Episode65「戦神」

 目が覚めると俺は上も下もない、冷たく暗い闇の底に立っていた。


「ルシファーの野郎は何処に…」


 確か激しい頭痛に襲われ動けなくなったところにルシファーが現れて…


「どうなってやがる…此処は何だ…?」


 辺りを見渡すと一面暗闇に包まれているという点で次元の狭間のようだが、まったく違う場所だと断言出来る。何故なら俺は此処をよく知っており、そして何より恐れている。

 本能的に逃げ出したくなるが、何故そんな感情を抱くのか自分でも理解に苦しむ。ただ俺が恐れるそれは確実に近くにいた。


「誰だ…誰かいるのか?」


 背中に手を伸ばすとそこに愛剣は無く、自分が裸である事に今更気が付いた。

 そうしている間にも何かの気配は徐々に近くなるが、その姿はまるで見えそうにない。ヴァンパイアのように夜目が効かないからという理由ではなく、きっとそれは目に見える形をしていない。

 そこまで分かっていながら何一つ状況が理解出来ないというのは不思議な話だ。例えるなら扉の先に答えがあると分かっていながら、それを開く鍵を持っていない故にその答えに辿り着けないようなもどかしさ。ただ一つはっきりと言えるのは俺は扉を開く事を恐れている。


(クソ…何なんだ一体…)


 すると突然俺の体に闇が纏わり付いてくるがそれは別段驚く事ではない。これは力を行使している際に現れる黒いもやと同じものだ。問題はこの闇がただの闇ではなく、俺とは異なる意思を持った何かという点である。


「人をいきなり侵食しようとは行儀が悪いな」


 しかしどうにも様子がおかしい。俺を侵食しようとする闇は貪欲に俺を飲み込もうとした異世界とは異なり、俺に染み込むようにゆっくりと纏わり付いていた。それは俺を飲み込むというより、俺の中に入り込んでこようとしている印象を受ける。

 どうしたものかと思案していると、不意に頭の中に誰かの声が直接届いた。


『一つに…救うのだ…』


「…誰だ?」


『我は今こそ…我に…還る…」


「我に還るって…」


 意識を失う直前に断片的に見た映像が蘇る。あれは恐らく、俺がまだマルスだった頃の記憶。


「まさか…」


 そしてルシファーが最後に残していた言葉が思い返された。

 奴は深淵の闇に眠る俺を返すとか言っていた。もし此処がその深淵の闇だとするなら、今俺に纏わり付いているこの闇の正体は…


「お前…まさかマルスか…?」


 その問いに闇は意外そうな声を上げた。


『ほう…既に我を認知していたか…。如何にも…我こそ地獄に堕ちし戦神…マルスである』


 やはり…と思いつつ、俺の中で急速に焦燥感が強まる。

 俺はこの世界で目を覚ましてから今に至る二千年もの間、自分の記憶の手掛かりを探し続けていた。最初の頃に比べればその欲求は大分薄れはしたが、今でも知れるものなら知りたいと思っていた。

 しかしどうだろう、いざ目の前に過去の自分が現れたというのに俺は恐怖していた。それは俺の自我が失われそうだとか、そんな理由ではない。このままでは最悪の結末が待っている…そんな嫌な予感がひしひしと感じられる。


「目的は俺と一つになる事か?」


『長い…長い刻をこの闇の中で過ごしてきた…。だが今こそエリスを救う…刻は満ちた』


 まさかこいつ…気付いていないのか?

 何か大切な事を俺達は見落としている。それが何なのか俺自身もはっきりとは分からず言葉に詰まるが、とにかくこのままこいつと一つになるのだけは避けなくてはならない。


「待てよマルス、このまま俺と一つになったら大変な事になるぞ?」


『エリス…エリス…今度こそ救ってみせる…』


(駄目だ…まるで聞いちゃいない)


 何だ、異世界にいた奴もそうだがマルスって名前の奴はどいつもこいつもエリスに夢中の脳内お花畑野郎ばっかりなのか?

 分かっていた事ではあるが、こんなのが本来の自分だと思うと自己嫌悪の余り頭痛がしてきた。


「どいつもこいつも…反吐が出るな」


『貴様…我がエリスを愚弄するか?』


「いいや、エリスじゃなくてお前を愚弄してるんだよ」


 つい普段の調子で悪態を吐くが、こいつは異世界で見たヘタレたマルスと違って本物の神様だ。

 マルスは俺の発言を受けると突然侵食の手を止め、怒り狂ったようにある一点に闇を凝縮させ始めた。


「あれ、怒ったか?」


『もう一人の我…この刻までよくぞ生き残ってくれたと感謝し、自我を奪うつもりは無かったが…』


 凝縮された闇が急速に膨らむと巨大な人型の影を形作るが、それは闇に染まった戦神マルスそのものだった。


『どうやら貴様は我と同化するに相応しくないようだ、此処で消して肉体だけ頂くとしよう』


 全身黒尽くめだが、巨大な翼のシルエットなどからこれが戦神である事は一目瞭然である。触らぬ神に祟りなしなんて言うが、どうやら俺は神に唾を吐いた上それを塗り込むような愚行を冒してしまったようだ。


「俺を殺すか?」


『偽りの仮面は要らぬ、消えよ紛い物』


「俺が偽物とは、傑作だな」


 まさか異世界にいたマルスを偽物呼ばわりしていた俺までもが偽物だったとは。しかし確かに、戦神マルス様から見れば俺も等しく偽物だろう。


「まぁ、だからと言って大人しくやられてやるつもりはないがな」


 相手は本物の戦神だ、普通に考えれば俺に勝ち目なんてない。しかしマルスはまだ戦神本来の姿でないし、もし俺が今も地獄に接続されているのなら可能性はある。


「ふんっ!」


 意識を集中させると俺の周囲を黒いもやが包み込む。どうやらちゃんと接続はされているようだ。加えて深淵の闇とは即ち地獄であり、俺は今最も接続先に近い場所にいる。そのせいか今までより魔力が充実しているのが感じられた。

 それにしても何故今になって急にマルスが現れたのか。そして何故俺はこんな闇の底なんかにいる?


(…成る程なアザゼル、そういう事か)


 やたらとアザゼルが俺に本気を出させようとしていた理由がようやく合点いった。

 あいつは確か俺に本気を出させるのが最期の役目と言っていた。それは単にあいつが俺と本気で殺し合いをしたかったからだと思っていたが、恐らく理由はそれだけではない。きっと俺に深くまで接続させるようルシファーに指示されていたのだろう。

 地獄に接続する事で俺はどんどんと闇の底へ近付く。そして闇の底で眠るマルスに接近させ、隙を見てこいつに俺を喰らわせる。そうする事でレヒトとしての俺は消滅し、神へ復讐を成さんとする心強い助っ人をルシファーは得られる…そんなところだろう。

 アザゼルは俺が救世主にも成り得るとも言っていたが、それも今なら納得がいく。神であり悪魔でもある存在…それは神も悪魔も滅ぼせる魔神だ。


「ようやく見えてきたぜ。やっぱりお前みたいな脳内お花畑野郎に俺の身体は渡せんな」


『紛い物の分際で…我を愚弄するか!』


「今度はちゃんと理解したか、学習能力は高いようだな」


 尚も挑発を繰り返すととうとう怒り狂ったマルスは魔力を爆散させるが、その威力は想像以上で俺は一瞬にして遥か彼方へと吹き飛ばされてしまう。


「つぅ…流石は戦神」


 吹き飛ばされながら俺はある事に気が付いた。此処が地獄で俺の魔力が強化されているのなら、当然それはマルスにも当てはまる。つまり俺がパワーアップしたところで奴も同じくパワーアップしており、結局俺達の実力差は何一つ縮まっていないのだ。

 今になってそこに気が付くとは我ながら間抜けな話だが、喧嘩を売ってしまった以上今更引き返せない。


「まぁ…やれるだけやってみようじゃないか」


 体勢を整え着地するとマルスが闇で作った巨大な大剣を携え眼前に迫っていた。


「おいおい…飛ばし過ぎだ…!」


 咄嗟に殺意の棘を飛ばすがまるでマルスに効果は無く、構わずに大剣を振り抜いてくる。


「この…野郎…!」


 大きさに反してその斬撃速度は下手すれば俺よりも早く鋭い。間違って掠ろうものなら一瞬で身体を粉々にされるだろう。

 辛うじて回避するとすぐさま反撃の為に全身に魔力を集中させながらマルスの懐へ飛び込む。そして顔面に思い切り拳を叩き込むと一瞬マルスがよろけるが、すぐさまパンチを返され俺は底に叩き付けられた。


『所詮はこの程度か』


「まだ…生きてるぜ…」


 情け無い事にたった一撃で俺は全身の骨を砕かれていた。すぐさま再生を開始しようとするが、マルスが指先で俺の上半身を押え付けてくると骨が再生する度に何度も押し潰してくる。


「があぁぁっ!!」


『難儀な男よ。我の肉体を持ちながら、ヒトと同じく痛みを感じるとは』


「分かって…るなら…離せよ…このドS…!」


『余りに呆気ない、興醒めだ。これがヒトとして生きてきた我の結果か?」


 そう言うマルスの言葉は何処か残念そうだが、絶えず続く激痛に俺は何も考える事も出来なかった。


『どうやらまだ力の使い方が分かっていないようだな。我を、力を、闇を拒んでいるのか?』


「だま…れ…!」


『その体たらくでエリスを守り、自由に空を羽ばたかせようとは笑止。早々に諦め肉体を我に明け渡せ。さもなくば貴様の守らんとする者全てが朽ち果てる事となろう』


 そう言うと闇の中にぼんやりとした映像が浮かび上がるが、そこには血塗れになったシオンが立っていた。


「これ…は…」


『今の貴様の肉体は抜け殻となっている。それをルシファーが利用しているのだ』


 ようやくマルスが指先を離すと俺は肉体を再生しながら浮かび上がった映像をじっと見詰める。


「俺が…やったのか…?」


『そうだ、これこそ父が我に下した罰…逃れられぬ運命』


 シオンは炎の柱に包まれていたが抜け殻となった俺の肉体は構わずに突進する。鍔迫り合いからシオンは一度距離を置いて上空に飛び上がって炎を飛ばしてくるが、ドス黒く禍々しい光を放つ愛剣でそれを弾くと俺はシオンの腹に愛剣を深々と突き刺した。


「シオン!」


 すかさずガードの上から蹴りを叩き込まれたシオンの腕はへし折られ、顔面が歪に歪む。感触こそ無いが、今の一撃でシオンの頭蓋が粉砕されたのが見て取れた。


「ちっ…! おい、お前はルシファーに操られたままで良いのか?」


『冗談ではない。一刻も早くルシファーの支配から逃れる為にも我は貴様を滅ぼし肉体を取り戻す』


「…仮にお前が肉体を取り戻したとして、何をするつもりだ?」


『決まっている、我が為すべきは父への復讐のみ』


 父…つまりは神への復讐か。事情はどうあれこいつが肉体を取り戻したらやる事はルシファーと変わらないらしい。だとすれば俺の答えは一つしかない。


「どうやら俺達は分かり合えないらしいな」


『力の差が未だ理解出来ないか? 諦めろ、紛い物の貴様では我に勝てない』


「さぁな、やってみなきゃ分からないだろ」


 先程こいつは俺が力や闇を恐れていると言っていたが、それは認めなければならないだろう。確かに俺は快感を覚えながらも初めて接続した時から何処かでこの力を、闇に堕ちる事を恐れていた。しかしもしそれがマルスとの力量差として現れているのなら、いっそ開き直ってしまえばいい。どうせ此処は闇の底、地獄だ。これ以上堕ちる場所など無い。


「うおおぉぉぉっ…!!」


 頭のタガが外れたように俺は更に深くへ接続し力を引き出す。するといつか見た空間の崩壊が始まるが構う事はない。


『覚悟を決めたか。ならば我に示してみせよ、ヒトの可能性を』


 マルスが持つ漆黒の大剣…あれも魔力によって作られている。ならば俺にだって生み出す事は可能なはずだ。


「来やがれ…!」


 愛剣をイメージしながら殺意を一点に集中させると闇が凝縮され、徐々に大剣の形に変化していく。更に魔力を集中させ闇を握り締めると、闇の中から見慣れたシルエットの漆黒の大剣が現れた。


『…我は戦神マルス、最後に貴様の名を問おう』


「俺は…殺し屋レヒトだ」


 最大限まで力を引き出した状態で一直線に飛び込むとマルスが行く手を阻むように大剣を振り下ろすが、俺は全力で愛剣を振り上げてそれを迎え撃つ。すると先程までまったく歯が立たなかったはずが、何と俺は自分の体より遥かに巨大な大剣を受け止めていた。


『ほう、少しはやるようになったな』


「一つ教えてやる…俺はな…」


 限界を超えるように更に力を振り絞り大剣を弾き返すと俺はマルスの眼前に飛び上がって愛剣を振り被る。


「見下されるのが…大っ嫌いなんだよっ!」


 叫びながら愛剣を振り下ろすとマルスは咄嗟に片腕で庇うが、勢いは止まらずにそのままマルスの肘から先を切断した。


『面白い…!』


 腕が斬り落とされてもマルスは怯む事なく、大剣を再びこちら目掛けて振り抜いてくる。攻撃後に生まれた隙を突かれたせいで防御する暇もなかったが、咄嗟に宙を蹴り上げ飛び出すと皮一枚のところを大剣が通過した。

 着地するとすかさず飛び出し斬り掛かるが、相変わらず見た目に似合わない素早さでマルスは俺の攻撃全てを器用に捌く。その動きは流石戦神だけあって人間の様々な戦闘技術を身に付けた俺でさえ舌を巻くものだった。


「やるじゃねぇか…!」


『紛い物の分際でよく言う。しかし悪くない攻撃だ』


 妙に感覚が研ぎ澄まされていき、時折見えないところから殺意の棘が飛んできてもそれを回避しながら攻撃の手は決して緩めない。

 マルスの戦いぶりを見ているうちに俺は徐々に力の使い方を理解し、同じように殺意の棘を四方八方から放って応戦する。それをマルスも難無く回避するが、いつしか俺はシモンに戦闘技術を学んでいた時と同じような気分を味わっていた。


『良いのか、早くせねば新たな仲間の命も失せる事になるぞ』


 そう言ってマルスは闇の中でぼんやり浮かび続ける映像を見やるが、釣られて一瞥すると今度はそこにシオンではなくソフィアが映し出されていた。


「ちっ…あいつらも合流したか…!」


『アレに我々の意志は介在せぬ。ルシファーの事だ、このまま全員皆殺しにさせる気だろう』


 どうやらいつまでもマルス先生の戦いぶりに惚れ惚れしてる訳にはいかないようだ。早いところ決着を付けて身体を取り戻さないと魔神がシオン達を殺してしまう。

 しかしこの時俺は闇の底に来た時から感じていた嫌な予感が強まっているのに気が付いた。あれはマルスと一つになる事そのものを危惧していた訳ではない。もっと…何か見落としている事があるはずだ。


(クソ…何だ…俺の過去に何かヒントが…!)


 それが何か分かればマルスと話し合いの解決も可能ではないかと期待していたが、思えば過去の記憶に答えがあるのならこの先に何があるのか本当はマルスは分かっているのではないか?

 先程は挑発して激怒させてしまったが、そこは今一度確かめてみる必要がある。

 剣を弾いて後方へ飛ぶとマルスが追撃に出ない事を確認してから俺は構えを解いて正面から向き合った。


「マルス、一つ聞きたい事がある」


『何だ?』


「さっきからずっと嫌な予感がするんだが、これは一体何だ?」


 マルスはもう一人の俺…だとすれば俺が異世界で見たマルスの考えが分かったように、こいつも俺の考えはある程度は理解しているはずだ。

 そう期待して問い掛けるとマルスの纏っている闇が不意に強まり、忌々しげに零し始めた。


『貴様も本能的に感じているか。…刑が執行されようとしているのだ』


「刑…? 神があんたに下した罰か?」


『そうだ、神が我に下した罰は堕天と地獄への接続。だが我とエリスにはもう一つの罰が存在する。それは…』


 嫌な予感が最大まで強まり、思わず言葉の続きを遮って耳を塞ぎたくなる。しかしマルスは怒りに満ちた声でもう一つの下された罰を告げた。


『愛する者同士…殺し合う運命なのだ』


 その言葉の直後、闇に浮かぶ映像が眩い光を放つ。何事かと映像を見やると光が収まった先には見覚えのある翼が紅い月を背景にして羽ばたいていた。


「エリス…」


 エリスはいつか見た虚ろな表情を浮かべて、金色の冷たい瞳で俺を見下ろしている。その目に見えるのは明確な敵意だった。


『…やはり全ては父の定めた通りとなるか』


「ふざけるな、何故俺がエリスと殺し合わなきゃならない?」


『父は我を…貴様を試していた。もし貴様が力を求め、接続を深める事で我を呼び覚ましたら…悪魔となった我はエリスに滅ぼされる、そう仕組まれていた』


 淡々と、諦めたように告げるマルスに動揺が隠せない。


「じゃあ何だ…まさか俺のせいでエリスは…」


『仕方のない事だ、父がそう定めた以上抗う事は叶わぬ。我とてそれは理解していた』


「まさかあんたも…俺を試していたのか?」


『我々の行動、選択に正解などない。如何なる選択をしようと行き着く場所は同じ事』


 よく運命を変えてやるなんて言葉を聞くが、もしその運命を変えようとする行動すら運命であり、行き着く答えはどうやっても一緒

だとしたら…?

 幾多にも渡る選択で悩み、神に抗おうと自分で選んだと思っている答え…それらが全て神に仕組まれていた思考、運命なら最早神に抗うなんて真似は不可能だ。いや、そもそも抗うという発想そのものが間違っている。

 そう考えると俺が接続を深め、闇の底にこうして堕ちた時点で俺とエリスが殺し合う事は避けられなかった。神の思惑通りとは言え、俺はエリスと殺し合う運命を自ら選択してしまっていたのだ。


『己を責めるな。まだ…終わってなどいない』


「…どういう事だ?」


『何が正解かは分からぬ。ただ我が憎しみと復讐心に囚われ、真っ先に貴様を消し肉体を取り戻していても、やはり我はエリスと殺し合う運命にあった』


「それを言うなら俺がそもそも初めて接続した時点で手遅れだったんじゃないのか?」


『逆に問おう、貴様がその時に接続していなければエリスはどうなっていた?』


 言われて俺は初めて接続した時の事を思い出す。

 初めて接続をしたのはアザゼルと戦った時だったが、あれは中途半端に終わっている。しかしその後、教団本部にエリスが囚われていた時…そこで俺は初めて完全な接続をして力を行使した。もしあの時に俺が接続していなかったらどうなっていたか…。終わった事であくまで想像に過ぎないが、間違いなく言えるのは俺は殺され、エリスを救う事は出来なかっただろう。


『理解したか、貴様とエリスが幸せを掴むには避けて通れぬ道だったのだ。そしてかつて父によって首を落とされたエリスは長い間眠り続け…貴様の到来を前にして新たに無垢な存在として地上に解き放たれた』


「エリスが…解き放たれた…?」


 俺は目覚めてから二千年間、ずっと神に試されていて…エリスに記憶がないのはマスターに拾われる直前に地上に生まれたから…。それらは全て俺と殺し合う為に仕組まれていただと…?


「ふざ…けるなっ!」


 理不尽な怒りを愛剣に込め足元に叩き付けると硝子のように粉々に砕け散る。


『…我は貴様を通して全てを見てきた。ヒトの世界、ヒトの想い…それらは我が望み、同時にエリスが望んでいたものだ』


 先程まで殺し合いを演じていたとは思えない程、マルスは優しく寛大に語り掛けてくる。それはまるで人間の父親のようだった。


『我が復讐心に囚われ続けていたら…貴様が取るに足らぬ存在なら真っ先に消していただろう。しかし違った。二千年もの間、貴様を通して見てきたモノはいつしか我の復讐心を忘れさせ、先程剣を交えて確信した。貴様になら夢を…希望を託せると』


「夢…?」


『そうだ、それは我に叶えられなかった夢…エリスの夢…。貴様にならそれを託せる』


 どうやらこの様子だとマルスは初めから俺を試すつもりで戦っていたようだ。二千年間見ていただけの俺と実際に剣を交える事で期待を確信へと変えたのだろう。

 それは戦神らしくもあるが、神々の眷属にしては随分と俗物的な役者だという印象を受ける。しかしヒトのようになろうとして神の怒りを買ったのならそれも不思議な話ではないのかもしれない。


「…冗談じゃない、死んでもあいつと草原で昼寝なんてしないぞ」


『構わぬ、貴様等が幸せになればそれで良い。どうかエリスを救ってくれないか、レヒトよ』


 気が付けば威圧感しか無かった巨大なマルスの影は縮こまり俺と同じ体型をしていた。そして初めて名前を呼ばれた事に驚いていると突然マルスが頭を下げてくる。


『我には貴様がいる…しかしエリスは未だ父の支配に囚われたままだ…』


「…つまり今のエリスは女神だった頃のエリスだと?」


『いいや…あれは新たに造られしエリス…。我と殺し合う為に神が生み出した…エリスを苦しめる存在だ』


「…その言い方だと殺しても構わないのか?」


『…これはエリスに下された罰だ。争いを何より忌み嫌っていた彼女を…よりによって我と争わせるという…』


「…悪趣味にも程があるな」


『エリスは今苦しみもがいている。救う事が叶わぬのなら…せめて父の呪縛から解き放って欲しい』


 そう言って膝を突くマルスをこれ以上見ていられなかった俺は思わず首元を掴んで立ち上がらせた。


「ふざけるな…どいつもこいつも…俺のイメージをぶち壊すんじゃねぇよ!」


 色んな情報が一度に入ってきて頭が一杯だった。だから思考が上手くいかず、胸に渦巻く怒りも悲しみも何なのか説明がつかない。

 ただとにかく、このもどかしさを吐き出したい。俺は二千年生きてきて初めて心から、慟哭のように思い切り叫んだ。


「神もふざけてるがお前も何なんだ! いきなり現れて俺に全部託すだと!? エリスを殺せだ!? それでもテメーは戦神か!? どのマルスもエリスエリスエリスってうるせぇんだよ!」


 自分でも何を言っているのかよく分からなかったが俺は叫びながら涙を流し、マルスは黙ってそれを聞き続けていた。


「俺は俺の意志であいつを愛した! そこにマルスも女神も神も関係ねぇ! だからお前に託される義理はないし、俺は何一つ諦めてねぇ! あいつを殺す? ふざけるな! それが運命だってんなら俺は死んでもあいつを殺さん!それもまた運命だろうが知った事か! 俺は…お前みたいに何をしてもそれが運命だなんて諦めないぞ…俺が今まで生きてきた二千年は誰が決めたものでもない、俺自身が選んで歩んできた人生だ!」


 言いたい事をとにかく叫び、多少スッキリすると息を荒げながらマルスを解放する。するとそんな俺を見てマルスがふと微笑んだような気がした。


『全てその通りだ。我は諦めてしまった…だから我はレヒト…二千年間見続けてきた貴様を、殺し屋を信じたい。そうだな…言わばこれは我からの最初で最期の依頼だ』


 そう言うマルスは何処か楽しげで、随分と人間味のある気がした。


『エリスと共に…幸せになってくれ。報酬は先払いだ』


 その言葉に驚き顔を上げると漆黒の闇そのものだったマルスの姿ははっきりと色付き、巨大な白い翼を広げて微笑んでいた。


「おい…何をする気だ?」


『我の全てを貴様にくれてやる。我が記憶、我が知識、そして…我が戦神の力を。これが我に払える報酬の全てだ』


「おい…待て! まだ話は終わってないぞ!」


 しかしマルスは聞く耳を持たず、白い翼を一度力強く羽ばたかせると頭上で闇を照らす光となる。


『一つだけ忠告だ。父の最大の狙いは我々ではない、あの少年と少女…シオンとソフィアにある。地獄に繋がれていた我にはそれが何か見通せぬが、世界を救うつもりなら…あの二人を救え』


 一方的にそう残すとマルスは一際強い光に包み込まれる。そして光が凝縮し弾けると辺りに光の雪が降り注いだ。それは神からのお告げを受けたような幻想的な光景で、舞い落ちる光を手で受けると光は一枚の白い羽根となって掌に溶け込むように消えていく。その瞬間、マルスの全てが流れ込み自分が全能者になったような錯覚を覚えた。

 マルスの記憶の中にはかつてのアザゼルの姿があり、奴が最期に言っていた言葉の意味を今になってようやく理解する。


「そうか…アザゼル、俺は約束を果たせたんだな」


 奴は満足そうに笑ったまま逝った。だからきっと情けも謝罪もいらないだろうし、奴もそんなものは望んでいない。ただアザゼルの最期の頼みぐらいは叶えてやるとしよう。


「…最期の言葉は必ずセリアに届けてやるよ」


 やがて辺りに再び闇の静寂が訪れると俺は拳を握り締める。すると手には炎の揺らめきに似た紫色の淡い光が灯った。


「幸せになれ、ね…。まったく、どいつもこいつも殺し屋を何だと思ってるんだ…」


 記憶を取り戻したおかげか先程まで胸に溢れていた怒りや悲しみはもう無く、不気味なぐらい心が落ち着いている。それはエデンの平原で横になってエリスと穏やかな時間を過ごしていたあの頃のようだ。

 ふと背後で眩い光が破裂したように広がり、振り返ると闇に浮かぶ映像に虚ろな表情で俺と死闘を繰り広げるエリスが映し出されていた。


「…待ってろよ、エリス」


 殺意の棘で画面を粉々に砕くと俺は何も見えない漆黒の頭上を見上げる。そして何色か、実在しているのかも分からない想像上の翼を羽ばたかせると俺はその場で飛び上がり、急速に意識が浮上していくような感覚に包まれた。

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