Episode60「月の欠片」
ソフィアはその場で足を止めたまま鉤爪を振るうが、それは物理的に届くはずのない攻撃だ。しかし魔力を最大限まで高めた事により不可視なる鉤爪は微かに上半身を逸らしたエリヤの前髪を掠めた。
「…ふぅん」
射程距離ギリギリの攻撃はあっさりと避けられるが想定内だ。ソフィアの狙いは他にある。
これまでソフィアは戦闘行為を極力避けてきた為、限界まで魔力を高めて戦うのは初めての経験だ。だから魔力が何処まで高められるのか、それによりどのような攻撃が可能になるのか自分でも把握しきれていなかったのである。しかし今放った全力の一撃で鉤爪の射程距離は不可視ながらも完全に把握した。
ベルフェゴールは依然として口から薄黒い吐息を吐き出し自身の周辺を覆っている。恐らくあの吐息を吸うか、下手をすれば触れただけでも再び快楽の虜となって戦闘不能となるだろう。ならばベルフェゴールは接近せずに遠距離から攻撃をすれば良い。
ただ残念な事にソフィアにはこれといった遠距離攻撃が存在しない。月の秘密は彼女の身体に魔力を与え作り変えたが、残念ながら魔力を体外に放出するような事は出来ず、厳密に言えばヴァンパイアの真祖であるソフィアでさえ月の魔力を自由自在に使いこなしているとは言い難い。
魔力を放出している最たる例としてビームを放つエリスが挙げられるが、彼女はそもそも女神という規格外の存在であり参考にならない。元は同じ人間であるセリアも魔力を放出しているが、それはアザゼルに与えられた銃があって初めて可能としている。そしてレヒトに至っては遠近の概念がそもそも通用せず、魔力を放出しようがしまいが関係ない。唯一遠距離攻撃を持たない点でシオンが最もソフィアに近い戦闘スタイルになるが、彼には絶対的な力、天上の炎がある。そう考えると元は同じヒトでありながらも、セリアのような魔力を放出する媒体を持たないソフィアは、この戦いに於いて自分は無力なのだと今更ながら痛感した。しかし泣き言を言っている暇などない。
ネガティヴな思考を跳ね除けながら頭を回転させて導き出した答え、それが魔力を最大限まで高めて威力と射程を伸ばした鉤爪による遠距離攻撃だった。言い換えればソフィアにはそれ以外の攻撃手段が存在せず、月の秘密を知っただけのヒトが神の眷属を二人も相手にするのは分が悪いどころか無謀としか言えない。それでもソフィアの瞳に絶望の色は無かった。
空気が張り詰め息苦しさすら覚える緊張感の中、静寂を先に破ったのはソフィアだった。動く気配のない二人目掛けて躊躇なく踏み込み連続で鉤爪を振るうが、ベルフェゴールは黒い翼を羽ばたかせ宙に浮かび上がり、エリヤはその場で器用に攻撃の合間を縫って回避する。
どうにも見たところどちらも接近して何かしてくる様子はない。どちらか一方を撃破出来れば勝算も見えそうなものだが、果たしてどちらを先に片付けるか?
(…やっぱり女性の敵からね)
先程の女性蔑視と取れる発言に対して腹を立てている訳ではないが、やはり二人のうち特に厄介なのはベルフェゴールだろう。彼は人間の女性であるソフィアとは余りに相性が悪い。逆にエリヤの攻撃は破壊力が凄まじく直撃すれば絶命は免れないものの、その使用頻度は低く、攻撃の予兆から推測すれば回避もそう難しくなさそうだ。更に言えば一対一なら接近すれば何とかなるかもしれない。
ベルフェゴールを優先的に狙いつつ、隙あらばエリヤを一撃で仕留める。作戦を固めるとソフィアは宙に浮くベルフェゴール目掛けて鉤爪を振るった。
『諦めの悪さ、それもまた女か』
「あら、そんな所も素敵なものよ」
軽口を叩きながらベルフェゴールの動きを捉えようと攻撃を放ちつつ、エリヤの動きにも警戒を払う。すると案の定、エリヤが杖を翳すと上空に幾何学模様が浮かび上がり、直後降り注いできた光線を回避すると身体を翻してベルフェゴールへの攻撃を続行する。
「…人間の癖に生意気」
攻撃を見切られたせいかエリヤは不満気な表情を浮かべ、意固地になったのか今度は杖を翳したまま幾何学模様から何度も光線を放つ。その一発一発の破壊力は落ちたように見えるが、それでも直撃すれば致命傷は免れないだろう。
集中力を切らさないよう光線を避けながらベルフェゴールへ攻撃を続けていると、ソフィアにある妙案が思い浮かんだ。
(一か八か…お願い…!)
狙いがバレないよう、似た回避行動を繰り返しながら徐々にベルフェゴールとの距離を詰めていく。そしてタイミングを見極め、次に光線が降り注ぐ瞬間ソフィアはベルフェゴールの真下へ潜り込んだ。すると狙い通り光線はソフィアの頭上、上空に浮かぶベルフェゴール目掛けて降り注ぐ。
しかし狙い通りエリヤの攻撃がベルフェゴールに直撃する…と思えたその瞬間。ベルフェゴールに直撃したはずの光線は何故かその身を擦り抜けてしまい、真下にいたソフィアは想定外の事態に回避し切れずとうとう被弾してしまった。
「あぐっ…あ…ぁ…」
辛うじて肉体は原型を留めているが、服は溶け皮膚は落雷に打たれたように真っ黒に焼き爛れ煙を上げている。すぐに月の魔力により再生が始まるが、身動きが取れなくなったその一瞬の隙を二人が見逃すはずがなかった。
「死んじゃえ」
矢継ぎ早にエリヤは天上から強大な力を引き出し、最大級の光線を落とさんとする。
『やはり女などこの程度か』
同時にベルフェゴールはその手に黒い槍を携え、それをソフィア目掛けて投げ付ける。その光景を眺めながら自身の死を覚悟したその時、視界が突然白く霞み歪むと気が付けばソフィアは聖堂横に座する鐘塔の上に立っていた。
辛うじて動ける程度まで回復したソフィアは慌てて周囲を見渡すと、見下ろした先の破壊された聖堂ではエリヤとベルフェゴールが眉を寄せていた。
「…邪魔するの?」
珍しく怒りを露わにしたエリヤが睨み付ける先…その視線を追うとソフィアの頭上には眼鏡をクイッと持ち上げながら黒い翼を広げた一人の堕天使が優雅に舞っていた。
「まさか…サリエル…?」
予想外の人物の登場に事態が飲み込めずに混乱するが、そんなソフィアを無視してベルフェゴールが不可解な表情でサリエルに問う。
『どういうつもりか? まさか裏切るのか?』
その問いにサリエルは挑発するかのような微笑みを浮かべながら答えた。
「裏切るも何も、初めからあなた達の仲間になったつもりはないわ」
涼しげにそう言い放つとサリエルはその手に黒く禍々しい大鎌を出現させ言葉を続ける。
「かつて神の命令という名の
そんな明確な意思を突き付けるサリエルに対してエリヤは不愉快そうに呟く。
「…あなたは神の前に出る事を許された十二人の天使の一人にして神の玉座近くにはべる権利を持ち、神の意志を執行する司令官の役割を持っていた…。更に癒す者とも呼ばれラファエルの右腕として働いていた…忌々しい天使」
「あら、思っていたより饒舌じゃないサンダルフォン」
「でも…自らの意志で堕天した。そこの雌豚に月の秘密を教えちゃったから」
「そうよ、でも後悔した事はないわ。だから…」
紅い満月を背景にその場で大鎌を振るうその姿は怪しくも美しく、月の統制権を持つ者として相応しい佇まいである。サリエルは眼鏡を投げ捨て構えを取ると厳しい視線で二人を一瞥した。
「ソフィアを傷付ける者は何であろうと許さない」
毅然と言い放つサリエルに迷いは見られない。つい先刻、一度はソフィアと和解したサリエルだったが彼女は味方につくことなく敵として戦う道を選んだはずだった。それを明言こそしていなかったものの、すっかりサリエルと対峙する事を想定していたソフィアは戸惑いながら問い掛ける。
「サリエル…どうして…?」
「ふふ、私はあなたと敵対するなんて言った覚えはないわよ」
「で、でもあの時はルシファー達と一緒に戦うって…」
「そうでも言っておかないと帰り難いじゃない。確かヒトの世界ではこういうのを二重スパイって言うのかしら」
そう言ってサリエルは悪戯っ子のような笑みを浮かべる。それを見た途端ソフィアの身体から力が抜け落ち、思わず釣られて笑いが込み上げてきた。
「もう…私まで騙さなくていいじゃない」
「ルシファーには無駄でも、他の悪魔には見せかけだけでもやっておかないといけなかったのよ」
ルシファーの全智の書には当然サリエルの裏切りも遠い昔から記されていたのだろう。しかしルシファーが何を識り、何を考えているのか未だ誰も把握出来ていないのは、古来から全智の書に記された内容のほとんどを仲間に伝える事がなかったからだ。聞いたのは彼の描くシナリオのほんの一部に過ぎない。
ルシファーはレヒトやエリス、シオンのような存在は疎か、この世界が繰り返されし新たな箱庭である事すら今の今まで誰にも明かしておらず、ヘルゲートを開いた直後にようやく全ての悪魔に失われた記憶を与えていた。
ただサリエルがいつか裏切る事は先刻承知であったにも関わらず、ルシファーは彼女を仲間に加えている。彼が何を考えてるのかまるで分からないが、それを仲間に明かさないのならサリエルにとっては好都合であった。ルシファーが何も言わない以上、他の仲間を欺くなら表面上はソフィア達に敵対の素振りを見せていなければならないが、逆にそれにさえ注意していれば欺くのは容易な事なのだ。だからレヒト達の元へ訪れた際も、その動向を伺うという建前を仲間達には用意していた。だが最終決戦の始まった今ならそんな建前ももう不要である。
「もう私を縛る枷はない、あなたの為に存分に力を振るわせてもらうわ」
サリエルの表情から笑顔が失せると急激に魔力が高め始めるが、それはソフィアの月の魔力に似て非なる絶大なものだった。
そもそもソフィアは月の秘密に触れただけに過ぎない。しかし堕天してもなお神々の眷属たるサリエルはその月の統制権を今も掌握している存在だ。故に月の魔力という点で二人が使う力は共通しているがその強さは桁違いであり、サリエルの力こそ真の月の魔力である。
「まずは…あなたからね」
翼を一度羽ばたかせるとサリエルは優雅に地上に降り立ち、エリヤを正面から見据える。
「どうしたのかしら、
挑発とも取れるサリエルの言葉だが、それに対してエリヤは何も言わずに珍しく額から一筋の汗を流した。
天使には悪魔と同じく階級が存在している。
先程エリヤが自ら述べたように
分かりやすい例として他の
そしてサリエルが
エリヤは神に託されし預言に従って動いている。故に悪魔と戦う事はあっても同じ天使と戦う事はないはずだった。しかし今、彼女の目の前に立つそれは悪魔でありながら天使の力を未だに有する稀有な存在。仮に一度は滅んだサンダルフォンとして再び蘇ったとしても、
「あなたは
「あるわ…。あなたは…ソフィアを傷付けた…」
その言葉には微かな怒気が含まれ、エリヤは思わず短い悲鳴を上げて怯む。悪魔同士ならサリエルが放つその威圧感に臆する事はないが、階級差が明確な天使同士となると話は変わってくる。
「わ…私はただ預言に従っただけ! お兄様はもう一度選択をしなければならない! この箱庭を終わらせるの! そうすれば私達はまた守護天使として…!」
初めてエリヤが激しく取り乱すが、それを見てもサリエルの琥珀色の瞳は揺るがず冷たい視線を真っ直ぐ向けていた。
「安心なさい、元同属のよしみで命までは奪わないわ」
「あ…あぁぁっ…」
エリヤは恐怖からその場に立っていられなくなり、その場にへたり込むとローブの裾から湯気を放つ液体を垂れ流す。それでも目の前のサリエルからは視線を逸らさない。いや、逸らせないのだ。彼女は既にサリエルの力に犯され始めていた。
「眠りなさい、預言者エリヤ」
「い…いや…いやあぁぁっ! 助けてぇっ!! お兄さっーー」
その瞬間、サリエルの琥珀色の瞳が一閃したかと思うとエリヤは目を見開いたまま、恐怖に歪んだ表情で瞬き一つせず硬直してしまう。それはまるで時を止められ、石化したかのように眉一つ動かさずに固まっていた。
『ほう、邪視か』
その光景を上空から眺めていたベルフェゴールが呟くと、サリエルは無表情のまま振り返り睨み付ける。
「次はあなたよ」
『神の眷属さえ恐れ慄くと言われる邪視の力…初めて目にしたがこれ程か』
天使すら滅するサリエルが持つ絶大な力、それこそがこの邪視だ。邪視とは一瞥で相手を害する事が出来、見ただけで身動きを封じる他に、死に至らしめる事も可能である。中には邪視が効かない対象も存在するが、それは自分と同位以上の階級である
ただベルフェゴールに邪視は通用しないが、サリエルは女性と同じ姿をしていながら人間でない故にそもそも性別を持っておらず、ベルフェゴールの力もまた彼女が相手では効果が無かった。
「仲間とは言え手加減はしないわよ」
大鎌を構えるとサリエルはその場で浮かび上がり、上空にいたベルフェゴールと正面から対峙する。
『穢らわしい、何と穢らわしい事か。汝から漂うはヒトの女の臭い。醜い存在と成り果てたか』
「女性不信もここまで来ると哀れね。人間を構成する七つの大罪の一つにしては余りに惨めだわ」
『…女の分際で我を愚弄するか』
「そういう発言が下らないのよ、それに知っての通り私に性別なんて無いわ」
不敵な笑みを浮かべるとベルフェゴールは初めて怒りを露わにし、黒い槍を手にサリエルへ襲い掛かる。
そんな上空で繰り広げられる堕天使と悪魔の戦いにソフィアは何も出来ず唇を噛み締めた。分かっていた事だ、自分には遠距離から攻撃する術は無く、レヒトやシオンのような悪魔を滅する圧倒的な力も持ち合わせていない。レヒトも手合わせをした際に気付いていただろう、ソフィアの実力では中級悪魔を倒すのがやっとだと。にも関わらず彼は何故自分に北C地区を託したのか?
初めからエリヤに期待していたのならその狙いは的外れな結果となったが、付き合いが浅いとは言えソフィアにはレヒトの考えがそこまで浅はかとはどうしても思えなかった。つまりレヒトはソフィアに何らかの可能性を見出し託したのだ。
しかし殺されかけていた窮地を救い、今も悪魔と交戦しているのはサリエルであり、言葉通り手の届かない場所で繰り広げられている戦いには手も足も出せない。上空には黒い翼を持つ堕天使と悪魔、そしてまるで地球に接近しているかのように巨大さを増した怪しく輝く紅い月。その下で何も出来ずに見守る事しか出来ない自分がとにかく腹立たしかった。
(嫌…もう誰かに守られるだけのお荷物にはなりたくない…)
千年間渦巻いていた葛藤が噴き出すと、不意に誰かが脳内に直接語りかけてくる。
『ならば今こそ原罪より解き放たれよ、新たなるヒトよ』
するとソフィアの頭の何処かで錠が外れたような音が聞こえてくるが、脳内に鍵など掛かっている訳がない。だがソフィアは確かにそんな感覚を感じ取っていた。
(何…今のは…?)
周囲を見渡すも何ら変わりなく、自身にも特別な変化は見られない。先程の声もそれきり何も聞こえなくなったが、再び月を見上げた瞬間に異変が起きた。突如今まで感じた事のない凄まじい魔力が身体中に流れ込み、思わずソフィアはその場に蹲ると悲痛な声を漏らす。
「ぐっ…! あぁぁっ…!」
止め処なく流れ込む知識と魔力の奔流に肉体が軋みを上げ、紅色の瞳からは鮮血が溢れ出す。そしてバランスを崩したソフィアは鐘塔の上で足を踏み外し、そのまま真っ逆さまに力無く落下した。
それは月の秘密の更なる深層へ近付いた事による弊害とでも言おうか。ソフィアがこれまで識る月の秘密はあくまで表面上のもの、言わば月の秘密の欠片であり、サリエルのようにその全てを理解していた訳ではなかった。全てを理解しようにも原罪を持つヒトである限り、それは識りたくても識る事は叶わない。言わば月の真の秘密は
月は生命の誕生や死亡に密接に関係していると言われるが、それは一般的な人間に限った話ではない。エリヤを形成している思念体等も含め、要は地上に存在する魂を内包する肉体、魂の器は例外無く月の満ち欠けと同期している。サリエルが月の統制権を持ち、死を司る天使たる所以は人々の肉体を構成する生命力…これが失せた際に解き放たれる魂を正しく次元の狭間へ導く役目を担っている部分からであり、その魂を悪魔や人間に穢される事を防ぎ、時には魂の行き先である次元の狭間へ魂を導かずに狩る場合もある。更に堕天するより以前は悪の道に走った天使の罪を量り、それを堕天させる役目までも担っていた。
即ち月とは魂の牢獄である肉体、魂の器を司り、月の満ち欠けは肉体の誕生から老化し朽ち果てるまでのヒトの生涯、生命の満ち欠けを意味する。その月の秘密を欠片でも知る事はヒトと同じ生命の満ち欠けの環から外れる事となり、肉体の不滅を成す。当然その肉体が滅びない限り内包する魂が次元の狭間へ導かれる事はなく、ソフィアはそこに些細な月の魔力、言い換えれば神の力が付随しただけに過ぎない存在だった。
ただそれだけの事でもヴァンパイアの真祖として千年に渡り生き続け、普通の人間なら下級悪魔にさえ無力なところ中級程度までなら互角に渡り合える事から月の魔力の真価がどれ程のものかは推して知れる。
しかし月の真の秘密を識ったソフィアに流れ込んできた魔力はサリエルと同じものでも、本来ならば原罪を持ったままのヒトである限り、世界の理から外れた肉体であってもそれを受け入れる事は叶わない。言わばヒトの器に無理矢理神の力を流し込んでいるような状態で、このままでは器が耐え切れずに消滅してしまう。
そこでようやくソフィアの異変に気が付いたサリエルに一瞬の動揺が走り、その隙を突いてベルフェゴールの槍がサリエルの片目を貫いた。
『何と愚かな事か、ヒトに月の秘密の全てを教えてしまったか』
ベルフェゴールは吐き棄てるとそのまま槍を振り抜き、サリエルはソフィアの元まで吹き飛ばされる。潰された片目はすぐさま再生し、地面に叩き付けられる直前で辛うじて宙に留まるが、サリエルは戦闘中にも関わらずベルフェゴールに背を向けると慌てた様子でソフィアに寄り添い容態を確かめる。すると彼女の身体中から放たれる魔力と血を見て瞬時に全てを察した。
「そんな…何で…」
神は原則としてこの世界に干渉しない。しかしサリエルが何もしていないにも関わらず月の秘密が全て暴かれたのなら、それは神の仕業としか思えなかった。
『忘れたか、汝は鍵。ヒトを縛る原罪の枷を外したのは紛れもなく汝』
「嘘よ…私は何もしていない…」
愕然とした表情で微かに震えるサリエルは混乱していた。
サリエルは本来鍵を象徴する。その鍵とは月の秘密を識る入り口や、肉体から解き放たれた魂を誘う次元の狭間への鍵など様々である。それを踏まえれば確かにベルフェゴールが言う通りソフィアの枷を外したのもサリエルと考えるのが自然だろう。
しかしそんな事をすればいくら月の秘密の欠片を識るソフィアと言えど、魂を原罪に縛られている以上肉体が耐えられないのは分かりきっている。月の秘密の全てを伝える事は確かに可能だが、とてもじゃないがそれを無自覚で行ったとはどうしても思えなかった。故にもし本当に彼女の枷を外したのならそれはサリエルですら自在に操れる高位の存在、天上の父か地獄の王以外に考えられない。
しかしこれが誰の手によって引き起こされたかなど今は瑣末な問題だ。瑞々しく絹のように滑らかだったソフィアの肌は水分が蒸発し切ったように乾き、全身に亀裂が走りそこから血が止め処なく溢れ出している。初めは荒かった呼吸も今ではすっかり弱まり、生命力…体内に蓄積されている月の魔力が失われつつあるのが感じ取れた。
このままではソフィアは死ぬ。癒す者とも呼ばれるサリエルは自身の魔力を癒しの力としてソフィアに流し込むが、まるで穴の空いた風船のように亀裂から鮮血と共に漏れてしまう。
消え行く命の灯火を前に成す術なく、怒りと絶望が入り混じり、視界が涙でぼやけた瞬間だった。突然草叢から飛び出してきた少女が涙を流しながら真っ直ぐソフィアの元へ駆け寄ってくる。見ればそれはアントニーに連れられ逃げたはずのアンナだった。
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