゃそうか。
「あのあの、レイン殿。蚊帳の外のオイラ様から言うのもなんですがな。結局なっちゃんの“おや”とやらを引き受けるつもりなんですな?」
「そんなこと」
「じゃなかったら、口うるさく言う必要はありませんからなぁ」
「…………ん。」
おやおや。だんまりになったレインに一息ついて、今度はルミナスを見た。
「なっちゃん、さっきは聞けなかったけど、どうしてそんなにハンターにこだわるんですかな」
「……。言えない」
「──ふう。分かりましたぞ。ならば今は聞きますまい。その代わり、オイラ様でよければ餌でもなんでも使ってくだされ」
ぶんぶんと首を振るルミナスの肩に手を置いて、少しだけ背伸びをする。
「オイラ様のことを守りたいと言ってくれたように、オイラ様だってなっちゃんを守りたい。レイン殿の言うように、今のままじゃ危ない目に合うだけ。オイラ様だって戦うし、なっちゃんのレベル上げの手伝いがしたいんですぞ」
「シヴァー。……わたし。」
「とにかく、一人でもういかないで。ね? 相棒として、オイラ様が傍にいますから」
ルミナスは顔を伏せ、丸みを帯びた頬に一雫零した。
「……さ。そろそろ副会長殿を起こしてあげましょうぞ。兎にも角にも、旧校舎の怪人の謎は解けましたからなぁ。まさかそれが、勝手に住み着いたニートだとは」
流れを変えるべく明るい調子で言い放ち、ごめんなさい、と心の中で詫びてからそいやとウィルの体をひっくり返す。
これが寝ぼすけには効果覿面なのだ。埃っぽい床に鼻を強打したウィルはすぐに起き上がり、涙目で周囲を見渡す。眠りを妨げた敵を探す目が、すぐさま驚愕に見開かれた。
「ふ、不審者! シヴァーたちから離れろ! あ、あれ、俺の竹刀は……」
後輩たちを守るために相棒を探す彼の手からついと奪い取り、レインは適当に振り回している。
「オー、ジャパニーズライツセーバー」
「返せよ! 勝手に振るなよ!」
「ルミ。エピソード1から借りてきてくれ。4から見ると意味がわかんねぇ」
「あれは4からで正しいんだぜ」
「納得できねぇな」
「返せって! お前ちょっと浮いてるだろ? トリックか!」
「……返してあげて欲しいんだぜ?」
ルミナスのお願いに、ようやく竹刀は解放された。ウィルはすぐさまそれを握るが、レインの方は歯牙にもかけない。そういえばと床に座り直してゲームを再開するうすらぽんやりした様子から、先ほどまでの激しさはなかった。
……なるほど。と、シヴァーは考える。案外扱いやすいのかもしれない。希望するお菓子やらゲームやらを与えつつ、彼の自尊心を刺激する言動を投げかければいいのか。……ははぁ。どうやら151年の引きこもり生活が祟ったのか、どうやら本格的なニートらしい。
「おい探偵部! こいつはなんなんだ?」
「それは部長であるオイラ様がお答えしましょうぞ。ズバリ、この男こそ旧校舎の怪人ッ! 要はただの引きこもりですな」
「い、意味がわかんねぇ……大体引きこもりは宙に浮かないだろ? こいつはうちの生徒じゃないだろうし」
「まあまあ副会長殿? 真実はいつも一つな上明確とは限りませんからな」
「だめだだめだ全然だめだ、シヴァーじゃ役不足だな。おいルミナス、説明してくれ」
「……わたしのおや」
「認めてねぇぞ」
「お、親だぁ? どういう意味だよ、おい! お前、ちゃ、ちゃんと責任とって認知しろ!」
「触んなよ」
静寂に支配されていた旧校舎には賑やかな声が響く。それは日付が変わっても途切れることはなく、翌朝、門番である副会長が珍しく寝坊したと校内ではささやかな噂になった。彼の不在は数人の生徒を救い、
校内の雰囲気もほんの少し変わったのだった。
この日以来、旧校舎から聞こえていた何かの枚数を数える声が、笑い声に変わっただとか。ああ、怪奇の噂は絶えない。
「そういえば、前にニート殿が言っていたことで気になることがあったのですが……」
「バナナ置くな」
「カメの甲羅とバナナのこのコンビのこそ、勝利の方程式ですからな!」
「……」
「あ、あひゃひゃひゃ! やめてくだされ! レースで勝てないからって、物理の妨害は酷いですぞ! はい!そんな卑怯な手にも負けず、オイラ様が一位でゴール!」
「また負けた」
「ふふふ、勝ったからには言うことを聞いて貰いますぞぉ」
「ヴァッくんのケダモノ、ルミに言いつけるぞ」
「人聞きの悪い!」
「……それで? 気になることってなんだよ? ルミのスリーサイズなら把握してるけど」
「何故知っているんですかなッ!」
「いた、頭叩くなよ……」
コントローラを置いて子供のように膝を抱えるレインを見てシヴァーはけらけらと笑っていたのだが、ああそうだと再度思い出した。
「以前、旧校舎で魔物見たときなのですが。あの時ニート殿は、墓場にいる雑魚みたいなことを言ってましたな」
「言った?」
「言った。でも、それっておかしいのでは? あの魔物はそれ以来よく見ますし、でもここは墓場ではありませんしなぁ。魔物の中にも生態系の乱れが……あ、ここに外来種が!」
「うるせえ奇行種」
「ひゃっひゃひゃ、や、やめてくだされ!」
くすぐりの手から逃れて振り返れば、レインは何か考え込んでいるようだ。外来種でもなんでも、コンビニの新作スイーツをOL並にチェックするくらいすっかり適応して現代を満喫する暇人なのだ。突然平和な時代に放り出され、困惑こそしただろうが今や素晴らしい自堕落ライフ。眠りこけた151年という年月は、いろいろなものを奪っていたようだ。
「確かにおかしいな」
「オイラ様が言うまでなんにも思わなかったのですかな? まぁ、あれもニート殿の様に適応した形なのかも。なっちゃんも頑張っているところだし、いきなりいどまじんとかが出てこなければいいな~とオイラ様は思いますぞ」
ハンターとして奮闘するルミナスに対して確かに不安になるものの彼女が望むなら見守ってやりたい。今夜だって、ルミナスは頑張っている。……そばにいると危ない武器のせいで、シヴァーはレインと非常時に備えて待機をしていた。もっとも、ゲームを楽しんでいれば今夜も無事に終わるのだが。
「……ヴァッくん。ルミが戻ってきたら調べて欲しいことがある。お前探偵なんだろ?」
「ええまぁ」
「報酬はギャルのパンティーでいいな」
「い、いりませんぞ! ちっともよくねぇ!」
「……。」
「ニート殿? まさか自分が履いて寄越すとかやめて欲しいですぞ」
「死体が、ある。」
「へっ?」
「オレが人間だった頃、そこらに死体があった。魔物にしろ人間にしろ散らかってて、そこら中墓地みたいなもんだったからあまり気にしなかった……。この時代のこの校舎に巣食う理由がわかんねぇ。お前を餌によってきてるとしても、この土地に引き寄せる大元がある──どこかに奴らが狙う体があるってことだ。死にたてて、それも魅力的な。そうじゃなきゃ、学園なんて生気溢れる場所には寄り付けねぇはずだ」
レインは赤い片目でじっと液晶を見つめ、感情のない声で囁いた。──シヴァーの肌が粟立つ。冷んやりとした、あの独特な死臭が彼から感じられたような気がして。
──死体がある。この学園の敷地内に。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます