Episode64「神曲」

 そこは何もない草原。空気は澄み、太陽のない空はしかし青く無限に広がっている。頬を撫でる風は柔らかく優しく、此処はまさしく人間の言う楽園である。

 ただ静寂が支配しているこの地は居心地は良いが、言い換えれば何もない退屈な草原だ。そこに何一つの疑問も違和感も覚えなかったのは今にしてみれば不思議な話である。

 神に創造された者達が神を疑う事がないように、我々は与えられた世界を思考する事なく享受してきた。そもそも我々には思考という概念すら与えられていないのだ。

 人間に言わせれば我々は生きているのかさえ分からない。いやそもそも生死とは地上に生きる者達にのみ存在する概念であり、天上の我々には無関係だ。死神などヒトの生死を司る存在はあれど、そんなものは天上に於いては一握りに過ぎず、神に造られた玩具であるヒトと我々は何一つ分かり合える事など無い。

 それが当たり前であり、永遠に変わる事ない真理だと思っていた。しかしそんな神々の概念を覆す存在が現れた。それは同じく神々の一人であり、不和と争いを司りし女神エリス。戦いを司る我…戦神マルスとは切っても切れない縁にあった彼女は日に日におかしくなっていた。

 戦いを司る我は常に戦場に在ったが、他にも勝利の女神など様々な神がそこには介在していた。不和と争いの女神エリスもその一人である。


 神に反旗を翻した堕天使ルシファーの反逆により地上世界は一度崩壊したものの、父の気まぐれな干渉によって人類は着実に繁栄の一途を辿っていた。しかしヒトの本性は何一つ変わらず、文明は違えど争いは絶えなかった。故に我々に変化などある訳もなく、地上で争いが起こる度に我々はただそこに介在していた。

 

 神々は原則的に地上へ干渉する事を禁じられており、我々は介在こそしているが争いに介入する事は無い。言わば我々はただの傍観者であり、言い換えれば我々がいるから争いが起きているとも言える。しかしそれはヒトが持つ原罪故、かつて天上に存在し罪を犯したアダムとイヴの子孫の運命なのだ。

 故に思考を持たない我々がそんなヒトの争いに何かを思う事など有り得ないはずだった。しかしいつからか次第に女神エリスに異変が起きる。

 いつもと変わらずヒトの争いを俯瞰していると女神エリスの表情に明らかな変化が見え、気になった我はエリスに問うた。


「エリスよ、何故そんな顔をしている?」


 その問いにエリスはまるで神に縋るヒトのように悲しげな表情で答えた。


「マルス、ヒトは何故争うのですか?」


 返された彼女の問いに我は驚いた。ヒトが争う理由など原罪を背負う者の宿命であり、当然の事。我々ごそこに疑問を抱く事など決して有り得ない。

 そのはずなのにエリスの悲しげな表情は一体何なのか。それはまるでヒトのようだった。


「アダムとイヴの子孫であり、原罪を背負うヒトが争うのは当然であろう」


「でもヒトは争いを望んでいません」


「そんなものは我々に関係のない話だ」


「私は…これ以上ヒトが争う姿を見たくありません」


 彼女は一体どうしてしまったのだろうか。不和と争いを司る女神であるにも関わらずそれを拒むというのは、己の存在を否定している事になる。


「争いたくて争っているヒトは少数です。それでも争いが起きてしまう原因の一端が私達だと言うのなら…」


 そう言ってエリスは翼を広げ、一度大きく羽ばたいた。


「こんな翼、私は要らない」


 涙を流しながら争うヒトを見詰める彼女の言葉に嘘偽りは無い。しかし不可解なのは何故彼女にそんな思考が生まれたのか。

 それからエリスは戦場に現れこそするが日に日に表情の影は濃さを増し、ついには戦場から消えてしまった。

 放っておけば良いのだろうが、神でありながらヒトのような表情を見せた彼女がどうにも気になった我はエリスを探す事にした。神の逆鱗に触れ堕天したか、若しくは消滅したか…しかし存外あっさりと発見したエリスは何も無い平原で呆と空を眺めていた。


「マルス、どうしたのですか?」


「何故戦場に来ない?」


「…言ったじゃないですか、私はヒトが争う姿を見たくありません」


「しかしお前は不和と争いの女神だ」


「そうですね…。だから私、女神を辞めようと思うんです」


 馬鹿かこいつは? そんな、我らしからぬ悪態が思わず喉元まで込み上げた。

 神の眷属でありながらこのような発言をする者など未だかつて見た事が無い。これではまるで堕天したルシファーや、その仲間である悪魔達と変わらないではないか。

 しかし父は何故そんな彼女を未だ堕天させず、罰を下す様子も無いのか。父が彼女の状態を知らないはずがない、だとすればまさかこの状態を良しとしているのか。


「知っていますかマルス、ヒトには感情というものが存在するのです」


「あぁ、ヒト特有の下らないモノだな」


「…それは神の眷属である私達には理解が及ばないものだからそう思うのです。でもヒトの感情を知れば…それはとても素敵なものになるのです」


「…まさかお前はそのヒトの感情を知ったとでも言うのか?」


「まだ完璧ではありませんけど…。でもヒト特有という事は私達にも、全能なる父にも無いモノなんですよ? それって凄い事だと思いませんか?」


 とうとう父にまで言及を始めたエリスに焦りを覚えたが、同時にその言葉に気付かされた。ヒトは神が創造した玩具…そのはずなのに何故父は自身や我々にない感情なんてものをヒトに与えたのか?

 全能なる父…しかしヒトにあって神に無いものがある以上、果たしてそれは全能と言えようか。


「…口を慎め、不敬だぞ」


「慎んだところで父には全部お見通しですよ」


 そう言って微笑むエリスは儚く、不意に胸がざわついた。


(今のは…何だ…?)


 それは今まで感じた事のない感覚。いや、そもそも我々に感覚など存在しないはずだ。思考、感覚、感情、それらはヒト特有のモノであって、天上の我々には無縁である。にも関わらず我が今思い悩んでいるのは一体何故なのか。思えばエリスがおかしくなってから、我もまた思考をするようになっていた。まさか彼女に釣られて我にも変化が?


「…また、始まりましたね」


 不意にエリスはそう呟き、以前にも見た悲しげな表情を浮かべる。しかしその理由はすぐに分かった。


「…あぁ、ヒトが争っているな」


 本来ならすぐに戦場へ赴くところだが、エリスに動きは見られなかった。どうやら彼女は本気で女神としての役割を放棄するつもりらしい。


「…行かないんだな」


「私が赴く事で争い、悲しむヒトが増えるぐらいなら私は此処でじっとしています」


「…そうか」


 固い決意を前に説得する気など失せ、気が付けば我はエリスの横に腰を下ろし空を見上げた。


「…マルス?」


「…たまには赴かなくても良かろう」


「ふふっ、知ってますかマルス、ヒトには休息というものがあるんですよ」


「休息?」


「はい、己の役目を放棄して好きな事をする時間…休息がヒトには必要なんです」


「そうか、ヒトにあるのなら我々もまた休息があっても良かろう」


「えぇ、そうですね」


 隣で柔らかな微笑みを浮かべるエリスに思わず魅入ってしまう。この時胸に広がる温かい何か…その正体を我はまだ知らなかった。

 それから頻繁にエリスとの逢瀬を重ね、我は次第に彼女に感化されるように感情が芽生えていくのを感じる。やがてエリスと過ごす時間は何物にも変え難きものとなり、徐々に強くなる感情はヒトの言う愛というものだった。そして気が付けば我々は神々の眷属でありながらヒトのように愛し合う関係となっていた。


「今日も戦場には行かないのか?」


 いつもと同じく、誰もいない平原で穏やかな時間を過ごしていると我は何気なく、いつもと同じ問いを投げ掛けるが答えは分かりきっている。


「はい、あなたとこうしている方が幸せですから」


 そう言って微笑むエリスに何度目か分からない温かい気持ちを覚えた。いつからか我もエリスと同じく戦場に赴かなくなっていた。

 我は彼女のように争いが嫌いな訳ではない。しかし彼女が争いを悲しみ嫌うのならこうして二人で穏やかな時間を過ごす方が幸せだった。


「マルスこそ良いんですか?」


 我を気遣うその姿に愛しさが込み上げ、思わずエリスの頰にそっと触れる。


「構わないさ、お前がいない戦場など行く気になれない」


 エリスを愛してからというもの、感情に歯止めが効かなくなりつつあった。彼女を求めんとする欲望は際限無く込み上げ、こうして直接触れる度に身体中が痺れたように歓喜に震える。


「マルス…私達は本当にこのままで良いのでしょうか…」


 しかし我の手を取り頬擦りするエリスは不意に不安そうな表情を浮かべた。

 彼女の事だ、自分だけならまだしも我もまた父より罰を下されないかと心配なのだろう。しかしこれは我が自ら決めた事であり、エリスがいればどんな罰とて甘んじて受け入れるつもりだ。


「芽生えてしまった感情は否定出来ないし、父もそれを非難はしないだろう」


 現に戦場から遠去かり、エリスと逢瀬を重ねてからも父が我々に何らかの罰を与える動きは無い。


「アダムとイヴ…私達もあの二人のようになるのでしょうか?」


「二人は禁断の果実を口にした為に追放されただろう」


「…あなたへのこの愛が罪にならないか不安なんです」


「罪に問われようと我の愛が消える事は永遠に無い」


「…はい、父が私達を引き裂こうと、どんな罰も受け入れ私は必ずあなたを…見つけてみせます」


「あぁ、その時はもう一度愛し合おう」


「マルス…いつまでもあなたと共に…」


 どちらともなく唇を突き出し契りの口付けを交わす。今まで唇を重ねる行為など無益で穢らわしきものだと思っていたが、こうして愛しき者と交わす口付けはヒトが夢中になるのも頷けた。

 それから日に日に感情は暴走したようにエリスへの愛が深まり、欲望も増していった。それは最早七つの大罪を背負うヒトと変わりなく、同時に己が悪魔と成り果てたのではないかとも思った。

 ただヒトと悪魔の違いとは神の力を持つか否か。そして神と悪魔の違いはその神の力を地上へ持ち込むか否かだ。故に地上へ干渉しない我が悪魔となる事はないし、何より父もこうしてエリスと愛し合う事を看過していると安心していた。

 しかしある日、我はとうとう欲望に身を任せエリスと体を重ね合わせた。それはかつてアダムとイヴが食した禁断の果実のように甘美で危険なものであったが、それが父の逆鱗に触れてしまったようだ。

 いつもと同じようにエリスと二人で過ごしていると突然目の前に天使が現れるが、すぐに様子がおかしい事に気が付く。


「戦神マルス、そして女神エリスだな」


「…熾天使セラフィムが突然何用だ?」


「父がお呼びだ、付いて来てもらおう」


「ただの遣いにしては物々しいな。安心しろ、父の元には我々が自ら参る」


 目の前にいる天使は一体だったが、周囲には父のヒエラルキーに属する最上位階級の熾天使セラフィムが無数に配置されていた。そしてそのどれもが攻撃態勢で我々を取り囲んでいる。


「それは叶わぬ。汝等は罪人…我々に与えられし命は汝等をそれぞれ連行する事だ」


「罪人? 何を今更…」


「汝等は罪を犯した。愚かな穢らわしき行為に父は深く嘆き、お怒りになられている」


 そうは言うがヒトと同じ感情を持つ事を看過しておきながら、ヒトと同じように愛する者を抱く事だけを咎められるのは納得がいかない。

 しかし忠実なる父のしもべが我の言い分などに聞く耳を持つはずもなく、包囲網は徐々に狭まっていく。


「…逃げるぞエリス!」


 その瞬間エリスの手を握り締めると翼を大きく羽ばたかせ包囲網から抜け出そうと飛び上がるが、すぐに熾天使セラフィムの大群によって行く手を阻まれてしまった。


「いけません…マルス…」


「…諦めるな、何とかしてみせる」


 とは言え無数の熾天使セラフィムが相手では分が悪い。昔の我ならばこんな真似はしなかっただろうに、随分と変わったものだ。


「マルス!」


 だがその時、突然エリスは叫びながら我を突き飛ばし、何事かと思うとその直後我のいた空間を強力な雷が貫いた。


「な…これは…」


 今のは天使による攻撃ではない。間違いなく神…全能なる父によるものだ。


「さぁ、共に来てもらおう女神エリスよ」


 我から離れた瞬間にエリスを拘束した天使が淡々と告げる。

 眼下に雲海が広がる果てない空で我はエリスを捉えたまま頭上に浮かぶ天使…敵を睨み付けた。


「ごめんなさい…マルス」


 そう言って涙を流すエリス。彼女の気持ちは痛い程分かるが、それでも黙って彼女を連れ去られる訳にはいかない。暴発しそうな激情を堪えながら我は何とか説得を試みる。


「何が罪だと言うんだ。お前達、エリスから離れろ」


 だが予想通り我の言葉は何一つ彼等には届かない。それも当然だろう、罪人の言葉など尚更届くはずもない。


「ならば仕方ない、力尽くで取り返す」


 戦意が高揚し、それに呼応するかのように神気が迸ると見えない力が周囲一帯を包み込む。すると更に大勢の天使が現れ、今度は我だけの周りを取り囲んだ。


「…退け、同属と言えど容赦はしないぞ」


 殺意を込め周囲を睨み付けるが絶対の使命を帯びた心無い彼等に効果などない。

 怯む事を知らない天使達は前方に魔法陣を展開させると我一人に狙いを定めた。


「止めてマルス…このままでは貴方まで…」


 嘆くエリスを見て胸が痛んだ。悲しませてしまった事もそうだが、何よりも彼女が忌み嫌う争いを目の前で始めようとしている事に罪悪感を覚える。だからといって彼女が裁かれるのをこのまま黙って静観する事も到底出来ない。

 ならば…彼女を、エリスを救う為なら我は創造主にさえ抗おう。


「言っただろうエリス、お前のいない世界になど未練は無い」


 必ず救ってみせる、そう胸に誓うとおもむろに宙を掴み、何もなかった空間から巨大な光の大剣を出現させ視界一面を覆う程の天使の群勢へ切っ先を向けた。


「…我が名は戦神マルス!」


 例えこの身が燃え尽き、魂が地獄へ閉ざされようとエリスへの想いは決して揺るがない。何度でも蘇り必ず救ってみせる。


「来い、従順なる神の|僕(しもべ)よ」


 挑発を受けた天使達の魔方陣が一斉に輝き、その直後視界を覆い尽くす程の光の矢が放たれるが、我は咆哮を上げ飛び出す。

 何本かの矢が身を貫くが構わず大剣を振り抜くと何百もの天使を一瞬にして屠る。しかしいくら剣を振るおうと天使の数は一向に減らず、徐々に天使に捕らわれたエリスが遠ざかっていく。


「ぐっ…! エリス…!」


 光の矢を受けながらもエリスを追い掛けようと飛び出した瞬間、先程見た強力な雷が再び降り注ぎ、我は一瞬で力無く地に落ちた。


「がっ…あ…!」


 何故だ…何故邪魔をする…。戦神でありながら、我は愛する者を守る事も出来ないのか。

 この時、初めて己の非力さを思い知り呪った。

 結局父からの一撃で動けなくなった我はエリスと同様に天使に捕らえられ、審判の日までダドエルの穴に閉じ込められた。そこで我は妙な天使と出会う事となる。


「よう、新入りさんかい」


 まるで親密な人間同士で交わすような不遜な態度の男は今のところはまだ天使だ。しかし天使なら本来我には声を掛けるどころか近付く事すら許されない存在であり、現に他の者達は狭い穴の隅で固まり震えている。


「あんた…良い目をしてるな。此処に来たのも納得行く」


 しかし男は怯む事なく話し掛けてきた。今の我から迸る殺意に気が付いていないのか、それとも分かった上で声を掛けているのか。何れにせよこの天使が何を考えているのかまるで分からないが、妙な親近感を覚える。


「そう怖い顔するなよ、同じ罪人同士仲良くしようぜ。と言っても明朝に俺達は居なくなるけどな」


 相変わらず我を恐れる様子もなく、明るく語る男は隅で震えている者達とは明らかに違う。


(まさか…こいつも…)


 この男に覚えた親近感、その正体を探るべく返事をしてみる事にした。


「…愉快な奴だ、名は何と言う?」


「はははっ、俺は見張りの者達エグレーゴロイの一人だったアザゼルだ。あんたは?」


 見張りの者達エグレーゴロイ…地上で

ヒトを監視する天使だったがよりによってヒトを妻に娶るという禁忌を犯した愚か者達だ。しかし女神であるエリスと身体を重ね罪を犯した我にはそれを咎める資格も、愚か者と呼ぶ権利ももう無い。


「…マルスだ」


「マルス…マルスってまさかあの戦神か?」


「お前と同じく元、だ。今は裁きを待つただの罪人だ」


 天使であろうと神の眷属であろうと、罪人となっては皆同じだ。そう考えるとこの天使の不遜な態度も気に触る事は無かった。


「暗いねぇ。なぁ、こういう時にヒトがどうするか知ってるかい?」


「いや…」


「残念ながら此処にはないけどな、こうやって…酒を飲むのさ」


 成る程、流石はヒトを妻に娶っただけあってヒトの世界に詳しいようだ。酒の神なんてものがいるように酒とヒトは切っても切れない縁がある。


「ヒトってのは実に面白いんだ。だから俺は地上に縛られても悔いはない。何たってヒトに近付けるんだからな」


 あっけらかんと言うその姿に、我はようやく男に感じていた親近感の正体を理解した。


「そうか…お前は…」


 こいつも我やエリスと同じく、ヒトの感情が芽生えたのだろう。この様子だと本人に自覚はないようだが、それが余計にヒトのように見える。

 地上で長くヒトに触れ合うとこの男のようによりヒトに近付けるのだろうか…だとしたらもしエリスと共にヒトとして生まれ変われたら…と一瞬そんな事を夢想してしまった自分がおかしく、思わず笑みが零れた。


「…もし地上で会った時は、ヒトのように酒とやらを酌み交わそう」


「あぁ! その時は戦神の力ってのも味合わせてくれよ」


「命知らずな奴だな」


 戦神であった我に戦いを挑もうとは何処までも不思議な男だ。しかし今ならその気持ちも理解出来る。神の肩書きを捨て、思うがままに戦えるとしたらさぞかし楽しい事だろう。


「へへ、きっとあんたもそれなりに楽しめると思うぜ?」


「そうか、ならば楽しみにしているぞアザゼルよ」


 いつだったか、エリスも女神である事を辞めるなどと言っていた。もしかしたらあの時の彼女もこんな気持ちだったのかもしれない。争いを生み出す翼なら要らないと言っていたが、そういったしがらみの無い自由な世界で生きられるとしたら、彼女も好きなだけ羽ばたけるのではないか。

 エリスが気持ち良さそうに空を舞う姿を想像すると胸が温かくなるのを感じた。


「よし、これであんたの本気をこの身で味わうまで死ぬ訳にはいかなくなったな」


「あぁ、お前は必ず俺が滅ぼそう」


「お、おう…そいつは身に余る光栄だ…」


 このアザゼルという天使ともまたいつか会いたいものだ。その時はお互いヒトとして、余計なしがらみなど無いまま自由に本能のまま戦いたい。

 翌朝、天使に連れられたアザゼルがその後どうなったかは知らない。ただ彼とはまたいつか会えるだろう、そんな確信めいた予感だけが我の胸に残った。

 その後、我は罪人らしく枷に繋がれたまま天使に連れられ、久しぶりに父との直接対面を果たす事となった。

 我を捕らえる際に天使は父は深く嘆き、怒っていると告げていたが、恐らくその言葉に大した意味などない。彼等とてそれが本来どういう意味を持つかか理解していないだろう。何故なら神に感情など無く、悲しみも怒りも存在しない。

 現に我の前に存在する父からは何の感情も感じ取れなかった。


『我が子マルスよ、汝に罰を下す』


「…何が罰か、我はただヒトのようにエリスを愛しただけの事。愛が罪であるなら何故我々に感情が芽生えた時点でそれを罰しなかったのか」


『汝はヒトになりたいのであろう、此れはその為の試練であり、罰である』


「試練…? まさか我をヒトにしてくれるのか?」


『その答えは誰にも分からない、この私でさえも』


「全能なる貴方が分からない…? 一体どういう事だ…何を考えている?」


『さぁ見せてくれ、我が子よ。全能さえ覆す汝の可能性を』


 その直後、天使に捕らわれたままのエリスが目の前に現れる。


「エリス!!」


 思わず飛び出そうとするが枷に繋がれているせいで身体は微動だにせず、エリスもまた枷に繋がれ身動き一つ取れずに力無く項垂れていた。


「マルス…」


 良かった、まだ無事のようだ。そう安心したのも束の間、淡々と告げられた父の言葉に我が耳を疑った。


『お前達に罰を与える。愛する者同士、殺し合ってもらおう』


「殺し…合う…?」


 何の冗談か。我がエリスと殺し合いなど…そんな事を出来るはずがない。しかしこの時、我は最も大事な事を失念していた。

 相手は我々の創造主であり、全能なる父だ。父が望むのならそれらは全て可能となる。つまり我とエリスが互いに殺し合うよう仕向ける事など父にとって造作も無いのだ。


「ふ…ふざけるな! そんな真似…決してするものか!」


「父よ! どうかお願いします! 私はどうなっても構いませんから…! マルスだけは…マルスだけはどうか…!」


『此れは試練であり、罰である。我が子、戦神マルスよ。これより汝を縛るは天上に非ず、深淵なる闇。そして我が子、女神エリスよ。これより汝を縛るは我が天命、争いの中で己が答えを示せ』


「深淵なる闇…我を堕天させ悪魔とするか」


『否、どちらとなるかはやがて汝自身が決める。再び天上の存在となるか、地上にわざわいを齎す悪魔となり、愛する者と殺し合うか、或いはただのヒトとなるか。全ては汝次第である』


「私は…マルスがどうなってもこの想いが変わる事はありません…貴方が私にどんな罰を与えようとも、これだけは決して変わりません!」


『汝とて同じ事、天上の存在のままで在るか、ヒトに寄り添い悪魔を滅する守護者となるか、或いはただのヒトとなるか』


 どうやら父が我々に与えんとする罰は、結局のところ我々次第という事らしい。

 我は神でありながら地獄に繋がれ、神であり悪魔でもある存在となる。やがて神か悪魔か、或いはヒトになるかを選択する日が訪れるのだろう。

 エリスは天上の存在のまま、忌み嫌う争いに改めて身を置かされ、その中でヒトに寄り添うか否かを今一度問われる。だがもし今と同じくヒト寄りの存在を選ぶのなら、その時彼女は悪魔を滅するヒトの守護者となるか、或いは全てを捨てヒトとなるかを選択する。

 つまり我が悪魔と成り果て、エリスがヒトに寄り添い守護者となる道を選んだ場合、我はエリスと殺し合う事となる。当然どちらか一方が異なる道を選べばこれは異なる結末となるが、父が敢えてこのような罰を与えるという事は、そうなるという一種の確信があるに違いない。だとすればその運命に抗うのは不可能に近いだろう。


(いや…違う…)


 初めに父は答えが分からないと言っていた。それはつまり、この罰の行く末は父にさえ予期出来ないのだ。ならばその運命を変える事だって十分に可能なはずだ。


(だとすればまさか…父が本当に望んでいるのは…)


『では罰を下す。我が子熾天使セラフィムよ、エリスの首を落とす準備を』


「な…!?」


 突然告げられた予想外の言葉に思考が停止するが、命を下された天使は言われた通り鎌を手にするとそれを振り上げる。それに対しエリスは恐怖する訳でも諦観した訳でも無く、普段と変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべた。


「何度生まれ変わっても…また一緒に…。だから…待っていて下さい…」


「やめろっ! 頼む! どうかやめてくれ!!」


 何故だ、何故そんな事をする必要がある?

 そんな事をすれば我がどうなるか分からないはずが…。

 しかしそこで我は気付いた。これは予言。父は此れを試練であり罰と言う。つまり父はエリスと殺し合うシナリオを用意し、その上で我々がどうするかを試そうとしているのだ。その為にはまずは我が悪魔となるよう仕向ける必要がある。


『次は地上で逢瀬を重ねよ。罰に耐え得るか、運命に抗えるか、ヒトであるか、神であるか、答えを示せ』


「マルス…愛しています」


「や…やめろおおぉぉぉぉぉっ!!!」


『落とせ』


 その言葉でエリスの首は一瞬にして切り落とされ、長いブロンドの髪を振り乱しながら愛しき恋人の首は足元に広がる雲海の中へと消え去った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る