人狼怪奇ファイル
森亞ニキ
第一章
第1話 【ウサギ小屋の純愛】
もし、少年が愛を受け入れていたら?
(だけども彼がそれに飽いてしまった世界)
人狼怪奇ファイルNO.1
【ウサギ小屋の純愛】・表
赤い月の光が窓から射し込み、長い廊下を照らしていた。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
果てのない道を走る少女。顔は蒼白で、唇にはほつれた髪が引っかかっている。いつもならば欠かさずに鏡を見て整える身だしなみに構う余裕は現在の彼女にはない。彼女は時折後ろを振り返りながらも走る、走る、走る。
「はぁっ、はぁっはぁ!」
心臓が破裂しそうだ。彼女は苦悶の表情を浮かべ、制服の胸元で揺れるリボンを握り締める。その時遠くから“声”が響いてきた。
長い長い遠吠えだ。彼女は途端に顔を引きつらせ、ひっと呻いた。そのまま足をもつれさせ、冷たい床の上に倒れこむ。立ち上がろうと焦る足は震えるばかりで、仕方なく、ずりずりと這うように後ずさりして精一杯の逃亡を試みた。足音が近づいてくる。……来る。闇が。
「ひっ、ひぃいい、来ないで! なに、あんた誰なのぉ……」
少女は知らない。──彼は狡猾で、彼は気高く、彼らの王である。故に、自らの正体に関して嘘などつくはずがない。だが悲しいかな、せめて追跡者を探ろうとする彼女の言葉は、彼にとっては不快な鳴き声にしか思われていないようだった。
ぐるるる、と獣の喉が鳴る音だけが彼女に与えられた答えだった。深夜の校舎に絹を引き裂くような悲鳴が響き渡る。
……そして、後に残ったのはぐちゃりぐちゃりという咀嚼の音だけだ。
──もし彼女が豚のように喚くだけではなく、知恵ある生き物として以下のように問いかけたなら。彼は最期くらい、彼女に真実を教えただろう。
──“汝は人狼なりや?”
「うはぁい、素晴らしいですぞ!」
エンドロールが流れるテレビを食い入るように見ていた少年が歓声を上げた。わっと両手を挙げた拍子に、狭い室内に所狭しと置かれた虫眼鏡やら教科書やらが雪崩れて落ちてきた。そんな嵐にもへこたれず、気にした素振りもなく少年はぐっと両手を握り締める。
「人狼はいる、必ずいる。それこそが、この闇の名探偵シヴァー様が編み上げた絹糸のごとき真実ッ! ウワーハハハハハ、完璧!」
ばさりとケープを翻し、腰に手を当ててうはうはと高笑いするのは本当に気持ちのいいことだ。一頻り悦に入っていたところで、冷たい一言がぽつりと投げかけられた。
「うるさい、シヴァー。狭いんだから暴れないで」
床に転がったまま携帯ゲームに夢中になっている少年が呟く。黒髪から見える赤い左目は液晶画面に注がれているが、意識だけはこちらに向けてくれているらしい。シヴァーは笑うのを止めて少年の傍に座り込んだ。
「なっちゃん、いい加減にゲームより現実ですぞ。今この学園では小説より奇なりがなうで起こっているのです」
「どうでもいい、今いいとこなのに」
「よくないですぞ。今回の事件はこの探偵部の誕生のために天が用意したレクリエーション! 他の素人に手柄を横取りされる前に調査に行くのです、そして華々しく喝采を浴びるのですぞ! がおー、おーきーて!」
「……むぅ、わかった。だからどいてくれる、起きるんだけど。天からの贈り物っていったって、ちょっと血生臭すぎると思うぜ?」
ひょいと身を起こした少年はゲームを置いて背伸びをした。卸したてのシャツが早くも皺になってしまっている。ちょいと直してやると、少年は微笑んだ。
彼の名はルミナス。跳ねた黒髪と、大きな帽子がトレードマークだ。容姿端麗、成績優秀。白い肌の儚げな印象の彼は、入学して二週間でクラス中の女子の心をあっという間に奪い去ってしまった。対してシヴァーは健康的によく焼けた肌とくるくるとした赤毛。儚いなんて言って貰ったこともない。まあ、今更嫉妬することもない。シヴァーとルミナスの付き合いは二週間じゃ足りないのだから。この大人しい美少年との間柄は、いわゆる幼馴染というやつである。
私立十六夜学園。都会の喧騒から遠い、ベッドタウンよりも山奥の広大な敷地内に作られた中高一貫の学校。校舎の裏には大学まであり、卒業すればこの時代に就職先にはそう困らないという名の知れた学園だ。中等部だけでも三千人の生徒が日々勉学と格闘し部活に汗を流す規模である。学生は全員敷地内の寮住まいで、たけのこのごとくにょきにょきと生えたマンションは遠目に見ても圧巻だ。敷地内にバスの循環が必要な程度の広さといえば、諸君、お分かりいただけるだろうか?
シヴァーもルミナスも例に漏れず学生寮から通う、今春入学したばかりの中等部一年生である。二人は上記の通り幼馴染でもあり、学生寮のルームメイトとして奇跡的な再会を果たした。それから部室の一棟の片隅、ひっそりと物置き場としての使命を全うしていた小部屋に探偵部を設立(生徒会無認可)し、部活動に勤しんでいるところだった。
ちなみに実績はまだない。平和な日常で探偵の力が必要とされる場面なんて滅多にない。……はずだった。
──事件は四日前に始まった。
飼育小屋のウサギが盗まれ、無残な死体となって発見されたのだ。発見場所は高等部三年生のとある教室の、とある生徒の机の上だった。
悪質な嫌がらせ。……そう、最初は。ショックで青ざめる学生たちを尻目に、その翌日も、その翌々日も、事件は続いた。下駄箱、ロッカー。次々とウサギの死体が見つかる。どれもこれも、真っ白でふくふくな腹をなにかで掻っ捌いたように、むごたらしい姿となって。
事件と同時に、学生たちの合間には奇妙な噂が広がっていた。
“犯人は人狼ではないか?”、と。
シヴァーたちが入学する前から、人狼ゲーム、という遊びがブームになっていた。個々の役割を決め、役の通りに演じたり騙したりしながら進めるロールプレイで、実は数年前にも一度盛り上がった遊びだ。インターネット上で流行していたものを誰かが持ち込んで広め、廃れたそれを再び引っ張り出したらしい。このゲームにずるずると付随して出てきた話がとんでもないことだったのは後に記す。
ルールは簡単、道具もいらない。友だち同士、敵味方にわかれて欺き合うという、日常では許されないことを許された“遊び”。進行上、殺したり殺されたりする役割に興じる学生たちは、以前のブーム時と同じように次第にロールプレイ上の役割を現実にも持ち込むようになった。村人は村人同士、狼は狼同士でグループを、奪い合うのは命の代わりに、モノ、なんて。
そこまでいくと学園側も黙ってはいない。基本的には学生の行動には寛大な対応を取っていたが、風紀を乱しやがていじめを誘発させるものとし、人狼ゲームを禁止させた。その代わりに学生たちの興味を引き付けそうな娯楽を複数投入し、見事流行を再度廃れさせることに成功したのである。
ところが、今回の事件が起こってしまった。殺されたウサギの腹部の傷が獣が食い破ったようだとは誰が最初に言ったことだったか。──実は最初のブーム時にも動物の死体が発見されたという“事実”と、数人の生徒が“行方不明”になっていたという“噂”も従え、情報は一人歩きして、どんどんどんどん肥え太って、ついには取り返しの付かないところまできてしまった。二日目のウサギは最初に腹部を裂かれた後に首を切られたとか、三日目のウサギたちはやはり腹部を裂かれた後とに四肢をもがれた、とか。事実か構造かわからない情報が飛び交うたびに生徒たちは怯え、いつ自分の机やロッカーが標的になるか、そもそも自分たちがウサギに成り代わる日はくるのか──“行方不明”になるのかと震えた。噂は大きなうねりとなり、もはやそれ自体がイキモノと化して校内を跋扈する。禁じられたゲーム、というどこかそそられるキーワードを使って、新聞部がまとめた記事には“犯人は人狼ゲームを行って狼となった生徒、惨劇は繰り返す”という見出しがでかでかと書かれていたのである。
学園は部活動を制限し、生徒の外出も制限し、夜間の出歩きも制限し、どうにか事態の収拾をしようと努めている。警察もちらほらやってきているが、犯人が外部の変質者ではなく学生の中にいるであろう可能性を考えて、あまり大きく動けないようだった。じっとしている間にも毒が回るように、ついには高等部だけではなく中等部まで噂は飛び火し、休みを取る生徒も少なくなかった。
そんな中、真相の解明に息巻いていたのが我らが探偵部である。無認可故に活動休止の制限などくるわけもない。シヴァーはケープのリボンを結びなおし、虫眼鏡を片手に相方の手を取った。
「なっちゃん、さあさあ人狼を探しに行きましょうぞ!」
「そう、どこから探す? 検討は付けた方がいいと思うんだけど」
「それはそのぉ……一緒に考えて欲しいんですが」
「むぅ」
ルミナスは空いた手を顎に当て、なにやら考えている様子だった。首を傾けるだけでさらさらと前髪が流れる。シヴァーも一緒に考えてみたが時間だけが過ぎていく。やがて、ルミナスがぽつりと呟くまで。
「ここはセオリー通り、犯人は現場に戻る説でいこうぜ」
「そう! 素晴らしい! オイラ様もそう言おうと思ってたとこですぞ、いやーさすがなっちゃん、相方の考えを読むだなんてあーもう本当に……」
「じゃ、わたしはウサギ小屋に向かうぜ」
「ちょ、ちょっと待ってくだされ! 一緒に行きますぞ!」
先を行くルミナスの背に慌てて噛りつくため、シヴァーは探偵部室を飛び出した。
*
ウサギ小屋は広大な校内の片隅にある。ここが小学校であったなら生徒の情操教育で大いに人気を博したところだろうが、この学園は中高一貫。率先して自分のペットではない学園の動物を気にかける学生はいない。役割的に与えられた飼育委員を、当番の期間だけぶつくさ言いながらこなされるだけの寂しい空間となってしまっていた。こんなところで生きて命を失うウサギは、なんて可哀想なんだろう。入学早々、シヴァーには転がったままの野菜くずを見て胸を痛めた経験がある。
ところが、今日は様子が違う。ゴミも汚れも綺麗に掃除されている。警察がくるからどうにかして見栄えをよくしようと学園側ががんばったのだろうか。
「あの、もしもし」
ルミナスがちょっと背伸びをして小屋の中に声を掛けている。
「ふふふ、なっちゃん。ウサギに事情聴取とは、この闇の名探偵シヴァー様でも思いつかなかった一手ですなあ」
「もしもし」
「だからなっちゃん、ウサギに聞いてもわからないですぞ」
「なあに?」
「ひぎゃ!」
突如返ってきた返答に悲鳴を上げる。咄嗟にルミナスの後ろに隠れてしまったが、ルミナスはまったく動じていないようだった。もそり、小屋の中の、さらに小さいウサギが寝る小屋の影が動いた。ひょいと立ち上がったそれは、二人より高い位置から優しい笑顔を向けてくる。……襟に付いたピンの色から判断するに、高等部の生徒だ。インクブルーの髪と、柔らかい群青色の瞳にはまったく恐れる要素なんてなかった。少し、恥ずかしい。
誤魔化すためにルミナスの後ろからぱっと出て、少年に挨拶することにする。先手必勝だ。礼儀は大切だと、父上は良く言っていた。
黒いゴミ袋を片手にウサギ小屋から出て施錠をする彼は、すらりと手の長い若葉揺れるように爽やかな好青年だ。彼に向けて、精一杯行儀良くお辞儀をする。
「えー、驚かせてしまって申し訳ありませんぞ」
「びっくりしてたのは君でしょ、あはは」
「ゴホン。オイラ様はシヴァー。この春入学したばかりのピカピカテカテカの新入生ですぞ。こちらが相方のなっちゃん」
「ルミナス、です」
「シヴァーに、ルミナス。俺はトト。よろしくね」
そう言うなり差し出そうとした手を、トトは慌てて引っ込めた。
「ごめん、掃除してたんだ。握手は今度ね」
そういって眉をハの字にする彼の顔は、どこか子供らしくて愛らしい。ゴミ袋を小屋の横に置いて疲れたと言いながら見せる笑顔はやはり心地いい。年上にも年下にもモテそうなやつだ、とシヴァーは目を細める。
「それで、トト殿は一体何を?」
「だから掃除だって。俺、今飼育当番だから……かわいいよ、抱っこしてみる?」
「いや、結構ですぞ。我々は探偵部部長と副部長。連続ウサギ殺害事件の真相を暴く為にこうして出向いたのですゆえ」
「そうなんだ? 探偵部? ふうん」
そういってにこやかに笑うトトは、年下の可愛い後輩を優しく見守る姿勢は崩さない。……まともに相手にされないだろうと予想していたが、まあ、追い返されることがなくてよかったと思うべきか。
「今は二人の部活ですが、そのうち大きくなって見せますぞ」
「じゃあなんとしてでも事件を解いてもらわないとね。でも危ないから、大人に任せたほうがいいと思うなあ」
「その大人たちが頼りにならないからオイラ様たちがこうして来ているのですぞ!」
「そうらしいぜ」
「らしいぜって、もう! なっちゃん! 黙ってて!」
きーと憤慨するシヴァーを見て、ルミナスは微笑んで一歩下がる。そのやり取りを見守るトトの瞳も優しいままだ。……しかし、ちらりとウサギ小屋の中を見て、群青色の目は悲しげに曇る。
「……早く犯人が見つかってくれないと。そのうち、一羽もいなくなっちゃう」
「トト殿……。……あの、非常に聞きにくいことなのですが」
「事件のことだよね。いいよ、なんでも答えよう。小さな探偵さんに協力は惜しまないよ」
「その、トト殿はいつから飼育当番なのです?」
「えーっと、新学期が始まって少ししてからだから……もうすぐ一週間かな。今週末で終わりだね」
「当番はお一人ですか?」
「そう、俺一人」
「ウサギ小屋の鍵の管理は?」
「職員室から持ってくるよ。一応先生はいるけど、あんまり見てないね……」
「……ずばり、疑わしいですぞ」
「それ、失礼だぜ」
何も言わないうちからメモを取ってくれていたルミナスが口を挟む。
「それはオイラ様でも重々承知ですぞ。ただ、可能性の話としてトト殿は怪しいかと」
「はは、皆に言われたよ。いいんだ、もう慣れっこだから」
……当の本人はからからと笑い、ウサギ小屋の傍にある水道を捻って手を洗う。後ろのポケットからハンカチを取り出して拭う様はどこまでもスマートだ。それでも傷ついてないはずがなかった。眉を下げ、子犬のようにうなだれる。
「警察の人とか、学園の偉い人とか、いろんな人にいろんな話をしたよ。とりあえず信じてもらってるみたい。でも何の意味もないよね、事件は終わらないんだから。鍵の管理は言った通り、わりとずさんだし。……どうもね、夜に忍び込んでウサギを連れ出してってやってるみたいんだ。生徒会とか風紀委員の人が夜の見回りもやってるけど、犯人の目撃証言もなくてさ……今夜も、心配だけど……一般の生徒は立ち入り禁止だって。」
トトは唇を噛み、今にも泣きそうに顔を歪めた。感情に素直な太い眉と澄んだ瞳が、彼の感受性の高さを教えてくれる。
「今後も続くようならウサギ小屋を撤去するって。当番は面倒だけど、でも、……俺はこの子たち、好きなんだ。それに、続くようにっていつまでだって話だよね。生まれたばかりの子ウサギだっているのに、何もできなくて、見殺しにしてるだけで……」
くしゃりとシャツを握り締めて感情を吐露するトトを見て、シヴァーはようやく無碍に追い返されなかった理由がわかった。彼は、藁にも縋る思いでいたのだ。それも自分が犯人である容疑を晴らすことではなくウサギを守るために。だからこんな、見ず知らずの下級生にも時間を割いてくれている。
思わず彼の手を掴み、瞠目する瞳をまっすぐに見つめていた。
「トト殿。ご安心くだされ。必ず犯人は、オイラ様たちが見つけますぞ」
「シヴァー……ありがとう」
微笑んだトトに胸がじんと温まる。依頼人の信用、それこそ探偵冥利に尽きるものだ。
「さて、なっちゃん。職員室とやらも見に行きましょうぞ」
「……。」
「なっちゃん? そっぽ向いて、眠いんですか?」
「……むぅ。職員室なら入学式の後、学校案内で教えてくれたと思うんだけど」
「ワーハハハ、かたじけない。オイラ様、すっかりなっちゃんと会えた喜びでろくすっぽ寝てなかったから居眠りしてて……むお!」
後頭部を掻いて誤魔化し笑いを浮かべていたシヴァーの眼前を何かが通りすぎる。……石だ。飛んできた方向を見やれば、背の高い少年が三人逃げていくところだった。ばくばくする心臓を押さえながら状況を確認すべく咳払いを一つ。
「あ、危ないところでしたぞ。えー、なっちゃん、怪我は?」
「ない。……トト、貴方が狙われてたぜ」
「え? 俺? あぁ、じゃあシャルルアーツたちだね。シヴァー、ごめん。巻き添え食っちゃったみたいだ」
「なんと、顔見知りですか?」
「うん、クラスメイト。俺のことが気に入らないらしくてしょっちゅう突っかかってくるんだ。昔からずーっとね。よくあるんだよ」
「でも石は危ないですぞ! それこそいじめという奴では」
「そうだろうね。でも平気、クラスの他の皆は俺の味方してくれるからさ」
シヴァーの頭を優しく撫でながら苦笑するトトは、どこか儚げだ。……味方がいるって、本当だろうか。石を投げつけられるなんて、普通じゃない。
「あの三人は、俺が犯人だと思ってるみたい」
「そんな! トト殿はまっしろしろですぞ! 部外者が勝手に喚くからややこしくなるのに!」
「わたしたちも部外者なんだけど」
「なっちゃん! 黙ってて!」
「まあまあ二人とも、ありがとう。……でも無関係じゃないよ、二日目三日目のウサギの死体が詰められてたのは、彼らのロッカーだから」
「へ?」
「そして一日目の、死体が乗せられてた机が俺の机。」
泣き出しそうな吐息をため息で誤魔化し、トトは縋るように言った。
「どうしたって怪しいでしょう? でも一番辛いのはウサギたちだ。小さな探偵さん、どうかこの子たちを助けてあげて……。」
*
「はーくしょんっ」
窓の外では日は落ちているだろう。春とはいえ、夜はまだまだ肌寒い。身震いを一つしてから、シヴァーは厚手のカーテンをちらりと捲くってみた。予想通り陽は暮れている。もうとっくに夜の九時を回ったところだ。
「シヴァー、光が漏れるんだけど」
「おお、これは失礼した」
再び先ほどまでの姿勢、体育座りに戻る。左半身だけは温かい。……当然だ、ルミナスがぴったりくっついているのだから。
とは言っても。男同士で禁断の関係を築いていたわけではない。ストーブもないこの部室は、単純に寒いのだ。ならば二人、厚着をして肩を寄せ合うしかない。昔は同じくらいの身長だったのに、再会したルミナスはすらりとしなやかに成長し、ついでに雰囲気もぐっと大人びていたのがちょっと悔しい。シヴァーの身長はまだまだのんびりとしたままで、クラスの女子生徒たちのほうが大きい子が多いほどなのだ。
座ったまま、シヴァーはルミナスの横顔を見つめた。長い睫毛が頬の上に影を落としている。……だめだめ、なっちゃんと自分は男同士。いやいや男だからこそよかった。あれ、何がだっけ。なんだっけ……。
「シヴァー、眠いの? あんぱん食べる?」
「もう十分味わいましたぞ。口のなかぱっさぱさ! ぱっさぱさですぞなっちゃん!」
「張り込みにはあんぱんって言ってから買ったんだけど」
「そりゃそうですが……なっちゃんはオイラ様の料理より、既製品のほうがいいんですかな?」
「ううん、シヴァーの料理もおいしいから。明日の朝ごはん、期待してるぜ」
「じゃーさくっと解決させて、明日は父上仕込みのホットケーキを焼きますぞ!」
「し、声が大きいぜ」
小さな手の平で口を塞がれる。ルミナスの手も随分と冷えてしまった。そっと引き剥がして両手で温めてやると、くすぐったそうに彼は笑う。
トトから話を聞いた後、職員室やらウサギの死体が見つかった場所やらを巡ってみたが、コレといって手がかりは見つからなかった。そうこうしてるうちに夕方になったので本来ならば寮に戻らないといけない。しかし、トトの願いは切実だった。もう一羽の犠牲も出したくないという彼に応えるため、部室に戻って息を殺し、今晩犯人を確保しようと試みているのだ。
「あーあ、せめてもうちょっと早く中等部まで話が来ていれば、犠牲は少なくて住んだはずなのに……先輩方ったら口が堅くてやになりますな」
「処理に失敗すると騒ぎになるから」
「でもぉ、隠し事されてるほうがオイラ様的には気になるっていうかぁ、そこまでピリピリすることかなって」
「──今年が151年目だからだぜ」
「ふえ? 何がですかな?」
「……むぅ」
「あー、また! 都合が悪くなるとむぅって言って黙るのずるいですぞ!」
「し、静かに」
「ぐ、ごほっごほっ、殴らないで、痛い……」
「……さて、そろそろ時間もいい頃だぜ。ウサギ小屋に行こう」
「えー、まだ寒いですぞ、どうせ待つだけならもうちょっとここで……」
「一晩中ここにいるだけで満足するならそれもいいんだけど。わたしは行く」
「もー、わかりましたぞ、一緒に行きます、トト殿とも約束したしぃ」
立ち上がるルミナスにつられ、渋々とシヴァーも続く。
「犯人、捕まりますかな?」
「必ず来る」
「何でそう言い切れるんです?」
「シヴァーが職員室を見に行こうと言ったとき。気づいた」
「ふえー?」
「わたしたちを見ていた奴がいる」
*
光がない校庭を、足音もなく横切る。今夜も生徒会のメンバーが見回りに巡回をしていたが、“彼”には恐れる必要はなかった。あ、懐中電灯が切れそう。間抜けな台詞一つ残して気配が遠ざかっていく。
闇の中では、人間なんかよりもよほど自由が利く。この暗闇も、“彼”にとっては心地いいだけのもので、むしろ自在に操れると言ってもいい。目的のウサギ小屋の姿が良く見えた。
歩み寄る。……あぁ。今宵もだ。“彼”は理解した。
──すると、自分のすべきことは。
ポケットの中から取り出したカッターナイフをくるくると弄んだ時だった。
どん、と体ごと突き飛ばされる。なんだ、何事だ。まったく気配を感じなかった。しかしもう遅かった。地面に無様に転がる自分の背中の上に、何かが圧し掛かっていて身動きが取れない。
「犯人、覚悟ですぞ!」
「し、もっと注意して」
まだ幼い弾む声と、落ち着いた甘い声が聞こえる。
──見つかった。見つかった。見つかってしまった。
振り払って逃げようにも、足も腰も抑えられていては……。相手は年下らしい。けれども拘束のコツを心得ているようだ。
「とりあえず、えーっと、生徒会の人に引き渡す……」
「のは早いぜ。この人がどこの誰で、本当に犯人なのか調べないといけないんだけど」
「そう、オイラ様も言おうと思ってました。さすがですぞなっちゃん、あ、生徒手帳はこれですかな……?」
暗闇の中に、電子生徒手帳の薄青い光が広がる。顔を背けてもずいずいと無遠慮に近づくそれに、目の奥が痛んだ。
「──名前は、えーっと」
「……プルート・ルーン。高等部の三年生だ」
ため息混じりに吐き出された告白に、あ、その通りみたいですぞと弾む声が返ってくる。
「さあ洗いざらい吐いてもらいますぞ!」
「のはここだとだめだぜ。とりあえず、部室か寮に連れて行こう」
「そう、オイラ様もそう言おうと思ってました! やい犯人殿。貴様のおうちはどこですか?」
「僕の家に来るのか……? ふん、まあ、いいだろ」
「なっちゃん、オイラ様は犯人殿の手錠を引っ張るから、懐中電灯を頼みますぞ。くれぐれも! 生徒会連中の手柄にならないように、見つからないようによろしくぅ!」
「し、ボリュームを落として欲しいんだけど」
地面から起こされてすぐに、かちゃり。安物というかおもちゃのような感覚に手首が戒められる。“彼”は──プルートは、ぶるりと体を震わせた。
*
プルートの家は、学生寮のマンションの一室だった。シヴァーやルミナスの部屋とは棟が離れているが、同じような造りなので迷うことはない。エレベーター内のオレンジ色の明かりの下中で、シヴァーは大人しく従うプルート・ルーンという学生をしげしげと眺めた。
見た目は普通の学生だ。どちらかと言うと神経質そうな、きりりとした顔立ちをしている。ミルクティ色の髪の毛とエメラルド色の瞳はどこまでも綺麗だ。肌もシミ一つなくて白い。青白い、と言っていいほどだ……ウサギなんて殺して、その遺体を弄ぶような人間には見えない。納得もいかない。もっとイカレた、裁きがいのある輩を犯人だと想定していたのに。隣に立つルミナスは上昇していくランプを眺めているようだ。プルートの部屋は十二階だから、まだまだ先は長い。
「ねえ、なっちゃん」
「ん? なあに?」
「……オイラ様には、そのぉ……」
「……言っておくけど。二回目なんだけど、まだこの人が犯人かは確定してないぜ」
「部屋に、証拠ありますかなぁ。ウサギの毛とか、なんだとか」
「マイルドに言わなくていいぜ」
「そういうの、なかったら、その」
「シヴァー。本当に無関係なら。……人狼じゃないのなら、もっと暴れて、もっと抵抗して、もっと無実を訴えるはずなんだけど。この人、大人しいぜ」
「つまり、犯人だと?」
「……三回目なんだけど」
「うーん、なっちゃん。闇の名探偵であるオイラ様にはさっぱりですぞ」
「むぅ。だから、少なくとも無関係じゃないだろうなと、わたしは思っているぜ」
「あぁ、なるほど!」
手をぽんと叩いたときだった。ちーん、少々間抜けな音を立ててエレベーターの上昇が止まる。
「プルートさん。貴方の1207号室は、どこ?」
「その突き当たりだよ。……お前らのせいで部屋の鍵を落としちまったから、チャイム鳴らせよ。ルームメイトが開けてくれるから。でも騒ぐんじゃねえぞ」
「そんな台詞を言える元気があるなら、さー張り切ってげろげろしてしてもらいますぞ」
尻込みしていたから舐められたのかもしれない。シヴァーは虚勢を張るべく、手錠と一緒にプルートのネクタイを引いてずんずん歩き出す。
探偵には憧れていたし、ずっと昔から真似事はやってきた。けれども、実際にまさか、血が流れる事件に関わって、その関係者をふんじばることになるとは思っていなかった……。その覚悟ができていなかったからこそ生まれた戸惑いに気付いてしまったのも、少し苦い思いだ。
ルミナスが冷静にサポートしてくれているのが本当にありがたい。
少々格好をつけて、えへんえへんとえばってからチャイムを鳴らす。インターフォンはすぐに繋がった。
『はい、どなた?』
「夜分遅くに失礼致しますぞ」
『あれ、プルートじゃないの? どうしたの? 今開けるね』
どこか間延びした柔らかい声だ。近寄ってきた足音と、がちゃりと開いた扉から突きだした優しい顔立ち。夜食でも作っていたのかおいしそうな餃子のにおいを纏う青いストライプのエプロンをきりりと締め、手に持ったお玉と白いシャツのギャップが誰にでも受けそうな少年だ。
「あれれ、シヴァーにルミナスじゃない。どうしたの、二人して」
目を丸めた少年──トトに、シヴァーは絶句した。
「とりあえず座ってよ。コーヒーでいい?」
尋ねる割りにはトトは答えを聞いていないようだ。問答無用で目の前に置かれたコーヒーの香ばしい香りが、鼻を通って冷えた体に染み渡る。
ガラスのテーブルを挟んで、シヴァー、ルミナスと向かい合うプルート、そして三人を向かいいれたトト。きょろきょろと双方を見渡す彼に、シヴァーはどう切り出したらいいかわからず俯いていしまった。……視線の先に、今だ繋いだままだったプルートの手錠が映る。視線を辿ったトトは、恐る恐ると言った体で口を開いた。
「まずこれについて聞かないとね。どうしてプルートが手錠なんてつけてるの?」
「……そのぉ」
「そういう趣味だった、とか?」
「ち、違いますぞ。彼はその……オイラ様たちが捕まえた容疑者殿で」
「容疑者?」
「そ、そうです。今夜、オイラ様となっちゃんは犯人が来るのを見越して張り込みをしていたのですが──彼が現場に現れ、カッターナイフを持っていて……」
「……それ、本当の話?」
トトの問いはシヴァーに向けられたものではない。自分の隣で俯いていたプルートに向けられたものだ。彼の細い首が、こくんと肯定の動きをする。
「君が犯人なわけないじゃないか」
「……トト、ごめん」
「嘘でしょ? 逆に犯人を捕まえようとしてくれたんでしょ?」
「違うんだ、ごめんッ!」
顔を上げたプルートの目から、ぽろぽろと涙が落ちた。その様子にトトは言葉を失い、ふらりと後ろ手を付く。
「……どうして?」
「だって、あいつらッ! 我慢できなかったんだ!」
「あいつらって、誰?」
ピッチャーから遠慮なくミルクを注ぎながらルミナスが問う。プルートは涙に塗れた目で、忌々しそうに呟いた。
「シャルルアーツたちだよ」
「あの石を投げてきた奴ら?」
「お前らも知ってんのか? じゃあ分かるだろ! 最初にやったのは、あいつらなんだ!」
ぎゅう、手の甲が白くなるほど力を込める。プルートは涙を落としながらも、怒りと悲しみを全身全霊に漲らせていた。
「最初に、ウサギの死体をトトの席に乗せやがったんだ。それを自慢気にあいつらが話してるのを聞いて……トトが可愛がってたウサギだったのに」
「それは確かに許せないぜ。それで仕返しのつもりで?」
「そうだよ! 二日三日四日って続いて、さすがに気味が悪くなったのか、大人しくなったと思ってたけど……石なんて当たったらどうするつもりなんだよ……!」
プルートはぎりぎりと歯噛みする。──つまり彼は、トトの身を、ルームメイトを案ずるあまり犯行を重ねたということか?
しかし、それはあまりにも……。
「でも結局、プルート殿は、トト殿が大切にしていたウサギを殺してしまってますぞ」
「それはッ!」
「──プルート、もういいよ」
シヴァーの追求によって青ざめた彼を守ったのは、彼が守ろうとしていたトト本人だった。長い腕ですっぽり抱きしめて、ぽんぽんと背中を撫でてやる慈しみが篭った仕草に、シヴァーは言葉を失くす。伏せられたトトの目から零れる涙は、温かな一滴としてプルートのひび割れた心に届くだろう。
「いいんだ、もういいんだよ。……ごめんね、俺のために辛いこと……」
「……トト、ごめん」
「謝らないで。ね、今夜はもう休もう。それからどうしようか考えよう」
「……っ」
胸に顔を埋めて泣き出したプルートの背を撫でながら、トトは塗れた頬を持ち上げて優しい笑みを浮かべ、シヴァーたちを見る。
「ごめん、小さな探偵さんたち。君たちはすごく頑張ってくれたけど……今夜はこれで、終わりにして欲しい。とても勝手なお願いだと思うけど、俺もプルートも、ちょっと考える時間が欲しいんだ。俺が、もうプルートにはこんなことはさせないから、だからどうか……」
「学園側には、何も言いませんぞ。プルート殿の罪を暴くより、許されない輩がいるようですので」
「ありがとう。本当に、ありがとう……君たちでよかった……」
彼の懇願を無碍にできるものがいるだろうか。シヴァーはぐっと親指を立て、ポケットからプルートの手錠の鍵を出すとテーブルに置く。ガラスとぶつかって小さな音を立てたそれが、全ての幕引きの合図となった。
二人の家を出て、再び長い長いエレベーターに乗る。腕時計で時刻を確認したとき、すでに日付が変わっていた。……見回りが寮まで来ていたら怒られてしまう。それ以上に、明日、いや今日も学校があるのだ。確か数学のミニテストがなかったっけ……?
「いいの?」
「え、ミニテストですかな?」
「そんな話はしてないんだけど。……手柄を上げるって、散々言ってたのに」
「あぁ、それですか」
ちょっと照れくさくなって、ルミナスと同じように下に下るランプを見つめながらシヴァーは続けた。
「トト殿は最後、笑顔を見せてくれましたぞ」
「むぅ」
「依頼人を救う。それこそが探偵冥利に尽きるもの。だから、もう十分です。名声はどこか別の機会で勝取ることにしましたぞ」
「……そう。じゃあ張り切ってホットケーキ頼むぜ。アイスは抹茶の奴がいいんだけど」
「ふえ! オイラ様に早起きしろと! これ、今から寝ても寝坊ギリギリコースですぞ!?」
「し、声が大きい」
*
シヴァーとルミナスが出て行ってから十分後。プルートは玄関の鍵を閉めてチェーンも掛けた。今だ手錠で繋がれたままの不自由な手であったが、これくらいは容易い。そしてチェーンの金属から手を離すやいなや、振り返ってばっと床にしゃがみこむ。冷たい床に頭を擦りつけ、震える声を紡ぎだした。
「……トト、ごめん、ごめん」
「顔を上げて、プルート」
恐る恐る上げた顔が、すぐにぐいと持ち上げられる。……トトの冷たい爪先で。床にしゃがみこんだままのプルートを、トトはシヴァーたちに向けた柔らかな笑みのまま冷たい瞳で見下ろしている。
「あーぁ、本当にバレちゃったね、あんな子供にさ。まさか一晩で終わっちゃうとは思わなかったな」
「ご、ごめん……」
「それしか言えないの? ねえ? それともワザとやってるの?」
かちかちと震える体は言うことを利かない。けれどもプルートには謝罪を口にする以外ない。ごめん、ごめんとうわ言のように繰り返すプルートを見て、トトはふうとため息を付く。
「謝ったってだめだよ」
蹴り飛ばされて後頭部をしたたかに打ち付ける。手錠があってもなくても、抵抗なんて許されていなかった。──すぐにネクタイをつかんで無理やり起こされる。体は震えるばかりで引き摺られるまま抵抗ができない。トトから与えられる恐怖は、プルートの心に深く深く根付いていた。
──否。
「さてプルート、お仕置きだよ?」
これは、隷属の悦びに打ち震える歓喜なのだ──。
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