Episode72「神のシナリオ」

 長い白髪から覗く金色の瞳は冷たくも空虚で、底無しの絶望が垣間見える。しかし男性でありながら女性にも見える芸術品のような美しさは見る者全てが思わず息を呑み、許しを請いたくなるような荘厳さを滲ませていた。同時に慈愛のような矛盾した安らぎも感じられ、一つ一つの所作から格式高い気品が漂っている。例えるならそれはまるでヒトが想像している天使の姿そのものだ。

 魔王と言うだけあって禍々しい姿を想像していたけど、予想外の風貌と雰囲気を前にして思わず言葉を失ってしまう。するとルシファーは虚ろな双眸をこちらに向けたまま微かに口を開いた。


「…わざわいなるかな、義人達を苦しめ、彼等を火で焼く罪人達、あなた達はその行いに対して報復を受ける。御使いは、天上で、太陽から、月から、また星から、あなた達の行状と罪を調べ上げる」


 淡々と無感情に紡がれたその言葉の意味は分からないけど、透き通った声は心地良いぐらいすんなりと耳に入ってくる。改めてこれが本当に魔王なのかと疑いたくなった。


「…これはエノク書の一文、即ち君の中に眠るエノクがかつて残した言葉さ」


 ルシファーはゆっくりと腰を上げるが、その身体は細く痩せこけており、盗みを働いていた頃の僕にそっくりな体格をしている。


「…そんな事を言われても分からないよ。そもそも僕はエノクじゃない、シオンだ」


 弱々しいルシファーの肉体を見て油断してしまったのか、それまで呼吸すら忘れていた僕は我を取り戻し、ようやく言葉を吐き出す。


「どうか気を悪くしないでくれ、君がシオンである事は承知している。その上で君が此処へ来るのを待っていた」


 やはり…そう思うものの、これが罠であるという可能性は不思議と僕の頭からは消えつつあった。それはルシファーが天使のような雰囲気を持っていたからなのかは分からない。ただ今は純粋にこの魔王と対話をしてみたい、そう思わせるカリスマ性があった。


「…僕と話し合いでもするつもり?」


「そうだ、君に対して敵意はない。私の敵は天上に彷徨う無なる支配者…神だけだ」


「…僕なんかと一体何の話を? 僕はどうあってもあんた達と一緒に神を滅ぼす気なんてないよ」


「あぁ、分かっているとも。だからこそ私は君と話をしておきたい」


 まさかルシファーは僕を説得するつもりなのだろうか?

 何があろうと僕が彼等に加担する事は有り得ない、確固たる意志がある。しかし何故だろう、ルシファーと言葉を交わす度にそんな思いが霞みそうになるような不安を覚えていた。


「すまない、自己紹介を忘れていたな。既に承知の事だろうが、私が七つの大罪が一つ、傲慢の罪を司るルシファーだ。同時に七つの大罪が一つ、憤怒の罪を司る魔王サタンでもある」


「…色々と呼び名があって大変だね」


「君とて天の書記メタトロン、ヒトの始まりアダムという名があるではないか。お互い様さ」


「…僕はそのどちらでもないよ。アンディの親友シオン…それ以外の何者でもない」


「そうだな、非礼を詫びよう。さて、早速で悪いが本題に入らせてもらって良いかな?」


「その前に悪魔の召喚を止めてくれ。あんたの持つ鍵とやらがあればヘルゲートを閉じられるんだろ?」


「残念ながらそれは君次第だ。君には心強い仲間達…加えて神の加護がある。それに対して私に残された手札はヘルゲートから現れる仲間達だけだ。こちらがヘルゲートを先に閉じてしまってはフェアじゃないだろう?」


「魔王からフェアなんて言葉が出るとはね。そもそも僕があんたを信用するとでも?」


「信じるか信じないかは任せよう。ただマモンの言っていた通り、この城内は接続が断たれている。ヴァンパイアの魔力が残っている今の君なら私を殺す事だって不可能ではない。どうだい、少しぐらい私を信用してはくれないか?」


 どうやら僕の考えは全てお見通しのようだ。

 ただルシファーの能力である全智の書…それは何らか本のようなものだと思っていたけど、今のところルシファーが何かを持っている様子はない。だとすれば全智の書は形ないもので、今もこちらの思考やこの後の行動は筒抜けと考えた方が良いだろう。


「…君はまだ知らない事が多々あるようだね。対等な話し合いとは互いの信頼関係があって初めて成立する…故に私の事を少しでも信じてもらえるよう、君が抱いている全ての疑問に答えようではないか。まず君の知る私の能力、全智の書だが一つだけ欠点がある。それは天上と接続した者の事は何も分からないという点だ」


「…何?」


 まさかルシファーは本気で僕の信頼を勝ち得る気か…?

 自身の能力を隠すどころかこうもあっさり曝け出すとは思いもしなかった。


「故に私には誰が真理ダアトの扉を開くのか分からなかったし、君が今後何者として覚醒し、どんな選択をするのかも分からない」


「だからゴードン…母なる血マザーブラッドを使ってソフィアや、扉を開く可能性のある者達を捕らえた…と?」


「その通り。加えてレヒトやエリス…あの二人に関してはその存在自体始めから記されていなかった。だからこそあの二人の出現には驚かされたよ。結果的に扉を開いたのはシオン、君だったがね」


「…何処まで知ってるの?」


「何処までも何も、あくまで私は君の周りにいる者達の行動から予想しているに過ぎない。例えば血の盟友クロフトやザック、他にもこちら側にいた王室騎士団のセリアとサリエル…彼女達の思考や行動は今も全智の書に記述されている。まぁソフィアはイヴとして接続した瞬間から記述が途絶えてしまったがね。要は私はそれらの情報を基にあらゆるものを推測しているだけさ」


「じゃあ僕は真理ダアトの扉を開いた時から…」


「そう、君の記述は全智の書から抹消された。だから私は君が扉を開いたと知れたし、イヴとして覚醒したソフィアもまた然り、という訳だ」


(こいつ…一体何を考えているんだ?)


 素直に信じていいのか分からない。確かにルシファーの言葉に矛盾は無く、嘘を言っているようにも見えない。

 しかし天上に接続した者の記述がないのなら、地獄に接続されているはずのレヒトの記述が存在しないのは一体どういう事だろうか…。


「君は実に分かり易いな。少しはあのレヒトという男を見習った方が良い、全智の書など無くとも考えている事が筒抜けだぞ」


 思わずはっとするが、そう言うルシファーは少し困ったように笑っていた。


「折角の機会だ、本題に入る前に君は様々な真実を知る必要がある。まずレヒトの事が気になっているようだが…彼は少し特別でね。彼を魔神に堕としたのは私だが、私はあくまできっかけを与えたに過ぎない。そもそも彼と戦神マルスは別たれており、マルスは地獄の底で眠り続けていた」


「どういう…事だ…?」


「女神エリスと交わった戦神マルス、神は二人の神に罰を与えた。神でありながらヒトに憧れた二人だが、戦神マルスは力を奪われ、ヒトの世にありながらヒトとは異なる理に生きるヒトとして地上に解き放たれた。戦神の力は記憶と共に地獄の底へ封じ込められ、彼がヒトとして生きるか、力を求め再び神となろうとするか試されていた。つまり彼は地獄に接続する事で力を引き出すが、彼の存在そのものは未だ天上のものなのだよ。故に全智の書に彼の記述は存在しない」


 以前接続しているにも関わらずレヒトは僕の識る天上の知識を理解出来なかったけど、どうやらそれは元々一つだったマルスが別たれていたからのようだ。

 天上の存在としてヒトの世の理から外れ、しかしその力の根源は地獄の底で眠る…神であり悪魔にもなり得る存在、それがレヒトの正体…。


「しかし皮肉な事だ。ヒトとして生きていたレヒトが再びマルスの力を取り戻した場合、神は女神エリスが魔神と化したマルスを葬るよう作り変えていた。記憶を失ったエリスがいつからこの地上に解き放たれていたのかは定かではないが、きっとそれも神の気まぐれなのだろう」


 ようやく二人が殺し合いを演じていた理由が分かった。確かにきっかけはルシファーによるものだが、二人の殺し合いは始めから神が仕組んだものだったのか。


「でも…あんたはそれを利用してソフィアを…殺そうとした」


「そうだ、しかし勘違いしないで欲しい。私は君の愛する者を殺したくなどない。当然君も、この世界に生きる全てのヒトもだ」


 そう言うルシファーの目は曇りなく真っ直ぐで、思わず魅入ってしまう。


「よくもそんな戯言を…」


「私の願いはヒトの真の解放、救済だ」


「…今ある命を踏み躙っておきながら、救済だと?」


「これまで世界は何度も滅び、その度に蘇ってきた。だがね、私はそんな運命の連鎖を断ち切りたいのだよ」


「だから今ある世界を破壊するのか…?」


「考えてもみてくれ、今セインガルドにあるソドムとゴモラ、これらは過去に存在したソドムとゴモラに酷似している。そこは悪が蔓延る無法地帯…しかしその中にも尊い命は数多く存在していた。もしもある日突然、神の気まぐれなんてものでそれら全てが滅ぼされたら? 果たしてそれは正義か?」


「それは…」


「秩序が崩壊しても尚、君はあの街で親友と共に生きていた。それは悪なのか? もしそうならヒトは、君達は生きる事すら罪となるのではないか?」


 駄目だ、これ以上ルシファーの言葉に耳を傾けてはいけない。彼の言葉は胸の奥にまで染み渡り過ぎる。

 それはヒトが生まれながらに持つ原罪を赦さんとする神のように感じた。真理ダアトの扉を開き天上と接続した僕は既に原罪を持たないはずだが、それでもヒトであるが故か、盗みを働いてきた罪悪感のせいか、本能的に救いを求めたくなる気持ちは隠しようがない。


「ヒトは本当に平等か? 弱者と強者、従属と支配が何故今も存在している?」


 僕はルシファーの言葉に対して何も言い返せなくなっていた。彼の言葉は僕自身が抱いていた想いでもある。

 今でこそ力を手に入れたけど、ソフィアに出会うまで僕は力を渇望していた。理不尽で不条理な世界を恨み、かつては信仰していた神さえも捨て、自分とアンディが生きる術だけを考えていた。

 そんな僕にはルシファーを否定するだけの言葉も想いも持ち合わせていない。


「新たに創り出されたこの箱庭とて、全ての根源である神をその座から引きずり下ろさない限り救いは無い。終わり無き再生と破滅の繰り返しだ」


「箱庭…」


 そうだ、今あるこの世界はかつての僕が願い、神が生み出した新たな世界。僕はこの世界が創られた原因や理由を未だハッキリとは理解していないけど、サリエルの話によればルシファーは全ての真実を知っているはずだ。


「…教えて欲しい、何で僕は新しい世界を創造したのか…その意味と理由を」


「構わないが、これはあくまで私の推測だ。前回私の前に現れた君…エノクの魂を継ぐ者の記述は当然存在しなかったし、私とて世界が再創造された際にその記憶は失われている。私に話せるのは全智の書から知り得た事実とそこから導き出された答えだけだが…それで良ければ話そうではないか」


 誰も知らなかった世界の真実、それがついに明るみになる。その意味はあまりに重く、僕は一度深呼吸し覚悟を決めるとゆっくりと頷いた。


「親切心で聞いておくが、時間は大丈夫かな? 君は急いでいるのだろう?」


「…あんたが今すぐヘルゲートを閉じる気がない以上、急いでも仕方ない。それにレヒト達が来るまでの時間稼ぎにもなる」


 当然これらは嘘だ。僕自身よく分からなくなっているけど、今はとにかくルシファーの話を聞きたい。いや、そうしなければいけない気がする。


「あぁ、そう言えば彼はマルスの意思に打ち勝ったようだな。誤算ではあるが悪くない」


「…余裕だね」


「そういう訳ではないが、喜ばしい事ではある。まぁ良い、少しばかり長くなる話だ、良かったら掛けてくれ」


 そう言ってルシファーが指を鳴らすと突然僕の背後に椅子が現れる。出会った当初の僕だったら警戒して身構えただろう。しかし今では自分自身驚く程素直に現れた椅子に腰を降ろせた。


「さて…まずはそうだな、私が初めて神に反旗を翻し、敗れた後の出来事について話そう」


 ルシファーもまた元の王座に腰掛けると昔を懐かしむかのように淡々と語り始めた。


 全ての始まりは気が遠くなるような、遥か遠い過去。

 アダムとイヴがまだ天上にいた頃からアダム・カドモンの誕生を神と共に待ち望んでいたルシファー。しかし神が思い描いていたその過程に異を唱えたルシファーは自身が神に成り代わってヒトを導こうと反旗を翻そうとした。

 それに気付いた神はルシファーを天上から追放し堕天させるが、ルシファーは地獄の王サタンとして地上へ這い上がり、そこで神の軍団と悪魔は殺し合いを始めた。そうして始まった神々の戦争ジハードは堕天したルシファー達、悪魔の敗北で終結する。

 世界は壊滅的なダメージを受けたが、それから何億という時を経てヒトは再び文明を形成する。その間も地上は神の気まぐれに翻弄されるが、ヒトは順調に繁栄の一途を辿っていた。

 ただルシファー自身未だに不可解な事が何故かその際、彼だけは神に敗れた後も地獄へ還らず地上に留まっていた。


「私は傍観者としてただ世界の行く末を見守っていた。しかしある日、世界とヒトの運命は大きく動き出す」


 繁栄していくヒトと世界を傍観している者はルシファー以外にも存在していた。それこそ神の遣いであるアザゼル等、見張りの者達エグレーゴロイだ。しかし彼等はヒトの女性を妻に娶るという禁忌を犯してしまう。その結果、アザゼル等によって神々の知識を得たヒトの文明は異常な発展を遂げた。


「ただそうして生まれた、神からすれば忌むべき世界は神の手で切り捨てられてしまった。君も知っての通りアイン・ソフに位置する存在はアイン・ソフ・アウルに位置する次元の壁を超えられる。故に私は全智の書によって自分がいる世界が切り捨てられた事、そして新たに元の世界が創造された事を知った」


「世界が…切り捨てられた…?」


「そうだ、切り捨てられた世界ではヒトがヒトの肉体を構成させる程の文明を持っていたが、ある日突然終わりを告げた。神によって見張りの者達エグレーゴロイとヒトの間に生まれた子…ネフィリムが暴走した事で世界は崩壊したのだ」


「ネフィリムの…暴走…」


 レヒトがいた異世界にもネフィリムが存在していた。そしてあの異世界で起きたジハードはネフィリム同士の殺し合いが原因だったけど、まさかルシファーの言う切り捨てられた世界とは僕達がいたあの異世界だったのか…?


「そして切り捨てられた世界とは別の、新たに創り直された元の世界に私は次元を超えて移動した。そこにネフィリムの血は残されたままだったが、見張りの者達エグレーゴロイによってもたらされた知識は失われ、安寧に満ちていた」


 しかし…と付け加えたルシファーの表情に微かに影が差す。


「私はそんな安寧した世界で再び神へ戦いを挑んだらしい」


 そう言うルシファーはまるで他人事のようでありながら、己の過ちを後悔するかのように伏し目がちに続けた。

 全智の書を通じて世界が切り捨てられた事、新たに元の世界を創造された事を知ったルシファーは憤怒に駆られ、神への復讐を決心する。

 地上から天上へ乗り込むにはヘヴンズゲートを通る必要がある。そしてヘヴンズゲートを解放するにはセフィロトツリーに位置する十のセフィラ、それらを守護する守護天使を排除しなければならない。その為にルシファーはまず守護天使を排除する少数精鋭の悪魔を地上に召喚する事にした。

 ルシファーの召喚に地獄からはベルゼブブとベリアル、アスモデウスが応えた。そして全智の書で天から追放され地上を這っていた堕天使アザゼルの存在を知っていたルシファーは接触を試み、説得の末にアザゼルを仲間に加えた。

 そうして四体の悪魔と共にルシファーはメタトロンも含めた守護天使達を次々と撃破し、残すセフィラは真理ダアトだけとなる。しかし時間が掛かると思われた最後の鍵、真理ダアトの扉はルシファーからすれば想像よりも早い数百年後に開かれた。

 神への復讐心に囚われていたルシファーはそこに何の疑念も抱かず、ヘルゲートを解放するとあっという間に地上は悪魔が蔓延る地獄と化す。そうして進軍の準備が整いヘヴンズゲートを開こうとした時、不意にそれは現れた。


「メタトロンの魂を宿し、アダム・カドモンの片翼アダムとなり得る存在…シオン、君の前身とも言える、宿主だ」


 僕と同じく少年の姿をしていたそれは瞬く間に悪魔を葬るが、ルシファーはその光景を前にただ戸惑っていたと言う。


「メタトロンを含めた守護天使は復活するのは必然だ。ただ解せなかったのはそれが何故ヒトの姿となって、突然私達の前に現れたのか…その理由に気付いた時は既に手遅れだった」


 地上にいた悪魔のほとんどを焼き尽くした少年は神の遣いとも言える存在だった。真理ダアトの扉を開いた少年は愛する者を悪魔に殺されるとその怒りから接続を求め訴え、神はそんな少年に力と使命を与える。


「メタトロンの力、魂を与えられた少年は世界の終焉を願うと地上は天上の炎に包まれ私諸共全てを焼き払った。しかし恐らくそれら全ては神が仕組んだ物語…彼がアダムで、彼の愛する者がイヴだったかどうか確証もない。結局少年は私達を排除する為の駒に過ぎなかったのだよ」


「じゃあ真理ダアトの扉を開いたのは…神がわざと…?」


「恐らくそうだ。でなければ少年が真理ダアトの扉を開けるはずがない。仮に少年が本当にアダムとなり得る存在だったとしても、余りに不自然なタイミングではないか」


 やがて地上世界は天上の炎によって焼き尽くされ、無へと還っていく。しかし世界が消え行く前に少年は最期にこいねがった。


「新たな箱庭の創造…少年の願いを神は叶えた」


 不意に僕の脳裏にいつか見た映像と誰かの言葉が浮かび上がる。


『新たな箱庭に希望を詰め込み給わん事を。されば奈落に堕ちし厄災が甦ろうとも、次は世界に光を齎もたらさん。己の過ちは己に罪を課し償おう。天に住まわし主よーー』


 それは崩壊した世界でただ一人残った少年の切なる願い。


『僕が僕に課した罪は君を苦しめるだろう。一度滅ぼした厄災が再び君の目の前に現れるだろう。しかしそれでも前に進み、同じ過ちを繰り返してはいけない。己を知り、愛を育み、己の為すべき未来を見失う事の無いよう、汝の行く末に幸あれ』


 それは絶望の淵で少年が最期に託した想い。


(そうか…やっと思い出した…)


 あの映像は僕が異世界に転移する時に見たものだ。そして次元の狭間…無意識下の共有世界ではあらゆる世界、ヒトの記憶や情報が混濁している。だから僕はそこ少年の記憶と接触する事が出来たのだろう。

 見張りの者達エグレーゴロイによってもたらされた知識を失い、安寧が訪れた世界…しかしルシファーの謀反に気付いた神によって一人の少年は全ての業を背負わされ、悪魔と共に一つの世界を消滅させてしまった。


「そうして今の世界が創造され、生まれ変わった。天上の炎に灼かれた私は地上にいた頃の記憶を失い、今度は地獄へ戻されてしまった。他の悪魔達も記憶を失い、ある者は記憶を書き換えられていた。しかし全智の書でそれらの事実を知った私は確信を持ったよ。今度こそ神はアダム・カドモンを誕生させるつもりなのだ、と」


「その為の…僕とソフィア…」


「その通り。加えてこの世界…箱庭は正確に言えば新たに創造された訳ではない。世界が切り捨てられ、新たに知識を奪った世界が創造された際と異なり、この世界は時を巻き戻されただけだ」


「時を巻き戻された…?」


 新しい世界が創られた事を全智の書で知ったというのはまだ理解出来る。しかし記憶を失ったにも関わらず世界の時が巻き戻されたなんて何故分かるのだろうか?


「時を巻き戻されたという根拠はこの世界に未だネフィリムの血が残されているからだ。加えてレヒトとエリスを地上に解き放った事からも、恐らく神はこの世界に何らかの思い入れでもあるのだろう」


 その言葉に僕は思わず耳を疑った。


「そんな馬鹿な…この世界にもネフィリムが…?」


「あぁ、今となってはほとんどが死に絶えてしまったがね。かつては君の知るセリア、彼女の祖国には多く存在していた」


 確かセリアは自分の祖国を天使の襲撃によって滅ぼされ、神に復讐する為にアザゼル達の仲間となっていた。何故天使が彼女の国を襲撃したのかはっきりとした理由は分かっていなかったけど…まさか…


「じゃあ…彼女の祖国が天使に襲われた本当の理由は…」


「アザゼルはセリアの力を解放してだけに過ぎない。ネフィリムの子孫である彼女は元より、普通のヒトとは比べ物にならない魔力を秘めていたのだ。皮肉にもその力で彼女は生き長らえたが、忌まわしき力の顕現は神の逆鱗に触れてしまったようだ」


 言われてみれば確かに、ヒトには元々魔力が備わっているとは言え、それを解放しただけではあれ程戦える訳がない。

 ヴァンパイアは月の魔力という強力な力を吸収してそれを使役するが、ソフィアから直接吸血された僕はその辺のヴァンパイアより吸収量が多く、当然それに比例して力も増している。しかしセリアは自身の魔力だけで僕と匹敵するか、 下手をすればそれ以上の力を持っているのだ。今まで深く考えた事が無かったけど、ルシファーの言う通りネフィリムの血を受け継いでいなければセリアのヒトの限界を超えた魔力は説明がつかない。


「ほとんどが死に絶えたって事は…じゃあネフィリムはまだこの世界に…」


「数は少ないが確かに存在している、セリアもその一人だ。当然見張りの者達エグレーゴロイもたらした知識は失われたままだがね。ただそのせいとでも言おうか、この世界の文明の発達は非常に緩やかなものだ」


 文明の発達が緩やかとは一体どういう事だろうか。確かにレヒトや僕がいた異世界とでは文明レベルの違いを感じたけど、ルシファーの発言には確かな自信が伺える。


「…まるで他の世界全てを知ってるような言い方だね」


「言っただろう、全智の書にはアイン・ソフ・アウルの次元…王国マルクトに位置するあらゆる世界の事象が記述されている。私はそこに記述されている内容は全て知っているのだ。この世界は創造されてから実に二千年以上経つが、その間文明はまったくと言っていい程進歩していない。これは他の世界と比べて異常な事だよ、神が何らかの干渉をしているとしか思えない」


「じゃあ他の世界はみんなもっと…切り捨てられた世界のような文明が…?」


「全てとは言わないし、大小の差もある。しかし君も次元の狭間で見たのなら分かると思うが、世界は無限に存在している。そのほとんどが二千年もあれば何らかの進化は遂げているよ」


「で、でも神は原則として地上に干渉しないんじゃ…」


「そのはずだが、現に君の前身や、セリアの祖国…ネフィリムを滅ぼした事から分かるように、神はこの世界に関しては過干渉とも言えるぐらいの干渉をしている。加えてこの世界だけは遥か昔から分裂をしていない」


 世界の分裂…その概念は少し考えればすぐに理解出来た。

 僕達のようなアイン・ソフ・アウル…王国マルクトの下に存在する世界の全ては常に無限の分裂を繰り返している。分裂のタイミングは時間にしてほんのコンマ一秒、いや、それ以下の単位で生まれ、あらゆる可能性の世界が無限に広がっているのだ。

 例えば僕が何もない道で、何も考えずに一歩前へ踏み出す…その間に世界はいくつもの分岐を繰り返して、その数だけ無限に生まれている。それらの世界はバラバラで、言わば一枚の絵のようなものだ。絵は時間軸と共に無限に増え続けるが、一つの世界に紐付けされている為、世界の軸そのものがブレる事はない。

 そうして広がる無限の世界は全て次元の狭間に集約されており、僕達が持っていた鍵のようなものが無ければどの世界の、どの時間に飛び込むか、膨大な絵の中から選ばなければならなくなる。

 しかし僕が今いる世界はルシファーの話だとそういった分裂が起きていないのだ。それは言い換えるとやり直しの効かない、もしも…が存在しない世界という事だ。

 切り捨てられた神の忌むべき世界。僕の前身によって滅んだ世界。そして時を巻き戻された上で再生した今の世界。そのどれもがネフィリム誕生という事実、根幹は変わっていない。同時に全てが神の手によって意図的に生み出されている。

 ルシファーの言う通りこんな真似が出来るのは神以外には有り得ない。ただその真意は誰にも分からず、神のみぞ知るところだ。


「結局この世界は神が自分の願いを叶える為に創った箱庭なのだよ。その神を討たない限り、この世界はアダム・カドモンが誕生するまで再生と破壊が永遠に繰り返される」


「だからあんたは…今ある命を犠牲にしてでもそれを終わらせる、と?」


「そう…その為に君の力が必要なんだ。君の力があれば神を殺せる」


 ルシファーは王座から立ち上がってこちらに歩み寄ると手を差し出した。


「今こそメタトロンでもアダムでもない、シオン、君に問おう。どうかこの世界と全てのヒトを救う為、私に力を貸してくれないか」

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