Episode54「帰還」

 肉体は魂の牢獄とはよく言ったものだ。正直なところ魂だとか輪廻転生なんてものが本当にあるなんて未だに信じられない。しかし次元の狭間において人間が認識する個とは無意味に等しく、それは例えるなら魂の世界。次元の狭間では自分の肉体が在るのかさえ分からず、何も出来ずただ宙を浮遊しているような感覚しかない。

 思えば僕が二度、次元の狭間に訪れた際にはエリヤがいてくれた。恐らく彼女がいたから僕は僕自身の肉体を認識出来たのだろう。しかし案内人のいない次元の狭間は自分が何者かさえ分からなくなるような、無であって全である世界だ。

 自分を見失いそうになるものの、僕は胸元のペンダントを握り締めるイメージを浮かべしっかりと自己を保つ。


(そういえばレヒトは…?)


 声を上げてみるが実際に声を発せているのか分からない。メタトロンだった頃なら次元のは狭間でも自由に動き回れたのだろうけど、ヒトとなった今の僕にはこの世界で出来る事なんてほとんどなかった。しかしそれでも僕は足掻き、抵抗する。


(やれる事は全てやるんだ…)


 そう決意し何度もレヒトの名を叫び続けていると不意に誰かの気配を感じ取った。


「…レヒト?」


 改めて呼び掛けてみると何も見えなかった闇の中に突然全裸のレヒトの姿が浮かび上がる。


「お、シオンか?」


 驚く様子もなく振り返るレヒトだが何か様子がおかしかった。

 それは奇妙な感覚で、レヒトの姿は闇の中では視覚的に捉える事は出来ないが、脳裏に直接浮かび上がってきている。そのせいかレヒトの動きは妙に緩慢で、少しでも彼がレヒトであるという自分の認識を緩めるとその姿はまるで幻だったかのように薄れてしまう。


「無事だったんだね、でも何で全裸なの?」


「は? お前こそ何で全裸なんだよ」


 言われて自分を見やるが何も見えない。ただレヒトにも僕が全裸に見えるようだ。


「多分…例えるなら僕達は今魂だけの存在になってるんじゃないかな」


「魂ねぇ…」


「あくまで例えだよ、要は自分が自分であるという概念そのものなんだと思う」


「とりあえず肉体は無いようなものか。で、これからどうする?」


 言われて鍵の存在を思い出すけど自分の肉体すらないのだから、当然そんな物も何処かへ消えていた。考えてみれば次元の狭間に僕達が認識していた世界のモノがそのまま持ち込めるとは思えないが、今更それを嘆いても仕方ない。

 再び真理ダアトの扉に隠された知識を手繰り寄せると意外にも答えはすぐに得られた。


「そうか…もしかしたら…」


「何か分かったか?」


「…鍵」


 持っていたあの鍵をイメージすると、それは突然現れ目の前で浮かんでいた。


「わーお、魔法か?」


「そんなんじゃないよ、きっとこの世界ではイメージしたものがそのまま形になる」


「ほう…?」


 レヒトは真剣な表情を浮かべると何かをイメージしているのか集中し始める。すると突然僕達の目の前に下着姿の女性が現れた。


「…何してるの?」


「おぉ…本当に出てくるとは…」


 何故か下着姿の女性はこちらの様子を伺うようにチラチラと色目を向け、ブラに指を掛けて挑発してくる。

 …この非常事態にレヒトは何をしているのだろうか。


「…真面目にやる気ある?」


「少しぐらい遊んでも良いだろ。しかしイメージした物が全て顕現するとは夢のような世界だな」


「…夢だよ」


「あん?」


「言わば此処は夢の中…ヒトの潜在的無意識下にある共有世界」


「ほう、何処かで聞いた事のある話だな」


 人は死んだら天国か地獄に行くとされているが、実際魂が回帰するのはそのどちらでもない、本当の行き先は次元の狭間だ。そして次元の狭間はあらゆる世界、今も生きている人間にも繋がっている共有意識の世界である。

 肉体は魂の牢獄という表現は次元の狭間から地上世界に個として存在する為に、その世界の次元に合った肉体に魂が宿る事から正しい認識であると言える。例えば何故アザゼル達悪魔が人の姿をしているのかと言うと、彼等は僕達のいる地上世界に存在し続ける為にはヒトの魂を内包しているものと同じ、器の役目を持った肉体が必要となる。それがなければ彼等は地上世界に於いて異質な存在と認識され、世界の理を歪ませてしまう。だからそうならないよう来る復讐の刻までヒトの皮を被らなくてはならなかったのだ。

 そしてその器…肉体が必要なのはヒトも同じ事で、こうして次元の狭間に存在する魂が肉体という器に収まる事で地上世界に留まり初めて自己の存在認識を可能とする。ただ当然ながらヒトにはその事象を理解する事は出来ない、そう作られているからだ。


「何はともあれ鍵があるならこれで帰れるはずだな」


「うん、きっとこの鍵に合う扉も…」


 僕達の世界へ繋がっている扉をイメージをすると、真理ダアトの扉が現れた時のように目の前に無骨な扉が音もなく現れた。


「きっとこれだ」


「…シオン、準備しておけ」


 その言葉に振り返るといつの間にかレヒトは見慣れたロングコートを羽織り大剣を背負っていた。


「準備って?」



「上手く行き過ぎだ、神がこのままタダで帰すとは思えん」


 そう言ってレザーグローブを引っ張るレヒトを横目に僕も元の服装をイメージするが、実際にちゃんと着替えているのか自分では分からない。


「…僕もちゃんと服着れてる?」


「あぁ、何故か新品みたいに綺麗だけどな」


「そう言うレヒトだって…ロングコートを新調してるじゃないか」


 お互いの姿を見やると思わず僕達は吹き出してしまった。

 ここはあくまで夢の中で、実際の世界に戻ったら全部無くなっているかもしれない。だったら今は少しぐらい誇張して楽しんでも良いだろう。

 ついでにと僕は二本の剣をイメージして顕現させるとそれぞれを左右の腰元に現れた鞘に収める。それを見てレヒトも同じく二本の剣を取り出し、後ろ腰でクロスさせる形で鞘に収めた。


「レヒトにそれは不要じゃないの?」


「良い事を教えてやるよ、大事なのはかっこいいかどうかだ」


 そう言ってニヤリと笑うレヒトを見ていると次元の狭間に入る前より何処か穏やかに感じられた。異世界にいる間に何か心境の変化でもあったのだろうか?

 ただそんな事を尋ねる訳にもいかず、無言のままレヒトが相槌を打つと、僕は扉の鍵穴に鍵を差し込む。すると鍵は一人でに回り出し、カチリと錠の開く音の直後、扉はゆっくりと開かれた。しかし中を伺う前に僕達は再び扉の中へ吸い込まれてしまう。

 一瞬意識が落ちていたようで目が覚めるとそこは次元の狭間と異なり重力が感じられた。いつの間にか倒れていた体をゆっくりと起こすとどうやら肉体も元に戻っているようで、僕の腰には先程イメージして作り出した二本の剣が掛けられている。

 レヒトの行方が気になり周囲を見渡すとそこには予想外の、異様な光景が広がっていた。


「ソフィア…?」


 僕が倒れていたのは元の世界、アジトの広間だったがおかしな事に世界から色が失われている。そして目の前にいるソフィアは僕の存在にまるで気付いていないようで、手を伸ばすと彼女は幻であるかのように擦り抜けてしまった。


「どうやらまだ完全には戻れていないようだな」


 ふと背後から声がして振り返るとそこには呆れたような顔をしたレヒトが立っていた。


「…みたいだね」


「此処が何なのか見当つくか?」


「恐らく…次元の狭間と元の世界の間…かな」


「はぁ…とりあえず元の世界のすぐ近くではあるんだな」


 正確には本来異世界と元の世界はすぐ近くにあった。しかしその世界間を隔てる壁が厄介なのだ。

 先程レヒトが空間を破壊して行き着いた次元の狭間は言わば全ての世界のプラットホームのようなもので、本来は異世界同士の行き来でわざわざ迷い込むような場所ではない。僕達は目的地である元の世界への入り口を探さなければならなかった為、鍵を持って次元の狭間に入り込むしかなかったなのだ。

 だから今僕達がいる空間は厳密にはまだ次元の狭間とも言えるし、異世界から次元の狭間へ入る時とは逆に、今度は内側から空間を破壊すれば元の世界に戻れる…はずだ。


「もう一度この空間に亀裂を入れられる?」


「そんな事して元の世界に影響はないのか?」


「多分…さっきみたいに少しだけ破壊してすぐに飛び込めば…」


「まったく…異世界間の移動ってのは楽じゃないな」


 愚痴を零しながらレヒトが再び意識を集中しようとした瞬間、突然頭上から光線が降り注ぎ僕達は咄嗟に散開しそれを回避した。


「…上?」


 見上げるとアジトの天井に何ら異変は見当たらないが、それは突然天井を擦り抜けて僕達の目の前に舞い降りてきた。


「はっ、また天使様の登場か」


 剣と盾を携え、背中から大きな翼を生やした天使が僕達の目の前で優雅に浮遊していた。その大きな体は僕達の二倍はあり、目は何処か虚ろながらもはっきりと僕達を捉えている。


「…話し合いで解決は無理そうだね」


「あぁ、まずはこいつを排除してからだ」


 石像のように眉一つ動かさず無表情な顔をしているが明確な敵意を剥き出しにしており、先程の攻撃はこの天使によるもので間違いないだろう。

 敵だと認識を改めると剣を抜き、僕達は左右に散開して構えを取る。


「行くぞシオン」


 そう言って大剣を構えたレヒトは笑みを浮かべ、一気に天使との距離を詰めた。しかしそこから放たれた重い一撃は天使の持つ強固な盾にあっさりと受け止められる。その隙を突いて僕は左右の剣を交差するように切り掛かるが、機敏に身を反転させた天使はそのまま剣を振るいこちらの攻撃も受け止めた。


「思ったよりやるな」


「流石は天使、だね」


 続け様にレヒトは高速の連撃を繰り出すが天使は剣と盾を使い、その巨躯には似合わない素早さで全てを受け流す。しかし防御に集中しているせいで隙が生まれ、そこを突いて僕は背後から切り掛かるが決まると思った瞬間目の前から忽然と天使の姿が消えてしまう。驚いて辺りを見渡すと天使はいつの間にか広間の隅にまで移動していた。


「どうやらあの翼は飾りじゃないみたいだな」


「…相手は本物の天使だからね」


「良いのか、一応お前の元仲間なんだろう?」


「それを言ったらレヒトだってそうじゃないか」


「はっ、確かにな」


 視線を交わさないまま僕達はふっと笑うと同じタイミングで天使の元へ一直線に飛び込む。

 レヒトの知識を得たおかげか、彼が次にどう攻めるかが何となく分かった。だから今度は僕が先に天使の前に立つと反撃する間もない程の連撃を繰り出す。

 案の定僕の攻撃は全て盾で防がれてしまうが、背後にいたレヒトが大剣を大きく振り被ると僕は一瞬攻撃の手を止め体を横に流すように天使の反撃を回避する。


「レヒト!」


「上出来だ」


 前衛を入れ替え天使の前に躍り出たレヒトが振り被った大剣を盾の上から思い切り叩き付ける。その一撃は強固な盾を粉々に破壊し、天使の肩口に食い込んだ大剣はそのまま股間までを斬り裂く。しかし致命傷と思われた傷口から光が溢れると天使はあっという間に再生してしまった。


「普通の攻撃じゃ仕留めきれないか」


 そう言うとレヒトは一度飛び退くと力を溜めているのか集中し始める。

 炎の力が失われた僕に天使を消滅させる術はない。ならば今僕が為すべきはレヒトが力を溜め終わるまで天使を足止めする事だ。

 周囲を満たす殺意に気付いたのか、再生を終えた天使は何もない空間から新たな盾を取り出すとレヒト目掛けて一直線に突進する。しかし僕はその横から飛び込み全力の一撃を天使に叩き込んだ。


「レヒト! 僕が時間を稼ぐ!」


「随分と頼もしくなったじゃないか」


 僕達は一瞬顔を見合わせ笑みを交わすとすぐさま目の前の敵に集中する。

 どうやら天使は僕の事など眼中になく、振り切るようにしてレヒトへ突進しようとするがそうはいかない。一撃目は盾で防がれたが矢継ぎ早にもう片方の剣を振るうと天使はその場で回避し足止めに成功する。そのまま息を吐く間もない連撃を繰り出していると不思議と徐々に戦闘の全貌が見えてきた。

 今までの僕は常に目の前の敵の攻撃と、僅かな隙を見逃すまいと一挙手一投足に集中していた。しかし今は敵の攻撃を予測し、その先の反撃方法までのビジョンが鮮明にイメージ出来る。だからだろうか、僕の攻撃は徐々に天使を追い詰めていた。

 双剣の利点である手数で押し続けていると天使は盾だけでは防ぎきれず攻撃を回避するようになるが、その先に剣を置くように振るうだけで面白いように攻撃が当たる。当然レヒト程の致命傷は与えられず傷口は一瞬で再生するが、それでも十分な時間稼ぎにはなっていた。

 そうこうしているうちにレヒトの準備が整ったようで、ネフィリムを消滅させた時とは比べ物にならない程の強い殺意が空間に充満する。息苦しい圧迫感の中、振り返るとそこには漆黒のもやの中で目から金色の鈍い光を放つレヒトが背筋が凍るような恐ろしい笑みを浮かべていた。


「待たせたな」


「後はよろしく」


 天使の攻撃を回避し盾に足を掛けると逆足で顎を蹴り上げながら旋回して後方へ飛び退く。態勢を崩した天使はすぐさま正面のレヒトを視界に捉えるようとするが時既に遅く、闇に覆われたレヒトは大剣を構えたまま眼前に迫っていた。


「天国に還りな」


 レヒトが大剣を振り抜くと天使は爆散したように一瞬で消滅するが、その余波で空間が激しく振動しついには亀裂が走り始めた。


「や、やり過ぎじゃ…」


「丁度良い、このまま空間も破壊してやる」


 そう言うとレヒトは再び大剣を構え、目の前に走る亀裂目掛けて大剣を突き刺す。するとそこに突き刺さった大剣の先は見えなくなっていた。その様は言葉通り亀裂の中に飲み込まれており、改めて亀裂の先は別の世界に繋がっているのだと実感させられる。


「砕けろ」


 レヒトは力を爆散させるように一気に解放した瞬間、まるで硝子が粉々に砕け散るように色のない世界は音を立てて崩れ去り、目の前には元の色付いた、僕の知る世界が広がった。そしてそれまで僕達にまるで気付く様子のなかったソフィア達が驚いたように振り返る。


「た…ただいま」


 声を掛けると目に薄っすらと涙を溜めたソフィアが一直線に駆け寄り、周囲の目も構わず抱き付いてきた。


「シオン…! おかえりなさい…!」


「ソ、ソフィア…?」


 突然の大胆な行動に戸惑うが、横を見ればレヒトの顔面にはエリスが器用に張り付き、その足元にはヨハネが激しく尻尾を振りながら何度も飛び付いていた。


「レヒトー! レヒトー!」


「ハッハッハッハッ!」


「…殺すぞ」


 エリスに覆われその表情は伺えないが大剣を握り締めていた拳が小刻みに震えている。しかし何か思うところがあるのか、普段ならすぐに引き剝がして壁にでも叩き付けそうな場面であるにも関わらず、レヒトは何故か為すがままにされていた。


「えっと…エリヤから説明は聞いていたんだよね?」


 電話した際にエリヤは全部を話したと言っていたが、神の試練を受けただけでソフィアが此処まで取り乱すのは違和感を覚える。そこで詳しい話を聞いてみるとどうやらエリヤは随分と大袈裟な説明をしていたようで、僕達が無事に戻ってくる可能性は低いように話していた。しかし一歩間違えれば世界に飲み込まれ二度と戻れない危険があった事からあながち的外れでもない。だからと言って異世界での出来事を素直に話すのは憚れた為、適当にお茶を濁すとソフィアはそれ以上追求してこなかった。


「…何はともあれシオンの腕は再生したし、腕前も格段と上がった。これでいつでも攻め込める」


 いつの間にかエリスはレヒトの頭の上に移動していたが、相手するのも面倒なのかレヒトはそれを振り払う事もせず真顔で続ける。中々シュールな光景だが突っ込むのも可哀想な為、その場にいる誰もがあえて気付かない体を装う。


「私も参戦」


 と、そこでエリヤは無表情のまま手を挙げとんでもない事を言い出す。予想外の展開に思わず僕達は顔を見合わせた。


「…お前戦えるのか?」


「私だって元は天使」


「で、でも今の君は思念体だから流石に戦闘は…」


「これはただの器じゃない、天から与えられた特別な肉体」


 自信満々そうにVサインを向けてくるがいまいち信じられない。

 誰もがそんな疑惑の目を向けていると不意にエリヤは誰もいない壁に掌を向け、その手に仄かな光が灯る。直後仄かな光は幾何学模様となって浮かび上がり、そこから光線が放たれると轟音と共に壁には大きな穴が空けられていた。


「…ね?」


「…オーケー、とりあえずお前も二度と室内でビームを撃つな」


 レヒトはうんざりした表情でそう言うとエリヤは不思議そうな顔で頷く。するとその時、空いた穴の先から突然ヴァンパイアの叫び声が聞こえてきた。


「シュタルゲイナァー! しっかりしろぉ!」


 見れば今の攻撃で崩れた瓦礫に潰されたヴァンパイアが血塗れで倒れており、もう一人のヴァンパイアが必死の形相で呼び掛けている。


「た、大変…!」


 ソフィアはすぐさま瓦礫に潰されたヴァンパイアに駆け寄ると自分の腕を切り裂き、溢れる血を口元に流し込む。すると瀕死だったヴァンパイアはすぐに目覚めた。


「はっ…この熟成しきった深みのある、芳醇なワインのような甘みと癖になる鉄分の味わいある至高の血はまさか…まさかソフィア様の…!?」


「え、えぇ…安心して下さいね、既にヴァンパイアのあなたに私の力が混ざる事はないから…」


「あ…あぁ…マッキンリー…これは夢だろうか…? ソフィア様の血が…我が肉体に…! うおぉぉぉっ!」


「おおおお、おのれシュタルゲイナー! 羨ましい奴め! 俺にも寄越せ! このっ!このっ!」


 マッキンリーと呼ばれたヴァンパイアは突然シュタルゲイナーの上に馬乗りになると迷わず口を重ねソフィアの血を味わおうとする。

 ちなみに此処のヴァンパイアは滅多に力を使用する機会がなく、吸血が必要になる事はあまりないそうだ。稀に吸血衝動に襲われた際は動物の血で代用しているとの事だったが、やはり本能としては人の血が最も好ましいのだろう。ただそれが神のように崇拝しているソフィアの血となれば、これまでの団員の様子を顧みると彼等がおかしくなるのは必然である。

 …かと言って屈強な肉体の男が重なり合い、貪るように唇を奪う姿は見ていて決して気持ち良いものではない。見ればソフィアはそんな二人から一歩引いた場所でどうすれば良いか分からずに狼狽えていた。


「えぇと…その…」


「…放っておいてやれ、ヴァンパイアの悲しき性だ」


「ひゃあぁぁ…レ、レヒト…私何か新しい世界に目覚めそうです…!」


「やめろ、そしてお前はいつまで人の頭に乗ってるんだ」


 ようやくレヒトはエリスの頭を鷲掴みにすると勢い良く壁に投げ付けるが、衝突する直前でエリスは大きな翼を羽ばたかせふわりと宙で停止した。


「…ほう?」


「ふっふっふ、何度も同じ攻撃は食らいませんよ」


「…エリスって本当に女神だったんだね」


「なー!? シオンさん何を仰いますか!?」


 思えば彼女が平常心を保った状態で浮遊している姿を見たのは初めてだけど、どうにも今まで見てきた天使や悪魔のような威厳や威圧感がまったく感じられず、本当に女神なのかと疑いたくなる。


「…イラつく姿ね」


「セリアさんまで!?」


「はは…」


 僕達が神の試練を受けてからこちらでは大した時間が経っていない。しかしこんな穏やかな空気が久しぶりに感じられ、心から笑みが零れた。横を見ればレヒトも似たような心境なのか、今まで見た事のないぐらい穏やかな表情を浮かべたまま室内を飛び回るエリスをヨハネと共に見守っている。

 いつまでもこんな時間が続けばいいのに…そう願わずにはいられなかった。しかしその時、無表情で何処か気の抜けた顔をしていたエリヤの表情が珍しく強張っているのに気が付く。


「…エリヤ、どうしたの?」


「神様からの…お告げ…」


 そう呟くとエリヤは北側に体を向け、何かを見透かすように遠くをじっと見詰める。


「マルス…あなたは新たな真実を識った」


「何の事だ?」


「…接続先」


 その言葉に珍しくレヒトが動揺する素振りを見せるが、僕達には何の事か分からない。


「…何故お前がそれを知っている?」


「全部知ってる。向こうで何が起きたのか、何を選択したのかも」


「いよいよ本格的なストーカーだな」


「ストーカー…電波野郎の方が好き…」


「…それはどうでもいい。それで俺が新たな真実を識った事がどうした?」


「…ルシファーに気付かれた。ううん、きっと彼は識っていた。だからヘルゲートの解放を早めた」


 エリヤのその言葉に室内にいた誰もが凍り付く。ヘルゲートの解放を早めた…確かに彼女はそう言った。


「エリヤ、それはどういう…」


「悪魔の召喚が始まった」


「そんな…何でいきなり…」


「だから、マルスが新たな真実を識ったから」


「レヒト、新たな真実って…?」


 しかしその問いにレヒトは苛立たしそうに口を噤んだまま何も答えない。一体何の事か分からないが、エリヤの言っている事が本当ならセインガルドにとうとう悪魔が現れたという事だ。

 するとその時、それを裏付けるように血相を変えたクロフトが慌てた様子で広間に駆け込んできた。


「た、大変だ! セインガルドに悪魔が現れた!」

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