Episode43「自己証明」

 長い夢から覚めると目の前には見覚えのない赤黒い天井が広がっていた。何か重要な夢を見たような気がするけど、その内容はまるで思い出せない。そんな事より妙に体が気怠くて不快だ。いつの間にか僕はベッドで眠っていたらしく、朦朧とした意識のままゆっくりと上半身を起こす。

 そこは一面赤黒い空間の病室。ミニテーブルの上には見舞いの品として贈られた赤黒い果実の詰まったフルーツバスケット。そして腕に刺さったままの点滴針。何だか今日はいつもより世界が濁って見える。

 そんな事をぼんやり考えていると病室の扉が開かれ、真っ白な服に身を包んだ女性が現れた。


「おはよう志音しおん君、気分はどう?」


 シオン…彼女は確かに僕をそう呼んだ。でも何故だろうか、彼女を見た途端に目覚めてから感じていた違和感が和らいだ。僕は彼女の事を知らないけど、彼女は僕の事を知っている。

 この微かな違和感の正体は何だろう?

 彼女が口にした『シオン』という名前が引っ掛かる。しかしそれが違和感の正体かと言われるとそれも違う。


(何か…何かが根本からおかしい)


 返事もせずに思考を巡らせていると女性は不思議そうな表情を浮かべていた。


「あ、おはようございます」


「ふふ、まだ寝惚けているのかな?」


 彼女は敵なのだろうか?

 それ以前に僕は何だっけ?


「あの…あいつは?」


「あいつ?」


 誰だっけ?

 僕は何を言いたかったんだっけ?


「…それより僕を此処から出してよ」


 そうだ、とにかく僕は此処から逃げ出したい。でも何でだろう、何かしなきゃいけない気がするけどそれが何か思い出せない。


「もうすぐ退院出来るからもう少し頑張ろう?」


 あぁ、そっか、僕は今入院しているんだった。でも何故?


(違う…)


 おかしい、僕は入院なんてしてない。そもそも僕の記憶に中に当たり前のように存在しているこの女性は誰だ、僕はこんな人は知らない。


「違う…こんなの違う!」


 咄嗟にベッドを飛び降りて病室から逃げ出すが、病室の外は色が無くノイズで歪められた空間が広がっており、異様な風景に思わず足が竦む。


(…この前はあっちに行ったんだ、なら今回はこっちだ)


 震える足で前回とは逆の通路を我武者羅に走り出すが、僕は何で逃げているのだろうか。理由は分からないけどそうしなければいけない気がする。

 曲がり角を曲がるとそこには男が立っていた。


「おはよう志音しおん君、朝から元気だね」


「おはよう…ございます」


 違う、僕はこんな男など知らない。この人も僕を『シオン』と呼ぶけど違う、僕はシオンだ。


「どうしたんだい、まるで化け物でも見たように口をパクパクさせて。悪い夢でも見たのかな?」


 化け物なら今目の前にいる。悪夢なら今まさに見ている最中だ。

 男の顔面の皮膚は全て剥がれ落ち、剥き出しの血濡れた筋肉が曝け出されている。更に白い病衣から覗く胸元にはドクンドクンと規則正しく鼓動する真っ赤な臓器。間違いない、心臓だ。最早コレは人間ではない。


「ははは、さてはまた遅くまで本でも読んでいたな」


 同じだ、僕はこの光景を知っている。この後僕は男に質問をしようとして…


「おうとも! 何でも聞いてくれ!」


 突然そう言って笑顔で自分の胸を勢い良く叩く男。

しかし勢い余ってまたもや自らの心臓を叩き潰してしまい、まるで風船が割れたように血が飛散し僕の体に降り掛かる。


「まさか…これは…」


 血の海に沈む男を無視して再び走り出すと警備員が現れるが、僕が何をする訳でもなく警備員は何かを独り言のように呟き、突然その両手が粉砕すると胴体も爆散した。

 隅に目をやると自らの足を食す女がいたがそれも突然頭部から燃え始める。


(…同じだ)


 この世界は繰り返されている。そして徐々に僕の記憶を、精神を捻じ曲げようとしている。


(一体何故?)


 僕はこの世界の住人ではない。この世界の倫理も常識も僕には当てはまらない。にも関わらず何かが僕を試すようにこの世界へ放り込んだ。


(そうか…これがあの子の言ってた…試練…)


 見れば僕の失われたはずの腕は赤黒く鬱血し、所々腐食したような植物が生えている。そして両足は誰の物か分からない物にすり替わっていた。


(こんな事をして一体何の意味が…?)


 思考を張り巡らせていると突然両足に炎が灯り徐々に全身へ広がっていく。


(あぁ、きっとまた目覚めたら僕はあの病室にいるんだ…)


 ヒトであってヒトでないものが蔓延る世界。しかしそれはこの世界に於いてのヒトであり、その価値は無に等しい。


 目を覚ますと案の定僕は病室のベッドで仰向けになっていたが、今度は病室から色が失われていた。

 ミニテーブルの上には見舞いの品として贈られた無色のフルーツバスケット。そして腕に刺さったままの点滴針。今日はいつもより頭が冴えている。

 そう思っていると病室の扉が開かれ、見慣れた女性が現れた。


「おはよう志音しおん君、気分はどう?」


 この時、僕はこの女性に違和感を覚えた。二度繰り返された世界で彼女だけは唯一死んでいない。もし彼女を燃やしたらどうなるだろうか、何かが変わるのだろうか?

 右手に力を込めるとあっさりと炎は灯るが、誰か分からないとは言え介抱してくれていたであろう相手を殺すというのは抵抗がある。

 炎を灯した手をじっと見ていると突然女性は片手で僕の首を鷲掴みにし、信じられない怪力でそのまま持ち上げた。


「駄目よ、その力はこの病室で使っては駄目」


 そう言う女性はいつの間にか骨と臓器だけのおぞましい化け物になっていた。この状態でも臓器が脈動しているというのは余りに現実味が無く、眼窩に収まった剥き出しの眼球がじっとこちらを見詰めている。


「あんたは…誰…なんだっ…」


「天使よ、志音しおん君を担当しているの」


「天使…だって…?」


「あら、もしかして天使はみんな見目麗しいとでも思った? そんなものはヒトが勝手に作り出した幻想よ」


 冗談じゃない、この醜悪な化け物は誰がどう見たって悪魔の眷属だ。


「燃え…散れ…!」


 炎を灯した手で顔面を鷲掴みにすると一瞬にして化け物の全身が炎に包まれる。しかし炎の力が効かないのか僕の首は更に締め上げられた。


「がっ…! はぁっ…!」


「本当に悪い子、先生に治療してもらわなきゃ」


 先生…その存在に僕は酷く怯えていた。

 そうだ、僕が逃げるのはこの世界からじゃない、先生からだ。だから早く治さなきゃ…。


「ぐっ…! ち…がう…!」


「違わないわ、あなたが恐れているのは先生の治療。大丈夫、誰だって怖いわ」


 意思を強く持つんだ。この世界は僕を侵食しようとしている、これは間違いない。

 今だってまたこの世界が僕という存在を飲み込もうとした。しかしこの世界が何であろうと構うものか、僕は生きて…ソフィアを守らなきゃいけない。


「僕には…為すべき事が…ある…!」


 更に力を解放すると炎の柱が立ち昇るが、今度は僕の体まで燃え尽きる事はなかった。


「何を試しているのかは知らない…でも邪魔をするなら…神であろうと殺す」


 化け物の腕を掴み捻り上げると何が面白いのか顎をカタカタと鳴らして嗤う。しかしやがて化け物は灰さえ残さず炎に焼かれ、影も形も無くなると不快な音が止み静寂が訪れた。

 神を殺す…勢いで言ってしまったけど本当にそんな事が可能なのだろうか?

 この炎は神々の眷属さえ焼き尽くす天上の炎。しかし仮に神を焼き尽くしたところで何になる?

 そもそも神は何故今も僕に干渉するんだ?

 エノクの父であるカインが犯した殺人の罪…その贖罪を僕に求めているとでも言うのか?

 しかしどれだけ真理に近付こうときっとその答えは神のみぞ知るところだ。ならばいっそ考えを放棄してみたらどうだろう?


(はは…レヒトみたいだ)


 そういえばレヒトにも僕は考え過ぎだって言われていた。案外このぐらい楽観的な方が人生を楽しめるのかもしれない。これが無限の刻を生きるレヒトが行き着いた答えなら妙に納得もいく。

 少しばかり前向きになると辺りの様子を窺うが、天使と名乗る女性を殺しても病室は相変わらず色の無い世界のままだった。今までと違う選択をしたけど、果たして僕の行動に正解なんてあるのだろうか。そもそも試練といっても一体何を試そうとしているのかが分からないのでは話にならない。

 結局この世界が何なのか、何故僕の意思を飲み込もうとしているのかまるで分からないままだった。

 とりあえず何も起こらないということはまだ試練は終わっていないのだろう。これまで病室内を碌に確かめず逃げ出していた為、今度はまず室内を捜索してみることにした。


「…何だろ…これ」


 鉄製の引き出しを開けてみると中には小物がいくつか入っていた。その中の一つに掌と同じ大きさをした硝子の板のような物体があり、それを恐る恐る手に取るが用途がまるで分からない。ボタンのようなものがいくつかあり、その一つを試しに押してみると突然硝子に不思議な映像が映し出される。


「こ、これは…時計…?」


 映像には何桁かの数字が表示されており、右端の数字は約一秒間隔で増え続けている。更に画面の中にもいくつかのボタンのようなものが現れ、その一つを押そうとすると指が触れただけで勝手に画面が切り替わった。


(よく分からないけど…凄い技術だ…)


 依然この物体が何なのか見当も付かないけど、確かなのはこれは僕の生きていた世界では到底実現不可能な未来の産物だ。だとすればこの狂った世界はまさか未来だとでも言うのか?

 まだ断定は出来ないものの確かめる価値はありそうだ。

 引き出しの中に他にあったのはアクセサリーらしき物が付いた鍵だが、それは僕が知っている鍵よりもずっと複雑な形状をしていた。他には革製の財布と思われる物。中には見た事のない紙幣と硬化が少し入っている。僕はレヒトのように世界中の事は知らないけど、少なくとも紙幣に描かれた絵、そして見た事のない形状の鍵からこの世界は僕の知る世界とはまったく異なるのは疑いようがない。

 他に何かないかと引き出しの奥を覗き込むと見覚えのあるペンダントを発見する。それは見間違えるはずがない。オレンジ色の石…サンストーンがあしらわれたソフィアとペアのペンダントだ。


「何でこれが此処に…?」


 よくは分からないけどやっと見つけた自分が自分である証拠が嬉しくてすぐさま首に通す。


「…あれ?」


 その瞬間、体が全て元に戻っている事に気付いた。失われた腕は知らない化け物の物ではなく確かに自分の物で、両足も見慣れた物になっている。

 理由は定かでないけど、女性を殺した事で自分を取り戻し始めているのだろうか?

 だとすればこの病室の何処かにまだ僕が僕である手掛かりがあるかもしれない。

 この世界は隙あらば僕を乗っ取ろうとしている。その為自我を強く保つ為にも僕がシオンである確たる証拠をもっと集めておきたかった。

 病室内はすっきりとしており、何かを隠すような場所は少ない。おかげですぐに自分の衣服を見つける事が出来た。袖を切り落としノースリーブにした黒いタートルネックシャツに汚れたカーゴパンツ、そして穴が空きそうなブーツ。病衣を脱ぎ捨てそれらを全て身に付けるとようやく自分が現在異世界にいるのだと実感出来た。掌に意識を集中させるとちゃんとイメージ通り炎も灯る。


「よし…」


 これで準備は整った。他に目ぼしい物は見当たらない為、小物を全てポケットに捩込むと一度深呼吸をしてからドアノブに手を掛ける。

 色が失われた世界…果たして次に待ち受けるのはどんな世界だろうか。覚悟を決めると思い切って扉を開くが、想像の遥か斜め上の見慣れない風景に言葉を失った。


 そこは今まで見た病院の通路ではなく、暗雲が立ち込める薄暗い世界で、まるで大戦後のように一面瓦礫の山が広がっている。

 一歩踏み出すと扉は初めから何も無かったように音もなく消え去った。


「此処は…」


 周囲を見渡しても目に入るのは一面に広がる瓦礫の山ばかりで、空を見上げると薄暗い暗雲が何処までも続いていた。

 とりあえず周囲を注意深く観察しながらあてもなく歩き出すものの、何処まで行っても瓦礫しか見当たらない。

 ただ気になるのはその瓦礫の山はソドムで見た物とは明らかに異なる点だ。元々此処がどんな街だったのかは分からないけど、建造物のレベルがまるで違うのは間違いない。

 足の踏み場もない程に辺りを覆い尽くす瓦礫は昔それだけ巨大な建物が此処に存在し、それが破壊されたという証拠に他ならない。そしてそんな巨大な建物が立ち並ぶ街というのは僕のいた世界では考えられない事だ。瓦礫に埋もれている調度品はどれも見た事のない素材で作られているようで、この世界も先程までいた病室のように元々僕がいた世界よりも遥か先を行く文明に思える。

 それにしてもそれだけの文明世界が何故これ程に跡形もなく荒廃してしまったのか。先程の世界もそうだけどこの世界の成り立ちもまるで見えない。


(いや…今はそんな事を考えても仕方ない)


 今最も重要なのは自分を確かに強く持つ事と、一刻も早く元の世界に戻る事だ。

 注意深く周囲を探っていると何処からか微かな物音が聞こえてきた。それまで生命の息吹を何一つ感じ取れなかったが、その正体を突き止める為に急いで音の発生源へと向かうと人影がいくつか見えてくるがどうにも様子がおかしい。

 速度を落として慎重に接近すると物陰に隠れながら少しずつ距離を詰める。そして聞こえてきたのは複数の男達の罵声と嘲笑。男達は誰かを囲んでいるようだが、その中心にいる人物の姿を確かめると衝撃が走った。

 男達に囲まれ頭を庇うように蹲る一人の男性。微かに見えた髪は白に近い金髪で、既に大分手痛くやられたのか全身傷だらけで見ていて痛々しい。しかし理解出来ないのは男は抵抗もせず周囲からの暴力に為すがままにされている。

 違う、僕の知っている彼は大人しくやられるような男じゃない。しかし腕の隙間から垣間見えた横顔は紛れもなくレヒトその者だった。


「弱い者イジメは楽しいなぁ!」


 モヒカン頭の男が鳩尾に蹴りを入れるとレヒトは苦しげな声を漏らし、虚ろな目ではあるが睨み返す。


「お、やるのか? おら来いよ」


 モヒカン頭はその場でしゃがみ込むと自分の頬をちょんちょんと指で突いて挑発し、鬼の形相をしたレヒトはよろめきながら立ち上がると思い切り男の顔面に殴り掛かる。しかし男は死ぬどころかまるで効いていないようでゲラゲラと下品な笑い声を上げるとレヒトの頭を鷲掴みにした。


「何だそれはぁ? いいか、パンチってのはこうやるんだ…よっ!」


 今度は男のパンチがレヒトの顔面にめり込む。普段ならあの程度の攻撃など毛ほども効かないはずだが、男のパンチはレヒトの眼窩を砕き眼球から大量の血が滴り落ちる。その目は血塗れで下手をすれば潰れているかもしれない。


「が…ぐぁぁ…!」


「あーあ、男前の顔が台無しだ」


 周りの男達もその光景を見て笑うと、一人がレヒトの背後から羽交い締めにする。


「こりゃ良いサンドバッグだ」


 すると男達は鬱憤を晴らすかのように次々と殴り掛かる。


(何で…レヒト…)


 レヒトと瓜二つの男は抵抗も出来ずに殴られ続けるが、まさかあれはレヒトではないのだろうか?

 決して男達は強くない、あの程度の相手なら僕一人でも簡単に倒せる。


「テメェら…殺してやる…」


 手酷くやられてもレヒトは強気な態度を崩さず、男の一人の顔面に唾を吐きつけた。


「ほう…珍しく骨のある奴だ」


 男は口元を釣り上げると足元に転がっていた頭程の大きさの瓦礫を拾い上げ、それを思い切りレヒトの足元目掛けて投げ落とす。


「がぁっ…!!」


 足の甲が砕けたのか激痛でレヒトの顔が歪むが決して叫び声は上げようとはしない。しかしその姿を見て周囲の男達も各々適当な瓦礫を拾い上げた。


「さぁて、何処まで耐えられるかな?」


 やはりおかしい、あれはレヒトであってレヒトではない。それにもし彼がレヒトでなくてもこれ以上看過する訳にはいかない。

 僕は物陰から飛び出すと一直線に男目掛けて跳び蹴りを放ち、頭を粉砕すると男は血と肉を派手に撒き散らして崩れ落ちた。


「な…何だテメェは…?」


「その人を今すぐに解放するんだ」


 睨み付けると男達は短い悲鳴を上げて怯むがその怯み方は尋常でなく、正気を失ったように目の焦点がズレていた。


「ひ…ひひひ…悪魔だ…悪魔がやって来た…」


「悪魔じゃなくてヴァンパイアなんだけど…」


 無駄だと分かりつつも弁解すると、男の一人が発狂したように叫び声を上げた。


「悪魔だあぁぁぁ!!」


 直後に持っていた瓦礫を投げ付けてくるが僕はそれをあっさりと回避する。

 一体どうしたというのだろうか。その場にいた男達が全員発狂し襲い掛かってくる。しかしその動きは至って平凡でとてもじゃないけど僕の相手にはならない。

 遠慮無く男達を一瞬にして葬るとそこには足を潰され動けなくなったレヒトと、返り血に塗れた僕だけが残された。


「遅くなってごめん…大丈夫…?」


 しかしその問いにレヒトは何も答えず、光を失った瞳で僕をじっと睨んでいた。


「レヒト…?」


「誰だそれ…。お前は…何だ…?」


 見すぼらしい布一枚を身を包んでいるが声も外見も紛れも無く僕の知るレヒトだ。とてもじゃないけど別人とは思えない。だとすれば…まさか記憶が…?


「僕はシオンだよ。覚えてないの?」


「知るか…悪魔に知り合いなんていない」


 悪魔…彼も僕をそう呼ぶけどこの世界で一体何があったのだろうか。先程の男達の様子からもこの世界がここまで退廃した理由に悪魔が関わっているのは間違いなさそうだ。


「さっきも言ったけど僕はヴァンパイアだ。そしてあんたはレヒト…不死身の殺し屋だよ」


「俺が殺し屋…? そしてお前がヴァンパイア? 笑えない冗談だ」


 そう言うとレヒトはゆっくりと立ち上がり片足を引き摺りながら歩き始めた。


「ど、何処に行くの?」


「…お前には関係無い」


「あんたがレヒトじゃないとしても、そんな怪我人を放ってはおけないよ」


 紛れも無い本心を伝えるがそれを聞いたレヒトは見た事のない鬼のような形相で僕を睨み付けてくる。その瞳から感じられるのは全てを破壊せんとする程の激しい憎悪だった。


「黙れクソガキ…殺すぞ」


 まるで世界の全てを拒絶するその姿に僕は言葉を失ってしまう。

 僕が知っているレヒトは人間を、世界を受け入れその上で人生を謳歌している自由な男だった。それがこのレヒトはどうだろうか、人間も世界も何もかもを憎み、生きる事すら放棄しているように見える。

 一体この世界に、レヒトに何があったのだろうか。


「…今のあんたじゃ僕は殺せないよ」


「…殺してやる」


 背を向けていたレヒトが振り返るとゆっくり手の届く距離までにじり寄り、一直線に拳を突き出してくる。しかしその威力はかつての面影を欠片も感じさせない、赤子のようなものだった。しかし当人は至って本気のようでその姿を前に僕は何も出来ずただ立ち尽くす。


「殺す…殺す…!」


 彼は壊れてしまった。もしかしたらこの世界に飲み込まれてしまったのかもしれない。

 何度も力のない拳が僕の頬を叩くが、それはアンディが死んだ時に彼から受けた拳より軽く、しかし心が痛むものだった。


「もう…止めてよ…」


 気が付けば僕は涙を流していたが、レヒトの攻撃が止む事はない。


「死ね…死ね…死ね…!」


 拳を素手で受け止めると態勢を崩したレヒトはその場で倒れ込む。しかし掛ける言葉が見当たらず、黙って僕もその場に膝を突いた。


「…さっさと殺せよ」


「嫌だよ」


「頼むから殺してくれよ」


「…あんたはこんなところで死ぬ男じゃない」


「お前に…何が分かる」


「この世界で何が起きたのかは知らない…でもあんたはこんなところで燻ってる場合じゃない。待っている人が…エリスがいる」


 エリスの名前を聞いた途端、レヒトの目が驚きに見開かれた。


「エリスを…知っているのか…?」


「え…う、うん…」


「馬鹿を言うな…あいつは間違いなくあの時に…」


 今度はこちらが驚かせられる。その口振りはまるでエリスが死んだようだった。

 まさかレヒトが壊れた原因はエリスの死だとでもいうのか?


「…生きてるよ、間違いなく」


「何でそんな事が分かる?」


「この世界ではどうか知らないけど…僕達が元いた世界では生きている」


 その言葉にレヒトは疑惑の目を向けるが、それまで絶望に支配されていた瞳には微かな光が見えた。


「…どういう事か説明してもらおうか」


「それは構わない…でもまずはあんたの怪我の治療が先だ」


「そんなものはどうでもいい、早く言え」


「嫌だ。応急処置でもいいから終わったら話すよ、約束する」


「約束か…」


 少し考える素振りを見せると何か諦めたような様子でレヒトは渋々承諾する。しかしこの廃墟の何処に治療を施せる場所があるのだろうか。瓦礫を漁っても治療器具がそう都合良く見つかるとも思えない。

 するとレヒトは立ち上がり何処かへ向かって歩き出した。


「今度は何処に行くの?」


「…うちのシェルターだよ、治療が済めば知ってる事を話してくれるんだろ?」


「う、うん…。でもシェルターって…?」


「…お前シェルターを知らないのか?」


 さも知っていて当然といった様子だが、そんな街は見た事も聞いた事もない。


「…まぁいい、少し行った所に住処がある。そこに行くぞ」


 そう言って再び足を引き摺りながら歩き出すが、痛々しくて見ていられなくなった僕は横に並ぶとレヒトの腕を自分の肩に回した。


「…どういうつもりだ?」


「どうもこうも…その足じゃまともに歩けないでしょ?」


「余計な御世話だ」


「早く治療する為にも手伝わせてよ」


「…勝手にしろ」


 こうして話していると僕の知るレヒトと相違ない。ただやはり元のレヒトから何かが欠如している。

 とにかく全てはシェルターに行って治療を施してからの話だ。そこで僕の知っている事を伝えるのは勿論の事、彼が知っているこの世界についても教えてもらう必要がある。


「…それにしても片目を潰されてよくそんなに喋れるね。本当にレヒトじゃないの?」


 男に潰された片目は眼球が破裂しているようで血に混じって見た事のないグロテスクな液体が零れ落ちている。恐らくもう何も見えていないのだろうけど、半目から僅かに覗く潰れた瞳は見るに堪えないものだった。


「どういう意味だ、お前の知るレヒトってのは片目を潰されても平気だって言いたいのか?」


「うん…一瞬で再生すると思う。片腕を自分で切り落として再生してたし」


「…何だそのキ○ガイは」


 言われて確かにと頷いてしまった。忘れがちだけど今の僕の周りには人間を超越した人達しかいない。そしてレヒトはその中でも筆頭の特に異常な存在だ。何も知らない人間が彼の話を聞けばその存在は架空の登場人物か突然変異の怪物か何かに思えるだろう。


「…お前の知るレヒト、そしてお前自身、本当に悪魔じゃないのか?」


「しつこいな…違うってば。さっきの男達も言ってたけどこの世界にも悪魔がいるの?」


「…後で教えてやるよ」


「分かった。ところであんたの名前は? それぐらいなら今教えてくれてもいいでしょ?」


「…マルスだ」


 その名前に驚いてしまうがどうやら本人に自覚はないらしい。動揺を悟られないよう平静を装うが頭の中では様々な憶測が飛び交っていた。

 先程男達に良いようにやられていた事から戦神としての力は失われているようだけど、レヒトそっくりの容姿にマルスという名前…とてもじゃないけどこの出会いが偶然とは思えない。いや、これも神が与えた試練ならば必然と言えるだろう。

 病室で僕を『シオン』と呼んでいた人達と同じなら、この世界に於いてレヒトはマルスであってマルスでない何者かにされているのかもしれない。もしそうならレヒトは自我を失ってこの世界に飲み込まれた可能性が高いが、どうしてもあのレヒトが簡単に飲み込まれるとは思えない。

 とにかくまずは詳しい話を聞いてからだ、今はこれ以上考えても仕方ないだろう。

 痛みを堪えているのか再び表情が強張るマルスと思考を巡らせる僕はそれっきり無言のまま瓦礫の山をしばらく歩き続けた。

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