Episode32「堕天使と犬」

 血の盟友本部で女性陣が盛り上がっていることなど露知らず、俺は口をパクパクさせ硬直しているマリエルと対峙していた。


「あ…あ…」


 必死に口を動かすも言葉が出てこないようだ。見ていて気の毒になるが、こちらも何と声をかければいいのか分からない。そう思っているとマリエルは突然立ち上がり、指先でクイっと眼鏡を持ち上げると真顔を浮かべた。


「あなた、レヒトね。何か用かしら?」


 何事もなかったように振舞うマリエルだが、足にヨハネがしがみついているせいでどうにも締まらない。


「…何してたんだ?」


「見れば分かるでしょう、この犬に地獄の苦しみを与えていたのよ」


 そうは言うが足元にはご丁寧にも皿に盛られた餌と水が置かれており、マリエルに懐いている様子からも酷い仕打ちを受けたようには見えない。寧ろヨハネの食事は俺達と一緒にいた時よりも上等な物だった。


「随分と毛並みが良くなったな、ご飯は美味しかったかヨハネ」


 相変わらず人の言葉が分かるのかヨハネは嬉しそうに一度ワンと吼えるが、相当マリエルの事を気に入っているようで彼女の足から離れる様子はない。


「よく分からないが世話をしてくれたみたいだな、ありがとよ」


「世話ですって? バカなことを言わないで頂戴。あなたも私の正体にはもう気付いているのでしょう?」


 その態度から俺達の情報は漏れていないようだが、アザゼル達について話し合った事は大方予想がついている様子だ。


「さぁてね、折角だし教えてくれないか?」


 ヨハネが足元に纏わりついているせいかマリエルは戦闘態勢に移行したくても出来ないように見える。だとすればこれは落ち着いて敵と談話出来るまたとないチャンスだ。

 こちらに戦意がない事を示す為にも両手を上げて尋ねるとマリエルは疑念の眼差しを向けてくるが、足元で悩ましげな声と視線を送るヨハネを一瞥しては顔が緩みそうになるのを必死に堪えていた。そうしてしばし考える素振りを見せていると観念した様子で小さく溜息を吐き、ベッドに腰を降ろすとすかさずヨハネが膝の上に飛び乗る。


「…いいわ、私も貴方には聞きたいことがある」


 その辺に転がっていた椅子に俺も腰を降ろしお互い一息吐くとマリエルが先に口を開いた。


「貴方は一体何者なの?」


「殺し屋だ」


「そんな事は聞いてないわ」


「悪いが二千年前に目を覚ますまでの記憶が無い」


 この言葉に嘘偽りはない。腹を割って話すつもりで隠さずに伝える。


「二千年前…少なくとも人間ではないわね」


 当然マリエルは驚く様子もなく、改めて得心のいった表情で嫌味を含んだ視線を向けてくる。どうやら更なる情報を待っているようだが、生憎と俺はこれ以上自分を語る言葉を持ち合わせていない。


「それはご存知の通りだ、恐らく俺の事はあんた等の仲間…ベルゼブブにでも聞けば分かるんじゃないか」


「そう、彼の正体を知ったのね」


「あんた以外が何者かは掴めてる。質問を返すが、あんたは一体何者だ?」


 マリエルは膝の上のヨハネの頭を優しく撫でながら諦観したような、何処か悲しげな表情で呟く。


「堕天使…サリエル」


 予想通り彼女もまた堕天使だったが、驚くのはそこではない。天使サリエル、その名前には聞き覚えがあった。それもつい最近の事だ。


「知っていると思うけど、かつてソフィアに月の秘密を教え与えた天使よ」


 その言葉でようやく思い出した。約千年前にソフィアの元へ現れ、神の力でもある月の魔力、ヴァンパイアの始祖たる力を与えたのが天使サリエルだ。しかしソフィアの話だとサリエルは天使との事だったが、何故こいつは堕天使となって悪魔と手を組んでいるのか。


「その顔だと何故堕天使になったのか、と言いたそうね」


「ソフィアはあんたを天使と呼んで、自分を二度救ったとも言っていた」


 少なくとも当時の彼女にはサリエルが天使に見えていたはずだ。しかし先日の戦闘時のように、黒い翼を広げて戦う姿はとてもじゃないが天使には見えない。


「一度目は彼女に力を与え、二度目は彼女を世界の裏へ移動させた…そう、彼女は私が救ったと思っているのね…」


 そう言ってサリエルは視線を落とし、悲しげな笑顔を浮かべてヨハネの頭を優しく撫でる。


「少なくともその時、あんたはまだ堕天使に堕ちてなかったんじゃないか?」


「そう、月の秘密を教えた後に私は裁判にかけられ審判の日を待っていたわ」


「だとすれば二度目はどうやってソフィアの元へ? まさか無罪放免って訳じゃないだろ?」


「…私は神に逆らってこの世界へ干渉したの」


「成る程な、それでめでたく堕天使の仲間入りって訳か」


 審判が下される前に人間に手を貸した…地獄に堕ちるのは当然だろう。俺もあちら側と接続しているせいか彼女の話が嘘ではないと分かる。しかし気になるのはそもそも月の秘密を教えたのは…


「ん…?」


 何故俺は今あちら側と接続なんて言葉が浮かんだ?

 それはこいつらが俺に向かって言った言葉だが、その意味は分かっていなかったはずだ。シオンのように真理ダアトの扉を開き神々の知識を得た者ならまだしも、俺は他の連中と同じくその知識を知ることは出来なかった。


「質問ばかりで悪いんだが、もう一つ教えてくれ」


「えぇ、私の知っている事なら何でも答えてあげるわ」


「あんた等は俺があちら側と接続してるとか言ってたが…これはどういう意味だ?」


 その質問にサリエルの眉が釣り上がる。


「貴方…本当に分かっていないの?」


「頼む、教えてくれ」


 ついに辿り着いた俺の正体の知るきっかけを前に、思わずサリエルに頭を下げていた。柄じゃないとは思いつつ半ば縋るような気持ちで頼み込む。サリエルは顎に手を添え考え込むとこちらを見据え無表情で告げた。


「私達の言う『あちら側』とは天上…神々の住まう世界、人間の言うところのエデンの園」


という事は俺はやはり―――


「天上と接続出来る者…それは神々の眷属」


「接続…か」


「貴方も薄々感付いているんでしょう、この世の理から外れた己の力に。それは現世に存在するモノではない、天上に有る力をこの世界より天上へ接続して引き出されたモノよ」


 やはりそうだったのか、という気持ちと心の何処かでそれを認めたくない相反する自分。複雑な心境でいるとサリエルは更に続ける。


「そして貴方と戦ってみて確信したわ、貴方は天使や悪魔よりも上位の存在。唯一神とされる父の直下に位置する神の一人」


「戦神マルス…か?」


 その問いにサリエルは何も答えないが、どうやら沈黙が答えのようだ。


「何故戦神マルスが地上にいるのか私には分からないけどね」


「頼む、あんたが知っている範囲でいい。かつて起こったと思われる神と悪魔の戦争ジハード、それから今に至るまで知っていることを全て教えてくれ」


 しかしこちらから質問してばかりのせいか、サリエルが初めて難色を示した。


「悪い、あんたも聞きたいことがあれば聞いてくれ」


「そうね…こちらも一つ頼みがあるわ、交換条件でどう?」


 本来なら堕天使に取引を持ち掛けられた時点で断るべきだがそんな堕天使に最初に頭を下げたのは俺だ。そして常識や立場、善悪など今の俺には大して重要な問題ではない。今重要なのは少しでも俺やエリスの正体、現状を把握し、サリエル達の動向を知る事だ。こうして落ち着いて話せる機会など考えもしていなかっただけにこの状況は願ってもない展開である。

 俺は迷う事なくサリエルの提案に頷くが、彼女から提示された条件は予想だにしない事だった。


「ソフィアに…会わせて欲しい」


「…理由は?」


「それは…今は話せない。でも信じて、決して貴方達に危害は加えない」


 ソフィアと会うのならアジトに足を運んでもらう事になるがそこにはエリスやセリアもいる。万が一サリエルの気が変わっても勝ち目がないのは明白だ。しかしそれを承知の上で言っているのなら危害を加える気がないという言葉は信じても良さそうだ。

 気になるのはその理由である。今更ソフィアに会いたがる理由とは一体何だ?

 それを聞き出したかったが、サリエルの真摯な目には何か秘めたる思いが感じられた。そうなるとこれ以上理由を聞くのは野暮というものだ。


「…分かった、ヨハネを連れていかなきゃならないし一緒に来てもらおうか」


 逡巡するが状況を顧みると今はこいつの条件を飲んだ方がこちらにとって有利だ。


「ただ向こうに着いたら全ての質問に答えてもらうぞ」


「構わないわ、私だって…」


 何か言い掛けるがサリエルは口を噤むとそれ以上は語らなかった。


「さて、それじゃ善は急げだ。俺について来い」


「その必要はないわ」


 立ち上がり部屋から出ようとする俺をサリエルは座ったまま制した。


「私は一瞬で対象を転移する力がある、それは自分にも使えるの」


「ソフィアを世界の裏へ飛ばした力か」


「えぇ、貴方達の現在地は…南のツォアリスかしら」


「そのぐらいの情報は掴まれてるのか」


 俺達の居場所が分かっていながら何故すぐに攻めてこない?

 この場でそれを問い質したいがサリエルの態度を見る限りすぐに攻め込むつもりは無さそうだ。それならば焦る必要はないだろう。その辺の問題も後で洗いざらい話してもらうとする。だがそこで俺はシオンの存在を思い出した。


「それじゃ転移するわよ」


「ちょっと待ってくれ、人と待ち合わせをしてる」


「待ち合わせ…?」


「シオンってガキがいただろ。あいつは今ソドムに用事があって別行動なんだが、日の出までにセインガルドの外で合流する予定なんだよ」


「ソドムに用事って…まさか彼…」


「何か知ってるのか?」


 どうもサリエルの様子がおかしい。敵であるにも関わらず妙に心配げな表情で考え込んでいた。


「…すぐに西D地区へ向かった方がいいかもしれないわ」


 そう言うサリエルは切羽詰った様子だが俺には何の事か見当もつかない。ただ何となく嫌な予感が胸を過ぎる。


「彼、もしかしたら死ぬかもしれない」


「シオンが…死ぬ?」


 今この瞬間、西D地区にいるシオンが死闘を繰り広げているなど俺は知る由も無かった。

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