Episode35「聖母」

 目を覚ますとぼーっとした頭で部屋を見渡すが特に変わった様子もなく、左腕を見るとアンディとの戦いが現実であった事だと痛感させられた。

 寝起き早々陰鬱になりそうな気分を堪えて部屋を出ると、広間へとりあえず向かう。道中誰にも擦れ違う事なく広間に辿り着き扉を開くとそこではクロフトとザックが砕けた様子で会話していた。


「シオン君、目が覚めたのだね」


「おはようございます、あの…僕はどのぐらい眠ってたんですか…」


「レヒト殿が戻ってきてから休んでたようだから…数時間程かな、外はすっかりお昼時さ」


 レヒトが今どうしているのか聞きたいけど状況が掴めていない上にサリエルの事もあり迂闊に聞いていいものか躊躇ってしまう。そんな僕の気配を察してかクロフトは柔らかい笑みを浮かべるとレヒトの居場所を快く教えてくれた。

 礼を言うと広間を後にするが、どうやらクロフト達はサリエルが此処にいる事をまだ知らないようで下手な発言を控えて正解だった。しかしレヒトは今セリアの部屋にいるとの事だったけど、妙なのはエリスやソフィアもセリアの部屋にいるという事だ。何故彼女の部屋に全員が集結しているのかまったく分からない。僕とレヒトがいない間に女性陣の中で何かあったのだろうか?

 そんな事を考えながらセリアの部屋を探す。アジト内は似たような部屋が並んでおり、何処に誰がいるのか新参者の僕達には分かり難い。ただそれを配慮してクロフト達は僕達の部屋の前には名札を付けてくれていた。早速ソフィアの名札が下がった部屋を見つけるが中から人の気配はしない。

 そうして一部屋ずつ確かめながら歩いていると賑やかな声が聞こえてくる。まさかと思いながら音の発生源へ向かうとそこはセリアの部屋だった。

 本当に全員が此処に集って談笑しているとでも言うのだろうか。どうにも想像し難く入室が躊躇われるが、こうして扉の前で立っていても仕方ない為控え目にノックしてみる。


「シオンか、入れよ」


 中からすぐにレヒトの声が返ってくると少し緊張しながらゆっくりと扉を開く。そこにはベッドに腰掛けるセリアとエリス、そして椅子にソフィアが腰掛け部屋の隅にはレヒトが立っていた。ただサリエルの姿は何処にも見当たらず、辺りを見渡してみるがどうやらこの部屋にはいないようだった。


「さて、これで全員揃ったな」


「えっと…何の話をしてたの?」


 気のせいかレヒトは僕を見た途端気が楽になったような、そんな安堵の表情を浮かべていた。


「ふふ、今レヒトさんにエリスちゃんとセリアさん、どっちを選ぶか問い詰めてたんですよ」


 にっこり微笑むソフィアだがその笑顔はどうにも恐ろしく、レヒトが安堵の表情を浮かべた理由を何となく察する。ソフィアの物言わさぬ威圧感、そして何より重い内容。何をどうしてこんな話題になったのか甚だ疑問だが、余計な口出しはしない方が良さそうだ。 ただ話題の中心であるはずの二人は至って普段通りの様子で、セリアはいつものように何処か面倒臭そうな顔をしている。自室を占拠されているせいか、或いは話の内容についていけないせいか…恐らくその両方だろう、何処か疲れているようにも見えた。それとは対照的にエリスは何処か満足そうな、能天気と言えば言葉は悪いが天真爛漫な笑顔を浮かべていた。

 そんな不思議ながらも久しぶりに感じられた穏やかな空気にようやく一息吐けた。このメンバーで過ごした日はまだ浅いけど、どうやら僕はこの空気が居心地良く感じているらしい。


「おいエリス、にやにやしてんじゃねーよ殺すぞ」


 …レヒトを最初に見た時はただ頭のおかしい戦闘狂だと思ったけど、色々とぶっ飛んだ行動には彼なりの信念があるように思えた。何より彼は嘘を吐かないし、言った事は必ずやり通そうとする強い意志が感じられる。驚く程素直じゃないし、照れ隠しで暴力を振るうぐらい不器用な人だけど、そんな彼を今では心から信頼しているしその強さには内心憧れている。


「えへへ~…でへへへぇ~…」


 エリスは黙っていれば可愛い。ただ性格が少し…いやかなりズレていて、残念ながらそこが可愛いとは僕には到底思えそうにない。でも記憶が無い上、人とは違う理に生きている…そんな状況でもこうして笑っていられる彼女は強いと思えた。初めて出会った時はまだレヒトへの想いに気付いていなかったようだけど、はっきり彼が好きだと分かってからは色々と吹っ切れたように見える。女神として戦う影の部分もあるようだけど、今はそんな様子は微塵も感じられない。


「…これから悪魔との戦争があるのによくそんな笑っていられるわね」


セリアは出会ってほんの数日…まだまだ彼女の事は分からない部分が多いし、時折見せる影は色濃い。五百年もの間、神への復讐だけを考えていたというセリアの闇はそう簡単には晴れないだろうし僕なんかじゃ到底理解出来ないだろう。でもレヒトと出会ってから彼女もまた少しずつ、何かが変わり始めているように思える。

 先日僕にかけてくれた言葉もぶっきらぼうだったけどそれが彼女なりの気遣いなのだろう。根は優しい人なんだと十分に理解出来た。だからこの環境が彼女に良い方向に働いているのなら何だか嬉しく感じられた。


「ふふ、休息は大切ですよ」


 そしてソフィア…僕の好きな女性。傷付きながらも前に進み続けて、揺ぎ無い決意を持って己の運命を受け入れてる彼女…。僕はそんなソフィアと肩を並べられるような男にはまだまだ遠く及ばないだろう。彼女といると己の未熟さを痛感させられてばかりだ。でもだからこそもっと強くなって対等な男になりたいと思う。

 彼女の生きてきた歴史と比べればそれは容易な事ではないだろうけど、僕もヴァンパイアとなった今なら普通の人間よりも遥かに長い時間を生きられる。だからその中でゆっくりと着実に、彼女に見合う男になりたい。それが今の僕の細やかな目標だ。その為にもルシファー達には絶対に負ける訳にはいかない。亡くなったアンディにも、君のおかげで幸せになったと報告をしなければならない。きっとそれが…死んだアンディに出来る唯一の弔いだ。

 面々を見ながらそんな事を考えているとレヒトが怪訝そうな顔を向けていた。


「お前まで何ニヤニヤしてるんだよ」


「え、そんな顔…してた?」


「…湿っぽい面よりマシだけどな」


 そう言って口元を微かに吊り上げるとレヒトは一歩前へ進み部屋の中央に立つ。


「さて、それじゃ訳の分からんガールズトークはここまでだ。こいつも起きた事だしそろそろ本題に入るぞ」


「あの…その前に僕が眠った後、何があったのか教えて欲しいんだけど…」


 そういえばそうだ、と思い出したように頭をポリポリと掻きながらレヒトは僕に耳打ちするように説明する。

 どうやらレヒトはあの後、サリエルを別室に案内してからメンバーと合流したらしい。その為此処にいる三人はこのアジトにサリエルがいる事をまだ知らない。

 そして戻ってきたレヒトは三人にヨハネを救出した事、そして僕が戦闘により負傷した事だけを掻い摘んで話した。その後は突然ガールズトークに花が咲き、レヒトはそれに巻き込まれるようにして今に至る…という事だった。

 幸いにもレヒトなりの配慮でアンディの事は伏せられており、腕を失った事を知り血相を変えたソフィアを宥めてもくれたようだった。そのお陰でソフィアは心配そうな眼差しを向けているものの追求はしてこない。申し訳なく思いつつも今はそれが有難かった。

 そしてレヒトの言う本題とはサリエルの事だった。他の三人に聞こえない声量で簡単な説明を済ませるとレヒトが改めて正面を向く。


「突然だが特別ゲストがいる。アジトにいる全員にいきなり紹介すると混乱しかねないからな、一度此処に連れてくるから待ってろ」


 そう言ってレヒトが部屋を後にすると三人の視線が僕一人に向けられ、ソフィアはおずおずと失われた左腕に手を伸ばすと優しく触れた。


「…痛みませんか?」


「うん…もう大丈夫。ただ再生するのはいつになるかな…」


 強がって笑ってみるけど、ソフィアの悲痛な面持ちはこの腕が再生しない事を意味していた。悪魔の力と言えど彼女のように月の秘密を知る者ならば再生するのかもしれないが、残念ながら僕は完全体ではない。せめて失った腕を無理矢理くっつけていれば…とも思うが残念ながら僕の腕は暴食の蟲に蝕まれ腐り果てた。

 しかしそれを悔やんではいない。最後にアンディの笑顔が見れたと思えば腕の一本ぐらい構わないし、幸い僕の力は片腕が無くても支障は無い。日常生活は不便になるかもしれないけど、これからの戦いで不利になるとは思えなかった。


「一体何と戦ってきたのよ貴方…」


 心配そうにしつつもセリアは呆れたように言うが、僕は何も答えられず乾いた笑いしか返せなかった。

 …一つだけ気掛かりがな事があった。あの時、神へ怒りをぶつけるように放出した炎の柱…それが消えた瞬間に感じた感覚…。まさかとは思うがまだ試してもいないため何とも言えない。

 不安に駆られどうにも居心地悪く感じていると扉の外からレヒトの声が聞こえてきた。連れられた人物が誰か分かっている僕は思わず緊張してしまう。もし全員が僕と同じように戦闘態勢を取ったら…問答無用で戦闘が始まってしまったら…。大丈夫だと自分に言い聞かせるようにソフィアの手を強く握り締める。そしてゆっくり扉が開かれるとその先にはマリエル…いや、堕天使サリエルが気まずそうな表情で立っていた。


「何で…此処にマリエルが…」


 唖然といった様子でセリアが声を漏らすがサリエルは無言で俯いたままだ。


「とりあえず入れよ」


 レヒトに促され室内に足を踏み入れるとサリエルはゆっくりと面を上げ、ソフィアを視界に捉えその名を噛み締めるように呟いた。


「ソフィア…」


 しかしソフィアはマリエルの正体が分からないようで、突然名前を呼ばれ困惑した表情を浮かべている。しかし申し訳なさそうに謝罪を口にしようとしたソフィアを遮るとマリエルは突然崩れ落ちるようにその場で膝をつき頭を下げた。


「ごめんなさい…ソフィアごめんなさい…!」


 一同何が起きたのか理解出来ずに困惑する中、ソフィアだけはゆっくりしゃがみ込むと優しく語り掛けた。


「あなたもしかして…サリエル?」


 その言葉に思わず僕は驚く。恐らくソフィアの記憶にある天使サリエルと今のマリエルの姿はまったく異なっているはず。にも関わらずソフィアはマリエルの正体にすぐ気が付いたようだ。


「分かるの…?」


「あなたの綺麗な琥珀色の瞳…それだけは変わってないもの」


 そう言うとソフィアはそっとサリエルを抱き締めた。


「久しぶり…会いたかったわサリエル」


 懐かしい友人に出会ったかのように、嬉しそうにソフィアは笑顔を浮かべる。それが予想外だったのかサリエルは困惑していたものの、落ち着きを取り戻すと目を閉じゆっくりとソフィアの背中に手を回し抱き締め返した。


「ずっと貴方の事を心配してたの…無事で本当に良かったわ…」


 サリエルのその言葉の意味が分からず僕達はただただ困惑するが、かと言って久しぶりの再会に水を差す訳にもいかず黙って二人を見守る。

 しばらくすると二人は立ち上がり、ソフィアが改めて彼女を紹介してくれる。


「彼女は天使サリエル、私に月の秘密を教えてくれた天使よ」


「違うわソフィア…私はもう天使じゃない。堕天使サリエル…貴方達の敵よ」


 そうは言うが漂う気配は穏やかで、つい先日の対峙した時のような敵対心は今のところ感じられない。


「マリエル…いえ、サリエル。どうして今まで私にも正体を隠していたの?」


 元仲間として行動をしていたセリアの疑問は最もだった。彼女の話では五百年近く共に行動していながら何故かマリエルの正体だけは分かっていなかった。にも関わらず今になってこうもあっさり正体を明かす意図とは一体何なのだろうか。


「…笑われるかもしれないけど、自分が堕天使だと認めたくなかったから…かしら」


 だが彼女の答えの意味がまるで分からなかった。それは僕だけでなく仲間だったセリアも同じようで不可解な表情を浮かべている。


「その証拠に守護天使の排除…私はそれにも参加していないわよ」


「その辺はアザゼル達が勝手にやっていたみたいだから私も詳細は知らないけど…」


「そうね、全て話さないと分からないわよね」


 そこでソフィアに促されサリエルが椅子に腰掛けると向かい合うようにソフィアもベッドに腰掛け、女性陣の中央にいるのが気まずい僕とレヒトは何となく部屋の隅へ移動した。


「何処から話せばいいのかしら…」


「私達の馴れ初めからは…どう?」


 ソフィアはまるで昔話に花を咲かせたそうにしており、どうやらサリエルに対しては力を与えてくれた天使以上に思うところがあるようだった。


「そうね、ソフィアに月の秘密を教えた時の事…そして天上で起きていた事も一緒に話すわ」


 目を閉じて深呼吸するとサリエルはゆっくり口を開いた。


 今から約千年前、ソフィアはある村で医者をやっていた。平穏で、争いとは無縁な土地。そこでソフィアは十八という若さで医者となり、人々を癒していた。

 村医者ということもあってか治療に法外な金額を要求することもなく、どんな患者にも真摯に接する姿と確かな腕により、村の外からソフィアの治療を求めてやってくる人もいた。

 そんなある日、噂を聞きつけた近隣の国から一時的に軍医を頼まれた。戦争による負傷者が多く、その国の医者だけでは足りなかったそうだ。ソフィアは迷ったが村の人々に相談したところ一時的なら、と快く承諾を得て軍医となる。

 現地に到着軍するやいなや、多くの負傷者を前にソフィアは休む暇もなく献身的に治療した。どんな些細な怪我や病気にも真摯に取り組み、また誰にでも優しく接する姿はいつしか人々の心の支えとなり、聖母と呼ばれるようになっていた。しかし日々激しさを増していく戦争により重症患者は後を絶たず、何人もの兵士、巻き添えを受けた住民が命を落とす。それでも尚、目の前の救える命をソフィアは全力で救い続けていた。

 そんなある日、捉えた捕虜の応急処置をした事があった。当然敵国の軍医という事で警戒する兵士だったが、ソフィアはいつものように分け隔てなく優しく微笑みながら心を込めて治療を施す。その姿を見て兵士は『何故敵兵に優しくするのか』と問い、ソフィアは『患者に敵も味方もない』そう即答した。

 後に解放された敵兵は帰国後その話を自国の者達に伝えるが、それから不思議な事に戦争による負傷者が目に見えて減った。ただ憎しみ合って殺し合っていた者達に心の変化が起きたのだ。戦争にも関わらず両軍とも無意味な殺傷を極力避け、無関係な人達を巻き込まないようになった。

 そうしているうちにやがて戦争の無意味さを悟ったのか、兵士達の戦意は失われ対談によって両国とも和解した。信じられない事に、たった一人の軍医によってその戦争は最終的に血を流さず終戦を迎えたのだ。

 それ以来聖母ソフィアの名は急速に広まり、軍医を辞めて村に戻った後も彼女の元に訪れる患者は後を絶たなかった。


 しかしソフィアが二十五の時、彼女は流行り病に倒れる。当時治療薬は存在せず誰もが何も出来ない歯痒さから涙を流し、ソフィアもまた嘆き悲しんだ。もっと救える人がいる、救いの手を求める人がいる。それでも流行り病をこれ以上広める訳にもいかず、ソフィアは自室で一人閉じ篭っていた。その間も身体は日に日に病魔に蝕まれ、もう長くないと予感していた夜。死に際のソフィアの前に天使サリエルは現れた。


『月をご覧なさい』


 そう言うとサリエルは月の秘密を語り始める。月の秘密を知った事でソフィアの内に隠されていた何かの鎖が断ち切られると体内を月の魔力が満たしていく。すると衰弱していた身体はあっという間に快方し、感じた事のない聖なる力が身体の奥底からみなぎっているのが感じ取れた。

 驚き戸惑うソフィアにサリエルは続ける。


『私は魔力を持つ月の統制権を与えられた、大天使ラファエルの右腕にして癒す者』


『月の秘密とは、月が生命の誕生や死亡に密接に関係している魔力のこと』


『ヒトでありながらソフィアの行動は神の、天使の心をも動かした』


『故に神の命を受け、その名の下に力を与えん』


 ただし、と彼女は付け加える。


『此れは他の人間に決して漏らしてはいけない秘密』


『何れ神の遣いが迎えに来るまで誰にも知られてはいけない、言わば此れは最後の試練』


『もしそれを破れば神の裁きが下り、永遠にヒトの理から外れた醜い存在と成り果てるであろう』


 ソフィアは決して誰にも知られずに神の遣いを待つとサリエルに誓った。

 それから日が昇るまで二人はまるで友達のように語り明かす。天使である事を忘れたようなサリエルを前にソフィアはすっかり心を開き、二人はまるで親友のように打ち解けた。そして日の出と共に去って行ったサリエルに再び会える日をソフィアは心から待ち望む。

 翌朝、流行り病から回復したソフィアは再び献身的に人々を癒し続けるが、月の秘密を知ったソフィアには不思議な力が備わっていた。それは人の生命力そのものを癒す力。直接触れて癒す事も出来れば、その辺にある草に月の魔力を込めればそれは万能薬にもなった。

 しかし誰にも力を知られてはいけないという制約がある。ソフィアは言われた通り、周囲の人に気取られる事のないようその力を上手く隠しながら遺憾無く発揮した。それにより今までよりも多くの人々を救えるようになり、彼女が調合した特別な薬はやがて世界中に広まり流行病の恐怖は世界から消え去る。

 だがその名は広まり過ぎてしまった。彼女を神の御使いとして崇拝する者が現れ出したのだ。


 ある夜、ソフィアが眠っている間に家へ侵入したゴードンという男。狂信的にソフィアを崇拝していた彼は眠っていた彼女に襲い掛かった。抵抗するソフィアの足にナイフを突き立て動けなくすると衣服を強引に剥ぎ取り、噛み千切れるぐらい胸の先端に強く歯を立て、乾いた秘部に無理矢理無骨な指を押し込む。ソフィアは叫んで助けを求めようとするが口に手を押し当てられくぐもった叫びしか上げられず、余りの痛みと恐怖に混乱し、発狂した。

 生まれて初めて芽生えた殺意衝動のまま、彼女は目の前にあった首筋に噛み付く。血のような紅い眼のソフィアは返り血を浴びながら叫び声を上げるゴードンの首を噛み千切った。そして目の前で力無く倒れるゴードンを前に正気に戻ると激しく後悔する。

 人を殺めてしまった、まして天使から授かった力で。

 しかしこの時ソフィアはまだ知らなかった。月の秘密が感染する事を。噛み付いた際にゴードンの体内に流れ込んだソフィアの唾液は彼の身体に変革をもたらした。

 月の秘密とは月が生命の誕生や死亡に密接に関係している魔力…つまり月の魔力は人の生命力の源に成る。だが不完全に月の秘密を知ったゴードンには月の魔力を完全に活用する事が出来ず、慢性的な魔力不足に陥る存在と成り果てた。不完全なる継承によって月の魔力が不足した際に必要となる生命力の源…それが血液。こうして不完全な月の秘密の継承によってヴァンパイアという存在は誕生するが、その事実にソフィアが気付いたのは大分後の事であった。

 死んだと思われたゴードンは怪しく光る月明かりによって肉体を隆々たる屈強なものへと変え、抉り取られた首の傷は見る見るうちに再生していく。やがて完全に回復したゴードンは満面の笑みでソフィアを見据えた。恐怖したソフィアは咄嗟に家から飛び出し真夜中にも関わらず大声で助けを求める。そんなソフィアの異常事態に村の人々はすぐさま駆けつけ彼女を守ろうとする。偶然そこに居合わせた兵士もゴードンへ立ち向かった。

 しかし人々は皆無残に殺されてしまう。ヴァンパイアという化け物に成り果てたゴードンを前に人間は余りに無力だった。人間を食い物のように吸血するゴードンを前に、残った人々はソフィアを無理矢理馬車に押し込む。泣き叫びながらやめてくれと懇願する彼女を兵士数人が押さえつけると馬車は一目散に村を飛び出し、翌朝に村人は全員死に絶えた。

 ゴードンから逃れたソフィアはかつて軍医として世話になった国に逃亡するが、平穏の日々は長く続かない。ヴァンパイア出現の噂が急速に広まっていた。

 ソフィアはそれがゴードンだと確信していたが、想定外だったのは似たようなヴァンパイアが他にも多数出現していた事。そこでソフィアは月の秘密が感染する事実に気が付いた。己の過ちに恐怖しサリエルに救いを求めるがいつまで経っても天使は現れず、ゴードンの魔の手は着実にソフィアを追い詰めていく。

 ソフィアは堅牢な部屋で保護され多くの兵士によって護衛されていたが、ついに居場所を知られてしまう。そしてある夜に多くのヴァンパイアの襲撃により兵士は全滅した。そこでソフィアは初めて自らの意志で月の魔力を行使し目の前の敵を屠る。

 その後、人々を巻き込まないように一人逃げ続けるソフィアは徐々にヴァンパイアの特性を知り、昼に休んで夜に逃げ続ける日々を送っていた。肉体は疲労を知らないものの精神は確実に消耗していた。

 そんな事態を見過ごせなくなったサリエルはソフィアの前に姿を現すと彼女に逃げなさいと言い転送魔法を使用した。ソフィアの周囲を白い霧が覆い、霧が晴れるとまったく知らない土地に立っていたが、おかげでゴードンの追跡を完全に振り払う事に成功する。それからソフィアの長い逃亡生活は始まった。


 しかし天使サリエルの罪は重かった。エノク書の中でサリエルは神への反逆者と糾弾されているが、これは月の秘密を人間に教えた故だ。ただ教えた事そのものが罪ではなく、問題はソフィアが他の人間に月の秘密を知られてしまった事である。

 厳密に言うとソフィアはサリエルが遣わされた時点で神に認められており、既にヒトでありながら天上に近い存在となっていた。かつてヒトでありながら天上に上ったとされるエノクと同じようにソフィアもまたその資格があったのだ。

 しかし月の秘密は彼女以外の人間に知られてしまい、その責任からサリエルは裁判にかけられる身となった。そんな中でソフィアがゴードンに襲われる。しかし神の命なく地上世界に干渉する事は禁じられており、審判の日を待つサリエルは何も手出しが出来なかった。歯痒さを堪えながらもサリエルはじっと天上からソフィアの無事を願い見守り続ける。

 元来、天上と地上は違う次元に存在しておりそれぞれが干渉する事は有り得ない。それらの行き来は先ず生命の樹、セフィロトツリーを通過しなければならないが、それは父の命無くしては許されない事だった。故に審判を待つサリエルが独断で地上へ干渉しソフィアを救い出す事は立派な神への反逆行為となる。しかしついに堪え切れなくなったサリエルは反逆行為と知りつつも地上へ降り立ちソフィアに手を貸してしまった。


 その後、天上へ戻った彼女には厳しい罰が下される。天使でありながら原罪を持つ人間と同じ『心』が芽生え、それにより審判を待つ身でありながら神の命に背いて地上へ干渉した罪により彼女は堕天させられる事となった。

 サリエルはすんなり罪を認めると自ら堕天するかのように目を伏せる。そして罰が下された瞬間、サリエルの翼が地底の奥深くへ引かれた。それに逆らわず何処までも深く、暗い闇の底へ堕ちていくと真っ白だった美しい翼は闇に犯され黒く染まっていく。終わりの見えない暗い闇の底へ長い間堕ち続けるとやがて彼女が辿り着いたのは地獄の底だった。

 そこは暗い、邪悪そのものに満ちた世界だったが、それは彼女が思っていたものと異なっていた。

『傲慢』『憤怒』『嫉妬』『怠惰』『強欲』『暴食』『色欲』

 地獄とは人間が持つ原罪そのものを象徴した世界であり、人間にあって天上の者にはないそれら七つの大罪が地獄には満ち溢れていた。故に人間と同じ心が芽生えたサリエルにはその世界を否定する事は出来ず、同時に自分が何故此処にいるのか納得出来た。

 そこには古くに天上を追放された堕天使アザゼルもいた。彼もまた人間に神の知識を与えて堕天した愚か者である。神に命じられ地上の人間を監視する『見張りの者たち』の一人だったが、アザゼルら見張りの天使の首長たちは人間の娘の美しさに魅惑され妻に娶るという禁を犯した。後に『見張りの者たち』の行動は人間の文化向上に貢献したが神の機嫌を損ね、神は地上にわざわいもたらした。

 サリエルはそんな事を意にも介さない様子のアザゼルが苛立たしくも、何処か羨ましく思えた。だがそれでも天使だった誇りを失い、地獄の悪魔と同じように過ごす堕天使という立場はサリエルには受け入れ難いものだった。

 ある日、蝿の王ベルゼブブは地上に残るルシファーの求めにより、神への復讐を成さんと悪魔に召集を掛ける。召集を受けたサリエルは正直なところ神への復讐に興味は無かったが、地獄からではソフィアの様子を知る事は出来ない。

『もう一度ソフィアに会いたい、会って謝らなければならない』

 その想いから蠅の王ベルゼブブを筆頭にして、サリエルは他の悪魔や堕天使と共に地上へ這い上がる決意をした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る