Episode52「統合」

 エリス、俺の大切なエリス。首だけになっても彼女の美しさは何一つ失われていない。

 俺は震える手で硝子越しにエリスに触れる。


「あぁ…これが嘘であって堪るか…」


 もし本当に神がいるのなら、世界を破壊しエリスを殺した神を俺は絶対に許さない。神の奇跡に頼りはしない、この手で必ずエリスを蘇らせてみせる、あの日俺はそう胸に誓った。

 エリスの復元、それこそ俺の命題である。

 だから目の前で眠る彼女まで嘘にはさせない、何を言われようと俺はエリスを信じる。それこそ俺が俺である証明だ。


「あぁエリス…エリス…お前は本当に美しいなぁ…必ず蘇らせてやるからな…」


 シモンやサラを失って、エリスまで奪われてなるものか。これ以上神の掌で思うまま弄ばれるなんて真っ平御免だ。


「待ってて、すぐに助けるから」


 少年のそんな声が耳に届くが知った事か。俺を救えるのはエリスだけだ。エリスこそ俺が俺である唯一の証拠であり、最期の心の拠り所なのだ。だから彼女を救えるのなら悪魔にだって喜んで魂を売ろう。


(そうだ…)


 現に俺は天上ではなく、地獄の奥深くへ接続されている。だから神へ反逆の姿勢を示す限りこの力は無限に引き出せる。


(…何だそれ?)


 地獄と接続?

 シモンやサラって…誰の事だ?

 とうとう俺の頭はイカれてしまったようだ。少年の話を聞いてから何かがおかしくなっている。

 でも大丈夫だ、どんなに狂おうとエリスの事だけを想えば何の心配も要らない。


「は…ははは…そうだ…エリス…エリス…お前さえいれば…」


 惑わされるな。エリス想う故に我あり、この想いまで嘘とは言わせない。

 そう思うと途端に気が楽になり、不思議と体にも力が漲ってくる。


 ふと少年がコンソールパネルを操作している事に気が付くが、どうやら勝手にゴミ箱を開こうとしているらしい。

 あの中には愛しくも悲しい失敗作と忌々しい『アレ』が隠されている。俺はもうレヒトではない、元に戻ってなるものか。これ以上俺の世界を犯す者は何人たりとも許さない。


「やめろおぉぉぉ!!」


 怒りのままにその場を蹴って突進し、思い切り拳を顔面に叩き込むと少年の体は弾けたように壁にめり込んだ。


「これ以上俺のエリスを穢すな…!」


 こいつは敵だ、敵だ、敵だ、敵だ。俺を壊し、世界を壊し、エリスを壊そうとする敵。神や天使よりもまずこの穢らわしいヴァンパイアを排除しなければならない。


『そうだ、全てを滅ぼせ』


 誰かがそう囁くと身体中に感じた事のない、しかし何処か懐かしい力が満たされていく。

 声の主が何者かは分からないが力を与えてくれるのならそれが悪魔であろうと構わない。この力があれば目の前の敵だって排除出来る。ゴミ箱で眠る忌々しい記憶を掘り起こさせてなるものか。誰であろうと失敗作とは言えエリスの断片には指一本触れさせやしない。


「…どうやらそこに最後のピースが眠ってるみたいだね」


 何かを覚悟した表情で少年は真っ向から構えるが、自称ヴァンパイアの化け物だろうと今なら負けない自信がある。


「力付くでも…あんたを元に戻してやる」



(永遠に続く苦しみと恐怖を知らないガキが…知ったような口を利くな)


 此処でこいつを殺せばもう誰も邪魔をする奴はいなくなる。守るんだ、俺の世界を、エリスを。

 じっと出方を伺っていると少年は一瞬で間合いを詰め拳を振り抜いてくる。俺はそれを本能のままに回避するとがら空きの顎目掛けてアッパーを放った。


「っ…!」


 しかし流石と言おうか、絶対に当たると思われた一撃は紙一重のところで回避されてしまう。すかさず追撃を放つがそれを少年は片手で簡単にあしらい、流れるような動きで旋回すると裏拳を放ってきた。

 その瞬間、脳から信号が送られるよりも早く体が勝手にその場でしゃがみ込むと攻撃を回避していた。そこで少年の腰が目の前に見えた俺は咄嗟に掴み掛かる。このまま持ち上げて頭から地面に叩き付けてやろうと少年の体を持ち上げるが、背中に重い拳がめり込むと逆に地面に叩き付けられた。

 倒れたままのところへ拘束が解けた少年は容赦無く蹴りを入れ、俺は勢い良く顔面を吹き飛ばされる。その威力で無理矢理体を起こされるが、すかさず体を旋回させ回し蹴りを少年のガードの上から叩き込む。すると衝撃を吸収しきれなかった少年の腕はへし折れ吹き飛んでいくが、器用にも空中で態勢を整えると少年は音もなく足から壁に着地した。

 この程度で殺せるとは思っていなかった俺は間髪入れずに追撃を入れようと飛び込み、少年も壁を蹴り上げると真っ向から迎え撃つ。

 一撃で頭を粉砕するつもりで思い切り拳を突き出すが自由の効かない空中で少年は器用に体を捻って回避すると、がら空きになっていた俺の脇腹に蹴りを入れられる。直後俺の時間だけが止まったように滞空し、その間に着地した少年は四肢に力を込めてこちら目掛けて飛び込んできた。


「…ごめん」


 そう呟きながら振り抜かれた拳は一撃で俺の意識を断ち切り視界が暗転する。


(何故だ…力を手に入れても…俺には何も守れないのか…?)


 いや違う…俺は何処かで間違えてしまった。これは本当の俺なんかじゃない。


 気が付くと俺は薄暗い森の中にいた。見覚えはあるがこんな場所は知らない。


(…何だそれ)


 歩き出す勇気もなく、その場にしゃがみ込むと俺は膝を抱えて震えた。


「エリス…何処にいるんだ…。俺を…一人にしないでくれ…」


 俯いていると足元に止めどなく涙が零れ落ちる。


(俺は…なんて弱いんだ…)


 己の無力さを嘆いているとふと背後から誰かの気配を感じ取り、振り返るとそこには全身黒尽くめのロングコートを羽織った俺がいた。


「まさか…俺なのか…?」


「そうだな、俺はお前で、お前は俺だ」


 そう言う俺は不遜な態度で腕を組んだままふんぞり返る。


「はは…夢にしてはリアルだな…」


「はっ、こんなのが俺だなんて勘弁してくれ」


「…どういう意味だ?」


 明らさまに挑発してくる自分に腹が立ってくる。今まで知らなかったが俺はこんなにも人をイラつかせる顔をしていたのか。


「お前は俺の心の弱い部分が増長して作られた存在だ」


「何だと…?」


「情けない話だが心に生まれた隙を自称天使に付け狙われた」


 まただ、どいつもこいつも神だの天使だのいい加減にしてくれ。これが夢なら早く醒めて欲しい。


「シモンもサラも俺のせいで死んだ。その自責の念は二千年経った今も消える事は無かった」


 そんな連中の名前は知らない…知らないはずなのにまた胸が騒ついた。

 まさか俺にそっくりなこの男が少年の言っていた…


「お前がレヒト…なのか…?」


「あぁ、シオンが言っていた殺し屋だ」


 何故その事をこいつが知っている?


「そりゃ俺はお前でもあるからな、お前が見て考える事は全て筒抜けだ」


「そんな馬鹿な…」


「人形遊びなんてふざけた趣味を作りやがって…俺のイメージが台無しだ」


 そう言ってこめかみをひくつかせる男は自分とは思えない程の悪人面をしている。


「悪人面って…失礼な野郎だが間違いなく俺はお前だよ。だからお前のやってきた事は他にも全部知っている」


(…ストーカーめ)


「誰がストーカーだ。こっちだって別に好きでやってる訳じゃない。体をお前に乗っ取られてるんだから不可抗力だ」


 心の中で呟いたがどうやら本当に俺の考えている事が分かるらしい。心底面倒臭そうに溜息を吐く男だが、これが俺だなんて信じたくなかった。

 しかし仮にこいつが俺で、俺の考えている事が全て筒抜けなら何故こちらにはこいつの考えている事が分からない?

 どうやらその疑問も勝手に伝わっているようで男は説明し難そうに困り顔を浮かべる。


「あー、何だ、例えるなら俺は今お前の中に閉じ込められている。だからお前の事は全て分かるんだよ」


(…いちいち人の心を覗くな)


「不可抗力だって言ってるだろ。で、お前は俺を知る鍵がないから俺の思考や記憶が分からない」


「鍵だと?」


「あぁ、俺が見てきた中でお前が俺を知る鍵は二つある。一つはあの、何て言うんだっけか。ごちゃごちゃした機械の中にあったな」


「機械の中…?」


「後はそうだな…俺の愛剣なんかも鍵になりそうだ」


「愛剣…?」


 この文明社会で本物の剣なんて所持していれば真っ先に捕まるし、そんな物は映画などの映像でしか見た事がない。それに世界が崩壊した今でこそ刃物は脅威だが、それまで武器と言えばレーザー銃が主流で剣など話にならなかった。


「覚えてないのか? 十数年前に捨てて今もお前の言うゴミ箱で眠ってるぞ」


 何故かすっかり忘れていたが、言われてみればクローンの失敗作に襲われた時に剣のような物を見た気がする。まさかあの奪われた大剣がこいつの言う愛剣だったのだろうか。

 しかし思い返してみると確かに何故あんな物がその辺に転がっていたのか不可解だ。同時に今の今まで何故それを疑問に思わなかったのかも分からない。


「お前の思考は伝わるがどうにも理解は出来ないな」


「安心しろ、理解して欲しいとも思ってない」


「あぁ、俺も理解しようとは思ってない」


 いちいち癪に触る野郎だ。しかしこいつが俺なら、何故今頃になって目の前に現れたのだろうか。


「さぁな、その辺は俺にもよく分からない。ただ何者かが間接的に介入したようだ」


「どういう事だ?」


「さっきお前に囁いていた声…恐らくそいつのせいじゃないか?」


 言われてみれば確かに何か聞こえた気がするが、何を言われたのか内容はまったく覚えていない。


「俺の接続先は地獄か…洒落にならんな」


 そう言ってレヒトは忌々しそうに吐き捨てる。その言葉の意味は分からないがどうやら状況は芳しくないらしい。


「真偽はどうあれまずは体を返してもらおう」


「体を返す…?」


 冗談じゃない、俺にはやらなければならない事が、エリスを復元するという崇高な使命がある。こんな奴に乗っ取られて堪るか。


「ふざけろよ、あんな誰の物とも知れない生首を崇めるサイコ野郎が」


「お前も…俺のエリスを否定するのか…」


「馬鹿言うな、お前の目にはエリスに写っているようだが、そもそもアレはエリスでも何でもない」


 そうか、よく分かった。こいつも敵だ。エリスを否定する存在は全てが敵だ。


「やれやれ…俺の分身とは言え見てて痛々しいな」


「黙れ…殺してやる」


 立ち上がり正面から睨み付けるが、レヒトは飄々とした態度を崩さず馬鹿にしたような笑みを浮かべた。


「威勢だけは良いな。良いだろう、相手してやるよ」


 そう言ってレヒトは構えるが、すぐさま何かに気付いたように構えを解いた。


「…その前に客人だ」


 どういう事だ…そう思っているとレヒトは口元を釣り上げ何処か楽しげに呟く。


「お前の言う悪魔とやらの到来だ」


 まさかそんな…悪魔だと…?

 しかしその疑問に答える事なくレヒトの姿が薄れて行き、まるで夢から醒めたように目覚めるとそこは先程少年にやられた時と変わらないラボだった。

 その瞬間、地鳴りのような音と共に室内が大きく揺れ、俺は慌てて体を起こす。


「悪魔だ…」


 この振動はよく知っている。これはレヒトが言っていたように紛れもなく悪魔によるものだ。悪魔の到来を確信すると脳に刻まれた悪夢が掘り起こされ、体が勝手に震え始めてしまう。

 今まで悪魔の接近を感じた事はあったが、この振動から推測すると悪魔はかなり近くまで来ている。


「まさか…ネフィリム…?」


 そういえばこいつは悪魔をネフィリムと呼んでいたか。

 少年はその場でじっと考え込み始めると何かを決意したような表情を浮かべた。


「…させるものか」


 そう呟き、立て掛けられていた大剣を手に取ると少年はそれを俺の目の前に突き立てる。


(これ…は…。いつの間に…?)


 間違いない、レヒトが言っていた愛剣とはこいつの事だ。見ればゴミ箱に捨てられていた失敗作は跡形も無く消え去っていた。


(まさかこいつが…一体どうやって…)


 そんな事を考えていると少年はとんでもない事を提案してきた。


「戦おう、マルス」


 一瞬少年が何を言っているのか理解出来ず開いた口が塞がらない。

 戦う? 誰が? 何と?

 まさか俺にこの大剣を使って悪魔と戦えとでも言うのか?


(馬鹿な…そんな真似出来るはずが…)


 しかし少年の目は相変わらず真っ直ぐで、とても冗談を言っているようには見えない。


「悪魔と戦う…? 正気かお前」


「正気だよ。そして僕達二人ならネフィリムにだって負けやしない」


「ネフィリム…それが仮に神と人間の間に生まれた存在だとして、ヴァンパイアと人間に何が出来る?」


 徐々に揺れが強くなり、嫌でも悪魔の接近が感じ取れる。どういう訳か、どうやら悪魔はこちらに向かってきているようだ。


「僕はかつて天使だった。そしてあんたはかつては神の眷属…戦神マルスだ。力を取り戻せば取るに足らない相手だよ」


 こいつが…天使…?

 そして俺は殺し屋ではなく戦神…?

 話が飛躍し過ぎて何を言っているのかまるで理解が追い付かない。さっきまで自分をヴァンパイア、俺を殺し屋だと言っていたのに今度は天使と戦神だと?

 今になっていきなり何を言い出すのかと混乱するが、それ以上考える暇もなく突然天井を何かが突き破ってきた。

 状況が飲み込めず混乱するが、よくよく見ると天井を突き破ってきたそれは巨大な拳。この大きさは間違いなく悪魔のものだ。しかし何故悪魔が此処にピンポイントで攻撃を?

 益々混乱し現実味のない光景を前に啞然としていると、突き刺さったままの拳がゆっくり引き抜かれ上階からエリスが何人か落ちてくる。そして天井に空いた穴からは目に光のない悪魔の顔が覗けた。


(あぁ…あの時と同じだ…)


 本当に悪魔が現れてしまった。現実から目を逸らすように俺は落ちてきたエリスの安否を確かめるが、それは物言わぬただの人形のようにピクリとも動かなかった。


「おいエリス…しっかりしろ…死ぬな…」


 声を掛けても反応がない。そんな俺を無視して少年の冷静な声が耳に届いてくる。


「マルス、あんたがエリスを奪ったジハードを本当に憎んでいるのなら戦えるはずだ」


 少年が何か言っているがもう何も聞きたくなかった。


「…ダイレクトインストールの中にロストメモリーってファイルがある、戦う気があるならそれをインストールしてくれ」


 最後にそう言い残すと少年はその場で飛び上がり無謀にも正面から悪魔に挑むが、巨大な拳をその身に受けすぐさま視界から消えてしまう。あいつ本気で悪魔と戦うつもりなのか?


(無理だ…勝てる訳がない…)


 震える手でエリス人形の頬を撫でるとそれまでピクリともしなかったエリスの目がゆっくりと、弱々しく開かれた。


「エリス!? おい、しっかりしろ!」


『このままじゃ…駄目です…』


「待ってろ、今すぐ治療してやるからな!」


『あなたは夢から…醒めないと…』


「何を…言ってるんだよ…?」


『今まで…ありがとうございました…。あなたの愛は…伝わってますから…』


 にっこりと微笑むエリスだがその言葉の意味が分からない。


『自分を…取り戻し…て…』


 しかしそう言い残すとまるでゼンマイの切れた人形のようにエリスはピタリと動きを止めてしまった。


「エリス…」


 自分を取り戻して…エリスは確かにそう言った。まさか本当にさっきの夢に出てきたレヒトが…本物の俺なのだろうか。

 少年が突き立てた大剣を見やる。

 レヒトは夢の中で鍵は二つあると言っていた。その一つ、愛剣と呼んでいたのはこの大剣で間違いない。

 そしてもう一つは少年も言っていたダイレクトインストールプログラムに入っていた謎のファイル…ロストメモリーとかいうファイルだろう。

 この二つが揃った時、俺の体はレヒトの物となる…そんな気がする。しかし今もナノマシーンで浮かぶエリスの首を見ると決心が鈍ってしまう。少年もレヒトも、これはエリスではないと断言していた。ではこれは一体何なのだろうか?

 俺が俺である証拠…しかしその俺がそもそも偽物だったとしたら…。

 その時、空気が振動する程の巨大な咆哮が聞こえてきた。どうやら少年はまだ死んでいないらしい。


「エリス…俺は…」


 もう一度エリス人形に目をやるとそれは嬉しそうな笑顔をしており、それを見て俺はようやく決心する。

 もう細かい事を考えるのはやめだ、とにかく今はエリスの最期の願いを叶えてやろう。その結果俺が俺で無くなっても、エリスがそれを願ったのならきっとその選択は間違いじゃないはずだ。

 ダイレクトインストールを起動しようとするとどういう訳かプログラムは既に起動しており、ロストメモリーファイルが途中までインストールされた形跡があった。そのおかげでインストールの準備はすぐに整う。


「まさか…あのガキ…」


 一体何の為に…そう思ったがもしかしたら俺にインストールさせようと先に自分で検証したのかもしれない。それにしても内容の分からないプログラムを自らの身で試すとは命知らずな奴だ。しかしその心意気は買わねばなるまい。


「…上等だ」


 椅子に腰掛けデバイスを音声入力に切り替えると念の為椅子に備え付けられていた拘束具で自分の体を拘束する。

 本当にレヒトが本物で、俺が偽物だったらこの世界も見納めになるかもしれない。俺は最後にラボを見渡すとナノマシーンに浮かぶエリスやエリス人形達の姿を目に焼き付ける。そして一度深呼吸するとゆっくり目を閉じインストールを開始した。


「インストール…スタート」


 デバイスが低い唸りを上げるとロストメモリーの内容が一気に流れ込み始める。その情報量は想像を絶しており、脳が軋みを上げ身体中がバラバラになるような錯覚を覚えた。凄まじい激痛に身体が暴れ出すが、暴れれば暴れる程拘束具が肉に食い込んでいく。


「ぐああぁぁぁっ!!」


 二千年もの苦悩と恐怖、そして受けてきた痛み全てを味あわされ俺は何度も死を繰り返す。それでも死ねない恐怖は味わった者にしか分からないだろう。生きながらにして死ぬという理解を超えた苦しみ、そしてそこから無理矢理覚醒させられる恐ろしさに俺は涙を流していた。

 そうして繰り返し意識を失っては目覚めていると徐々に思考や感覚が失われ、まるで廃人のように淡々と記憶の洪水を受け入れていく。するといつの間にか意識が完全に落ちていたが、目を開くとそこは変わりないラボだったもののいつもと何かが違って見えた。


「…妙な気分だな」


 マルスとしての俺が失われた訳ではない。しかし明らかに先程までの俺とは違う。

 ふと足元に転がっている人形に気が付くが、それはエリスを真似ただけの滅茶苦茶な出来栄えをしたガラクタだった。どうやら自分を取り戻した事で世界への認識が変わり、見える世界までもが変わったようだ。

 改めてこんな物を今まで愛でていたとは我ながら恐ろしい。とは言え俺が自分を取り戻すきっかけとなったのはこいつのおかげだろう。


「ありがとよ、感謝はしておく」


 拘束具を外して人形の元へ歩み寄ると俺は感謝の気持ちを込めて頭を撫でてやる。そしてナノマシーンに振り返ると予想通り、そこに浮かんでいた首はエリスのものではなくなっていた。ただ酷く破損したその醜い面には見覚えがある。


「そうか…全部お前の仕業か」


 シオンが突き立てた愛剣を手に取ると生首を睨み付ける。すると今まで一度も開かれた事の無かった生首の目が開かれ、ニヤリと気味の悪い笑みを浮かべた。


「よくもやってくれたなクソ天使が」


 ナノマシーンに浮かぶ生首は何度も俺の前に現れ、自らを天使と呼んでいた醜悪な女のものに変化していた。


「自分を取り戻してしまったのね、でも駄目よ。アナタはこの世界で朽ち果てるの」


「悪いがこれ以上寄り道をしている暇はない」


「うふふ…アナタに私は殺せないわ」


 こいつは何か勘違いしているようだ。確かにアザゼルのような悪魔の眷属や、自称天使を含む本来地上に存在しない連中は楽には殺せないだろう。しかし俺が今までこいつを仕留め損なったのには理由がある。それは俺の中でこいつがそういった『あちら側』の存在であるという概念が抜けていたからに他ならない。奴等には奴等の殺し方があるのだ。

 俺は床から殺意の棘を突き上げるとそれはナノマシーンを貫き生首の片目に突き刺さった。


「ひ…ひぎぃぃぃ!」


「本当ならたっぷりお仕置きしたいところだが生憎と時間がない」


「マ…マルス…許さないぞ…父はお前を決して…」


 言い終わる前に殺意の塊をぶつけるとナノマシーンは爆散し生首は跡形もなく霧散した。


「天使はさっさと天国に還りな」


 こいつが本当に天使だとしても神の意図など知った事じゃない。シオンと同じく俺には俺の為すべき事がある。

 背中の鞘に大剣を収めると自分の服装が普段と同じ、異世界に飛ばされる前の物に戻っている事に気が付く。シモンやサラの記憶を利用されあっさりと心が破壊されたのは情けない限りだが、とにかくこれで全て元通りだ。


「はぁ…しかしなぁ…」


 まさかこんな所で俺の接続先が地獄だなんて情報を得られるとは思わなかった。今まで天上から引き出していると思われたこの力が寧ろ真逆の、地獄と繋がっていたなんて誰が予想しようか。

 俺の力がルシファーによって接続を許可されているのなら、それは最早悪魔と変わらない存在だ。やっと俺もかつては天上の存在であったと認めたのに、今度は力の根源が悪魔と同じだと言われてもそう簡単には頷けるはずがなかった。

 ただ考えてみると神と悪魔、俺はどちら寄りに見えるかと尋ねればきっと誰もが後者と答えるに違いない。だったらもう面倒だし、悪魔だろうと何であろうと構わない。どちらにしても俺は俺の思うままにやらせてもらうだけだ。

 ルシファーがどういうつもりで俺に接続を許可しているのか、そして何故天上の存在だったはずの俺が地獄に接続されているのか。その理由はまるで分からないが、とにかく力を与えてくれるのならせいぜい後悔させてやる。


「さて、とりあえず呪われし神の子を血祭りにあげるか」


 一先ずネフィリムを処分してから今後の事は考える事にしよう。あそこまで巨大な化け物を相手にするのは初めての経験だが、久しぶりの戦闘に気分が高揚しどうにも抑え切れない。

 堪らずにその場で飛び上がると穴から抜け出て周囲をぐるりと見渡す。すると少し離れた場所で数体のネフィリムを相手に奮戦するシオンの姿を捉えるが、その動きは俺の知るシオンのそれを遥かに凌駕していた。


(まさかあいつ…俺の戦い方を覚えたのか?)


 気のせいかもしれないがシオンの戦い方は何処となく俺に似ているように感じた。

 しかし本当にあいつがダイレクトインストールシステムを介して少しでも俺の記憶に触れたのなら、俺の戦闘技術の幾つかを習得していても不思議はないのかもしれない。ただ記憶を覗かれたと思うとどうにも落ち着かなかった。


「…まぁ稽古の手間は省けたな」


 あいつには借りを作ってしまったし、この際細かい事は気にしないでおこう。それに何はともあれあいつの腕が格段に上がったのならありがたい話である。ただ俺の接続先が悪魔と同じ地獄だったと判明した件については少し考えねばなるまい。着地するとシオンが命懸けで戦っているのを尻目にその場で俺はじっと思案する。

 まずサリエルの言っていた通り、力を行使し続けたらどうなるかはエリスやシオンも含めて誰一人として未だ分かっていない。ただ地獄に接続された俺が今もこうして力を行使出来るという事は、ルシファーにとって何かしらの益があるとしか思えなかった。

 敵である俺に加担する詳しい理由は分からないが、少なくとも敵にとって俺には利用価値があると推測出来る分、意図がまったく読めない神に比べれば幾分か気が楽だ。要は俺の場合、力を使用し過ぎると何かしらルシファーにとって有益となる可能性がある訳で、だったらそうならないよう気を付ければ良いだけの話だ。勿論実際はそう簡単な話ではないだろうが、何れにせよ接続し過ぎるとどうなるかまったく分からない状況に比べれば接続への抵抗は減ったと言えよう。

 俺は力を使用する事への抵抗が薄れ、シオンは俺の戦闘技術の一端を体得した。思わぬ形でお互いレベルアップに成功したようだし、これでルシファー達と戦う準備は万全だ。

 そうなると後はこのクソみたいな試練をさっさと終わらせて元の世界に戻るだけである。


「さて、それじゃそろそろ暴れさせてもらおうか」


 溜め込んできたものを爆発させるように思い切り地面を蹴り上げると激しい粉塵を巻き上げながら一瞬でシオンの元へ辿り着いた。


「レヒト!」


 そんな俺の姿にシオンはいち早く気が付き声を上げる。


(やれやれ、嬉しそうな顔しやがって)


 悪いが男に熱烈な歓迎をされても嬉しくない。

 返事として大剣を抜くと、ネフィリムの股間から頭を一直線に斬り上げて真っ二つに引き裂いた。


「待たせたな、殺し屋復活だ」

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