Episode61「血の片翼」

「お姉ちゃん死んじゃやだぁっ!」


 激しく取り乱し大声で泣き喚くアンナ。その声にソフィアは微かに反応を示し、ゆっくりと目が見開かれるがその視界は血に塗れ、アンナの姿を認識出来ているか分からない。それでもソフィアはアンナに心配をかけまいと血塗れの顔で微笑みを浮かべた。


「だい…じょう…ぶ…」


「うあぁぁぁん!」


 しかし何故此処にアンナが?

 それを問い質したいところだが意識が朦朧とし思うように言葉が発せず、アンナの止め処なく溢れる涙にレノの存在が浮かんで見えた。

 アンナはまだ幼いにも関わらず唯一の家族だった兄のレノを亡くした。孤児院を去る際にレノの死は伝えていなかったが、きっとあれから兄の姿が何処にも見当たらない事にすぐ気が付き、死を悟っただろう。

 その光景が容易に浮かぶと現在も肉体を蝕む痛みなど忘れる程強く、そして鋭い痛みがソフィアの胸を突き刺した。レノを殺したのはシオンではあるが、それを責める事など出来るはずもない。もしアンナに責められるとすればその対象は自分に他ならなかった。

 ソフィアは直接手を下した訳ではない。しかし母なる血マザーブラッド…ヴァンパイアという存在が生まれた原因は元を辿ればゴードンを吸血してしまった自分に帰結する。それはどれだけ贖罪しようと許される事ではないだろう。

 しかしアンナが此処へ現れた理由はそういった背景を顧みると頷けた。恐らく彼女は二度と大切な人を失いたくなかったのだろう。

 言葉は無くともアンナの曇り無い眼は大好きなお姉ちゃんと離れたくない、一人は嫌だ…そんな想いを切々と孕んでいる。そしてアントニーが未だ現れないという事はアンナは大人達の目を掻い潜って一人で此処まで来たのだろう。その優しさ、純粋過ぎる想いは余りに眩しく、ソフィアは罪悪感に耐え切れずアンナから顔を背けた。


「ソフィア!」


 そこでサリエルの呼び掛けに気が付くも、血の涙を流し俯くソフィアの目は焦点が合っておらず、見るからにその姿は弱々しかった。それでもサリエルはまるで神に懇願するかのように魔力をソフィアに注ぎ込み続ける。


『女…女…女…何と醜悪な光景か。他者への思い遣りという仮面の下、汝らが真に求めるは下らぬ自己満足か』


 ソフィアを取り囲むその光景を見下ろしながら、ベルフェゴールは今にも反吐を吐きそうな歪んだ表情でそう吐き捨てる。

 ヒト…特に女など何一つ信用に値しない存在だ。利己的にして計算高く、一途な想いは幻想にして幻惑。ベルフェゴールが今まで見てきた人間、取り分け女性の本質はそんなものだった。幸せな結婚など存在せず、常に腹の中では一途とは裏腹の醜い感情が渦巻く。結婚とは人生の墓場とはよく言ったものだと悪魔ながらに感心さえした。そんな覗き見てきた人々の結婚生活は彼を絶望させ、やがてその不信は結婚だけに留まらず、女性という性別そのものを憎むようになり現在のような女性不信へと陥れたのだ。

 しかしベルフェゴールは気付いていない。彼が結婚生活を覗き見た事によって全ての女性が先程のソフィアのように、自己の意思とは無関係に発情させられ過ちを犯してしまった事を。

 真に恨まれるべき存在を棚に上げ、美しきヒトの愛を前に憎しみを募らせたベルフェゴールは頭上に無数の黒い槍を出現させる。


『何が真か、何が正しいか、その答えを見せてみよ』


 そして無防備に背を向けるサリエル達目掛けて黒い槍が一斉に放たれるが、それにすぐさま気が付いたサリエルは眩い光のヴェールを展開させた。魔力によって形成された光のヴェールは寸前のところで黒い槍を弾き飛ばすが、攻撃は止むどころかその勢いを増していく。


「子供にまで手を出すなんて…卑劣ね」


『卑劣? 面白い事を言う』


 悪魔に道徳を語ろうと意味など無い。それはサリエル自身よく分かっている。それでもヒトに近付き過ぎたサリエルはベルフェゴールのその行為に対して憤怒を覚えずにはいられなかった。


「やらせないわ…絶対に…!」


 ソフィアの為にも、此処でアンナを殺させはしない。ヒトを守ろうとするその姿は堕天し黒い翼を持ちながらも、かつて大天使アークエンジェルと呼ばれていた頃と何一つ変わり無く、それは何処か懐かしいソフィアと出会った頃の面影と瓜二つだった。


「きれい…」


 邪悪な闇を弾く、光のヴェールに見惚れていたアンナが思わず漏らす。しかしその瞬間、一本の槍の矛先が光のヴェールを貫くとアンナの胸に突き刺さった。


「お姉…ちゃん…」


 血濡れた真っ赤な視界の中、何が起きたのか理解出来ていない様子のアンナが手を伸ばしてくるが、その手を取る事は叶わずそのまま力無く倒れ込む。ソフィアは指一本動かせずその様子をただ傍観するしかなかった。


「い…や…そんな…あ…あぁ…」


「ベルフェゴール…よくも…!」


 アンナを守りきれなかったサリエルは怒りに震え、とうとう我慢の限界を超える。

 一瞬魔力を爆発させ黒い槍を一掃するとベルフェゴール目掛けて一直線に飛び上がるが、再び無数の黒い槍が放たれるとそれはサリエルの身体を、翼を貫き、振り抜いた大鎌はベルフェゴールに届く事なく天使は地に落ちた。


「あ…あぁ…いや…いやあああぁぁぁっ!!」


 その光景をまたも傍観するしかなかったソフィアが絶叫し、強張った全身に亀裂が更に走るとそこから勢い良く血が吹き出る。

 それは風前の灯火から放たれた最期の咆哮。血に塗れ朽ち果てるとはヴァンパイアの真祖に相応しき最期だ――

 悪魔でありながらベルフェゴールがそんな詩的な感想を覚えた直後。妙な事にソフィアの絶叫は衰える事無く、それどころか先程まで放出されていた魔力はいつの間にか堰き止められ、全身から血を吹き出しながらもゆっくりと身体を起こした。


『…これは何事か?』


 ソフィアの身に起きた異変にベルフェゴールは戸惑い、初めて焦りが生まれる。しかしそれも無理はない。

 今し方までソフィアはサリエルの献身的な回復で辛うじて命を繋ぎ止めていただけで、間違いなく死の淵に手を掛けていた。にも関わらず今や血を流しながらも立ち上がり、抜け落ちていた魔力はこれまでにない程に昂っている。

 ベルフェゴールが困惑しているとまるで誰かに操られているかのように、虚ろな目をしたソフィアが冷たくも禍々しい声色で式を紡ぎ出した。


王国マルクトより基礎イェソド世界タヴ小径パス…通過。基礎イェソドより栄光ホド太陽レーシュ小径パス通過。栄光ホドより勝利ネツァクペー小径パス…通過」


『これはまさか…ヒトが何故…』


 それはかつてシオンが天上に接続した際に用いた式。

 いつの間にか身体からは亀裂が消え、血も蒸発したように跡形もなく消え去っている。そしてソフィアの周囲が赤黒い光に包まれるが、それは神の祝福と呼ぶには余りに禍々しい光景だった。


智恵コクマーより王冠ケテル愚者アレフ小径パス通過。王国マルクトより王冠ケテル、セフィロト接続完了。王冠ケテルより天上の父へ、契約に依り給われし資格、此れを行使せん」


 求めは天上に届き、神はかつて破棄された契約を再び履行しこれを承諾する。

 その瞬間ソフィアの背中から血が流れ出すと、血は自らの意思を持つように妖しく蠢き、やがてソフィアの背に血で作られた翼が形成される。しかし赤黒い血で出来た翼は天使のそれとは対極的に、見る者全てを恐怖に誘う狂気に満ちていた。


『そうか…狙いはアダムとイヴの再来だったか…』


 ベルフェゴールはつい先程、一瞬ではあるがメタトロンの完全な覚醒を感じ取っていたものの、その気配がすぐに失せた事から最後の審判はまだ先であると理解した。神が再びメタトロンに選択をさせようとしているのはルシファーの話から間違いない。しかし以前と同じならメタトロンが覚醒した時点で彼は選択をし、全てが終わっていたはずなのだ。

 その事から分かるのは神はこの世界で前回とは異なる結末を見ようとしており、そしてルシファーもまたそれを識っていたに違いない。それならメタトロンが何も選択せず一瞬だけ覚醒したのも頷ける。

 地獄から見てきた限りではレヒトとエリスがメタトロンの選択を伸ばした要因であると思っていたが、此処に来て鍵はそれだけではなかったと気付かされた。ベルフェゴールの推測が正しければシオンとソフィア、二人が揃って初めて新たな結末を迎えるもう一つの鍵となる。

 楽園を追放されしヒト、アダムとイヴ。彼等の犯した罪は子孫である人類に原罪という十字架として今尚背負わせているが、その罪が赦される日は来るのか?

 そんな日は永遠に来ないだろう、ベルフェゴールはそうタカを括っていた。しかしどうにも、一瞬とは言え覚醒したメタトロンと、目の前で覚醒を迎えたソフィアが神の望む新たな結末と無関係とは思えなかった。

 思えばルシファーもかつてこう予言している。


『神は新たなヒトを作ろうとしている。新たな始まりを作ろうとしている。では今地上に生きるヒトはどうなるか? 所詮神にとってヒトは土で作った人形…全ては戯曲に過ぎない』


 新たなヒト、その始まりである新たなアダムとイヴ。もし神が新たなアダムとイヴを誕生させようと目論んでいるのなら、悪魔が手を下さずとも再び世界は消滅するだろう。

 今地上にある命、ヒトの未来を憂うルシファーが地獄の王とは滑稽な話だが、しかしそれが間違っているとは思えない。もし本当に神が再び世界を滅ぼそうとしているなら、今地上で生きているヒトはどちらを悪と見るだろうか?

 悪魔を悪たらしめているのは神であり、神のいない世界では悪魔が正義にもなり得る。悪魔を悪と決め付けているヒトがもしそれを知ったらどう思うか、考えるだけで愉快だった。


『…その翼は血に濡れた穢らわしきヒトの罪か。ならばメタトロンの翼は希望か…否、その両翼が揃う先に待つは新世界という名の終焉』


 神の思惑が垣間見えたベルフェゴールだが、その言葉にソフィアは何の反応も示さず、虚ろな瞳でじっと月を見上げている。

 そんなソフィアの覚醒を一部始終見ていたサリエルはうつ伏せで倒れたまま悲しげに呟いた。


「そういえばあなたは遠い昔に約束されていたわね…」


 かつてサリエルが月の秘密をソフィアに教えた理由が思い返される。そもそもソフィアに月の秘密を与えたのはサリエルではなく神の意思だった。他の誰にも知られないという条件で神は月の秘密をサリエルを通して伝えさせ、やがてソフィアは天上へ昇り天使となる事が約束されていた。これもベルフェゴールに言わせれば彼女をイヴとせんとする神の用意したシナリオの一つだったのだろう。

 しかし結局月の秘密は他のヒトに漏れてしまい、ソフィアが天使となる資格は永遠に失われた…そのはずだった。


「冷たい目…メタトロンが燦然と輝く太陽ならあなたは煌々と輝く月ね…」


『…サリエルよ、汝の狙いは此奴の覚醒だったか』


 月を見上げたまま微動だにしないソフィアだが、その前に対峙しているだけでベルフェゴールは酷く憔悴していた。ぶつける宛の無い戸惑いを未だ傷の癒え切らぬサリエルに向けるが、慌てふためくその姿を見てサリエルは何かを諦めたようにふっと笑みを返す。


「さぁ…私はこんなの望んでいない…。でも彼女がそれを選ぶのなら止めはしないわ…」


『おのれ…! ヒトの…女の分際で…! 我等の領域に足を踏み入れるかっ!』


 焦燥は怒りとなり、未だ立ち上がる事の出来ないサリエル目掛けてベルフェゴールは手に握る黒い槍を投げ付けた。しかし槍はサリエルに届く直前で砂塵となり、月明かりを受け煌めきながら宙に舞う。そして槍を投げたベルフェゴールの腕はいつの間にか肘からその先が綺麗に切断されていた。


『何を…した…?』


 恐る恐る振り返るとそれまで虚ろに月を見上げたソフィアの視線が真っ直ぐにベルフェゴールを捉えていた。それは悪魔でさえぞっとする程恐ろしく、冷たい紅の瞳は邪視の力が無くともベルフェゴールの動きを封じてしまう。


「…眠りなさい」


 まるで舞踏会へ誘うように滑らかな動きで手を差し出すと、その指先がピアノを演奏するように軽く弾かれる。ベルフェゴールはその行動の意図が掴めずただ震えていると、突然その視界が左右に分割し、上下にスライドした。直後視界には無数の升目のような赤い線が走り、そこから微かに黒いもやが滲み出した。


『馬鹿な…我が…女なぞに…』


 ベルフェゴールは愕然とした表情を浮かべるが、既に全身は正確無比に細かく刻まれており、身体中から黒いもやが溢れ出す。


『サリエルよ…覚えておけ…その女とメタトロンこそ…アダムとイヴの再…来…』


 ベルフェゴールは最期にそう言い遺すとその巨軀は全てサイコロ程の肉片となって崩れ、全身から勢い良く黒いもやが噴き出した。やがてもやが晴れるとそこには初めから何も無かったように静寂が訪れる。

 ソフィアはその場で微動だにせずベルフェゴールの消失した空間を無感情にただ見詰めていたが、サリエルはアンナの存在を思い出すと声を上げた。


「…そうだ、あの子は…!?」


 呆然としていたが慌ててアンナの元に駆け寄る。しかし黒い槍で胸を貫かれたアンナは穏やかな表情で目を閉じたまま、仰向けになって微動だにしておらず、それを確かめてサリエルは力無く項垂れた。

 サリエルの癒しの力、月の魔力は人間に生命力そのものを注ぎ込む。それは魂の器である肉体を維持させ、結果的に魂が流出するのを防ぐ事になる。しかし肉体が朽ち果て、既に魂が解放されてしまった器には当然何の効力も持たない。

 アンナは既に事切れていた。この後、サリエルがしてやれる事はその魂が穢されないよう次元の狭間へ誘うだけだ。

 サリエルは祈りを込めてその魂を次元の狭間へ導こうとするが、その背後でソフィアはじっとアンナの死骸を見下ろしていた。


「…あなたのせいじゃないわ」


 それに気が付いたサリエルは振り返らずにそう告げる。彼女が今もソフィアかどうかは分からないが、それでもそう言わずにはいられなかった。

 しかしサリエルの言葉に何の反応も示さなかったソフィアだが、不意にその瞳から一筋の涙が流れた。


「ソフィア…」


 それまで無感情だったソフィアの表情は徐々に歪み、微かに嗚咽を漏らし始める。そして伏し目がちにその場で膝を突くとアンナの額に優しく手を乗せ呟いた。


「…おかえりなさい、アンナ」


 聖女のように澄んだ声で優しく微笑むとソフィアの翼は光となって消え去り、彼女を纏っていた赤黒いオーラも共に失せ、そこへ一陣の柔らかく暖かな風が吹く。するとサリエルは次の瞬間、目の前で起きた奇跡に言葉を失った。


「お姉ちゃん…?」


 何と死んだはずのアンナがゆっくりと目を開いた。

 ヒトの魂、命の行方はいくら大天使アークエンジェルと言えど手が出せない。肉体が滅び彷徨える魂は次元の狭間へ…これは定められし摂理であり、神以外にそれを覆す事は叶わないのだ。

 ならばまたも神がこの世界に干渉したのかと考えたが、アンナが蘇る直前のソフィアの行動を思い出してサリエルは微かに震えた。


「ソフィア…まさかあなたが…?」


 癒す者であるサリエルですらヒトの生死に手出しは出来ない。もしヒトの生死すら自由に操れるのならそれは最早神以外の何者でもない。だとすればソフィアにもたらされた力とは…


「アンナちゃん…良かった…」


 ソフィアが不意に安堵の表情を浮かべる。どうやら翼が消えたと同時にソフィアは完全に自我を取り戻したようだった。

 いつもと変わらないその笑顔にアンナは堪え切れず大声で涙を流しながら抱き付いた。


「お姉ちゃぁぁん! うぇぇぇん!」


「よしよし…もう大丈夫よ」


 まだ罪悪感を感じているのか少し複雑な表情なものの、ソフィアは穏やかな笑みを浮かべてアンナの頭を撫でている。

 サリエルは目の前で起きた奇跡について尋ねようか俊巡するが、何事も無かったように振舞うソフィアの姿を見て口を閉ざすと代わりに笑みを零した。


「…とにかく二人共無事で良かったわ」


「ありがとうサリエル…助かったわ」


「それは構わないけど…この子は何なの?」


 そう言ってアンナを一瞥するサリエルだが、その冷たい視線にアンナは短い悲鳴を上げるとソフィアの胸元に顔を埋めて更に大きな声で泣き出した。


「うわぁぁぁん! ごめんなさいー! ごめんなさいー!」


「ちょ、ちょっと…私は別に怒ってる訳じゃ…」


 予想外の反応にあたふたとするサリエルにソフィアは冷ややかな視線を送る。


「サリエル…」


「ま、待ってソフィア! これは違うの! えぇと…アンナ! 大丈夫よ、私は怒ってないわ」


 それを聞いたアンナは一旦は泣き止み恐る恐る振り返るが、サリエルのひくついた笑顔を見て再び大声で泣き出した。


「ち、違う…私は本当に…」


 今度はサリエルが泣きそうになってしまい、それを見て思わずソフィアは吹き出してしまった。


「ふ…ふふっ…! 笑顔がぎこちないわよ…うふふっ…!」


「そ、そんな事言われても…」


 ソフィアの身に起きた異変は未だに分からないままだが、こうしていつもと変わらない彼女の姿を見てサリエルは何処か安堵した。


「大丈夫よアンナちゃん、このお姉ちゃんは私達を助けに来てくれた天使なの」


「天使様…?」


 その単語に興味を惹かれたアンナは泣きじゃくりながらも好奇心に勝てずもう一度振り返るが、サリエルをつぶさに観察していると少し怒ったような表情で口を尖らせた。


「えー…天使様の羽根は黒くないよー?」


「ぐぅっ…!?」


 しかしその一言は悪意が無いと分かっていてもサリエルの胸を抉った。流石にかけるべき言葉が見当たらずソフィアの視線が宙を泳ぐ。


「あ、でも…光がふわーって…すごくきれいだった!」


 自分達をベルフェゴールの攻撃から守った光のヴェールをアンナは確かに覚えていた。それにより黒い翼への疑惑はあっさりと払拭され、アンナは目を輝かせると興味津々といった様子でサリエルの黒い翼を手に取り鼻息を荒くする。


「ふふ…子供にはちゃんと分かるものよ」


「…そう言って貰えると気が楽になるわ」


 無邪気にサリエルの翼と戯れるアンナを見て二人は顔を見合わせると微笑みを浮かべた。しかしすぐにソフィアは表情に影が落とし、アンナには聞こえない声量で話し始める。


「…彼女は?」


 目を伏せながら向けられた視線の先には未だに硬直したまま微動だにしないエリヤが立っていた。


「安心して、死んではいない。ただ私が邪視を解くまで彼女にはそこで固まってて貰うわ」


 サリエルとは古い付き合いではあったが、邪視の力を知らなかったソフィアは改めて彼女がどれ程偉大な天使であるかを思い知った。そしてそんな大天使アークエンジェルが自分にまるで親友のように接してくれるのは嬉しくもあり、同時に罪悪感があった。

 そんな彼女のネガティヴな思考に気が付くとサリエルはソフィアの額を小突く。


「こら、そんな顔しないの。あなたはもっと胸を張って良い人間よ」


「うん…ありがとう」


 そう言われソフィアは思わず照れ臭くなるが、ここは素直に受け取っておく事にした。

 サリエルはさて、とアンナを抱いて立ち上がるとアントニー達が消えて行った方角へ目を向ける。


「アンナ、あなたは確かみんなと一緒に逃げてたわよね?」


 サリエルはアンナがアントニーに連れられたところを直接見てはいないが、大まかな事情は別の場所にいても把握出来ていた。現にソフィアのピンチに駆け付けられたのも全てを観ていたからに他ならない。

 だが痛い所を突かれてか、アンナはバツが悪そうな顔で黙り込んでしまった。


「アンナちゃん」


 立ち上がったソフィアは腰を曲げ膝に手を突くと優しく語り掛ける。


「助けてくれてありがとう、お姉ちゃんはもう大丈夫だからアントニーさんの所へ帰りましょう?」


「…やだ、お姉ちゃんと一緒にいるもん」


 どうやらソフィアが死んでしまうのではないかと気が気でないらしい。その気持ちが痛い程分かるサリエルは何も言えずに口を閉ざすが、ソフィアはそんなアンナに優しく、諭すように続けた。


「約束するわ、悪い人達をやっつけたらまたアンナちゃんに会いに行く。だからアンナちゃんはみんなと待ってて?」


「…本当に?」


「えぇ、約束を破ったら神様に怒られちゃうもの」


「じゃあ…ゆびきり…」


 まだ不満はあるようだがアンナが小指を差し出すと、それを見てソフィアは微笑みながらその指に自分の指を絡めた。


「はい、約束よ。ちゃんとアントニーさんの言う事を聞いて良い子にしててね」


「…うんっ、アンナ良い子にしてる!」


 ようやく納得したのかアンナは満面の笑みを浮かべ、その光景に感嘆していたサリエルが口を開いた。


「それじゃアンナ、特別に天使の魔法を見せてあげる」


 そう言うとサリエルはアンナを丁寧に降ろし、転移の魔法をかける。


「お姉ちゃん! 天使様! がんばれー!」


 最後にそんな声援を残し、アンナは白い霧に包まれ姿を消した。


「ふふ…頑張りましょうか」


「…とりあえずアンナはアントニーとかいう兵士の元へ送っておいたわ。向こうはアンナがいない事に気付いて立ち往生しているみたいだけど…」


「そう、じゃあもっと悪魔を引きつけないといけないわね」


「え、えぇ…」


 気を引き締めたソフィアが凛々しい表情でB地区の方角へ体を向ける。しかしその横でサリエルは何かを言い辛そうにちらちらとソフィアへ視線を向けていた。それにようやく気付いたソフィアは不思議そうな表情で尋ねるが、何処か呆れた様子でサリエルはソフィアの体を指差した。


「服…あなた裸のまま行く気なの…?」


「え…? あ…」


 ソフィアの衣服はエリヤの光線を受けた際に消滅しており、死闘の中ですっかり忘れていたが彼女はずっと裸のままだった。

 抜群のプロポーションの身体には傷一つ残っておらず、その美しさはある種の芸術的要素を孕んでいるが、そんな女性が裸のまま歩き回っていては無駄に男性の犠牲者が生まれかねない。当然本人にそんな自覚は無いようでサリエルは溜息を漏らした。


「はぁ…確か此処は孤児院を併設してたわね」


「えぇ、そうだけど?」


「そこから服を拝借したらどうかしら?」


 サリエルの機転で孤児院に足を踏み入れるとそこは最後に訪れた時と何ら変わりなく、ソフィアの胸中に懐かしさが込み上がる。

 孤児院には今は亡きシスターが住み込んでいた。アンディとシオンがプレゼントしてくれたお気に入りの服を失った悲しさはあるが、それ以上に敵だったシスターの服を借りるというのはどうしても良い気はしない。

 ただサリエルの言う通り全裸でいる訳にもいかず、止むなしとタンスから質素なワンピースと下着を適当に見繕うと早速着替える。そして着替え終えるとソフィアはふと先程感じた疑問をサリエルに投げ掛けた。


「でもサリエル、此処に孤児院が併設されているなんてよく知ってたわね」


 その質問にサリエルは背を向けたまま苦虫を噛んだような表情で答える。


「…孤児院にいる子供の中から母なる血マザーブラッドの教団員を選出していたそうね。その事は教団の参謀を務めていた私の耳にも入っていたわ」


 その話からサリエルは孤児院の存在こそ知っていたものの、実際に教団員となる子供を選出するよう指示していたのはゴードンである事が伺えた。しかし話を聞いたソフィアは無感情に生返事すると二人の間には沈黙が訪れる。


「…行きましょう、サリエル」


 先に沈黙を破ったソフィアは手を差し伸べるが、その手をサリエルは不安そうにじっと見詰めていた。


「…私も一緒に行っていいの?」


「少しでも罪の意識があるなら…一緒に行くべきだと思うわ」


 ソフィアは強い。自分に向けられた曇りない真っ直ぐな瞳を見てサリエルは改めて感銘を受けた。

 神に与えられし力でヒトの理から外れ、千年もの間、孤独と恐怖に耐えながら生きてきた人間など未だかつて存在しない。にも関わらず彼女の本質、魂は何一つ穢れなく気高いままだ。本人はヒトでない事に負い目を感じているようだが、サリエルにはヒトの理から外れてもソフィアこそ最もアダム・カドモンに近い存在だと確信していた。

 そう考えるとベルフェゴールが最期に遺した言葉、アダムとイヴの再来も頷ける。しかしその言葉の真の意味にサリエルはまだ気付いていない。


「…仰せのままに」


 サリエルは跪くとソフィアの手を取り、この魂尽きる刻まで付き従うと心に誓う。

 そんな仰々しい態度にソフィアは戸惑うが、サリエルの真意など露知らず冗談として受け取ったソフィアは微笑みを浮かべた。


「ふふ、あなたと一緒なら心強いわ」


 サリエルもまた笑みを返すと立ち上がり、二人はB地区を目指して教会を後にした。

 それからソフィアはサリエルと共に悪魔を蹴散らしながら恙無つつがなくB地区に辿り着くが、足を踏み入れた途端に異様な気配を感じ取ると思わず足を止めて顔を見合わせる。

 それはこれまで見てきた悪魔とは桁違いの禍々しい魔力を放つ何かで、ソフィアは真っ先にルシファーの存在を疑うがサリエルはその可能性をあっさりと否定した。しかしこれがルシファーでないのなら何なのかという疑問に対してサリエルも皆目見当がつかないようだった。ただ一つ確かなのは、この禍々しい魔力は先程まで戦っていたベルフェゴールやアザゼル等を遥かに凌ぐものである事だ。

 結局その正体は不明のまま気配を強く感じる南側へ向けて二人は途方もない恐怖を感じながら走り出す。その道中住民も悪魔もいない事に違和感を覚えたが、そんな事は視界に飛び込んできた死闘を前に意識の隅へ追いやられてしまった。

 遠くからでははっきりと姿が見えないものの、そこで間違いなくシオンが戦っているとソフィアは確信する。しかし加勢に加わろうとした瞬間、禍々しい魔力を放っていた犯人の姿を確認してソフィアは思わず息を呑んだ。


「嘘…そんな…」


 男は宙に浮かんでおり、よくよく目を凝らすと背には黒い翼を生やしているが、記憶にある彼にそんなものは無く他人の空似だと思いたい。しかし黒尽くめのロングコートを羽織り、人間には到底扱えない大剣を片手に携えた男なんてそうそういるはずもないだろう。

 俄かに信じ難いが、禍々しい魔力を放つそれは紛れも無くよく知る人物だった。


「まさか…レヒトさんなの…?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る