Episode68「逡巡」

「こ…の…! エリ…ス…逃げろ…!」


 マスターは残った力を振り絞って抵抗を試みるが当然何の意味もなく、ベルゼブブは憐憫ともつかない微笑を浮かべながらその姿を眺めていた。


『お前の存在は女神が目覚める際の妨げとなる可能性がある。此処で消えてもらおう』


「マ、マスターに何をするんですか! やめてくださいっ! 私を殺すのはレヒトじゃないんですか!?」


『そう、女神エリスを殺すのはマルスで間違いない。だがお前を殺すのは私の役目だ』


 そう言って口元を吊り上げるとベルゼブブの腕を形成していた無数の蟲がマスターの全身を覆うように這い、首から下が大量の蟲で隙間無く埋め尽くされてしまう。


「やめてくださいっ! お願いですから…やるなら私を…! マスターには手を出さないで!」


『何か勘違いしていないか? 私は悪魔、七つの大罪暴食の罪を司るベルゼブブだぞ』


 次の瞬間、足に纏わり付いていた蟲が激しく蠢き出すと気を失っていたマスターが悲痛な叫びを上げた。


「ぐああぁぁぁっ!?」


「マスター!? マスタァァッー!」


 あっという間にマスターの片足は股関節から食い尽くされ、足の付け根からは大量の血が垂れ流しになっていた。怒り狂ったエリスは光線を放とうとするが突然黒い霧が意思を持ったように四肢に纏わり付くと身動きが取れなくなってしまう。


「ぐぅっ…! これは…あの時の…!?」


『前回は完全体でなかった故にお前の神気に遅れを取ったが今回は違う。お前はそこで大切な者が死ぬ様を眺めているが良い』


「や…やめて…やめてぇぇぇっ!!」


 頭を除く全身に纏わり付いていた蟲が一斉に蠢き始めるがマスターは身動き一つ取れず、悲痛な絶叫と激痛に歪む表情がエリスの鼓膜と網膜に焼き付いていく。


「ぎ…あっ…あぁ…い、生き…ろ……!」


 全身を無数の蟲に覆われ身体の自由を奪われたまま、徐々に肉体を喰らわれていく感覚、痛み、恐怖は想像するだけで気が狂いかねない。それでもマスターは必死に笑みを浮かべようとしていた。


「俺の…かわ…い…むす……め…」


「あ…あぁ…ぁ……」


「いつ…か……じゆ…う………」


 口は動いているがそれ以上は声になっていなかった。それも当然の事で、既にマスターの肉体は食い尽くされ残るは頭だけとなっている。その状態では声が出るはずもなく、脳が思考しているのかさえもう分からない。それでも何かを伝えようとしているのかマスターは最期まで口を動かし続けていた。


「お父…さん…ひぐっ…分かりました…だからもう…もう…」


『別れは済んだか? では彼には退場してもらおう』


 次の瞬間マスターの眼、耳、鼻、口の穴から黒い百足が血と共に飛び出す。そして何匹もの百足が蠢き、貪欲に残った頭を喰らい尽くした。

 この世界で初めて出会い、知識を与え家族のように接してくれたマスター。父親とも呼べる存在の最期の姿は首だけとなって、穴という穴から黒い百足と血を吹き出していた。時が止まったようにその瞬間の光景が脳裏に焼き付き、エリスは瞳孔を開いたまま硬直してしまう。

 マスターが跡形も無く食い尽くされる様を何も出来ずに傍観していたエリスは事切れた人形のように項垂れ、それを見てベルゼブブは満足気な表情を浮かべた。


『中々美味であった。やはりデザートは最後に残しておくものだな』


「…………」


『どうした、もう消滅してしまったか? いや…まだ残っているな』


「…ゆる…さ…い…」


『ん、何だ?』


 俯き項垂れたまま微動だにしなかったエリスから不意にそんな声が届く。直後、エリスは勢い良く面を上げ、鬼のような形相でベルゼブブを睨み付けた。


「許さない…許さない…許さない許さない許サないユルさないユルサナイユルサナイッ!!」


『これは…とうとう壊れたか?』


「ウワアアァァァーーッ!!」


 天を仰ぎ発狂したように叫ぶと突然エリスを中心に眩い光が爆発したように弾ける。すると彼女を捕らえていた蟲と檻が粉微塵に消滅し、光が収束するとそこには白く輝く大きな翼を広げ、黄金に光る瞳でベルゼブブを捉える女神が浮遊していた。


『はははっ…! ようやく目覚めたな女神エリス…!』


 待ち望んでいた女神の覚醒にベルゼブブは無邪気な笑みを浮かべた。

 しかし少しばかり早過ぎる、まだレヒトが完全に堕ちていない。魔神が覚醒すればエリスは真っ先にレヒトを殺しに行くはずだが、今の標的は間違いなく自分だ。


『面白い、この際時間稼ぎも兼ねて女神の力を味わってみるのも一興。準備運動の相手として不足は…無い!』


 女神の覚醒を前に気分が高揚したベルゼブブは黒い霧のような無数の蟲をエリスへ飛びつかせるが、その身に触れる直前で霧は灰のようにボロボロと崩れ去ってしまう。


『ふ…ふはははっ! それでこそ神の眷属! これからお前達がどんな死闘を演じるか想像するだけで涎が止まらぬわ!』


 ベルゼブブは一度距離を置き全身を黒い霧に変えエリスの周囲を飛び回る。しかし黒い霧に包まれたエリスは眉一つ動かさずに無感情に四方へ光の矢を飛び散らせ、光の矢に貫かれ霧に穴が穿たれた。穴はすぐさま再生するように塞がってしまうが、それでもエリスに動じる様子はない。


『流石だ、今ならマルスがお前を愛した気持ちも分かるぞ。不和と争いの女神…何と戦場の似合う事か』


「…マルス?」


 その名を聞いた瞬間、無表情だったエリスに微かな変化が生じる。しかし何事もなかったかのように掌に光を収束させるとそれは白く輝く巨大な光の剣となった。


『まさか覚えていないのか? まぁ良い、お前に下された罰に変わりはない』


「先程から五月蝿いですよ…蝿の王」


 エリスが自身の身の丈以上ある光の剣を軽々と振るうと黒い霧は裂かれ、ベルゼブブはすぐさま空いた穴を閉じようとする。しかしすかさずエリスが衝撃波を放つと穴は更に大きく広がり、エリスは難無く霧の中から抜け出した。


『やれやれ…全力で行かねば触れる事さえ叶わぬか』


「私に触れるなど…穢らわしい」


 不快感を露わにしたエリスは光の剣に手を添え、横に構えたままベルゼブブに向けて突き出す。すると正面に魔法陣が浮かび上がるが、それは巨大にして複雑な幾何学模様をしており、先程までエリスがビームを撃つ際に使用していたものとは明らかに異なっていた。


「失せなさい、わざわいよ」


 エリスがそう告げると突然何もない空間から次々と淡い光が生まれ、周辺の魔力を搔き集めているかのように魔法陣に吸収されていく。そして魔法陣が輝きを増し一際強い光を放った次の瞬間、エリスの周囲を大量の光の剣が浮遊し取り囲んでいた。


『…どうやら本気で私を消すつもりのようだな』


「悪魔は全て滅ぼす…それが父より賜りし新たな使命」


 戦神にも劣らぬ威圧感が周囲に張り詰め空気が振動する。ベルゼブブは魔力を高めてエリスの攻撃に備えるが、無数の剣が狙いを定め剣先を向けた瞬間異変が起きた。


「っ…!」


 突然エリスが顔を歪ませると無数の剣は次々と消滅していく。始めは何が起きたのか理解出来なかったベルゼブブだが、少し遅れてその理由に気が付いた。


『これは…この気配は間違いなく…!』


 突然現れた強大にして禍々しい、地獄の王に匹敵する邪悪な気配。待ち望んでいた魔神の到来にベルゼブブは口元から涎を流しながら狂ったように嗤った。


『くく…く…はははははっ! やっと目覚めたかマルスよ! ついに…ついに神への復讐が始まるぞ! 』


 高らかに嗤い声を上げるベルゼブブだが、エリスは一人何かに抵抗するように頭を抱え悶えていた。


「くぅ…あぁ…!」


 魔神の目覚めを誰よりも逸早く感じ取っていたエリスだが、その瞬間から自身に起きている変化に戸惑っていた。

 一度首を落とされたエリスは神によって悪魔を根絶する女神として新たに創造されたが、本人さえ聞かされていない至上の命題が彼女には埋め込まれている。それは魔神が覚醒した場合、何よりも優先してそれを討てというものだ。ただ新たに創造された事で女神としてのエリスには感情が存在しておらず、自身に埋め込まれた命題が如何なるものであろうとそこに疑問や思考の余地は無いはずだった。しかし彼女の行動、思考を邪魔する何かが存在している。


(私は父の命に従い悪魔を…魔神を滅ぼす存在…なのに何故邪魔をするの…?)


 女神の行動を邪魔するもの…それは消失したかと思われたエリスの意識だ。残されたエリスの意識は微かなものだったが、完璧に作り上げられたはずの女神の内に僅かな綻びと矛盾を生み出し、完璧が故に女神は困惑していた。


(マルス…彼が魔神となった時は私が滅ぼす…その為に私は創造された…だから…)


 そう自分に言い聞かせるが、そもそもマルスとは誰か…何故自分は創造されたのか…溢れ出す疑問が次々と迷いを生み出す。

 するとその時、そんな女神の異変に気が付いたベルゼブブは忌々しげに舌打ちした。


『やれやれ…どうしたと言うのだ女神よ。お前に与えられし役目…罰は絶対であろう? まさか神に逆らうのか?』


「罰…そう…これは罰…」


『お前は魔神を討たねばならぬ。お前が愛したマルスの為にもな』


「私が愛した…マルス…?」


『そうだ、今も尚闇に閉ざされたままの奴を救うには魔神を滅ぼすしかないぞ? それはお前に与えられし罰であり使命のはずだ』


 困惑し意識が混濁しているところへ悪魔の囁きが女神を惑わせる。

 マルス…自分がおかしくなったのはその者のせいであり、それが魔神ならば討てば良いだけの話だ。しかし女神の内でエリスの意識がその考えを否定し、問い掛ける。本当にそれで良いのか、と。


「私は…私は…!」


 しかし内で必死に抵抗するエリスの意識を抑え込み、全ての声から耳を塞ぐと女神はその場から逃げるように西へ飛び去る。


『さて…どうなる事か…』


  何とか予言の通り事は進んでいるが、まさか女神に迷いが生じるとは想定外の事態だ。本来ならば魔神の出現と同時に女神も覚醒し、真っ先に襲い掛かるはずだった。しかし女神は魔神の気配を感じる方角へ向かっているものの、迷いが捨てきれないのか未だにその後姿は目視出来る範囲にある。


『…やむを得ん、場合によってはこの手で女神を…』


 魔神の手で女神を葬る…、万が一それが叶わないとなればどうにかして女神を処分せねばならない。きっとA地区に作り上げられた万魔殿パンデモニウムで待つルシファーもそう考えるはずだ。全ては予言の通りでなければならない。

 結果的に魔神がこちら側に付けば良いのであって、怒り狂った魔神がその後自分を滅ぼそうと構わない。その時は地獄の底から世界が変わる様を悠然と眺めていれば良いのだ。


『…何人たりとも邪魔はさせぬぞ」


 女神は死に、戦神は魔神へ。そして少年が神の死を選択した時、世界は生まれ変わる。

 この後繰り広げられるであろう死闘に胸を膨らませながら、ベルゼブブは足取りの遅い女神の後をゆっくりと追い掛けた。




 その頃シオン達は魔神と死闘を演じている最中だった。シオンの治療が済むまでの時間稼ぎにとソフィアは一人レヒトへ挑んだが、力の差は歴然としていた。もし彼女が月の真の秘密を知っていなければ既に何度も死んでいる。

 治療を済ませたシオンはサリエルと共にすぐさま加勢に加わるが戦況は何一つ変わらず、全員がレヒトの攻撃を避けるだけで終始していた。


「まったく…世話の焼ける戦神ね…!」


 そう忌々しげに吐き捨てながらレヒトの攻撃を回避するサリエルだが、その表情に普段の余裕は一切無い。レヒトは悪魔の力を行使しているが存在そのものは戦神のままだ。それ故に悪魔にも天使にとっても彼は天敵となり、まともに攻撃を喰らえばそれは致命傷となってしまう。


「サリエル! 無理はしないで!」


 息を切らせながらソフィアが声を上げるが、傷の再生が追い付かずその体は既にボロボロだ。シオンも炎の柱を身に纏って応戦するが厄介な事にレヒトに炎を恐れる様子はなく、全てを焼き尽くすはずの天上の炎とて効果が感じられない。その事実に焦燥するが現時点で天上の炎を超える力、武器を持ち合わせていないシオンは無駄だと分かっていてもそれに縋るしかなかった。


「ソフィア下がって!」


 入れ替わるようにシオンはソフィアの前へ躍り出て紅蓮の双剣を全力で叩き付けるが、レヒトは禍々しい漆黒の大剣でそれを軽くいなすとすかさず反撃してくる。咄嗟に上半身を捻り直撃は免れたものの、頬を切られたシオンは蹴りを放ち後方へ飛び退いた。

 頭上にいたサリエルは何本もの光の矢をレヒト目掛けて集中的に落とすが、レヒトが掌を翳すとブラックホールのような闇が現れ全て光の矢は全て飲み込まれてしまう。そこへ両手が塞がりガラ空きになったレヒトの腹部目掛けてソフィアが爪を突き立てようとするが、地表から殺意の棘が飛び出すとソフィアは身を翻し紙一重のところでそれを躱す。そのまま後方へ飛び距離を置くと三人が一箇所に集結した。


「触れる事も難しいですね…」


「うん…おまけにこっちは一撃貰うだけで致命傷だ」


「どうやらルシファーは私の裏切りを知っていたようね…。彼がこんな事になるなんて聞いていなかったわ」


 悠然とこちらへ向けて歩みを進めるレヒトを前に何の手立ても思い浮かばなかった。三人掛かりでも攻撃を当てるのは至難の技、逆に一撃でも貰えばそれが命取りになる。遠距離から仕掛けても彼が纏う闇が全て飲み込んでしまうせいで効果が無い。


「…僕が囮になってレヒトの動きを封じてみる。その間に…」


「無駄よ、三人でも太刀打ち出来ないのに一人でどうやって彼を止めるの」


 切り札でもある天上の炎が効かない以上、シオンに残された武器はレヒトの記憶を通して得られた戦闘技術だけだ。しかしそれも完全ではなく、レヒト本人の力は自我を失う前と比べて変わらないどころか増している。


「それは…」


 この時シオンはある懸念を感じていた。天上の炎は創造主である神さえ灼き尽くせる可能性がある。現に悪魔であるアスモデウスやベリアルには通用したし、以前手合わせをした際レヒトの腕も消失していた。そうなると神であり悪魔でもある魔神と言えど例外ではないはずだ。そうなるともし問題があるとすればそれは天上の炎そのものではなく、自分自身の可能性が高い。

 シオンはある程度は自分の意思で天上の炎を操れるまで成長した。しかし炎の形を変化させたり強めたりする事は出来ても、燃やす対象までは未だ選択不能だ。

 本来天上の炎は触れた者を例外無く灼き尽くすものではなく、自身の意思によってその対象を選択する事が可能だ。現にゴードンを倒した直後、シオンはソフィアを腕に抱きながら炎の柱を迸らせたが、その際ソフィアは炎に包まれながらも無事でいられた。それはシオンがソフィアを護るべき存在であるとはっきり認識していたからに他ならない。

 結局のところシオンは未だ天上の炎を使いこなせておらず、レヒトとの戦闘に躊躇がある事が影響してか知らず知らずのうちに彼を燃やす対象から外してしまっているようだった。しかしその可能性に気が付いたところで炎を自在に操れないシオンには為す術がない。自分の甘さがこの苦境を招いているのかと思うと胸が締め付けられた。


「…とにかく動きを封じ込めなくても、何とか意識をこっちに向けさせてみる」


「心意気は立派だけど、私だってさっきから意識の外から攻撃するよう心掛けていたわ。それでこの有様よ?」


「なら今度は僕がレヒトの攻撃を妨害する事だけに集中する」


「シオン…そんな事をしてもし失敗したら…」


「…でもこのままじゃ僕達は間違いなく殺される」


 そう言いながらシオンは自分の不甲斐なさに歯軋りする。そんなシオンの気持ちを察してかソフィアはそっと双剣を握り締める手に自分の手を重ねた。


「…分かりました、それなら私も一緒です。二人でレヒトさんの動きを封じる…だからその間にサリエル、お願い」


「ソフィア…」


 それを聞いてシオンは思わず言葉に詰まるが何も言い返せなかった。


「そうね…」


 この時、サリエルの脳裏にソフィアがベルフェゴールを圧倒した際の姿が浮かび上がる。あの状態のソフィアなら或いは…そう考えもしたが、禍々しい翼は別として直感的に嫌な予感が拭えない。それはレヒト達が力を行使し続けたらどうなるか、それを考えた時に感じたものに近い。現にレヒトは力を行使し続けた結果、こうして魔神と化してしまった。


(でもどの道…このままじゃ…)


 二人を前線に立たせるのは気が進まないものの、今のままでは埒が明かないのも事実。こうなったらソフィアがまた覚醒する兆候を見せる前に自分の手で終わらせるしかない。

 決意を固めるとサリエルはソフィアの目を見詰めながら一度頷いた。


「…分かったわ。二人共…絶対に死んじゃ駄目よ」


 それを聞いてソフィアは柔らかい笑みを浮かべ、シオンと二人で顔を見合わせる。


「シオン…ずっと一緒ですよ」


「はは…それじゃこれから二人で死ぬみたいだよ」


「それは困ります。全部終わったらまたデートしないと…ね?」


「…うん、そうだね」


 二人は笑顔を浮かべると気を引き締めてレヒトへ対峙する。レヒトの威圧感はまったく衰えておらず、向かい合っているだけで体力を奪われ神経が磨り減らされているようだった。しかしそれももう慣れたのか、戦闘を開始した当初より各々の動きに硬さは見られない。


「…行くぞ!」


 しかしシオンが声を張り上げ飛び出した瞬間、眩い光が頭上から降り注ぎレヒトを貫くと爆煙が上がった。突然の出来事にシオン達は足を止め暗い空を見上げると、そこにはいつか見た女神が冷たい目で地上を見下ろしていた。


「あれはまさか…」


「エリスちゃん…?」


 アザゼルと初めて交戦した際にその姿は一度見ていたが、その時とは明らかに違う様子に二人は戸惑う。今の攻撃がエリスによるものだとしたら、彼女は間違いなくレヒトを狙って攻撃をした事になる。


「ど…どういうこと…?」


 しかし二人以上にサリエルは取り乱していた。つい先程ソフィアとレヒトの覚醒に嫌な予感を覚えていたが、ここにきてエリスまで覚醒したとなると二人に下された罰を知らされていないサリエルでもそれが何かの兆候である事に勘付く。


(アダムとイヴの再来…戦神と女神の覚醒…一体何が起きてるというの…?)


 彼女がルシファーから聞かされていた計画はヘルゲートから悪魔を召喚し、ツォアリスでヘヴンズゲートを開いた後に天上へ向けて進軍する事だけだ。その過程に於いて戦神とや女神の覚醒、アダムとイヴの再来なんて話は聞いた事がない。しかしベルフェゴールの様子を省みると計画の全貌を把握していないのは自分だけのように思える。

 神々の眷属に関する記述は全智の書にない事から、レヒト達の覚醒はルシファーとて予測不能のはず。ただルシファーしか知り得ない隠された真実…それこそ神の意図を予想し得るだけの情報がもし存在していたとしたら?


(まさかここに来て裏切りが仇になるなんて…)


 サリエルはある種の確信を感じながらも、それに気付けなかった歯痒さから唇を噛み締め空を見上げる。

 女神は紅い月を背に依然として金色に光る冷たい目で地上を見下ろしていたが、土煙が晴れ無傷の魔神の姿を確認した途端に顔をしかめた。


「あの攻撃を受けて…無傷…?」


 先程エリスの攻撃を受けた瞬間のレヒトは完全に無防備だった。それでも傷一つ付かないとなると、あのまま三人で突っ込んでいたら犬死に終わっていたかもしれない。そう思うとシオンの額に冷たい汗が流れた。


「サリエル…これは…?」


「分からない…でもきっとルシファーはこうなる事を知っていたのだわ…だから私を…」


 その瞬間、レヒトが大剣を振るい黒い剣圧をエリス目掛けて放つとエリスは掌を突き出し魔法陣を出現させ、サリエルが使用していたものより眩い光を放つ光のヴェールが展開される。光のヴェールはレヒトの攻撃を受け硝子のように粉々に砕けて光の粒子が散るが、その直後エリスは光の大剣を手にして急降下を開始した。


「…二人共、魔力を高めておくんだ」


「シオン…何をする気ですか?」


「隙を見て助ける…。僕達でも最大まで魔力を高めれば擦り傷ぐらいは付けられるはずだ」


「助けるって…どっちを助けるのよ?」


「…決まってるじゃないか、二人共だよ」


 その言葉にソフィアは安心したような笑みを浮かべながら魔力を高め始めた。そして未だ逡巡しながらもそれに釣られるようにしてサリエルも魔力を高め始める。

 その間に堰を切ったようにレヒトとエリスの戦いは激しさを増していた。エリスは周囲に何本もの光の剣を携え、手にした大剣と光線を巧みに繰り出しつつ周囲の剣をまるで援護射撃させるようにコントロールする。対してレヒトは殺意の棘で牽制しつつ洗練された身のこなしでエリスの攻撃を全て紙一重で回避しながら必殺の一撃を繰り出す。

 二人が何故殺し合いを演じているのかは分からないが、シオンはサリエルと同様に妙な胸騒ぎを覚えていた。しかしその正体が分かるはずもなく、魔力を高めながらじっと二人の戦闘に割り込める隙を伺う。

 エリスに遅れて到着したベルゼブブはそんな戦況を上空から優雅に俯瞰しながらほくそ笑んだ。


『無駄だ、この戦いを止められる者は神以外に存在しない。そして戦いが終わればお前達も覚醒を余儀無くされよう。シオンとソフィア、アダムとイヴの再来…その時メタトロン、お前は選択を迫られるのだ。く…くくっ…ふはは! はぁーっはっはぁっ!』


 神と悪魔の思惑の中、世界の命運を左右する選択が刻一刻と迫っていた。

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