第2話 【ウサギ小屋の純愛】裏


「シヴァー、早く」

「待ってよ、待ってってばなっちゃん! オイラ様、も、走れないですぞ!」

 すでに校門の前には人影はない。生徒の大多数は下駄箱ラインを突破して、教室に収まっている時間帯だ。昨晩の作戦が祟ったのか案の定寝坊したシヴァーとルミナスは、シャツのボタンを締めるのももどかしく校舎に向かっていた。結局、目覚ましは役に立たずに二人して目を覚ましたのが八時十五分。予鈴の鳴る八時二十五分まではわずかな時間しかない。それでも寮から校舎までの距離は、頑張ればなんとかなるものなのだ。

 ……と、先を行くルミナスが不意に足を止めた。思わずその背中──思ったよりも華奢でかつ柔らかい──にぶつかったシヴァーが何事かと首を伸ばせば、冷や汗がたらり。入学して二週間、もうすっかり覚えてしまった顔がいる。朝の校門前でもっとも会いたくない男がそこに立っていた。

 きりりと着こなした制服と整えられた髪。薄いレンズの向こうの目は優しそうな色をしているものの、意思は断固として融通が利かない。右手には赤い生徒会の腕章を、左手には部活で愛用しているのであろう竹刀を装備した彼は、ルミナスとシヴァーを見て眦を吊り上げた。

「またお前らか。入学して早々常連でこの時間にくるな」

「ま、まだ遅刻じゃないですぞ副会長殿! 許してくだされ」

「ダメだ。結局廊下を走ることになるだろ、だからもう遅刻扱い。はい、生徒手帳出して」

「うぐぐぐ、可愛い後輩に免じて、なにとぞ」

 てへぺろと舌を出すものの、彼はニコリともせずに右手を伸ばしたままだ。シヴァーはルミナスの顔を見て、それからすごすごと生徒手帳を出した。ぺかぺかと慣れた仕草で勝手に操作されていき、刻まれたそれは遅刻五回目の文字。一ヶ月に六回遅刻をすると強制トイレ掃除の罰が付く。リーチというわけである。

「はー、もう後がないですぞ」

「気をつければいい話だろ。ちゃんと早く寝て、早く起きろ。それで朝練のある部活に入れ。オレがきっちりしごいてやるから」

「ぎえー! 嫌ですぞ! 剣道部なんて、絶対やだ!」

 ぶんぶんと首を振るシヴァーを見て、ようやく彼はほんの少しだけ笑顔を浮かべた。シヴァーは恐れているものの、彼のほうはなにかと気に掛けてくれているのだ。朝の門番、生徒会副会長にして剣道部副部長、その名をウィルという。

 と、気が緩んだのか小さく欠伸をかみ殺すウィルにシヴァーの目がきらりと光る。うりうりと肘でつっつきながら、あれれーおかしいなーと追求を始めた。

「生徒会副会長ともあろうお方がぁ、朝から欠伸ですかぁ。昨夜はお楽しみでしたか?」

「そんなんじゃない。早寝早起きは守ってるさ。でも見回りが連日だと響くんだよ」

「見回り? あぁ、ウサギの事件ですな。それはもう、今夜からぐっすり眠れると思われますな!」

「何言ってんだよ、今日だってやるんだ。まったく勘弁して欲しいぜ」

 疲れを露に、ため息を付くウィルにシヴァーの胸がざわついた。

「ど、どうして今晩も見回る必要が?」

「当然だろ、死体が見つかったんだ。ウサギ小屋の傍のゴミ袋に入ってたんだけど、それごと食い荒らされててさ」

 ばっとルミナスを見ると、彼も帽子のツバを引っ張りながら何か考え込んでいるような様子だ。……なんで、どうして? 事件は終わったのではなかったか?

「……もうオレもバカバカしいと思ってんだよ。犯人っていったって、人間じゃないだろ」

「じ、人狼ですかな?」

「そんな訳ないだろ、野犬か何かだよ。──実はウサギの死体が見つかって騒ぎが起こる前、三月の終わりくらいから鳥とかの死体もぱらぱら出てきてんだ。この辺、自然も多いから、そういう野生動物が落としていったんだろうなって思って」

「ちょ、ちょっと待ってくだされ! カッターで切りつけられていたのでは? 教室に死体があったというのは? まさか野犬が校内に忍び込んだとでも?」

「だから、落としてった死体を、どっかのバカがいたずら半分に移動したりいじくったりしたんだろう。──動物を殺せる覚悟があるやつなんてそうそういない。刺身は切り分けられるけど、魚はさばけない奴が多いからな」

 ウィルの言葉にシヴァーはうーむと唸った。……なんてことだ、こんなところで貴重な証言が聞けるとは。恐ろしい噂ばかりに踊らされていたのかもしれない。

「で、でも死体損壊は……そのぉ、悪いことですぞ」

「そうだよな。だからその大元の野犬をどうにかしないと。ぽいって置いていかれたんじゃ困ったもんだろ。そんなんを毎晩見回りさせられるこっちの身にもなってくれ、朝練にだって響いてさぁ……」

 ウィルはもう一度欠伸をかみ殺す。なんてこった。まじめで頑固なこの男が弱音を吐き、ついには間抜けな面を二度も見せるとは。よほど疲れているらしい。

「なっちゃん、事件の真相とは、かくも儚き偶然かな……って、どうしたんです? 考え込んで」

「……むぅ」

「あ、おいルミナス。お前も生徒手帳出せ」

 抜け目のないウィルの言葉にも、ルミナスはじっと俯いたまま動かない。そんな様子に苛立ったのか、彼の帽子を一瞥してウィルは竹刀を彼に向けた。

「大体お前さ、制服ちゃんと着てこいよ」

「……。」

「聞いてるのか? それも生活態度として点数つけるからな」

 痺れを切らしたウィルが竹刀の先でルミナスの胸を小突く。シヴァーから見ても、軽く注意を促したつもりだったのだろう。ところが意外な反応が返ってきた。

「やだ、痛いっ」

 ルミナスは過剰に痛みを訴えると半歩離れ、涙目でウィルを見た。きょとんとするウィルとシヴァーだったが、ここは相方として黙っているわけにはいかない。竹刀をぴしゃりと叩き、思いっきり睨みつけるシヴァーである。

「暴力はいけませんぞ!」

「そんなつもりじゃ……加減くらい心得てるよ」

「実際、なっちゃんが痛いっていってるんですぞ!」

「……そうだよな。悪かったよ、ごめんなルミナス、傷でもあったのか?」

「へ、平気」

 気遣うウィルの手をさらに避けるルミナスは、明らかに先ほどの痛みを恐れているようだ。……相方の珍しい反応に驚きつつも、シヴァーはやれやれと肩を竦めた。

「なっちゃん。たとえ権威という恐ろしい壁が相手でも、時として不満を露にすることは大切ですぞ。ここは一つ、先生方をお呼びして」

「大事にしなくていい」

「そうですか。ならば、副会長殿。オイラ様たちの遅刻を免除するという形に落ち着きましょうぞ」

「なに勝手に決めてんだよ」

 あきれ果てたウィルの冷たい目と向き合ったとき、キーンコーンと間延びしたチャイムの音が降ってきた。予鈴ではない、本鈴の。



 四時間目の数学のミニテストは名前だけはしっかりと書いておいたので、哀れんだ先生がもしかしたら一点くらい恵んでくれるかもしれない。と思って提出したものの。授業後に用紙を受け取った教員は渋い顔をした。隣に立っていたティーチングアシスタントの大学生が苦笑する。

「心意気だけは認めてあげましょう」

「ボリス殿は話がわかりますなぁ」

「まあ先生はうんとは言わないでしょうから。僕からシールを一枚あげましょうか。どれ、そのおでこの絆創膏の上でもぺたっと」

「あ、額はダメですぞ! 闇の名探偵として真実をを見渡す第三の目があるので!」

「じゃあ代わりにこっちですね」

 けらけらと笑いながら落ちてきた大学生の手のひらが、頭を撫で回した。隣で年配の教員は少しだけ顔を緩めたが、テストの点数の配慮はしてくれないようだ。第三回目小テスト、ゼロ点。これ以上ないくらい綺麗な、真理の宿った数字が書き込まれる。

 がっくりと肩を落としていると、その背をばしんと叩く小さな手。

「あーあ、あんたって本当にバカだね」

 振り返ればクラスメイトであるシオンが笑っていた。ライトパープルの髪がふわふわ揺れ、猫のように笑う彼の笑みを飾っている。

 シオンとシヴァーは、出席番号順に並べられた座席で前後になった仲だ。事業中に背中に文字を書かれたり、盾にされて後ろで居眠りをされたりと中々の交流を重ねている二人だが、不思議と仲が良くいろんな意味で趣味も合う。

「ついでに授業中、ずーっとルミナスのこと見ててノートも取ってなかったでしょ。どうしたの?」

 シヴァーの席から窓際のルミナスの席までは遠い。すぐ後ろからならば、頬杖を付いて考えこむルミナスにちらちら視線を送るシヴァーの様子がよくよくわかったのだろう。

「相方の思考を気にするのも探偵の務めですぞ」

「誤魔化すなよ、おれが貸したえっちな本でもバレたんだろ。ルミナスだって男なんだから、一緒に見れば案外受け入れてくれるかもよ」

「あれはベッドの下に隠してあるから大丈夫です……って、シオン殿!」

 あははと笑うシオンを捕まえてくれたのは大学生だ。頭をわしわしやりながら、説教を始める。

「君、その歳でそういうのは早いですよ。興味を持つのもわかりますけどね、十八歳になってからです」

「せんせーはどうだったの?」

「ちゃんと十八歳からですよ」

「嘘つけ。男の興味をそこまで抑え付けられるもんか。ハナから棒ごと抜け落ちてんの?」

「ちゃんと彼女はいます。君もしっかり我慢して、そこから本でもビデオでも見て勉強してそれから彼女を作りなさい」

「え、せんせーの彼女ってどんな人? 可愛い?」

「そりゃあ、レイネは可愛いですよ。でもね、僕の話聞いてました?」

 シオンに説教なんて通じるもんか。彼の頭の中はエロと遊びで一杯なんだ。二人の興味が離れたことで、シヴァーはその場からそっと逃げ出した。抜け目のない教員からは宿題のプリントを他の生徒の二割り増しで渡されてしまったがまあいい。

「なっちゃん」

 とんと肩を叩いてみると、赤い左目が丸くなる。驚きながらも微笑んでくれているところをみると、どうやら邪険にはされないようだ。帽子のツバを気にしながらルミナスが向き直ってくれた。

「今日のお昼ですが、お弁当の日なのにすっかり用意してなくて……申し訳ないですぞ」

「朝も寝坊してたし、わかってるぜ。怒ってない」

「では学食にでも行きましょうぞ」

「さっき。購買でパン買って来たんだけど」

「い、いつの間に……ぎえー、またあんぱん!?」

「違う、うぐいす餡」

 ルミナスは笑ったまま自分の前の椅子を勝手に引っ張るとシヴァーを手招きする。シヴァーは大人しく腰掛け、彼が用意してくれた食事を手に取った。うぐいす餡のあんぱんとメロンパン、加えて焼きそばパンとたまごパン。飲み物は牛乳の代わりにリンゴジュースの缶が二つ。そう、なっちゃんはオレンジよりもリンゴ味派なのである。

 シヴァーは感謝の意を伝えると声のトーンを落とし、問いかけた。周りへのマナーの意味もあるし、何より本格派みたいでカッコイイと思うからだ。

「朝からずっと考え込んでて怒ってるのかと思いましたぞ。本題はご飯ではなく、例の事件ですかな」

「……そう。凶器はカッターじゃなかった。ウィルさんの話が正しいのなら、動物が食い荒らしたそれをわざわざ傷つけてることになる」

「副会長殿がは嘘が嫌いですからなあ」

「それと昨晩、わたしたちはプルートさんがウサギ小屋の鍵を持ってるか確認しなかったんだけど」

「う、まあ怪しさ満点でそんな必要ないだろーと……というか、部屋の鍵を落としたって一言を聞いて、てっきりウサギ小屋の鍵もなくしたのかなぁと……うーむむ。そもそも副会長殿の話が真実だとすると、プルート殿はあんなところで何をしていたんでしょうなあ。しかも自白もどきまでしでかすとは、ド変態という奴ですかな」

「だから。わたしたちは勘違いをしていたんだぜ」

「ほえ?」

 焼きそばパンに手を伸ばすもののぺし、と叩かれ、おとなしくたまごパンを手にとって被りつく。口の中をパンと甘いマヨネーズで和えたたまごで一杯にしながら、シヴァーは首を傾げた。

「野犬は鍵を開けない」

「鍵は掛かっていなかったということですかな?」

「違う。ウサギは夜に小屋から連れ出されたわけじゃなかった。最初から外にいたんだぜ」

 ルミナスの赤目が鋭く細められた。シヴァーはもごもご遣りながらその意図を汲み取ろうと懸命に頭を動かす。放し飼いってこと? いや、ウィルの言葉をよく思い出せ。

 ──死体が見つかったんだ。ウサギ小屋の傍のゴミ袋に入ってたんだけど──

「……ゴミ袋に入っていたということですか」

 こっくりと頷いたルミナスは華奢な手を強く握り締めた。

「でもなっちゃん、一体誰が? いつ、どのタイミングで? 昨日はオイラ様たちが現場にいたわけで」

「そう、昨日ウサギ小屋に調査に行ったときのこと思い出して欲しいんだけど……トトさんが小屋から出てきたときに」

 ゆっくりと情景が目に浮かぶ。ルミナスの呼びかけに応じて小屋から出てきたトトは、手に“黒いゴミ袋”を持っていた。そしてそれを小屋の傍に置いたのだ。

「あ……っ」

 ドクン、と心臓が暴れた。手が震え、口の中のパンから急速に味が失われる。

 ──そんな、ありえないありえない。あの優しそうなトトこそが?

「シヴァー、落ち着いて」

 かたかたと騒ぐ指先を、そっとルミナスの手が包んでくれた。

「何回目か忘れたけど、まだ決まったわけじゃない」

「でも、でも! そうだ、話を聞きに行きますかな?」

 ……そして否定して欲しい。

 シヴァーの懇願を汲み取ったらしいルミナスは、ゆるゆると首を振った。

「今行っても、たぶん。はぐらかされるから絶対に納得はできない。シヴァー、どんな形であれ白黒はつけないとだぜ。決定的な証拠を掴めば、真実は明確になる」

 一言一言、ゆっくりだが強い口調で語るルミナスの頬から、メロンパンのくずが落ちた。

「だから今夜、もう一度張り込もうと思うんだけど」


 *


 深夜の校舎には青い月光が満ちていた。ひやりとした空気が漂う廊下には自分の影が黒々と踊り、明らかに日常と異なる異質な雰囲気をかもし出している。

 息を潜め、気配を殺すシヴァーの口からはいつもの調子のいい饒舌は出てくる気配を見せず、緊張に震える息遣いだけが微かに空気を震わせていた。

 シヴァーとルミナスが現在張り込んでいるのは馴染みある校舎ではない。彼らが使うものよりも背が高くきっちりと並べられている下駄箱は高等部のものだ。何故この場所にいるのかといえば……ウサギの死体──損壊されたものが発見されたのは毎回高等部の校舎だからである。ウサギ小屋でプルートを待ったところでただの死体を見つけても意味がない。その先、明確に人の手が加わっているポイントでチャンスを伺うことにしたのだ。

 どきり、どきりと心臓が痛む。シヴァーはケープをぐっと握り締め、ただひたすらに待った。もうすぐ時刻は零時にさしかかろうとしているところだった。

 耳に痛いほどの静寂の中、シヴァーの尖った耳は小さな空気の揺れを拾った。思わず肩を揺らせば、ルミナスが何事かと視線を寄越した。彼の手に握られた、消音カメラアプリが起動したままのスマートフォンが月光にきらりと光る。し、と口元に人差し指を当て、目を細めて気配を探り心臓が跳ね上がった──ゆっくりと影だけが移動している。

 ほんの少しだけ下駄箱の影から顔をのぞかせてみれば、ミルクティ色の髪の毛が揺れているのが分かった。……プルートだ。どういうわけか足音一つ立てず、彼は下駄箱を横切り廊下を歩いていく。手に持っているのは黒いゴミ袋。……昨日、トトが掃除の際に出していたものと同じだ。あの中には、すでに冷たくなった死体が入っているのか? それともまだ生きているのか。遠目からには袋の状態は確認できない。昨日はシヴァーたちの妨害で手にできなかった袋を、今の彼はしっかりと持ち運んでいる。

(プルート殿……どうしてまた繰り返すのですかな)

 プルートの後を慎重に追う。彼はとある教室の前で足を止め、からりと入り口の引き戸を開けて入っていった。乾いた音だけが校舎に響く。続いて入り口から教室の中をうかがえば、プルートはある席の上にゴミ袋を置いてため息をついているところだった。ポケットの中を漁って取り出したのはカッターナイフ。ちきちきと刃が伸ばされ、彼のエメラルド色の瞳に鈍い光を映した。慌ててルミナスの顔を見る。彼は何か考えあぐねている様子だったが、シヴァーはもう待てなかった。ルミナスの手の中のスマートフォンをとんと叩いてから息を吸った。

「そこまでですぞ!」

 人差し指を突きつけ、教室に踏み込む。……真相の解明時、想像した自分の姿は鼻息荒く凛々しい立ち姿で犯人と対峙するという予定だった。……それがどうだ。声は情けなく震え、相手に不遜な笑みを見せるどころか睨みつけることもできなかった。

「……またお前らか」

 プルートの声は気だるく、ちっとも慌てているような素振りは見せない。それどころか口の端はくっと吊上がり、白い歯を見せて笑っていた。

「どこまでも予想通りだな」

「何をへらへらと……、昨日のあの態度は嘘だったのですかな」

「嘘って? 何だよ?」

「うう、シラを切りとおすならそれも良し。こっちには証拠ばばっちりですからな。これで言い逃れはできませんぞ」

 ルミナスの手からスマートフォンを浚い、プルートに突きつける。ブルーライトが輝く画面にはカッターを持ちゴミ袋に狙いを定める彼の姿がばっちりと写っているが、本人は薄い笑みを浮かべたままだ。

「で?」

「袋の中身……確認させていただきます」

「あぁ、それで? 僕を警察にでも突き出すってか?」

「貴様だけではありません。トト殿も一緒にです。……そのゴミ袋はトト殿が用意したものでしょう? 調べたのですが、このサイズの黒いゴミ袋は現在掃除用にと職員室から持ち出せるだけですからな。ちなみに、持ち出し人の名簿も確認を取りました。ここ一週間はトト殿の名前しかありませんでしたぞ」

 その一言にプルートの笑みが引っ込んだ。シヴァーは追い討ちをかける。

「同室の二人が、この事件の犯人。これが真相ですぞ」

 プルートは答えない。そのまま俯き、肩を震わせている。シヴァーは一歩近づき、問う。

「でもどうしてです? お二人は何故こんなことを?」

「……あぁ、何もかも、何もかもだ。気持ちいいくらいに予想通りだな」

「はい?」

「もういいだろ。そいつを寄越せ。トトに迷惑を掛ける訳にはいかないんだ」

 月光を背負ったままプルートはシヴァーに向かって手を伸ばした。その顔と尊大な態度に、昨日の殊勝な様子はない。

 シヴァーが彼の真意を図ろうとした時、信じられないことが起きた。窓から射し込む月の光によって生まれた影が、不意に揺れた。それはなんの前触れもなく唐突に、蛇が鎌首をもたげるようにべりべりと床から浮かび上がってプルートの周りを漂う。まるで黒い羽のように。

「な、な、な……」

 戸惑うシヴァーに向かって羽が伸びる。……乾いた破裂音とガラスが砕け散る音が闇を裂いた。

「シヴァー!」

 ルミナスの声だ。一度身を庇うように羽を引いたプルートが舌打ちする。振り返ったシヴァーは、やはり理解のできない光景を目にした。ルミナスの手に握られている銀色の拳銃が、まっすぐにプルートに狙いを定めていたのだ。

「なっちゃん、どうしてそんな物騒なもの……!?」

「いいから逃げて! 早く!」

 ルミナスの焦りに満ちた声なんて初めて聞いた。それがシヴァーの思考よりも先に足を動かす。スマートフォンを握り締めたまま一歩後ずされば、あとは連鎖的に弾かれたかのように走り出すことができた。


 シヴァーの足音が遠ざかると、プルートの顔に焦燥が浮かんだ。

「……お前、ハンターか」

「そうだけど」

「今年で151年目だからな。人狼対策ってことか?」

「貴方には関係がないこと」

「僕が魔物だっていつ気付いた?」

「……今さっき。貴方はうまく人間に化けていたんだけど、こうして尻尾を出して人間に危害を加えようとした以上、狩らないといけない」

「ふん、お前だけは予想外だったな」

「さっきから、何の話?」

「今晩も君たちは邪魔をしてきて、追い詰めてくるだろうなって話をしてたんだよね」

 優しい声が耳元で聞こえた。ついでにふうと吐息を掛けられ、ルミナスはびくりと背を揺らす。そのまま背後から伸びてきた両腕に体を絡め取られた。後ろから覗き込むトトは柔らかな笑顔を浮かべたままで、ルミナスの背を冷たい汗が伝う。

「プルート」

 視線はそのままにトトが言うと、ただの呼びかけに対してプルートは目に見えて動揺した。

「シヴァーを捕まえてきて」

「わ、わかった……」

「それとさ。ハンターって何? 俺の知らないことがあったってことかな?」

「あぁ、そういうことだ。後でちゃんと説明する」

「うん、当然。こんな小さな子たちにいいようにされるなんて、君って本当にグズでのろまで使えないね」

「……ま、待ってくれ、ちゃんと捕まえてくるから、見捨てないでくれよ」

「じゃあ早く行ってきてよ。そしたらお仕置きも考えてあげるから」

 トトは笑顔を崩さない。どう見ても救いではない一言に対してプルートはぱっと顔を明るくすると、羽を広げて机をなぎ倒し、廊下へ飛んでいった。

「貴方、どういうつもり」

「え? 何が?」

「何から聞こうか迷うぜ。ずっと見てたの?」

「うん。君たちがプルートを追いかけるのを、その後ろから追いかけてたんだ。二重尾行ってやつかな?」

「……どうしてウサギを殺したの?」

「え? やだなあ、俺たちじゃないよ。あのゴミ袋の中身はちゃんと生きてるよ。見せようか?」

 床の上にルミナスを突き飛ばし、トトは軽やかな足取りでプルートが置いていったゴミ袋を手に取った。口を開け、ひっくり返す。てっきりおぞましいモノがぼとぼとと出てくるだろうと床の上で身構えたルミナスの腹の上には、白いふくふくした子ウサギがぽてんと落ちてきた。すっかり怯えきっていたウサギは、ルミナスと目が合うや否やまさに脱兎の勢いで廊下へ逃げていく。

「あーぁ、逃げちゃった」

 のんびりとした声でウサギを見送ってから、トトは拳銃を握りなおすルミナスの手を踏んだ。痛みに顔をしかめる様子を見下ろしながら、彼はいつものさわやかな笑みで楽しそうに笑うのだ。

「そこの席ね、シャルルアーツの席なんだ。俺に一々絡んでくるのは知ってるでしょ? 本当にうっとうしくてさ、ちょっと脅かしてあげようと思ってたんだよ。ねえ、噂によると人狼がウサギを殺してるんだよね。その正体が誰なのか何なのかはわからないけど、俺たちはその死体を使っていろいろやってただけなんだよ」

「殺されるのがわかっててそうなるように仕向けているから、貴方も同罪だぜ」

「そうだね、だから残骸はともかく、あのゴミ袋のサイズが分かっちゃう写真はまずいね。見てて面白かったけど、プルートって愚かだからさ。君たちを誘い出すにしても、もう少しうまいやり方があっただろうに」

 手を踏みつける足に力が篭る。どこまでも笑顔のこの男に正直ぞっとしながらもルミナスは続ける。

「……最初に死体が見つかったのは貴方の席なんだけど」

「そう、それが偶然なのか、昨日プルートが言ったようにシャルルアーツたちが先に仕掛けてきたのかわかんないんだ」

「それで仕返しを?」

「うーん、どうだったか。……本当はプルートが直接やってくれればいいのに。彼、魔物なのにそんな勇気ないみたいで。ウサギを捌くことはできるのにね?」

「……貴方、変だぜ。さっきから聞いてると、結局実行してるのはプルートさんで、貴方は指示しているだけみたい」

「その通りだよ。俺は一切やらないもん」

「その従えてるつもりのプルートさんは魔物。怖くない?」

「うん、全然。そこらの人間なんかよりも愚かで愛しくて、俺の周りにいた誰よりも魅力的だよ。さっきはあんな冷たいことを言ったけど、手放す気はまだないんだ。プルートが俺のことを殺してくれるなら仕方ないけどそれは絶対にありえない。だってプルートは俺のこと大好きだからさ」

 月光の下、トトは心から幸せそうに笑った。そのまっすぐにひねくれた感情は、ルミナスの心の裏側を引っかいてなんともいえない不快感を与えてくる。

 人間を貪る悪、魔物。恐怖と絶望を与える悪しき存在は必ず滅さなくてはいけない。ハンター協会ではそのように教わった。人間は誰しも、自分よりも力を持った相手を恐れる。だから拒絶と争いは当然のことだとルミナスは理解していた。

 けれども、トトはどうだろう。相手に恐怖するどころか、心酔しているように見てた。稀にいるのだ。こういう人間が。彼らのことを──狂人という。

 狂人は魔物の思想に付き従い賛同し同属である人間を餌にすることを厭わない。しかしトトとプルートの力関係はどうみても今までのそれとは異なるようだ。人間が完全に手綱を握って、魔物を飼いならしている。こんなことが、こんなことが。

 ……人狼が復活する年に、こんな狂人が傍にいるなんて。

 けらけらと笑い出したトトを見上げ、ルミナスは注意深くその時を待った。力が弱まった一瞬の隙を付いて足を跳ね除けようと脛に手刀を叩き込む。おっと、とすんでのところでかわされたものの、結果オーライ。足の下から手を抜くことに成功した。体を捻って距離をとり、拳銃を構えなおす。

 ──しかし。

 どん、と床に叩きつけられて息が詰まる。衝撃で帽子が転がっていった。


 *


「は、はあ、ひいいい……!」

 半ば泣きべそをかきながら廊下を疾走するシヴァーだったが、彼の優秀な耳は迫り来る音を捉えていた。闇夜ごと空気を裂くような滑空音。両手を前後に出す走り方ではない、胸の前で手を組んだままでは思うようにスピードが出ない。あ、と思ったときにはもう遅かった。うなじに鳥肌が立つのと同時に、首に冷たい手が掛かる。勢いはそのままに床にうつぶせに倒れこむシヴァーの背に、バカにしたかのようなため息が降ってきた。

「バカだなお前。わざわざ首突っ込んでくるなんて」

 ごろりと仰向けに転がされる。エメラルドの瞳が爛々と輝いていた。

「……ガキだガキだと思ってたけど。中々うまそうだ」

「ひ、ひえ……? 何のお話ですかな」

「もちろん、そっちの話だ」

 どこか艶やかな視線を寄越し、プルートは気だるげに髪を掻き揚げる。笑んだ口元から覗く白い歯はナイフのように鋭利な輝きを持つ、妙に尖った形をしていた。

「な、なに、何者なんですか貴様は!」

「見て分かるだろ。吸血鬼だよ」

「きゅうけつきぃ~? そんな眉唾な、」

「身をもって知るか?」

「ぎえー! らめー!」

 必死に振り回した拳は意外なことに効果が合ったらしい。口を寄せようとしたプルートはぎゅっと目を細めてシヴァーの上で固まっている。

 ……なんだこいつ。微かに震えるその体を見て、シヴァーはどことなく気の毒だ、と感じた。

「何故プルート殿はこんなことをしているのです。何の利点もないでしょう? 第一トト殿に付き従っているかのような様子は不自然ですぞ。その力があればただの人間であるトト殿なんて一捻りでは?」

「……そんなことできるわけがないだろ。僕だって、こんなの趣味じゃないんだ。畜生の死体をいじったって食欲が満たされるわけじゃない。でもトトには逆らえないんだ」

「だから何故なのです。暴力が怖いのですか」

 プルートは答えない。その体の震えは本当に怯えから来るものなのだろうか。

「学園側に相談とか、その……プルート殿だって一応生徒なのだから、配慮はしてくれるのでは?」

「潜り込んだだけだよ。戸籍とかでたらめなんだ、そんなことしたら目をつけられる」

「そもそもどうしてこの学園に?」

「封印とかは関係ないんだ」妙な単語を口走りながら、プルートは口を尖らせる。「トトに惹かれたから、近づきたかった。それでだよ」

「え、えーっと? よく理解できないのですが。プルート殿はとにかくトト殿の傍にいたいってことですかな?」

「あぁ。捨てられない限り、近づくことを許されてるから」

 ──許すって。薄々勘付いていたものの、どうやらまともな人間関係を築いているわけではないようだ。シヴァーはじっとプルートの様子を窺ってみる。見られていることに気が付いたのか、彼はなんとなく気まずそうに視線を彷徨わせた。

「全てはトトのためだ。僕はトトの望むままに動くコマなんだよ」

「友だちが悪いことをしてるからって、一緒に堕ちてどうするのです!」

「トトは悪事なんて働いてない。あいつは生きたウサギを袋に詰めて置いただけ。あとは僕に任せられてるんだ、あの手は汚させないさ」

「……というと、結局ウサギを捌くのも事を大きくするのも、全部プルート殿が実行してトト殿は見ているだけだと?」

 まあそうなるな、と素直に頷くプルートを見て、シヴァーは頭を掻き毟った。手から転がり落ちたスマートフォンの画面に写るのは当然プルート一人だけ。

 ……もし罪に問われるというのなら、プルート一人。トカゲの尻尾きりよろしく糾弾されて裁かれるプルートに対して、トトはちょっと困った顔をして見せて遠巻きに怖いねーとでも言うのだろうか。

 あくまで他人事だという態度で。そして、彼を信用する人間は大勢いるのだろう。彼らの影で、きっとトトはほくそ笑むことだろう。

「あ、あいつぅ……! 爽やかな顔をして人間のクズですぞ」

「トトを悪く言うな!」

 きゅっと絡まってきた冷たい手に、怯まず叫ぶ。

「プルート殿だって悪いんですぞ! 従うことを美徳としてないで、友だちならちゃんと止めてあげないといかんでしょう! ただいい顔してホイホイ言うことを聞くだけじゃお人形かママと同じ、いつか飽きられてしまいますぞ!」

「……!」

 どの言葉がプルートに刺さったのかは分からない。彼は目を見開き、ゆるゆると首を横に振ってそのまま俯く。もうシヴァーの首に手は掛かっていない。

「トト殿のこと、一緒に止めましょう」

「……それは、命令か」

 ゆらり、と顔を上げたプルートの表情は、なんとも理解しがたいものだった。ほのかに顔を赤らめている彼にシヴァーは口元を引きつらせる。

「本当はトトの命令以外はダメなんだけど、でも、め、命令なら仕方ない、僕は従おうじゃないか」

「ぎえー、隷属系男子ここに極まり! ちょ、ちょっともじもじしてないでどいてくだされ!」


 *



「君をこのまま逃がすわけには行かないんだよね」

 青い月光の下、トトの群青色の瞳が怪しく燃え上がった。床に押し倒された自分の上に圧し掛かるという、体勢的にも形勢的にも圧倒的に彼が有利なこの状況を打破する手段を探るルミナスに、トトはどこまでも愉快そうに笑う。

「……ねえルミナス。人狼ってどんなのだろうね? ウサギなんかじゃなくて、君みたいに人間を食べたいんじゃないかな」

「わたしを殺して、人狼のせいにする気」

 トトは答えなかった。ふふ、と意味ありげに微笑むとうっとりと囁く。

「いーなぁ、俺も死にたいな。探偵さんとの駆け引きも楽しかったけど、もう終わりかぁ。あぁ、でも」

「……え」

「せっかくだし。もう少し遊ぼうか」

 ──あんまり趣味じゃないけどねえ。そう呟いたトトの右手はルミナスの首ではなく、シャツのボタンに触れていた。何を、と問うまもなく、彼の手に力が篭る。あっけなくボタンは引きちぎれ、てんてんと床の上に転がっていった。

「さて、単純なことだから君でも分かってると思ってたけど」

 組み伏せられたまま見下されて、ルミナスはもがいた。拳銃はこの手にある、けれども動かせない。抑えつけるトトの細腕はびくともしない。足掻けば足掻くだけ、彼の笑みが深くなった。細身といえど、長身のトトが全体重をかけてくればルミナスなんてひとたまりもない。トトはプルートが落としていったカッターを一瞥した。

「こういう時は刃物が便利なんだよね。拳銃ほど狙いはずれないし、反動もないし、ゼロ距離だったら圧倒的に有利でしょ。君がそんな強い武器を持ってても無意味な長物ってわけだよ。残念だったね」

「ぐ、……くう……」

「それともう一つ」

 拳銃を奪って教室の隅に放り投げてから、一本の腕がいよいよ武器を失ったルミナスの体の上に落ちてきた。腰から喉元までゆっくりと這わされる手に肌が粟立つ。トトは顔を寄せ、白い歯を見せて笑った。

「男に女は敵わないんだよ」

 ──何が、何だ。床の上に広がる長い黒髪に腕が統べる。ルミナスの心に、びしりと亀裂が入った。何もかもが理解できないまま、今、全てが闇に飲まれようとしている。ルミナスの瞳からぽろりと涙が落ちる。尾を引いて消えていくそれは、寂しがりやの彗星に良く似ていた。


「なっちゃんから離れろぉおおおおお!」


 入り口からすっとんできた塊が、弾丸のような勢いでトトにぶつかる。

「いて!」

 突き飛ばされたトトが机の脚に頭をぶつけて呻いた。塊はすぐさま体勢を整えるとあっけに取られるルミナスとの間に立ちはだかる。

「なっちゃん、遅れてごめんですぞ!」

「シヴァー……。貴方、どうして」

 ──少し前、探偵が犯人と遭遇したとき、体術の心得があったほうが頼りになる、という話題を一度したことがある。ルミナスは口にはしなかったが協会で訓練を受けているから問題はないだろうと思っていた。しかしシヴァーは首を振って、自分は“荒事をしてはいけない病”だから、と言った。体育程度のどすんばたん,

取り押さえ程度は可能だが、殴ったり血が出るのは絶対にダメだと。

 今、トトの額からはたらりと血が垂れている。シヴァーにも見えているはずだし、予想もできたはずだ。ぶつけどころが悪ければ、もっと酷いことになったかもしれない。それなのに。起こしてくれる手は温かい。

「相方のピンチにいつまでも日和ってるわけにはいけませんからな」

「わたし……そんなふうに……」

 シヴァーの優しさで胸が一杯になる。とてもとても申し訳ないという気持ちと、温かな感情に板ばさみにされて、ルミナスは困惑した。

「ああ泣かないでなっちゃん。帰ったらおいしいホットケーキを今度こそ焼きますぞ」 

 にっこりと笑ったシヴァーだったが唐突にその目が丸くなった。首を傾げるルミナスは、自分の腕を撫でる髪の感覚を思い出す。それどころか乱れたままの服装を今更ながらに見、少し悲しくなった。……結構気に入ってたんだけど、あの制服。

「そ、その……えーっと、なっちゃん? その髪、それに、胸……そんな、まさか、オイラ様知らなくて、あのぅ」

 段々と赤くなるシヴァーだが、その後ろでゆらりとトトが立ち上がったのをルミナスは見た。その手にはカッターナイフ。 表情は今だに微笑んでいるも、瞳には怒りが滲んでいる。皮肉なことに、激しい感情を燃やすような今の姿のほうが彼を理性ある人間に見せた。腕が振り上げられる。

「……シヴァー!」

「ふえ?」

「さようなら、探偵さんたち」

 とっさにシヴァーを抱きしめて庇う。その肩越しに笑うトトが見える。しかし不意に動きが止まり、その目が見開かれた。──彼の後ろに広がる闇から、白い手がにゅっと突き出してその体を羽交い絞めにしていた。ルミナスの動揺を受けてシヴァーも振り向く。二人の目の前で、闇はトトの体をぐるりと取り囲んでしまった。

「今夜はお前を止めよう」

 闇から顔を出したのはプルートだ。どこか憂いを帯びた瞳を細め、背後からトトの首筋に口を寄せる。

「プルート。俺のこと裏切るの」

「違う、そういうんじゃないんだ」

「お説教でもする? それとも怖気づいた?」

「そういうのでもない」

「……お仕置きが欲しいのかな」

 プルートは口ごもる。けれどもその顔を見るに、答えは明白だった。トトは振り向きもしないまま、用意に想像をしたのだろう。ため息をつく。

「じゃあ殺してくれる? もう生きてるの飽きちゃった。お仕置きが与えられないお仕置きなんて、そういうのもいいでしょ」

「それは嫌だ」

「やっぱりね。君は俺を終わらせてくれないんだね。本当に使えないグズだよ」

「……トト、好きだよ」

「知ってるよ、反吐が出るくらい聞き飽きた台詞だ」

「他の誰かからじゃない、僕から言うのは初めてだろ」

「そうだっけ?」

「今日も明日も、ずっと。何度だって聞いて欲しい」

「……。」

 トトは答えなかった、けれども、受け入れるように目を閉じる。プルートの尖った牙が月光に反射した。彼はトトの首筋に牙を突き立て歓喜と潤いに体を震わせた。

 やがてぐったりと力の抜けたトトの体を抱き上げると、プルートはようやく顔を上げた。……幾分か血色がよくなった気がする。

「ルミナス。お前ハンターなんだよな。僕のことを狩るのか?」

「むぅ……人間に手を出した以上、そうしないといけないんだけど」

「じゃあ明日以降にしてくれ、今夜はもう争う気はない。これで帰らせてもらう」

「獲物になっていいの」

「トトと離れたくないから、狙われるのは嫌だけどな」

「少し考えておくぜ。今夜、貴方はわたしたちを助けてくれたのだから」

「そうかよ。ありがとな」

 からり。窓を開け、プルートは闇夜に翼を広げた。大事そうに抱えたトトの体に満足げに微笑むと、そのまま空中に身を躍らせる。

 羽音はなかった。しんしんと青い月光が降り注ぐ中、空になったゴミ袋が静かに揺れていた。


「えっとお……なっちゃん?」

 あまりにも情けない声で話しかけると、ルミナスはいつもと同じような表情でこちらを見た。帽子に隠されていた長い黒髪が、まるで二又の猫の尾のようになびく……けれども首から下は一大事だ。無残なことになった制服とその隙間から覗く闇に浮かぶ白い肌。丸い膨らみをきゅっと締め付けるように覆うブルーの下着が目に染みる。

 ぼやかしていた全体像を見た瞬間、頭の中に体中の血液が一気に集まってきた。慌てて視線を引き剥がそうと努力だけして、それでもじいっと見つめてしまう。シヴァーの視線に気付いたルミナスが、ゆっくりと首を傾げた。徐々にその頬がほんのりと色づいていく。

「と、とにかく、風邪を引いてしまいますからな」

 ──言いたいことも聞きたいことも全部飲み込んで、シヴァーは自分のケープを脱いでルミナスに着せてやった。小難しいことは抜きにして、もっともっと見ていたかったという自分を必死に抑えつけて。今夜は信じられないことがたくさんあった。冷静でいられるわけがないのだが、必死にクールになれと命じる。

「さ、帰りましょうぞ」

 差し出した手にルミナスはなぜか一瞬だけ驚いて、それからほろりとした微笑みを浮かべて華奢な手を重ねてきた。


 

 深夜の校舎の中、三人の少年がカッターナイフを手に闊歩していた。

「本当むかつくぜ、トトの野郎。早く学校辞めちまえばいいのに」

「シャルルアーツさあ、あいつに女取られたんだろ? ありえねーって」

「それ以外にも色々やられてるよ。まじ気にいらねえ」

 三人は馴染みのある教室までやってくると、一つのロッカーの前で足を止めた。

「ぜーんぶズタズタにしてやろうぜ。今日はスペシャルなおまけつきだし」

 一人は手に持ったゴミ袋を持ち上げる。もぞもぞ、と必死に動く袋からはにゃあと小さな鳴き声が聞こえた。

「ウサギ殺してんのもあいつだろ? 表面いいこちゃんでも内面腐ってんだよ」

 それは明らかな言い訳だった。けれども彼らは、そんな言葉を口にすることで自分たちの行動を正当化しようとしていた。

「俺らの机にまでゴミ押し付けやがって」

 袋に向けてカッターを振り下ろそうとした瞬間、一人の少年がその手を止めさせる。

「なんだよ? 怖気づいたか」

「違う、なあシャルルアーツ。何か聞こえねえか」

「何かってなんだよ」

「そうだよビビってんのか? ついでに小便行ってこいよ」

 二人は一人に嘲笑を浴びせたが、笑われた一人の顔色は晴れない。何だよと苛立ちながら問いただそうとするも、いや、何かと濁すだけ。

 そのときだった。

 ──ワオーン。

 月光の中のびのびと響き渡る遠吠えを、三人は聞いた。ゴミ袋の中のものはますます暴れ、穴が開く。そこから飛び出した黒猫はあっという間にどこかへ逃げてしまう。

 しかし彼らに気に掛ける余裕はなかった。

「は、はは、何だよ今の」

「犬でも迷い込んでんのかな」

「……違う、犬じゃない」

「あぁ? じゃあ何だって言うんだよ!」

 恐怖を誤魔化すように怒鳴る少年。しかし、その気色ばんだ顔も見る見る青ざめていく。……聞こえるのだ。低い低い、獣の唸り声が。

「お、俺先帰るわ!」

「ちょっと待てよ、置いてくなよ!」

 縺れながら教室を飛び出す三人だが、“それ”はもうそこまでやってきていた。

「な、何だよ、何だよ、何なんだよ……!」

「やめろ! 嫌だ! やめてくれよ!」


 ──もし彼らが豚のように喚くだけではなく、知恵ある生き物として以下のように問いかけたなら。最期くらい、“それ”は真実を教えただろう。


 ──“汝は人狼なりや?”


 冴え冴えと青かった月光が、滴るような赤に染まった。



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